円覚寺



円覚寺(平成23年(2011)8月16日、管理人撮影)。現在の建物は安永5年(1776)3月の再建。

 円覚寺(えんかくじ)は京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町に位置(外部リンク)する浄土宗の寺院です。山号は粟田山。もとは京都市左京区北白川下池田町付近に位置した粟田山荘が前身で、清和天皇はここで得度し、崩御しました。粟田の円覚寺は後に廃寺となりましたが、水尾山寺がこれを引き継ぐ形で現在に至っています。円覚寺では毎年8月に国の重要無形文化財に指定される「京都の六斎念仏」の一つ、水尾の六斎念仏が行われています。


清和太上天皇の頭陀行と崩御

 円覚寺はもとは藤原基経(836〜91)の山荘である粟田山庄を前身とした。

 清和天皇は幼時に即位したが、在位中は藤原良房(804〜72)の後見のもと、真雅(801〜79)の護持を受けた。清和天皇自身が真雅の祈祷によって降誕したといい(『小野類秘抄』巻6、意、所引、吏部王記逸文、天慶7年12月18日条)、また真雅は貞観16年(874)までの24年間、内裏に宿直して清和天皇を護持し続けていた(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。真雅が元慶3年(879)正月3日に遷化すると、代わって護持僧となったのが宗叡(809〜84)である。

 清和天皇は譲位すると、清和院を生活の中心の場としたが、そこでは仏道に帰依しており、朝夕の膳は菜蔬のみとし、女色を絶ったという(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月4日癸未条)

 元慶3年(879)5月4日に清和太上天皇は清和院を離れて粟田院に移っている(『扶桑略記』第20、元慶3年5月4日癸巳条)。5月8日には宗叡を戒師として落飾入道し、法名を素真とした。この時30歳であり、同時に出家入道した殿上人に玄鑑・玄超・玄泰・玄操・玄寂・玄静の6人がいる(『扶桑略記』第20、元慶3年5月8日丁酉条)。これを受けて翌9日に陽成天皇が清和太上天皇に朝覲行幸するため粟田院に輿を進めようとしたが、太上天皇は右大弁藤原山陰(824〜88)を遣わして、面会を謝絶した(『日本三代実録』巻35、元慶3年5月9日戊戌条)

 出家後、清和太上天皇の頭陀が計画される。頭陀とは衣食住に対する欲望を払いのけて仏道を求めることであり、修行のために托鉢して歩くことをさした。まずその準備として元慶3年(879)10月20日には大和国に米100斛を清和院に奉らせているが、これは清和太上天皇の山中での頭陀の費用としてであった(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月20日丙子条)。10月22日には右大臣藤原基経が六衛府に対して、この月24日に太上天皇が大和国に御幸するため、諸陣を厳戒にするよう宣している(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月22日戊寅条)。23日には綿2,000屯、銭1,000貫文を粟田院に奉っているが、路中の施行料としてであった(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月23日己卯条)

 元慶3年(879)10月23日夜、清和太上天皇は粟田院を出発して粟田寺に泊まった。翌朝に大和国に御幸するためであった(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月23日己卯是夜条)。翌24日寅時、清和太上天皇は牛車に乗り、大和国へと向けて出発した。陽成天皇の勅によって参議源能有(清和太上天皇の実兄、845〜97)が六衛府の将曹・志・府生を府ごとにそれぞれ1人、近衛兵・衛門ごとにそれぞれ10人を太上天皇の護衛のために遣わしたが、太上天皇は源能有および六衛の衛官人をすべて帰した。ただし参議在原行平(818〜93)と参議藤原山蔭は太上天皇に付き従った(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月24日庚辰条)

 清和太上天皇の頭陀行は、まず山城国の貞観寺に始まって、大和国(奈良県)の東大寺・香山寺・神野寺・比蘇寺・龍門寺・大瀧(吉野か)、摂津国勝尾山(後の勝尾寺)などの有名寺院を遍歴して礼仏し、旬(10日)を経過すると去った。勝尾山から山城国の海印寺に戻ったが、その後丹波国の水尾山に移り、ここを自らの終焉の地と定めた(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月4日癸未条)

 元慶4年(880)3月19日に清和太上天皇は大和・摂津諸寺院の巡幸を終えて水尾山寺に戻った。そのため伊勢・尾張両国が清和院への租米100斛を、丹波国の官米と相博(当事者間のにおける租税の等価交換)して水尾山寺に奉った(『日本三代実録』巻37、元慶4年3月19日壬申条)。以後の生活は酒・酢・塩などを絶ち、2・3日に一度に限って斎飯(昼食)をとり、常に苦行を行ない、身を削るかのように罪業をたち、この身を厭い、膳をとらずに捨てようとさえした(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月4日癸未条)

 その後同年8月23日には水尾山寺の仏堂造営のため、左大臣源融(822〜95)の山荘である嵯峨の棲霞観(現清涼寺)に移っているが(『日本三代実録』巻38、元慶4年8月23日甲辰条)、重病となり11月25日には棲霞観を離れて円覚寺に移った(『日本三代実録』巻38、元慶4年11月25日乙亥条)。清和太上天皇回復祈祷のため、21寺に祈祷を行わせ(『日本三代実録』巻38、元慶4年11月29日己卯晦条)、また僧100人を得度させているが(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月2日辛巳条)、12月4日申二刻、円覚寺にて崩じた。31歳。その最期は、近侍の僧らに命じて金剛輪陀羅尼を読ませ、西方を向いて結跏趺坐し、手に定印をつくって崩じたが、そのなきがらは動くことなく、厳然として生きているかのようであり、念珠なお手に掛かっていたという(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月4日癸未条)。12月7日に円覚寺に近い粟田山で火葬され、なきがらは水尾山の上に葬られた(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月7日丙戌条)


宮内庁治定清和天皇陵(平成23年(2011)8月16日、管理人撮影)

粟田の円覚寺

 円覚寺は藤原基経の山荘である粟田山荘を前身とした。この粟田山荘は「鴨水の東」にあったというから(『扶桑略記』第20、元慶3年5月4日癸巳条)、鴨川の東河畔に位置していたらしいが、その位置は判然としない。『拾芥抄』には「北白河」とし(『拾芥抄』下、諸寺部第9、諸寺、円覚寺)、それを受けて『山城名勝志』(1711)には、鳥居小路の末、南田、字を円覚寺と呼んでいることから、その地に推定している。また『扶桑京華志』(1665)では源為義の塚が朱雀の祇陀林寺の竹林中にあったというが、これが円覚寺跡と推定している(『扶桑京華志』巻之2、源為義塚)。京都市左京区北白川下池田町付近がそれに該当するらしい。

 粟田山荘が設立された年については不明であるが、元慶3年(879)5月4日に清和太上天皇は清和院を離れて粟田院に移っていることから(『扶桑略記』第20、元慶3年5月4日癸巳条)、少なくともこれ以前であったのは確かであるが、同年5月8日に右大臣(藤原基経)家令菅原永津を外従五位下に叙位しており、その理由が、粟田山荘修造の功によるものであったことから(『日本三代実録』巻35、元慶3年5月8日丁酉条)、清和太上天皇が粟田院に移るに際して何らかの改築がなされていたらしい。清和太上天皇が粟田山荘に移ったのは、大和国へ頭陀を行う際への、地の利を生かした便宜上のものであったらしく、しかも粟田山荘は外戚の藤原基経(清和太上天皇の外叔父)の別邸であった。

 清和太上天皇は水尾山寺を自らの終焉の地と定めていたが、水尾山寺に仏堂を造営するため、便宜上、左大臣源融の山荘棲霞観に移っていた。ここは水尾山寺と比較的近い地であったためであろうが、この棲霞観滞在中に重病となってしまう。当時の政権を主導していたのは外戚の右大臣藤原基経(清和太上天皇の外叔父)であり、政治的にライバル関係にある左大臣源融の山荘棲霞観で最期を迎えさせることは危険とみなされたらしく、そのため粟田山荘を円覚寺という寺院とし、そこを清和太上天皇の終焉の地に整えられた。円覚寺が官寺として認可されるのは元慶5年(881)3月13日になってからのことであった(『日本三代実録』巻39、元慶5年3月13日辛酉条)

 清和太上天皇が元慶4年(880)12月4日に崩ずると、翌12月5日には大蔵省の商布二千段と貞観銭100貫文を円覚寺に奉進しており(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月5日甲申条)、12月10日に初七日が、粟田寺・常寂寺・禅林寺・貞観寺・観空寺・水尾山寺・粟田寺および円覚寺の7箇寺で実施されており、円覚寺には名香1斤・細屯綿1連、僧布施調綿200屯が布施され、勘解由長官橘広相(837〜90)が遣わされた(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月10日己丑条)。12月11日には円覚寺にて僧50口(人)を屈請し、この日より昼は法華経を、夜は光明真言を読ませた。これらは弁官が手配し、大蔵省の物を用いていた(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月11日庚寅条)

 元慶5年(881)正月22日に七々(四十九日)となったため、円覚寺にて斎会を行った(『日本三代実録』巻39、元慶5年正月22日辛未条)

 元慶5年(881)3月13日には円覚寺は官寺に昇格し(『日本紀略』元慶5年3月13日辛酉条)、4月3日に山城国愛宕郡八条野尻里空閑地5段を円覚寺に充当し(『日本三代実録』巻39、元慶5年4月3日庚辰条)、7月22日には白米100斛、黒米100斛が円覚寺に送られ、造仏・造寺の料として充当された。さらに潅頂幡2具の材料とするため縫綾も充当された(『日本三代実録』巻40、元慶5年7月22日戊辰条)。円覚寺の伽藍配置は南と北に1堂づつ、計2堂配置するもので、仏像が荘厳され、定額僧として10口(人)の僧が充てられた(『日本三代実録』巻49、仁和2年6月20日戊辰条)

 元慶5年(881)12月4日には清和院の主導のもと清和天皇の一周忌が円覚寺にて実施されている。この時清和天皇が書写した一切経が供養された(『日本三代実録』巻40、元慶5年12月4日戊寅条)。これに先立って11月16日には太皇大后(藤原明子。清和天皇母、829〜900)が清和院にて銀像薬師仏1躯、日光・月光菩薩像それぞれ1躯、金字法華経八巻、無量義経・観普賢経・般若心経をそれぞれ1巻を荘厳して設斎を行っている(『菅家文草』巻第11、願文上、奉太皇大后令旨奉為太上天皇御周忌法会願文)。翌年の元慶6年(882)12月4日の忌日にも円覚寺・貞観寺・水尾山寺の3箇寺に勅使が派遣され、円覚寺・貞観寺には綿がそれぞれ411屯、水尾山寺には211屯が忌料として用いられた(『日本三代実録』巻42、元慶6年12月4日壬寅条)。元慶7年(883)12月4日の忌日は太皇太后が円覚寺にて斎会を行っており、親王・公卿が参列した(『日本三代実録』巻44、元慶7年12月4日丙申条)

 仁和2年(886)6月20日に、清和院の申請によって清和院の稲1,000束の値段として新銭200貫文を山城国に付し、正税に加挙(例数以上の出挙)することによってその利息を収納し、これを円覚寺の長明灯料に充当した。これは安祥寺の例にならったものである(『日本三代実録』巻49、仁和2年6月20日戊辰条)。これは常例化し、『延喜式』に山城国正税として円覚寺料1,000束が計上規定されている(『延喜式』巻26、主税上、山城国正税)。円覚寺は「先皇(陽成天皇)」の御願寺となり(『日本三代実録』巻49、仁和2年6月20日戊辰条)、『新儀式』では貴族の私寺をもって奏請した御願寺に分類されている(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)

 天暦3年(949)9月29日に陽成前太上天皇が冷然院にて崩ずると、円覚寺になきがらを安置した(『日本紀略』天暦3年9月29日条)。11月28日には円覚寺にて七七御態(四十九日法会)が行われており(『日本紀略』天暦3年11月28日条)、この時大般若経600巻が供養された(『本朝文粋』巻第14、願文下、陽成院四十九日御文)

 貞元元年(976)6月18日には大地震にて円覚寺が倒壊しており、他に八省院・豊楽院・東寺・西寺・極楽寺・清水寺も地震により倒壊している(『日本紀略』貞元元年6月18日癸丑条)

 保元元年(1156)の保元の乱に際し、崇徳上皇側についた源為義(1096〜56)は、円覚寺に陣を構えており(『保元物語』上、新院左大臣殿落ち給ふ事)、7月10日には為義の円覚寺の宿所が焼き払われている(『保元物語』下、朝敵の宿所焼き払ふ事)。為義は敗北し、子の源義朝(1123〜60)の歎願虚しく斬首され、鎌田政清(1123〜60)が遺体を円覚寺に葬った(『保元物語』下、為義最後の事)。また為義の北の方(正室)もまた桂川に身を投げたため、鳥部山にて火葬し、遺骨を円覚寺に納めた(『保元物語』下、為義の北の方身を投げ給ふ事)

 このように円覚寺は清和源氏の氏寺とみなされていたようであり、源義朝もまた平治の乱で謀殺後に獄門にかけられた際、義朝に仕えていた下人の紺掻の男が、長い間獄門にかけられて葬る者がいないことを悲しんで、当局にかけあって円覚寺に葬ったという。後に文覚(1139〜1203)がこれを聞いて、紺掻の男とともに義朝の頚を源頼朝に持参したという(『平家物語』巻第12、紺掻之沙汰)


京都市左京区北白川下池田町の粟田の円覚寺跡付近(平成23年(2011)8月20日、管理人撮影)

水尾山寺

 水尾は京都市の西北の山間部に位置しており、旧山城国葛野郡の西端にあたる。かつては丹波国に属していたこともあるように、丹波国と国境を接している。JR保津峡駅から4kmほど北西にあり、北へは愛宕山水尾道が、北西には丹波へ抜ける道があり、街道沿いの集落であった。

 奈良時代後期には「水雄」と称され、宝亀3年(772)12月25日には光仁天皇が(『続日本紀』巻32、宝亀3年12月辛未条)、延暦4年(785)9月8日には桓武天皇が遊猟しているように(『続日本紀』巻38、延暦4年9月庚子条)、遊猟の地として親しまれた。この時点では水尾(水雄)は山背国の所轄であったものの、いつ頃かは不詳であるが後に丹波国の所轄に移管されている。

 とくにこの水尾の地を好んだのが清和天皇である。退位後、頭陀行を行なって大和・摂津・山城を遍歴し、それが終わると丹波国の水尾山に移り、ここを自らの終焉の地と定めた(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月4日癸未条)。清和太上天皇の水尾到着は元慶4年(880)3月19日のことで、この日、伊勢・尾張両国が清和院への租米100斛を、丹波国の官米と相博(当事者間のにおける租税の等価交換)して水尾山寺に奉っているように(『日本三代実録』巻37、元慶4年3月19日壬申条)、同地の水尾山寺に移っている。なお元慶4年(880)正月20日のこととして、清和太上天皇が水尾山寺にいた時として、宴において清和太上天皇が脱いだ衣に関する説話がある(『江談抄』巻4、所引、公家伝文)

 現在の水尾の円覚寺は、直接的には水尾山寺の系譜を引いているにもかかわらず、水尾山寺の創建年は不詳であり、水尾自体の記録も乏しく詳細はわかっていない。ただし水尾は山城国と丹波国を繋ぐ街道の中継点であり、同じく山城国と丹波国を繋ぐ駅路とは異なり、山城国からは大江を通過するなど大回りをする必要がない、短縮ルートであった。そのため、早くから寺院のような形態を有する何らかの建造物があった可能性があり、実際水尾同様の特徴を有する周山(京都市右京区京北周山町)には周山廃寺のような大寺院が飛鳥・奈良時代より存在していた。

 最も、水尾山寺は仏堂程度の小規模な寺院であったらしく、元慶4年(880)8月23日に水尾山寺の仏堂造営のため、清和太上天皇は左大臣源融(822〜95)の山荘である嵯峨の棲霞観(現清涼寺)に移っているが(『日本三代実録』巻38、元慶4年8月23日甲辰条)、これは水尾山寺が本格的仏堂を造営すると、手狭となって太上天皇一行の修行に差支えが出たことを意味した。清和太上天皇が移った嵯峨の棲霞観は、水尾の東南5kmの地点に位置し、水尾山寺仏堂完成までの仮住まいとして適当な場所であったが、清和太上天皇は3ヶ月後の11月25日に重病のため棲霞観を離れて粟田の円覚寺に移り(『日本三代実録』巻38、元慶4年11月25日乙亥条)、水尾山寺に戻ることなく同年12月4日に崩じた。

 元慶4年(880)12月7日に清和太上天皇は円覚寺に近い粟田山で火葬され、なきがらは水尾山の上に葬られた(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月7日丙戌条)。山陵は簡素なものであり、後に天皇元服に際して、陵に荷前使を派遣することになっていたが、水尾山(清和天皇陵)・大内山(宇多天皇陵)は荷前使を派遣せず、別に参議1人、五位の者1人を派遣するよう規定されていたように(『新儀式』第4、臨時上、天皇加元服事)、他の山陵とは異なる扱いを受けた。そのため水尾山寺自体が清和天皇陵であるとする説もある(山田2006)。12月10日に初七日が行われ、粟田寺・常寂寺・禅林寺・貞観寺・観空寺・粟田寺・円覚寺、および水尾山寺の7箇寺には修法のため使者が派遣されている。このうち水尾山寺には左兵衛佐の源湛(845〜915)と内蔵属が1人派遣された(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月10日己丑条)。ちなみにこの源湛は清和太上天皇が一時期過ごした棲霞観を建てた左大臣源融の子であり、源湛は寛平8年(896)に棲霞観を寺院としている(『菅家文草』第12、願文下、為両源相公先考大臣周忌法会願文)

 元慶5年(881)正月7日には清和太上天皇が歴覧した寺院13箇寺に使者を遣わして功徳を修させているが、この中に水尾山寺が含まれている(『日本三代実録』巻39、元慶5年(881)正月7日丙辰条)。翌年の元慶6年(882)12月4日は清和太上天皇の三回忌であり、円覚寺・貞観寺・水尾山寺の3箇寺に勅使が派遣され、水尾山寺には211屯が忌料として用いられた(『日本三代実録』巻42、元慶6年12月4日壬寅条)

 その後の水尾山寺の動向についてはわかっていない。ただし元慶3年(879)5月8日に清和太上天皇とともに落飾入道した人物に玄静(生没年不明)なる人物がおり(『扶桑略記』第20、元慶3年5月8日丁酉条)、『三家撰集目録』において「禅門寺は丹波国にこれあり。水尾玄静なり」と注記されているように(『三家撰集目録』禅門寺和尚撰集録)、水尾山寺と同じ丹波国に禅門寺があり、そこに玄静が住していたが、彼は「水尾玄静」と称されていたことが知られる。この禅門寺と水尾山寺が同一寺かどうか不明であるが、いずれにせよ、水尾山寺は玄静が住していたことが知られる。

 また清和太上天皇の落飾入道の師の宗叡が天台宗・真言宗を兼学したように、玄静もまた両宗を兼学したらしく、宗叡より金剛界大法を、宗叡の弟子禅念(?〜908)より胎蔵大法悉曇章を、台密系の安然(841〜915)より大日経・蘇悉地経・蘇磨呼童子経・瞿醯経・金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祇経・大日義釈を習学し、胎蔵・金剛両部大法および悉曇蔵を授けられたが、伝法潅頂を授けられる途中に安然が示寂してしまったため、台密系の蘇悉地大法ならびに三種悉地を最円(825〜?)より授けられた。さらに延喜3年(903)6月15日に神護寺にて東密系の神日(860〜916)より伝法潅頂と蘇悉地大法を授けられている(『宝冊鈔』第3、蘇悉地経事、所引、延喜四年玄静授神日付法記)。また延喜8年(908)5月3日に宇多法皇が真寂法親王(886〜927)に東寺潅頂院にて潅頂を授けた際に護摩師となっている(『仁和寺御伝』宇多法皇)

 水尾山寺は、醍醐寺宝蔵に年未詳の「末寺丹波国水尾寺別当事文」一通があったことから(『醍醐雑事記』巻第15、宝蔵文書櫃目録事下、醍醐寺雑文書)、少なくとも文治2年(1186)までのいずれかの段階で醍醐寺の末寺であったらしい。


水尾(平成23年(2011)8月16日、管理人撮影)

近世の円覚寺

 中世における円覚寺および水尾山寺の様相はわかっていない。粟田の円覚寺は廃寺となっており、現在の水尾の円覚寺もまた、延宝7年(1679)5月5日の水尾大火に際して経蔵もろとも焼失しており、詳細な記録は残っていない(『嵯峨誌』)

 明治30年(1897)に作成された円覚寺の調査報告によると、応永27年(1420)に、「御山陵ト遠隔、殊ニ御縁故アルヲ以テ、粟田山円覚寺ヲ水尾山離宮ヘ移ス」としており、天皇の位牌と、染殿后と貞純親王の塔を水尾に移したとする(「明治参拾年八月寺志取調事項」葛野郡役所文書〈京都府立総合資料館蔵〉)。実際に応永27年(1420)に円覚寺が水尾に移ったかどうかは不明であり、むしろ円覚寺が応永年間までに廃寺となっており、水尾にあった水尾山寺が、同じく清和天皇との関係があった円覚寺の由来を称するようになったとみる方が自然であろう。

 このように水尾が粟田円覚寺の由来を引き継いで円覚寺を再興した理由として、水尾の集落における清和天皇への帰属意識があげられる。水尾では集落すべてが清和天皇およびその従者の子孫と伝えられており、かつ古くからこの地に住む者は、「五姓」と称される5つの苗字を有する者達のみに集約するとされる(古老聞取)

 天正2年(1574)12月4日の清和天皇七百回忌の法会が、乱世のため実施が困難となっており、円覚寺住持の元真(生没年不明)が勧進を実施したという。元真はまず薩摩に赴き、ここから諸国を巡行し、清和源氏の子孫を称する諸侯より寄附を募り、ついに法会を無事に行うことができたという(「山城国葛野郡水尾村粟田山円覚寺之記」松尾家文書〈『史料京都の歴史』第14巻所載。以下同じ〉)

 さらに寛永元年(1624)12月4日の清和天皇七百五十回忌に際しては、東福門院(1607〜78)より白銀100枚を賜った(「山城国葛野郡水尾村粟田山円覚寺之記」)。延宝7年(1679)5月5日、水尾村の藤右衛門の娘こゞが伝右衛門家にて火の不始末をしてしまい、水尾村85戸のうち83戸が焼失、死者5人、牛3頭焼死の惨事となっているが、この際、「宮寺不残焼失申候」とあるように、円覚寺もまた焼失した。水尾の集落は地面の高低差が非常に高く、各家が棚田の上にあるようになっているため、下部から出火があった場合、火は上に移って大火となっていた(『嵯峨誌』)

 焼失後、再建されるまでの96年間の様相は不明であるが、その間元禄2年(1689)に円覚寺住持の実門によって円覚寺の縁起が作成されているから(「山城国葛野郡水尾村粟田山円覚寺之記」)、小堂程度の再建は行われていたらしい。

 現在の円覚寺の本堂は、安永5年(1776)3月9日の再建であり、播磨国三木村の大工佐兵衛が造営にあたった(「庄屋記録」安永5年条、松尾家文書〈京都市歴史資料館写真帳U21、91〉)。17世紀より18世紀にかけて、三木の出稼ぎ大工は丹波・但馬に進出しており(永井1974)、丹波と境を接する水尾の円覚寺も、三木の出稼ぎ大工による施工であったようである。近年の改築の際にはその時の棟札が検出されたという(古老聞取)。本堂は桁行3間、梁間2間の入母屋造桟瓦葺の建物であるが、北側1間分の西側に桁行半間分、南側1間分に桁行1間分の庇があり、ここは玄関・台所となっている。また天明7年(1787)刊行の『拾遺都名所図絵』に円覚寺の様相が描かれているが、正面は庇となっており、屋根は瓦葺のように描かれている(『拾遺都名所図絵』巻3、水尾村)

 明治26年(1893)6月6日に京都府に対して出された円覚寺の増築の許可が下りているが(『葛野郡寺院明細帳』25、円覚寺〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)、現在では正面庇部分にアルミサッシを入れるなど、現在における寺院としての機能をはたせるよう改造されている。

 幕末期の勤王思想の高まりとともに、水尾は清和天皇の陵墓地として注目されるようになる。谷森善臣(1817〜1911)によると、水尾山陵(清和天皇陵)は、ただ自然の山頂に石塔婆の破片などがあり、桧・杉が生い茂っていたという(『山陵考』巻3、水尾山陵)。文久の修陵によって整備され、元治元年(1864)5月6日に清和天皇陵参拝のため、勅使中納言野宮定功(1815〜81)が派遣されているが、この時立ち寄った円覚寺に白銀1枚を下賜している(「明治参拾年八月寺志取調事項」葛野郡役所文書〈京都府立総合資料館蔵〉)。同年7月に蛤御門の変がおこり、長州兵は嵯峨に退却したが、追撃を受け、天龍寺・法輪寺は焼失し、清涼寺も兵火を被る危険性があったため、清涼寺住持の尭立は釈迦如来像を化野念仏寺に移座し、さらに危険を考慮して円覚寺に移座した。後に危機が去ると清涼寺に奉還された(『嵯峨誌』)

 さらに慶応元年(1865)10月に清和天皇陵参拝の勅使が円覚寺を訪れ、白銀3枚を下賜した。同年12月24日には小松宮(当時仁和寺宮嘉彰親王と称す。1846〜1903)が山陵参拝に際して円覚寺に立ち寄り、白銀3枚を下賜している(「明治参拾年八月寺志取調事項」葛野郡役所文書〈京都府立総合資料館蔵〉)

 円覚寺の本末関係の変遷の詳細は不明であるが、安永5年(1776)再建の際の棟札に「紀州有田郡湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)深専寺芳宣上人遺弟」の文言がみえることから(「庄屋記録」安永5年条、松尾家文書〈京都市歴史資料館写真帳U21、91〉)、浄土宗西山派の深専寺の影響下にあったらしい。また嘉永3年(1850)7月の文書では「無本寺浄土宗円覚寺」とあることから(「吉右衛門娘みつ宗旨送り状」樒原共有文書〈京都市歴史資料館写真帳U17、J81〉)、少なくともこの段階では特定の寺院と本末関係にはなかった。明治維新後、明治14年(1881)6月まで空也堂住職の醍醐慧愍が法預となって円覚寺住職の代行をしており(「第1439号 住職兼帯の事」人民指令(明14-37)〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書〉)、その後明治16年(1883)までに円覚寺は知恩院の末寺となっている(『葛野郡寺院明細帳』25、円覚寺〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)。。

 当時、廃仏毀釈と明治新政府による上知令は、多くの寺院の存続に打撃を与えており、無住でかつ信徒(檀家)がいない寺院は廃寺となっていった。円覚寺はもともと無住の寺院であったため、廃寺となる恐れがあったものの、京都浄教寺住職の竹花博誉(1846〜83頃)が兼務することによって、寺院としての体裁が保たれた(「第1439号 住職兼帯の事」人民指令(明14-37)〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書〉)。後に竹花博誉が遷化した際には若山真随が代理を務めた(『葛野郡寺院明細帳』25、円覚寺〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)。対照的な運命をたどったのが、同じく水尾に位置した念仏寺と大徳寺である。

 水尾には円覚寺の他に念仏寺・大徳寺という2寺が存在しており、清和天皇の祭日には円覚寺に他の2寺の住持が集まって祭礼を行っていたらしいが(「山城国葛野郡水尾村粟田山円覚寺之記」)、現在はいずれも廃寺となっている。大徳寺は近世期には毎年5月に愛宕山福寿院より僧が来て、当寺にて大般若経を転読していた(『京都古習志』)。明治初頭頃に廃寺となったらしいが、詳細はわかっていない。念仏寺は明治5年(1872)11月に廃寺となって円覚寺と合併しており、念仏寺の本尊は円覚寺に移された。また水尾大岩(水尾中心部から1kmほど東の山中)の中山には庚申堂があったが、明治16年(1883)9月5日に建物を取り壊し、本尊を円覚寺に遷座している(『葛野郡寺院明細帳』25、円覚寺〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)


円覚寺前の宝篋印塔と板碑(平成23年(2011)8月16日、管理人撮影)。天明7年(1787)刊行の『拾遺都名所図絵』には宝篋印塔を「清和天皇墳」とするが、後に板碑を右から清和天皇・染殿后・貞純親王・其他源氏とされた。



天明7年(1787)頃の円覚寺。『拾遺都名所図絵』巻3、水尾村より(『新修京都叢書』12〈光彩社、1968年〉260頁より一部転載) 



明治30年(1897)頃の円覚寺(「明治参拾年八月寺志取調事項」葛野郡役所文書〈京都府立総合資料館蔵〉)

水尾の古習と円覚寺

 円覚寺が位置する水尾は京都市の西北の山間部に位置しており、JR保津峡駅と愛宕山の中間に位置する。水尾は現在30戸ほどの小集落で、南北の高低差が非常に激しく、各家が棚田をつくって農業を行ったり、あるいは狩猟、柚や枇杷の果汁栽培、周辺に自生する樒(シキビ)の行商を行っていた。樒は神前に使う榊に似た植物で、一般的には「しきみ」というが、京都近辺では「シキビ」と呼ばれる。主として仏前に供えられ、神前の榊、仏前の樒とは一応棲み分けがなされているが、神仏習合の影響からか愛宕神社は樒を用いている。

 水尾より愛宕山へ行くには、円覚寺の脇の急斜面を約1.2kmほど登り、水尾別れにて愛宕山表参道と合流し、そこからさらに600mほど登る。水尾女が樒を愛宕山の参詣者に売っていたが、彼女らは朝に摘んだ樒を背負って愛宕山に登り、神前に供えた後に参詣者に販売した。近世には販売する場が愛宕山・上嵯峨村・水尾村の三者間で厳密に取り決められていた。この際水尾女が着用した三巾前垂の褐色の棒汁染めは他に類例はなく、清和天皇が当地に隠棲の時、女官が用いた緋の袴の名残とされていた(『嵯峨誌』)

 水尾では清和天皇に対する高い帰属意識があり、水尾では集落すべてが清和天皇およびその従者の子孫と伝えられており、かつ古くからこの地に住む者は、「五姓」と称される5つの苗字を有する者達のみに集約するとされる(古老聞取)。水尾では集落を右家・左家に分け、両家に男子が出生すると、それぞれ両家に属せしめた。また左家に生まれた男子順に六人を「左座」、右家も「右座」とし、あわせて12人を古老と称した。古老に死亡者があった場合は、それぞれの座より補充した。この両座の最年長老を「刀祢」と称した(『嵯峨誌』)

 この古老は庄屋の出納簿を審査するなど、行政において大きな権限を持つと同時に、氏神の神社と山陵における年中行事をつかさどった。氏神は円覚寺の東側に鎮座する清和天皇社であるが、近世期には四所権現といい、古老より神前の抽籤にて1年交替の行事役を決めていた。明治維新後に愛宕神社の社掌が清和天皇社を兼務すると、行事役は宮守と改称した。また「ショウジト」と呼ばれる役があり、愛宕山へ集落代参役として毎月亥の日と23日、出火の際に必ず2名が参詣することとなっていた。ショウジトは3年交替で2人選ばれ、交替日の9月23日に先任者と併せて4名で愛宕山に参詣した(『嵯峨誌』)

 近世期には毎年4月3日に清和天皇の祭礼を行っていた。この祭礼は円覚寺住持が司り、村社(四所権現。現在の清和天皇社)にある天皇の神輿を円覚寺の仏殿に遷座し、ここを御旅所とした。古老や式事12人、庄屋・年寄役が立ち会い、村中が参拝した。御旅所の広前(前庭)にて「笹踊りの式」が行われた。これは笛・太鼓・鼓で大人6人が演奏し、男児6人が両手に割竹を持ち、色紙を下げ付けた笹笠を着用し踊り回るというものであった(「明治参拾年八月寺志取調事項」葛野郡役所文書〈京都府立総合資料館蔵〉)。この「笹踊りの式」は『嵯峨誌』によると「花笠踊」とも称されていた。古老1人が中央に座して太鼓を打ち、「ヤアー」と声をかけるとその傍らの笛鼓が拍子を揃えて囃し立て、花笠の踊り子男児6人が割竹に刻み目があるものを摺り鳴らしつつ、中央の古老の周囲を廻ること2・3回で着席した。これを数回繰り返し、古老が「シヨモウシヨモウ」と言えば、参詣の人々が初穂を進め、古老が「大サエー」と発声して終了したという(『嵯峨誌』)。現在は行われていない。

 水尾では清和天皇に対する帰属意識が祭礼に影響したが、清和天皇の遠忌を水尾村が主催して行うほどであった。安永8年(1779)12月4日の清和天皇九百回忌に際しては、円覚寺住持の慈潭を同士として、念仏寺・大徳寺、村の古老・庄屋・年寄をはじめとした村中の老若男女が参詣し、仏前に「清和太上天皇九百御忌」と位牌をたて、御膳やその他の盛物を供え、赤飯を炊いた(「庄屋記録」松尾家文書〈『史料京都の歴史』第14巻所載〉)。毎年12月4日に円覚寺にて天皇の御法会を行っていた(「明治参拾年八月寺志取調事項」葛野郡役所文書〈京都府立総合資料館蔵〉)

 また毎年の春秋の彼岸に清和天皇陵にて円覚寺住持を導師として、古老・庄屋が桧の角塔婆を奉り、法会を行っていたが、明治元年(1868)新政府の命令によって廃止となり、以後、円覚寺仏殿にて毎年法会が行われるようになった(「明治参拾年八月寺志取調事項」葛野郡役所文書〈京都府立総合資料館蔵〉)。 また円覚寺では正月8日に本尊の薬師仏に串柿を切って花のように竹にさした「柿花」を供え、12日にも清和天皇社でも柿花を供える風習がある(飯島2007)


清和天皇社(平成23年(2011)8月16日、管理人撮影)。円覚寺の東側に鎮座し、近世期には四所権現といった。

円覚寺六斎念仏

 現在、円覚寺で継承されている祭礼行事として、六斎念仏がある。六斎とは月のうち斎戒すべき8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日のことであり、その日に斎戒謹慎して、念仏を唱える宗教行事であり、庶民に普及して鉦や太鼓を鳴らしながら、時に踊りながら念仏を唱え、祖霊の供養や死者の回向をするもので、南北朝時代後期から室町期にかけて確立された(本多2009)

 六斎念仏は高野山系と京都系の二種類に分別され、京都系はさらに干菜寺系と空也堂系に分けられる。六斎念仏は江戸時代中期から念仏主体のもの(念仏六斎)から、種種雑多な芸能を取り込んだ芸能主体(芸能六斎)へと変容した。近世の六斎念仏は村落に講中が結成され、これら講中は干菜寺と空也堂の統括的支配を受けた。円覚寺の六斎念仏は空也堂系のものとみられている。

 その一方で、空也堂側に円覚寺と六斎念仏に関わる史料は見出せず、明治17年(1884)8月の「六斎念仏収納録」にも水尾に関する記述はない。しかも現在は浄土宗知恩院末であり、空也堂との接点は見出しがたいが、水尾の円覚寺は明治初頭に住持不在のため、明治14年(1881)6月まで空也堂住職の醍醐慧愍が法預となって円覚寺住職の代行をしていた(「第1439号 住職兼帯の事」人民指令(明14-37)〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書〉)。その後明治16年(1883)には知恩院末となっているが(『葛野郡寺院明細帳』25、円覚寺〈京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)〉)、このように空也堂と円覚寺にはこの時点まで本末関係とは言えないまでも、何らかの隷属関係があり、そのため円覚寺に空也堂系の六斎念仏が伝わったとみられる。明治17年(1884)8月の「六斎念仏収納録」に水尾が書き連ねていなかったのは、その時には知恩院末となっていたからとみられる。

 六斎念仏は空也堂系と干菜寺系の二系統に分けることができるが、空也堂は芸能的六斎(芸能六斎)とも呼ばれ、干菜寺は古典的六斎(念仏六斎)と呼ばれることが多い。しかしながら芸能六斎発達以前に空也堂の六斎支配より抜け出た水尾は、芸能六斎の影響を受けることはなかった。また明治5年(1872)7月より同16年(1883)まで「京都府令」によって六斎念仏を含む盂蘭盆会が禁止されており、再度六斎念仏が許可された際には、円覚寺の六斎念仏は空也堂の支配下を受けることなく、独自の道を歩むことになる。

 すなわち空也堂系と干菜寺系の違いに芸能六斎と念仏六斎の違いが発生したのではなく、明治期に芸能的要素が六斎念仏に採りいれることが流行したため、空也堂系の六斎念仏は芸能六斎となり、早くに空也堂の六斎支配より抜け出した水尾は、時代の趨勢より取り残されて、念仏六斎のままであったといえるのである。水尾の六斎念仏は昭和59年(1984)に他の京都の十数団体とともに「京都の六斎念仏」として国の重要無形民俗文化財に指定された。

 現在水尾の六斎念仏は、8月14日の地蔵盆、16日の施餓鬼に円覚寺内陣手前の6畳の空間にて行われる。14日の地蔵盆では内陣(北)を正面とし、16日には内陣を後ろとして南側に施餓鬼棚を設けて行われる。現在でこそ鉦鼓が2人、太鼓が5人の合計7人で行われるが、円覚寺に鉦鼓・太鼓が各々7づつ残されているから、以前はさらに大規模なものであった。また六斎念仏はかつては檀家のみが行っていたが、後継者不足から寺院関係者が若干名加わっている(古老聞取)

 円覚寺では8月7日に寺前に灯籠を立てる。六斎念仏は後継者不足もあって、時間的制約上、練習は盆前に2・3回程度実施される。8月10日には「新仏さん」が出た家に行き、仏壇前に白木の戒名を立て、その前で六斎念仏を行う(他の京都市内の六斎念仏では「勧善回り(棚経)」という)。14日の地蔵盆、16日の施餓鬼では円覚寺で六斎念仏を行う。かつては「発願」「白米」の2曲が演奏されたが、「新仏さん」が出た家の数は毎年変動し、年によっては演奏回数が多くなるため、簡略化されて現在は「発願」のみとなっている。「発願」もまたある程度省略して演奏される(古老聞取)

 「発願」は鉦鼓と太鼓で演奏され、まず発願文より始まって「揃鉢」「抜鉢」「それ鉢」を順に演奏する。曲構成は4拍子を基本とし、鉦鼓が4度叩く間、太鼓は3拍1休止する。これを5・6度繰り返すと、鉦鼓が4度叩く間、太鼓は1拍1休止1拍1休止し、これを繰り返すと、再度鉦鼓が4度叩く間、太鼓は3拍1休止に戻る。その間鉦鼓は「南無阿弥陀仏」を唱え続ける。

 水尾の六斎念仏は、他に伝わる六斎念仏とは異なって、極めて静的なものであり、太鼓を時折ひねらせる他はほとんど動きがなく、笛も加わらない。とくに足を全く動かさない点では類例がほとんどないという。このような六斎念仏は水尾の他にかつては郡・西七条・上鳥羽に残っていたという(田中1959)


[参考文献]
・上野竹次郎編『山陵』(名著出版、1989年2月〈山陵崇敬会(上・下)1925年の再版〉)
・堀永休編『嵯峨誌』(嵯峨自治会、1932年6月)
・井上頼寿『京都古習志』(館友神職会、1940年11月)
・田中緑紅『六斉念仏と六斉踊(緑紅叢書第三年第二輯第二十六輯)』(京都を語る会、1959年9月)
・『京都の民俗芸能』(京都府教育委員会、1975年3月)
・福山敏男『寺院建築の研究』下(中央公論美術出版、1983年3月)
・永井規男「三木大工と日原大工」(『日本建築学会近畿支部研究報告集 計画系』14、1974年6月)
・芸能史研究会編『京都の六斎念仏調査報告書』(京都六斎念仏保存団体連合会、1979年)
・『史料京都の歴史 第14巻 右京区』(平凡社、1994年1月)
・飯島吉晴『竈神と厠神 異界を此の世の境』(講談社、2007年9月)
・山田邦和「平安時代天皇陵研究の展望」(『日本史研究』521、2006年1月)
・本多健一「近世の民俗行事からみた都市と周辺地域との結合関係」(『人文地理』第61巻第4号、2009年)


円覚寺六斎念仏(平成23年(2011)8月16日、管理人撮影)



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