大日院跡



比叡山延暦寺西塔大日院跡付近(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

 大日院はかつて比叡山延暦寺西塔に位置(外部リンク)した比叡山の子院です。天暦2年(948)に村上天皇の御願で建立された御願寺です。修法以外の記録は少なく、正確にどこに位置したのか、いつ廃寺となったのかもわかっていません。


熾盛光法

 熾盛光法は『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪(熾盛光仏頂儀軌)』(大正蔵966)を所依経典とする台密における除災の修法である。同経によると、「あるいは大疫・疾病流行し、鬼神暴乱、異国の兵賊、国人を侵掠するに遭い、もし明人先にこれを知る者あらば、まさに奏上して曼荼羅を置くべし。帝主日々虔敬の心をおこし、おのずから発願して加護を祈請せば、必ず勝利を獲て悪賊消滅せん。」(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)とある。このように疾病の流行・天変地異・兵乱などを退散させることができると説かれており、国家の求める除災の項目と合致していた。

 この熾盛光法は単に国家の求める除災の修法とみなすことも可能であるが、むしろ個人に効果がある修法とされ、とくに王者に対する効能を強調していた。たとえば「凡庶の人、王者を恐れて疑いを生ざば、かりに紙上において一切諸天の名字を書き、諸尊の下に帖す。彼をして疑を断じしめて、正信を生ず」(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)とあるように、王者と臣下における間隙も、この修法によって信頼を回復すると説かれているが、臣下側からの視点ではなく、王者からの視点であることは興味深い。さらに女性・宦官・奴婢など、賎民視された人物が修法・道場・壇をみると修法の効力を失うとされ、個人の修法の場合、曼陀羅は方1肘(54cm)で、大きくても3・4肘(164〜216cm)に過ぎなかったが、国王の場合の修法では16肘(8m64cm)、大きいものでは28肘(15m12cm)にも及んだというから(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)、王者と庶民の差は修法において隔絶していた。

 この熾盛光法の所依経典である『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』が最初に請来された記録は、宗叡(809〜84)の請来目録であり(『新書写請来法門等目録』)、異名同本である『熾盛仏頂威徳光明真言儀軌』を最初に請来したのは恵運(798〜869)であったが(『恵運律師書目録』)、ほぼ同時期に円仁も請来していたらしい。円仁の請来目録にはみえないが、安然(841〜915)の「八家秘録」には、「熾盛仏頂威徳光明真言儀軌」として『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』がみえており、「仁・運」とあるように、円仁と恵運が請来したことが知られる(『諸阿闍梨真言密教部類総録』)。また円仁請来経典の収蔵庫であった前唐院の蔵書目録によれば、『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』が1巻づつ、異名同本である『熾盛光威徳仏頂念誦儀軌』1巻が1帙にまとめられており(『前唐院見在書目録』)、録外経典ではあるものの、円仁が請来したとみてよい。

 嘉祥3年(850)に円仁は「災いを除き福を致すは、熾盛光仏頂をこれ最勝となせり」とした上で、唐にならって熾盛光法を修する道場の建立を願い出ている(三千院本『慈覚大師伝』)。その道場となったのが後の惣持院である。

 『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』によると、熾盛光法を修するにあたっては、まず一浄房室を灑掃することからはじまり、白牛の地面に接触していない瞿摩夷(牛糞。古代インドでは清浄物とみなされた)を塗布し、さらに白檀の香水を地に散らした。さらに悪物・砕瓦などの類を取り除き、河岸の白土で壇を築いた。曼荼羅を描く画人は、酒・肉・五辛を食させず、香湯を沐浴して新浄衣を着させ、当日の朝に八関斎戒を授けた。白布上に十二輻金輪を描き、五色の粉を燃やし、その粉のひとつひとつに真言を加持すること七遍、または三七遍(27回)の後に用いた(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)

 熾盛光曼荼羅は、まず輪の中心に八葉白蓮華を描き、金銀で彩色した。さらに金輪仏頂を描き、この曼荼羅を浄房の深密のところに荘厳して建てた。その後、熾盛光仏頂真言を昼夜不断に念誦し、諸尊真言の念誦を兼用した。修法の日は少ない場合でも三日三夜、多い場合は七日七夜、もしくは二七日夜(14日間)に及び、護摩を行った。修法の結果、目的を達成した場合、曼荼羅はただちに収納し、地壇は削り除いて、河に流された(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)

 熾盛光法は前述の通り、疾病の流行・天変地異・兵乱などを退散に効果があったとされていたが、説くところはむしろ、国家そのものに対するものではなく、個人に対するもの、とくに王者といった貴顕層に対しての効果をあらわしていた。例えば、国において日蝕・月蝕、または五星(木星・火星・金星・水星・土星)が明るさを失ったり色や形状が変化した際、または妖星・彗孛(いずれも彗星)が王者や貴人の命宿を犯したり、または日月が本命宮の中にて欠損した際に、熾盛光法を修すると利益があるとみなされた(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)。中国古来の伝統的占星術のような国家的災厄としての天変に関する修法ではなく、個々人の本命宮への災厄、すなわち個人としての王者への修法であった。

 熾盛光法は延喜5年(905)夏に惣持院の塔下で修されており(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光末、熾盛光法日記集、清涼房伝云)、延喜11年(911)秋にも禁中で怪異があったため、豊楽院にて熾盛光法が修された(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光末、熾盛光法日記集、清涼房伝云)。さらに延長2年(924)11月8日に尊意(866〜940)の私房にて熾盛光法が修され(『貞信公記』延長2年11月8日条)、承平8年(938)3月11日には天変のため天台座主尊意に叡山上で熾盛光法を修させ(『貞信公記』承平8年3月11日条)、天慶8年(945)11月4日にも叡山にて天台座主義海(871〜946)が天変・物恠のため熾盛光法を修している(『貞信公記』天慶8年11月4日条)


熾盛光曼荼羅(『大正新修大蔵経図像』第9〈大正新修大蔵経刊行会、昭和9年3月〉30頁付図より転載。本書はパブリック・ドメインとなっている)。『阿娑縛抄』巻第58、熾盛光本より。同書によると、保延6年(1140)2月30日に無動寺内供御房を写したもの。この原本は教王房座主が前唐院本を写したものという。5尺(150cm)四方。



熾盛光壇図(『大正新修大蔵経図像』第9〈大正新修大蔵経刊行会、昭和9年3月〉30頁より転載。本書はパブリック・ドメインとなっている)。『阿娑縛抄』巻第58、熾盛光本より。

大日院の建立

 大日院を開創したのは延昌(880〜964)である。延昌についてはすでに「補陀落寺」で述べたから省略する。

 大日院は天慶6年(943)に建立されたとも(『扶桑略記』第25、天慶6年条)、天暦2年(948)に建立したともいう(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦2年条)。実際には村上天皇の御願で建立されており、後掲の史料などからは後者の説が正しい。天慶10年(947)3月には、延昌に対して、「御願一院、造立すべきのところ、まさに定申すべし」(『貞信公記』天慶10年3月4日条)とあるように、村上天皇が延昌に御願寺を建立させていることが知られる。同年(改元して天暦元年)9月2日には比叡山御願堂の図がもたらされている(『貞信公記』天暦元年9月2日条)。天暦2年(948)に大日院供養が行われているが、本願主は延昌であった(『叡岳要記』巻下、西塔大日院供養)

 すでに比叡山上には、仁明天皇の定心院、文徳天皇の四王院、朱雀天皇の命院が御願寺として存在しており、これにならったものとみられている。さらに大日院建立に際して十禅師が設置されている(『扶桑略記』第25、天慶6年条)

 天徳2年(958)正月6日、この日より始めて大日院において熾盛光法・不動法の両壇の法を修した。また大般若経を転読させ、7日間に限って天変を消すためである。蔵人修理亮平珍材が事の次第を仰せて、兼ねて度者1人を賜っている(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年正月6日条)。これ以後、大日院では熾盛光法がたびたび実施されるようになり、事実上の熾盛光法の専門道場と化した。

 熾盛光法は、その秘匿性をも修法の効能を増すための条件に設定されており、熾盛光法の修法が終了次第、壇を破壊して河に流すことになっており、さらに旅先などにおいても修法可能なように、縮小・簡略化された儀軌も設定されていた(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)。ところが日本で最初に熾盛光法が修させた惣持院にあった熾盛光曼荼羅は、叡山上では後世も「惣持院根本曼荼羅」と称され、書写の基準となっており、また容易には他見が許されなかったように(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光本、懸曼荼羅)、惣持院根本曼荼羅は丁重に保管されており、このことは日本における経典を離れた儀軌が形成されつつあったことを示している。すなわち大日院のように熾盛光法の専門道場が形成されたのは、10世紀の台密が経典主義から脱却して口訣といった新しい段階へと進んだことを意味する。

 天徳2年(958)2月21日には大日院にて熾盛光法を50日間に限って修法させた。これも天変を消すためであった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年2月21日条)。この効果がなかったのかさらに4月10日には継続して大日院にて熾盛光法を50日間に限って修し、前とあわせて計100日間天変を消すための修法を行なった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年4月10日条)。本来、熾盛光法の修法は、多くとも二七日(14日間)を超えないことが原則であったが(『大聖妙吉祥菩薩説除災教令法輪』)、これをはるかに上回る期間の修法が行われている。

 大日院は村上天皇の御願であり、しかも御願は、国家修法ではなく、あくまで天皇個人の護持の修法であり、また熾盛光法自体も、王者個人の災厄を除く事を目的としていたから、効果がないのならば効果が出るまで修法を続けなくてはならなかった。このことは他の御願寺においても、定額寺・年分度者・階業の奏上の際には、不断の修法を強調する例が多く、大日院の奏上の記録は残っていないが、同様の奏上が行われていた可能性があった。そのため、修法ははじめた以上、結果を出すまでは継続し続けなくてはならなかった。

 天徳4年(960)6月5日に大日院にて大般若経を50箇日にわたって読経されている(『日本紀略』後篇第4、天徳4年6月5日癸酉条)。さらに同年7月29日にも大日院にて延昌に7日に限って熾盛光法を修させているが、これも天変を除くためであった(『扶桑略記』第26、天徳4年7月29日丁卯条)。このように多用された熾盛光法であったが、天徳4年(960)9月22日より仁寿殿にて延昌は同法を修していたが、修法の最中の9月23日夜に内裏が焼亡してしまい、翌24日に延昌が避難していた達智門人宅に近い左近衛府大将曹司に移して修法をやり遂げることになった(『阿娑縛抄』巻第59、熾盛光末、熾盛光法日記集、天暦御記)

 応和元年(961)閏3月17日には大日院にて五壇法が修され、権律師喜慶は番僧十口(10人)を率いて不動法を、賀静は降三世法を、尋真は軍茶利法を、行誉は大威徳法を、長勇は金剛夜叉法を修している(『扶桑略記』第26、応和元年閏3月17日庚辰条)。応和3年(963)2月11日にも大日院にて延昌が伴僧20口(人)を率いて熾盛光法を行なった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、応和2年11月11日条)

 村上天皇が崩御すると、大日院は御願寺から、追福の祈願所となる。康保5年(968)5月25日には、大日院で村上天皇の周忌法会が行われ、親王・女御が参会して諷誦を修している(『日本紀略』後篇第4、康保5年5月25日丁未条)。その後、大日院は天延2年(974)正月28日に阿闍梨弘延が大日院にて百箇日にわたって不動息災法を修しているが(『親信卿記』天延2年正月28日条)、これを最後に大日院は史料上から姿を消した。

 大日院が廃絶した時期はわかっていない。寛保3年(1743)の『山門西塔惣堂并五谷堂舎現房諸旧跡名所ヶ所附帳』に「大日院旧跡 釈迦堂ヨリ弐町廿間(約254m)程、凡ソ丑(北北西)ノ方ニ当ル」とある(武2008)


比叡山延暦寺西塔大日院跡付近(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

[参考文献]
・佐伯有清『慈覚大師伝の研究』吉川弘文館、1986年5月)
・山下克明『平安時代の宗教文化と陰陽道』(岩田書院、1996年11月)
・三橋正『平安時代の信仰と宗教儀礼』(続群書類従完成会、2000年3月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)


比叡山延暦寺西塔大日院跡付近(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)



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