沖縄旅行(その2)



安里八幡宮(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 沖縄3日目、レンタサイクルで那覇市内を回りました。

 最初はおもろまちの無料で借りられるところにしようと思ったのですが、早朝から動きたかったので、有料のところにしました。

 ところで、実際に早朝から動こうにも、沖縄は日本の最西端の県。よって日の出時刻が7時20分と、かなり遅くて驚きました。

 自転車を借りる前、まだレンタサイクルショップが開くまで時間があったので、徒歩で安里の八幡宮と神徳寺をみました。

 そこから少し北側に大きな貯水塔がある小さな丘があります。この小さな丘こそが沖縄戦最大の激戦地シュガーローフなのです。


シュガーローフ(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 さらに徒歩で崇元寺跡に行きました。崇元寺は冊封使が諭祭を行なう場所で、沖縄戦で焼失しましたが、石造の第一門は再建されました。

 崇元寺の第一門は建築史家の伊東忠太(1867〜1954)が激賞した建築物ですが、現在の第一門と戦前の写真を見比べると、現在の第一門には一種の色気が無くなってしまっているような気がします。


崇元寺第一門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



崇元寺第一門(背後から)(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



焼失以前の崇元寺伽藍配置図(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている) 

 レンタサイクルを利用して、早速取材開始です。

 現在でこそ那覇市は一つの市域を形成していますが、もとは琉球王国時代の首都である首里と、その時代の貿易港であった那覇(浮島)というように、位置付けが異なる二つの地域が包摂されています。

 首里は、丘陵の上に首里城を中心としているため、自然山がちの地形となり、那覇(浮島)は、その名の通り島であった地を、埋め立てたものであるため、平坦な地形となっています。

 午前は那覇(浮島)を、午後は首里方面をめぐりました。


再建された天尊廟(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 ところが長寿寺の跡地、臨海寺の跡地、護国寺広厳寺の跡地、大安地の跡地推定のための上天妃宮跡など、かなり広範囲をまわったにもかかわらず、予定よりも早く終わってしまい、自分自身で驚くほどでした。

 要は地図上で那覇(浮島)方面は広大にみえるけど、大半が平地なので、自転車でまわるとあっという間だったということです。


再建された天妃宮(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



たまうどぅん(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 次に自転車で首里の寺院を廻りました。

 慈眼院をはじめとして、安国寺天界寺の跡地に行った後、天界寺跡地に隣接する「たまうどぅん」に行きました。「たまうどぅん」といっても東洋水産の商品名ではなく、漢字表記では「玉陵」と書く第二尚氏の歴代国王が葬られる陵墓なのです。

 あと写真は撮っていませんが、日本三大がっかりに数えられる守礼門も見学しました。これで日本三大がっかりはすべて制覇したことになります。守礼門はあまりがっかりしませんでしたし、札幌時計台も小さいながら清楚でよいと思います。やはり高知の播磨屋橋に勝るがっかりは存在しないということでしょうか?


たまうどぅん(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)を通過すれば、あとは首里城に入るだけなのですが、今回の目的は「琉球の官寺」なので、先に円覚寺跡に行かなくてはなりません。


園比屋武御嶽(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 ようやく念願の円覚寺の跡地にやってきました。

 首里城の再建が終わったら、ここも復元すれば面白いのですが、首里城再建の進行状況を見る限りは、そうなることははるか遠い時代のことになりそうです。

 写真は当該頁で利用したので、ここでは落ち穂拾い程度しか残っていません。


円覚寺放生池(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



円覚寺脇門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



焼失以前の円覚寺伽藍配置図(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている) 

 円覚寺跡の正面には沖縄県立芸術大学があります。円覚寺の旧敷地も同大学が所有しているらしく、「首里古絵図」にみえる円覚寺の塔頭の多くが同大学敷地にあったようです。


沖縄県立芸術大学(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 首里城に行って来ました。

 展示内容に工夫が凝らされており、再建でありながらなかなか見応えがあります。ガイドブックに首里城の二階が透視図で描かれていたので、実際に見るのを楽しみにしていたのですが、二階は見たのか見ていないのか覚えていません。


首里城(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 次に首里教会に行きました。首里教会は琉球三官寺の一つ、天王寺の跡地で、現在も天王寺の石垣が残されています。

 ところで沖縄戦において首里は徹底した空爆と艦砲射撃で完全に廃墟となり、首里教会は沖縄一中ととともに沖縄戦を生き残った数少ない首里の大型建造物でした。残念ながら近年老朽化のため解体されてしまいましたが、沖縄の歴史を知る上で重要な教会なのです。


天王寺跡(メスジスト派首里教会)の石垣(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 ところで、ここでデジカメのバッテリーが落ちたため、途中から携帯のカメラで撮影していました。そのため西来院大日院の跡地、建善寺の跡地は携帯電話のカメラで撮影しているのですが、やがて携帯電話のカメラのバッテリーも落ちてしまいました。

 幸か不幸か、携帯電話のバッテリーが落ちた段階で、当初の目的はすべて終了しており、その日は気まま沖縄県立博物館に行って展示物を眺めていました。

 写真下は朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」でお馴染みの首里金武町の石畳道ですが、ここを登って東に100mほど行くと大日寺跡につきます。官寺があることからもわかるように、この石畳道は首里城に非常に近い場所にあります。

 この日の夜は居酒屋でまた呑んで、4日目は朝7時の飛行機で戻ったので、実質は何もしていません。


金城町の石畳道(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 京都に戻ってから、京都三条の檀王法林寺に行きました。

 この寺院は袋中良定(1552〜1639)が開山となった寺院で、50歳代の時に琉球(沖縄)に渡り、そこで浄土宗を広めるため、念仏歌を琉球の民衆に教えました。『琉球神道記』『琉球往来』など琉球文献を撰述したほか、国王尚寧王の信認を得ましたが、やがて袋中は日本本土に帰ったため、袋中が広めようとした浄土教は忘れ去られてしまいました。やがてが薩摩の琉球侵攻によって尚寧王は虜囚のみとなり、日本本土に連れて行かれましたが、尚寧王は袋中に見事な琉球漆器を贈呈、現在も檀王法林寺に所蔵されています。

 話は脱線します。琉球漆器のいう分野が古美術にあるのですが、唐物沈金・螺鈿細工品のうち、工芸的に劣るものをそのように総称しているようです。ところが沖縄県立博物館・美術館が平成20年(2008)に実施した展覧会「甦る琉球王国の輝き」の図録をみてみると、非常に優れたものが多く、檀王法林寺に所蔵されるものと併せると、琉球漆器というものが唐物漆器よりも抜群に優れていることが知られます。

 話は袋中の念仏歌に戻ります。袋中が教えた浄土教は琉球で忘れ去られてしまいましたが、念仏歌のみはなまって「ニンブチャー」となり、のちに「エイサー」として定着、現在まで沖縄で続いています。そのエイサーは袋中が開創した檀王法林寺で毎年11月3日に躍られているのです。

 今回の「沖縄旅行」のコンテンツは袋中良定でお開きとすることにしましょう。


檀王法林寺(平成22年(2010)3月18日、管理人撮影)



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