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天童寺全景(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。手前は内万工池(放生池)。
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天童寺は中華人民共和国浙江省寧波市ギン(勤の左+おおざと。UNI5807。&M039607;)州区の山間部に位置する大寺院で、五山十刹のうち、五山第3位に列せられる禅寺です。義興によって永康年間(300〜301)に建立されたのが始まりとされ、その後宏智正覚(1091〜1157)によって大寺院へと変貌しました。日本からは臨済宗を本格的に最初に日本に伝えた栄西(1141〜1215)や、日本曹洞宗の祖である道元(1200〜53)をはじめとした多くの禅僧がこの寺で修行しました。道元が天童如浄よりここで嗣法したことから、曹洞宗の寺院と見られがちですが、実際には臨済宗の時期の方が長い寺院でした。
天童寺の創建
現在の天童寺は寧波市郊外の太白山の峰下にあるが、建立当初は天童寺から東へ約2km離れた東谷と称される場所に位置した。ここは古天童と呼ばれる。
天童寺は晋の永康年間(300〜301)に僧義興が茅を結んで山間に庵をつくったことにはじまるという。その時、童子がいて薪や水を給していたが、遂に去ることになって、「太白一辰の上帝はあなたが道行に篤いのをみて私を遣わされたのです。」といい、その後見えなくなったという。そのため義興を「太白禅師」といった。その後、寺は兵火に遭ったという(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。その兵火は隆安3年(399)孫恩の乱(399〜402)であったともいう(『天童寺志』巻之2、建置攷、晋、安帝隆安3年条)。
このように天童寺は晋代に建立されたという。ところが天童寺に関する最も古い史料は南宋の宝慶年間(1226〜27)に撰述された『宝慶四明志』であり、梁高僧伝など当時に近い史料には義興の事績はみられず、晋代を含めた魏晋南北朝時代の天童寺の動向について、窺うことができない。この時代の天童寺の事績はあくまで説話とみなすべきであろう。
唐代に入って開元20年(732)、僧法セン(王へん+睿。UNI74BF。&M021311;)(生没年不明)が薮を切り開くと寺院の跡を発見し、山麓の東に寺院を建立した。また法センは寺に住み、毎日法華経を読んでいると、天の童子が降りてきて天の食事を捧げて法センに供したという(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。このように天童寺は伝説的色彩から抜け出ていないものの、秘書省正字郎の万斉融(生没年不明)が多宝塔を西南の隅に建立しており(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)、これによって天童寺が史実の中にはじめて明確に現われる。
万斉融は越州の人で、崑山(現江蘇省崑山市)の令(県知事)を勤めた。神龍年間(705〜07)には賀知章・賀朝・張若虚らとともに文才を以て知られた(『旧唐書』巻190中、列伝第140中、文苑中、賀知章伝)。彼の作った文章の最下限は天宝3載(744)であるから(『全唐文』巻335、法華寺戒壇院碑)、少なくともその頃までは生存したようである。万斉融は天童寺と同様に明州(寧波)郊外に位置する阿育王寺に碑文を残しており(『明州阿育王山志』巻第7、福田常住、阿育王寺常住田碑)、明州付近を活動していた。この万斉融の多宝塔について詳細はわかっていないが、現在失われた「自記」があったというから(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)、恐らくは『宝慶四明志』が撰述された宝慶年間(1226〜27)までは、万斉融が撰述した碑記銘などが残っていたとみられる。
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天童寺から古天童方面をみる(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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古天童図(『筆記五編 天童寺志』上〈広文書局、1976年8月〉3頁より一部転載)
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天童寺における禅宗の伝播
至徳載間(756〜58)宗弼(生没年不明)なる僧が寺を太白山の峰下に移転している(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。『天童寺志』によると、この移転は至徳2載(757)のこととし、宗弼の他に曇総(生没年不明)・観宗(731〜809)が関わったとする(『天童寺志』巻之2、建置攷、粛宗至徳2載条)。このうち観宗について『景徳伝燈録』によると、牛頭宗の慧忠禅師(683〜769)の法系に連なる「明州観宗禅師」がみえる(『景徳伝燈録』巻第4、慧忠禅師下)。さらに『天童山志』によると観宗は雲居智□の法嗣であるといい、牛頭法融(594〜657)から数えて9世の法孫にあたるという(『天童寺志』巻之3、先覚攷、唐、観宗禅師)。このように天童寺にはじめて禅僧の形跡が見出せるのであるが、観宗は前述したように牛頭宗に属する禅僧であった。
現在、禅宗はすべて初祖達磨から、二祖慧可・三祖僧サン(王+粲。UNI7CB2。&M021270;)・四祖道信(580〜651)・五祖弘忍(601〜74)・六祖慧能(638〜713)の法系をへて、現在まで綿々と受け継がれてきたとされる。
ところが唐代においては五祖弘忍の法嗣のうち、最も有力であったのが神秀(?〜706)の法系であった。神秀の法兄の法如(638〜89)は則天武后(位684〜705)の信認を得たが、法如示寂後にそれを神秀が継承した。この結果、零細新興宗派に過ぎなかった禅宗が一躍隆盛することになる。当然のことながら、神秀の法系が当時の禅宗の主流となっていたのであるが、荷沢神会(684〜758)は自らの属する慧能系を正統と主張し、ここに神秀系は北宗禅、慧能系を南宗禅と二分されるに至った。
しかしながら北宗禅にも南宗禅にも属さない法系もあり、弘忍の法嗣である法持(635〜702)は牛頭山(江蘇省南京市)を拠点として活動し、彼らの法系は「牛頭宗」と呼ばれた。さらに牛頭宗は自己の権威づけのため、道信からはじまる法系図を捏造し、北宗禅・南宗禅に対する優越性を主張した。
彼ら牛頭宗は牛頭山を拠点として、江南一帯を活動した。例えば最澄(767〜822)は入唐中の貞元20年(804)10月13日に台州唐興県の天台山禅林寺の僧シュク(修−彡+羽。UNI7FDB。&M028709;)然より牛頭宗の付法と関連文献を授与されているが(『内証仏法相承血脈譜并序』達磨大師付法相承師師血脈譜)、いうまでもなくシュク然は牛頭宗に属する禅僧であり、9世紀前半における牛頭宗の活発な動向をみることができる。そのため浙江の天童寺にも牛頭宗の僧が来住することになったのである。その一人が観宗であった。
観宗は俗姓を留氏といい、東陽の出身であった。12歳の時に出家して秦望山に登り、善恵禅師に師事した。はじめは楞伽経・思益経を学んだが、やがて禅宗を学び、南嶽に行き制空禅師に師事した。このように師事すること12人に及んだが、中でも牛頭山中の禅師には最後に師事していた(『全唐文』巻第721、大唐故太白禅師塔銘并序)。この「牛頭山中の禅師」については前述の慧忠であるとみられている(関口1964)。
観宗は太白山にいて安静に勤め、都には赴かず名利を遠ざけていた。観宗の両側には常に虎がいたと伝えられ、庵前に伏せて家畜のように馴れたという。観宗は太白山から出ることはなかったが、歴代の明州刺史である王術・李岑・盧雲などの人物の帰依を受けていた。元和4年(809)8月15日夜、結跏趺坐して示寂した。79歳。同年10月1日に遺志に基づいて太白山の南に葬った。さらに元和10年(815)、門人たちは層龕多宝仏塔を建立した。門人として□海・法常・道真・明徹・恵見・光献・元徽・元悟などの名が知られる(『全唐文』巻第721、大唐故太白禅師塔銘并序)。
このように江南の地に隆盛を極めた牛頭宗であったが、9世紀後半になると急速に衰退し、洪州宗にとって替られていった。天童寺においてもその後牛頭宗の禅僧が住することはなかった。
乾元年間(758〜60)の初頭に宰相の第五キ(おうへん+奇。UNI7426。&M021062;)(709/10〜79)の奏上により寺号を天童玲瓏巌寺とした。そして清閑という僧が食堂を建立している(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。食堂の建立について『天童寺志』では「明永楽鈔志」よりの引用として、清閑が食堂建立のため樹木を伐採したものの、人力では動かなかったため、清閑と門弟が頂上で潔斎したところ、雨が降ってきて谷に溢れ、筏を浮かべて目的を達することができたという(『天童寺志』巻之3、先覚攷、唐、清間伝)。この「明永楽鈔志」については不明であるが、永楽年間(1403〜24)に撰述された天童寺の寺志か、あるいは『永楽大典』に引用された天童寺の寺志の抄出であったのかもしれない。第五キは清閑の塔銘を記しており、これはすでに失われたため内容はわからないが(『天童寺志』巻之7、塔像攷、清閑禅師塔)、清閑が食堂を建立するほどに天童寺の勢力が増し、さらに勅額を得るほど隆盛を誇ったことがみてとれる。また偕禅師と曇徳が道を挟んで松を20里にわたって植えたという(『天童寺志』巻之2、建置攷、唐、乾元2年条)。
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天童寺天王殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。民国21年(1932)に焼失したものを民国25年(1936)の再建。
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焼失前(1922年頃)の天童寺天王殿(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉101頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。
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心鏡蔵奐と鎮蠎塔
心鏡蔵奐(790〜866)は俗姓を朱氏といい、蘇州華亭の出身であった。伝説では誕生するにあたって、母は不思議な香りがしたという。幼い頃、井戸に転落したが、神人が接持して出ることができたという。幼くして出家して東巌道曠(生没年不明)に従い、嵩山で受戒した。母が蔵奐の事を思うたびに泣いていたから、片方の眼が視えなくなったが、蔵奐が帰省するとたちまち見えるようになっていた。母が没すると悲嘆にくれ、墓の近くに住んでいた。すると奇瑞があり、蔵奐の孝心によるものとみなされ、これによって世間に名が知られるようになる(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐明州棲心寺蔵奐伝)。
方々を歴訪し、五洩山の霊黙(747〜818)の法嗣となった(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐明州棲心寺蔵奐伝)。霊黙は馬祖道一(709〜88)の法嗣であり、馬祖道一は南嶽懐譲(677〜744)の、南嶽懐譲は六祖慧能の法嗣であった。これによって蔵奐は馬祖道一や慧能の法を嗣ぐことになる。
武宗(位840〜46)による会昌の廃仏で仏法は衰えたが、宣宗(位846〜59)によってまた盛んになった。この間、蔵奐は廃仏に心を惑わされることはなく、水や火による拷問を受けたが、これらは蔵奐には通じなかったという。洛陽の長寿寺が再建されると勅によって住持となった。会昌の廃仏の際に仏典が焼却・破壊されたため、散佚した仏典を再編成して大蔵経とした(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐明州棲心寺蔵奐伝)。
その後、楊収(生没年不明)が姑蘇(蘇州)の長官となった際、蔵奐に生まれ故郷に戻るよう要請し、寺院を建立した。さらも大中12年(858)四明(寧波)の檀越任景求は自宅を喜捨して寺院とし、蔵奐を住持に迎えた。裘甫(?〜860)率いる反乱軍2,000がこの寺院を襲撃したが、蔵奐は坐して動く様子がなかったから、賊はみなおののき恐れ、叩頭して過ちを謝った。反乱が収束すると蘇州側は奏請して寺院を棲心寺(現、七塔寺)と名づけた(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐明州棲心寺蔵奐伝)。
蔵奐が行くところに禅僧が集まったが、咸通7年(866)、弟子に香水を持ってくるよう命じて髪を剃り、「私はあと7日いるだけだ」と伝えた。8月3日、病のため示寂した。享年77歳。門人らは仮に天童山に葬ったが、三回忌が近づいたある日、不思議な香りが空を充満していたから、弟子達は「昔、師は三年の後に私の身を焼きなさいといっていたが、今このように不思議な香りがする」といい、墓を開けたところ、生きているかのようであったという。その年の8月3日に荼毘にふし、舎利数千粒を得た。その色は赤緑であったという。大中13年(859)、弟子の戒休は舎利を朝廷に持参して蔵奐の行状を述べ、諡号を賜ることを要請した。これによって心鏡の諡を得て、塔は寿相と号することになった(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐明州棲心寺蔵奐伝)。
天童寺における蔵奐の事績として、『天童寺志』には会昌年間(841〜46)に清関潭の神龍を太白嶺(小白嶺)に移して鎮蠎塔を建立したことが挙げられる(『天童寺志』巻之2、建置、会昌年間条)。実際に蔵奐は会昌年間(841〜46)に廃仏のため棄教を迫られて拷問を受けていたといい、江南の地に戻ったのは大中年間(847〜60)になってからのことであるから(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐明州棲心寺蔵奐伝)、江南に移ってから以降に天童寺に住したようである。なお蔵奐は洛陽の長寿寺にいる時、天童山の僧曇粋の生まれ変わりであると主張していた(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐明州棲心寺蔵奐伝)。
鎮蠎塔とは文字通り大蛇を鎮める塔で、天童寺の東の小白嶺に建立された。この小白嶺は天童寺の中心伽藍がある太白嶺の支峰で、寧波市域から天童山へ入るには必ずここを通過する。よって天童寺にとっての交通の要所であった。『天童寺志』に掲載される伝説によると、蔵奐が天童寺にやって来た時、清関橋の付近に龍が住んでおり、ここを行く人々に危険であったから、龍に呪いをかけて鉢に入れ、峰の頂上に移動してから鉢を傾けると龍となり、ここに安置したという。また山中に大蛇がいて人々が危険に晒されていたから、蔵奐は山に行くことを禁止した。ある日蛇が峰の頂上で死ぬと、これを焼いて埋め、塔を建立して鎮めたのだという(『天童寺志』巻之2、建置、会昌年間条、正疏)。
現在の鎮蠎塔は宋代の再建とみられており、関野貞(1868〜1935)が1918年7月に天童寺を訪問した際に鎮蠎塔を調査しているが、この時は各層の屋蓋が失われており、磚築の柱形や斗きょうの一部が残っているだけであった。しかし1922年10月に今度は常盤大定(1870〜1945)が鎮蠎塔を訪れてみると、補修が行なわれていたため、全く面目を一新していた。これによって常盤大定は中国の工匠が昔の様式を重んずることなく、修理の際に旧型を破壊して新手法を用いるため、古い塔婆であっても様式が近世的になってしまうことを理解したのだという(常盤・関1939)。
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1918年9月時点での天童寺鎮蟒塔(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉106頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。
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1922年10月の天童寺鎮蟒塔(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉106頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。
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十方住持制
『天童寺志』によると、大中元年(847)に天童寺は咸啓(生没年不明)の要請により、十方住持制の寺院としたという(『天童寺志』巻之2、建置攷、大中元年条)。
十方住持制度とは、住持の選定を、前住持の弟子などの中から決めるのではなく、方々より名僧を選抜して一定期間住持させる制度である。この制度は前住持の門弟の中から決定する徒弟院制度よりも、より一層格式が高いとされている。
唐末に華南において独立勢力となった節度使・藩鎮が、文化として仏教を盛んに取り入れたため、特定の宗派が彼らによって外護され、それぞれの宗派が拠点とした寺院は藩鎮から寺額を与えられて保護された。しかし藩鎮は軍閥である以上、内部抗争によって指導者が頻繁に変わり、そのたびに外護された宗派は変わり、しかも前政権の影響を払拭しようとするため、前政権の外護を受けた宗派は排斥され、彼らが拠点とした寺院自体が他の宗派の拠点となることがあった。
そのような文脈で捉えるならば、藩鎮の勢力争いが、それぞれ外護された宗派の盛衰に大きく関わったことがみてとれる。さらには唐末の戦乱において力を得た武人らが禅宗を好んだ上に、法系主義をとった禅宗は各法系に分化したから、藩鎮政権ごとに宗派が入れ替わりしたとしても、禅宗の法系ごとの入れ替わりであったから、自然、一つの法系の排斥がありながらも禅宗の優位性は失われなかったのである。
十方住持制の発生は明らかではないが、政権が交代するごとに保護される法系が替るのであるから、彼らの拠点となるべく寺院に入寺する僧侶は、法系主義による継承が否定され、国家権力などの外護者の招聘による入寺となり、これが優れた(とみなされた)僧侶が入寺する十方住持制の発生となったのである。
実際に天童寺において十方住持制が採用されたのが大中元年(847)であったかどうか定かではなく、前述の記事を「信用に値しない」として切って捨てる意見もあるが(高雄1975)、それでも知礼(960〜1028)が延慶寺を十方住持制とする際に、先例として示したのが景徳寺、すなわち天童寺であったから(『四明尊者教行録』巻第6、使帖延慶寺)、北宋代初期までには十方住持制の寺院として知られていた。
天童寺が十方住持制の寺院となった理由については定かではないが、理由の一つとして考えられるのは、唐末・五代の戦乱により、それまで長安などの中原にいた僧侶が、戦乱を避けるため大挙して江南の地に移住したこともあるだろう。これによって江南の地に禅宗が隆盛し、天童寺の外護者たちの心をつかんだ。
8世紀に江南の地で隆盛を誇っていた禅宗勢力は牛頭宗であり、実際天童寺でも観宗が住持であったように牛頭宗を中心とした時期があった。しかし馬祖道一の法系の蔵奐や、曹洞宗の派祖の一人洞山良价(807〜69)の法嗣であったという咸啓など、天童寺にも多彩な禅僧が住持となっているように、江南の地では伝統などよりも進取の気質があったから、檀越などの帰依も一派に限定されることはなかったらしい。このような要因もあって、十方住持制が天童寺において施行されたものとみられる。
十方住持制は宋代には勅額寺を上まわる権威として、官寺の最高格となり、このうち江南の主要禅寺が南宋時代に五山十刹寺院を形成するのである。
咸啓は鑑宗(793〜866)の法嗣で、後に皇帝より紫衣を賜っているといい(『宋高僧伝』巻第12、習禅篇第3之5、唐洛京広愛寺従諫伝、付鑑宗伝)、また洞山良价の法嗣であったといい、もとは蘇州の宝華山に住していたという(『景徳伝燈録』巻第17、袁州洞山良价禅師法嗣、明州天童山咸啓禅師伝)。咸啓は鑑宗の法嗣として、洞山良价との関係を否定する説もあるが(宇井1943)、もし咸啓が洞山良价の法嗣であったならば、彼は天童寺における最初の曹洞宗ゆかり僧侶ということになり、後に道元に至る天童寺と曹洞宗の最初に位置づけられることなる。
咸啓の機縁の語として『景徳伝燈録』には以下のように記されている。
僧が問いかけた、
「本無(本来無一物)の物(の実相)とは何か」と。
咸啓は答えた、
「石は輝いたとしても玉は含まれてはおらず、鉱石は別の物に関わらず自ら金を生じている」
さらに伏龍山和尚が来た。
咸啓は問いかけた、「どこから来たのか」
伏龍は答えた、「伏龍から来ました」
咸啓は言った、「龍を屈服することができたか」
伏龍は答えた、「かつてこの畜生を屈服させることはできませんでした」
咸啓は言った、「お茶でもどうぞ」
簡大徳(襄州高亭簡)が問いかけた、
「私は自信たっぷりに上山して来ました。禅師に仏法の明確な大意を尋ねたい」
咸啓は言った。
「わしはここで一つ排便するだけだ。どうして優れた仏法の明確な大意などあるもんか」
簡大徳が言った、
「和尚がそのように言うのでしたら、草鞋を買って旅をするとよいでしょう」
咸啓は言う、
「お前近くに来い」
簡大徳は咸啓の近くに来た。さらに咸啓は言う、
「ただわしがそのように答えるとすれば、過ちはどこにあるのだ」
簡大徳は答えることができず、咸啓は簡大徳を打ちすえた。
(『景徳伝燈録』巻第17、袁州洞山良价禅師法嗣、明州天童山咸啓禅師伝)
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天童寺天王殿(背後より)(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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五代・北宋における天童寺
咸通10年(869)、天童寺は寺号を天寿皇朝寺とした(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。この寺号は当時浙東観察使であった楊厳(?〜878)の奏請によるものであったという(『天童寺志』巻之2、建置攷、唐、懿宗、咸通10年条)。楊厳は浙東観察使であった咸通年間(860〜74)阿育王寺の香光の荘厳のため三七僧(21人の僧侶)を置くことを奏上しており(『明州阿育王山志』巻第2、舎利縁起、釈迦如来真身舎利宝塔伝)、明州(寧波)一帯の仏教外護者であった。
五代十国時代に天童寺が位置する四明(寧波)は呉越の支配下に入った。呉越の支配の中、浙江の地は仏教が隆盛したが、この時期の天童寺の動向についてわかっていない。呉越は建隆元年(960)の宋の建国後、宋に臣従しており、太平興国3年(978)に国王銭弘俶(位948〜78)が宋へ国を献じて滅亡するまで、宋に臣従しつつ命脈を保っていた。その間、開宝2年(969)2月の長春節(宋の太祖の誕生日)に太祖の詔があり、十方禅院に上表させている。これによって天童寺は紫衣の号を賜っている(『天童寺志』巻之4、盛典攷、賜衣)。
呉越が滅び、浙江が宋に帰属すると、禅宗の隆盛とともに天童寺の活動は活発になる。景徳4年(1007)に景徳禅寺の寺額を賜っている(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。
北宋初期における天童寺の動向として最も有名なものに、天童寺住持の子凝(生没年不明)による天台宗延慶院の知礼(960〜1028)との間の往復書簡が知られる。
子凝は崇寿契稠(?〜992)の法嗣であり(『天聖広燈録』都帙目録、巻第29目録、撫州崇寿禅院稠禅師法嗣)、法眼文益(885〜958)の法孫にあたるから、禅宗の法眼宗に属する禅僧であった。天童寺の住持となった年代は不明であるが、大中祥符年間(1008〜16)には天童寺の前の道を20里にわたって松並木としている(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。後に性道□道(生没年不明)と竹窓□介(生没年不明)の二人が東谷に水を探したところ、筧の下に扁額の残欠があり、そこには一行目から四行目まで「明州天童山植松」「子凝禅師聚間」「至小白嶺」「接」の字が残っていたという(『天童寺志』巻之2、建置攷、宋、大中祥符年間、質実)。
天聖元年(1023)正月、知礼が『十不二門指要鈔』を著述すると、子凝は同書の中の一節に「達磨門下三人、法を得て浅深あり。尼総持いわく、煩悩を断じて菩提を証すと。師(達磨)いわく、わが皮を得たりと。道育いわく、迷は即ち煩悩、悟りは即ち菩提と。師いわく、わが肉を得たりと。慧可いわく、本より煩悩なし、もとよりこれ菩提なりと。師いわく、わが髄を得たりと。」とある部分について、『祖堂集』『伝燈録』にみえず、伝聞で実証がないとして、削除を求めている(『四明尊者教行録』巻第4、天童凝禅師上四明法師第一書)。子凝はこれによって、達磨が尼総持・道育・慧可の三人に法を伝えたものとみなすことに異を唱え、達磨が慧可にのみ法を伝えたものとしたのである。これに対して知礼はその典拠が圭峰宗密(780〜841)の「後集(『中華伝心地禅門師資承襲図』)」にあるとし、同書は『禅源諸詮集都序』とともに盛行しているものであるから、伝聞とはいいがたいと反論した(『四明尊者教行録』巻第4、四明法師復天童凝禅師第一書)。子凝は典拠とした箇所が見出せず(実際現行の『中華伝心地禅門師資承襲図』にはみえないが、子凝は当初同書をみていなかったともいう〈宇井1943〉)、やはり正確な典拠ではなく伝聞によったものとして詰問している(『四明尊者教行録』巻第4、明又復天童第二書)。両者の書簡による議論は20通にも及んだが収束することがなかったため、四明太守の林殆庶(生没年不明)の仲裁により、『十不二門指要鈔』から該当部分を削除することにより決着をみた(『四明尊者教行録』巻第4、忠法師天童四明往復書後叙)。
このように知礼と天童寺の子凝は論争を行なっていたが、知礼は延慶院を十方住持制の寺院とする際、天童寺の十方住持制の先例にならうことを主張しており(『四明尊者教行録』巻第6、使帖延慶寺)、天童寺が四明(寧波)一帯の大寺として重視されたことが窺える。
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天童寺仏殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。崇禎8年(1635)の再建。康熙40年(1701)と咸豊3年(1853)に修造されている。
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宏智正覚 その@ 〜前半生〜
天童寺は宏智正覚(1091〜1157)が住持であった時代に飛躍的に拡大を遂げた。「宏智正覚」は日本では読み癖で「わんししょうがく」と訓される。
宏智正覚の俗姓は李氏で、その母趙氏が宏智正覚を産んだ時、光は建物から出てきたため、人はみな不思議に思った。7歳の時、書を日に数千語も読み、幼くして遂に五経(易・書・詩・礼記・春秋)に通暁した。祖父は李寂、父は李宗道といい、仏陀禅師恵林徳遜のもとで参禅していた。ある時恵林徳遜が父李宗道に、「この子は人より優れて抜群で、世俗の中にいるような人ではない。出家させなさい。必ず大法器となるだろう」といった。そこで11歳の時に郷里の浄明寺の本宗大師のもとで得度し、14歳の時に晋州(河北省晋県)の慈雲寺のもとで具足戒を受けた(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
18歳の時、諸方に遊行に出た。親と別れる時、「もし生死の一大事を明らかにできなかったら誓って戻ることはありません」といった。晋州と絳州の間に頼みとする祖師がいなかったが、村長は宏智正覚が英明なのをみて、扇を示して「私に一転語(相手を翻然と悟らせる転機となる語)を与えよ」といったため、すぐに扇に書いて返した。村長は大喜びして滞在を願い出たが、そのまま行ってしまった。黄河を渡って嵩山少林寺にて夏安居を過ごした。日々野菜を食べ、病僧にも供給した。野菜が採り尽されると、薬草を採取した。龍門にて郷里の僧と出会い、彼は宏智正覚を連れて帰ろうとしたが、宏智正覚は「出家して行脚するのは、本来は知識(名僧)を訪ねて生死の一大事を了悟するためなのだ。故郷を思っている場合ではない」といった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
宏智正覚は軽装で直ちに汝州(河南省臨汝県)香山天寧寺の枯木法成(1071〜1128)のもとに到った。枯木法成は宏智正覚を一瞥して法器であることを見抜いた。ある日他の僧が法華経の「父母所生の眼で悉く三千界を見る」という箇所を読んでいるのを聞いて、宏智正覚は忽然として悟った。急いで方丈の枯木法成のもとに赴いて、悟ったところを述べたが、枯木法成は机の上の香合を指差して「中身は何か」といった。宏智正覚は「これはどういった働きですか」と問い返した。枯木法成に「お前の悟ったところもどうなのか」といわれたため、宏智正覚は手で一つの円を描いて差出、また後ろに放り投げた。枯木「泥んこをこね回す奴め、限界があるというのか」、宏智「間違っています」、枯木「他の人に参禅してはじめて得られるであろう」、宏智「わかりました、わかりました」(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
丹霞子淳(1046〜1117)は仏教界の名声は高く、宏智正覚も丹霞子淳のもとに到った。丹霞子淳は「天地が開ける以前のお前の面目はどうだ」と問いかけると、宏智「井戸の底の蝦蟇蛙が月を呑み込んで、夜に明るく光る簾なぞ必要ありません」、丹霞「不十分だ、さらに言え」、宏智正覚は言おうとすると、丹霞子淳は払子(禅僧が手にもつフサフサがついた棒)を一払いし、「言葉を使うな」というと、宏智正覚はたちまちに悟って礼拝した。丹霞「どうして端的に表わす一句を言わないのだ」、宏智「私は今日失敗に失敗を重ねました」、丹霞「お前を打ちすえる暇などない。とっとと失せろ」。時に宏智正覚23歳であった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
丹霞子淳が唐州(河南省唐河)の大乗山に退居すると、宏智正覚も従った。住持の大乗利昇は丹霞子淳の法嗣であったから、宏智正覚は立僧首座となった。さらに丹霞子淳は大洪寺(湖北省随州)の住持となると、宏智正覚は書記となり、宣和3年(1121)首座となった。真歇清了(1088〜1151)が長蘆山(江蘇省儀征県)洪済寺の住持となり、宏智正覚の名声を聞いて書簡にて招き、鍾を撞いて出迎え、雲水たちも仰ぎ見た。宏智正覚の容貌はひげや眉が汚く真っ黒で、衣はくたびれては破れ、履(くつ)や足袋はすべて穴が空いていた。真歇清了は侍者に新しい履に履き替えるよう伝えさせたが、宏智正覚は「俺は靴のために来たんじゃないぞ」といった。真歇清了は衆とともに懇請して宏智正覚を第一座(首座)とした。その時、大衆は1,700人を超えており、宏智正覚が年少であるのをみて最初は侮っていたが、秉払(ひんぽつ。払子を持って住持に代って説法すること)するや参請者よりも老熟していたから心服しない者はいなかった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
さらに2年して、泗州の普照寺の住持となった。これが始めての出世(住持就任)であった。当時、徽宗は道士の林霊素の進言によって全国に道観の神霄万寿宮を建立させており(『宋史』巻462、列伝第221、方技下、林霊素伝)、宏智正覚が住持に就任する以前に、普照寺の寺地は二分され、その半分は神霄宮になっていた(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。さらに淮北・淮南地方は飢饉となったため、寺の厨房は空となり、朝粥と斎には豆麦を混ぜてかさ増しした。宏智正覚は庫を預かる僧にかさ増しを止めて粳米だけにするよう命じたが、庫の僧は従わなかった。それでも宏智正覚の命令は最初と同じであった。その後ようやく檀越の寄進で庫は満杯となった。その後徽宗皇帝が南に行幸し、宏智正覚は僧1,000人を率いて出迎えた。この時普照寺の僧が道の東側を埋めつくし整然としていたため、徽宗は不思議なことと思い、宏智正覚を招いて仏法を親しく受けた。そのこともあって、普照寺の寺地半分を占めていた神霄宮は寺に返還された(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
靖康2年(1127)4月23日、舒州(安徽省信寧県)太平興国禅院の住持となり(『宏智禅師広録』巻第1、舒州太平興国禅院語録)、また江州(江西省)円通崇勝禅院・能仁寺の住持となるが、能仁寺にて一切の職を辞し、雲居山(江西省南康府)に遊んだ。その時圜悟克勤(1063〜1135)が住持であったが、長蘆山洪済寺の住持が空席で、かつ大衆が宏智正覚を住持となることを希望していることを知ると、安定郡王趙令衿(?〜1158)とともに尽力して、宏智正覚を長蘆山洪済寺の住持とした(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。建炎2年(1128)9月15日に入院した(『宏智禅師広録』巻第1、真州長蘆崇福禅院語録)。
しばらくもしないうちに、知事が食糧の欠乏を報告してきたが、宏智正覚は答えなかった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。少し前になるが、靖康元年(1126)に宋は金に滅ぼされ、北方の金と南方の南宋が対峙することとなる。さらに南宋を征服しようとする金の侵攻が激化しており、戦火は江南におよび、各地は混乱に陥った。その中、李在(?〜1130)が叛乱をおこし、その軍は長蘆山洪済寺に迫っていた。李材はもと韓世忠(1088〜1151)配下の部将であり、建炎3年(1129)2月、高郵を拠点として叛乱をおこし(『宋史』巻25、本紀第25、高宗2、建炎3年2月癸酉条)、楚州に侵入した(『宋史』巻245、列伝第4、宗室2、濮王允譲伝)。李在の軍は長蘆山洪済寺に侵入し、大衆は恐れおののいたが、宏智正覚は堂上に安座して兵が来るのを待ち、よい言葉で導いたから、李在は頭を地につけ敬服した。そこで兵を指揮して金や穀物を運び込ませ、供養を行なった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
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紹興28年(1158)の「天童宏智老人像賛」(石井修道『宋代禅宗史の研究』〈大東出版社、1987年10月〉口絵所載)。宏智正覚の影像。ここでは掲載していないが、上部には大慧宗杲の賛がある。
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宏智正覚 そのA 〜天童寺の拡大〜
建炎3年(1129)秋、長江を渡って明州(寧波)に到り、海を渡って普陀山の観音を礼拝しようとした(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。普陀山に赴いた理由は、戦火を避け兄弟子の真歇清了が住持を務める宝陀寺を訪ねる目的があったという(『天童山志』巻之8、表貽攷、安定郡王趙令衿勅諡宏智禅師後録序)。道は天童山景徳寺に経由しており、たまたま住持がいなかったため、天童寺の大衆は宏智正覚が来るのを知って、ひそかに郡に知らせた。宏智正覚はひそかに伝え聞き逃げ去ったが、大衆に囲まれて通行することができず、やむをえず住持就任の要請を受けた(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。宏智正覚が天童寺にて上堂し、正式な天童寺住持となったのは、同年11月2日のことであった(『宏智禅師広録』巻第4、明州天童山覚和尚上堂語録)。
しばらくもしないうちに、金軍が天童寺の境内を侵入し、諸寺院は避難のために大衆を方々に行脚させて空寺としたが、宏智正覚ひとり、誰が来ても拒むことはなかった。ある者が非を説いたが、宏智正覚は「明日に金軍が来れば、寺は空っぽになってしまうだろうさ。だが今幸いにも私がいる。大衆とともにいないわけにはいかない」と答えた。やはり金軍は天童寺に侵入したが、塔の頂上にのぼってみると、何かがいるようであったから、遂に金軍は撤退し、髪の毛一本たりとも掠奪することはなかった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
宏智正覚は以後30年にわたって天童寺の住持を務めたが、その当時の天童寺の様子を侍御史の王伯庠(生没年不明)は以下のように述べている。
「かつて師(宏智正覚)を訪ねるために小白(天童寺がある太白山と対する山)から舟を捨て、松並木が20里ほど、すぐれた楼閣が山々の中にそびえ立っている。今まで見たことがない光景に驚いた。門を入れば禅僧が大勢、黙々と坐禅していた。私(王伯庠)は近頃上司のお供で襄漢・江西・南岳を遍歴したが、今までこのように盛んなところはなかった。これを長老や尊宿に訪ねてみると、皆がいうには“天童寺は昔多くても200人に満たなかったが、師(宏智正覚)が来てからは四方より学者が先を争って集まり、まるで動物が鳳凰や麒麟を尊敬したり、多くの河が大海に注ぐように、今では1,200人を超えている”と。来る者はますます多くなり、食事を炊く釜が空っぽになろうとしていた。食事を司る者が心配してどうしていいかわからず、“僧への食糧が底を尽きようとしていますが、いかがいたしましょうか”と聞くと、師(宏智正覚)は笑って、“人にはそれぞれ口があるのだから、お前が心配することではないだろうさ”と言い終わらないうちに、門番が報告した。“嘉禾(福建省厦門市)の銭氏が米1,000石を岸におろしています”と。」(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
このように天童寺の規模は宏智正覚が住持となってから急速に拡大していった。これは宏智正覚の名声を聞いた雲水が天童寺に大量に集まったためであるが、そのため宏智正覚は天童寺の堂宇増設と財政難に取り組む必要があった。
天童寺の僧侶がすでに多くなったから、宏智正覚は自らの意志で大工に指示して一堂を造り、僧1,200人をすべて収容した。その建物は壮麗で深遠、実に始めて見るようであった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。宏智正覚が自ら「僧堂記」に述べるところによると、住山して4年すると方々より多くの雲水が訪れ、収容が不可能となった。それでも雲水は「柏の庭に坐禅して泊ります」というほどであった。そこで浄財を募って堂を増設することとし、林を切り開く斧の音は谷に響いた。一年もすれば礎石が並び、柱が建って梁を載せ、瓦で覆われた。前後は14間で、縦200尺(60m)、広さは16丈(39m)であった。紹興2年(1132)冬に起工し、紹興4年(1134)春に完成した。総工費は紙銭15,000にのぼった。冬は温かく夏は涼しく、昼には香を焚き夜には灯火を点した(『宏智禅師広録』巻第8、僧堂記)。
さらに紹興4年(1134)には三門を建設した(『天童山志』巻之2、建置攷、宋、紹興4年条)。この時、蜀(四川省)出身の僧が陰陽家の言うところによって「この寺がいまだに有名とならないのは、山川は広大であるのにもかかわらず、比べて建物はそれに見合っていないからです。壮麗な層楼を建設して淑霊の気をおこせば、この山の名前は時代に輝くでしょう」と述べ、宏智正覚もその通りであるとしたから、門を重層(2階建)として幅を長く伸ばし、上に千仏を鋳造して安置した(『攻キ集』天童山千仏閣記)。三門の広さは「30楹(えい)」に及んだという(『天童山志』巻之7、塔像攷、勅賜妙光塔)。「楹」は柱の本数のことで、のちに栄西の援助によって三門は拡張されたが、それでも「大宋諸山図(支那禅刹図式)」によると、柱数は32本あったから、宏智正覚の時代の規模を踏襲していたことが知られる。なお栄西の援助によって再建された三門は桁行7間、梁間3間の規模であった。
宏智正覚は天童寺の財政難を解決するため、二つの山の間の海潮を塞き止めて田畑とした。これによって歳入は以前の3倍となり、大衆が必要とする物はすべて備わった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。また天童寺はそれまで水を遠くから得ていたが、宏智正覚は岩を砕いて用水路をつくり、近隣の子や母も水を飲み、厨房や浴室にまで行き渡った(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。これは人為的なことであったが、他人がにらみつけてようとも手出しが出来なかった。宏智正覚はその間にて悠々として、日々指導を行なった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
紹興8年(1138)9月、勅旨によって霊隠寺住持となり、まさに行こうとしたところ、大衆が悲しみ号泣した。10月に再度天童寺住持となったが、宏智正覚が天童寺の住持であったことは前後30年に及んだ(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
紹興26年(1156)、阿育王寺の住持が欠員となった。宏智正覚は大慧宗杲(1089〜1163)を推薦して勧進文をつくり、大慧宗杲が阿育王寺住持となることになった(『天童山志』巻之8、表貽攷、安定郡王趙令衿勅諡宏智禅師後録序)。もともと宏智正覚は黙照禅を、大慧宗杲は看話禅を提唱し、双方は激しく意見を対立してきた。宏智正覚は大慧宗杲にむかって「我々二人は年老いてきたが、二人の間を考えてみれば、あなたが唱えれば私は和し、私が歌えばあなたが音頭をとった。もしどちらか先に逝けば、残った方が葬儀を司ることにしよう」といった(『天童山志』巻之8、表貽攷、安定郡王趙令衿勅諡宏智禅師後録序)。
紹興27年(1157)9月、突然四明(寧波)の城内にやって来て、郡の官吏や普段からつきあいがある人達に面会した。また紹興府知事の趙令コン(ごんべん+艮。UNI8A6A。&M035428;)(1096頃〜1163頃)に謁見し、さらに多くの檀越の家を訪問した。まるで別れを告げるかのようであった。10月7日に天童山に戻ったが、食事は普段とは変わらなかった。8日辰巳の刻(午前7〜9時)の間に沐浴して衣を改め、端坐して大衆に別れを告げ、侍者を振り返って筆を持ってこさせ、大慧宗杲に後事を託し、また遺偈を書いた。
夢幻空花。六十七年。 夢幻の空花、六十七年。
白鳥煙没。秋水天連。 白鳥、煙に没し、秋水、天に連なる。
筆を投げ捨てて示寂した。67歳。7日間棺を留めたが、容貌は生きているようであった。大慧宗杲は書簡を夜に受け取って、ただちに天童山に到着した。14日に宏智正覚の遺体を東谷塔に葬った。僧も俗人も、葬送の列は山や谷に満ちあふれ、涙を流して慕わない者はいなかった。宏智正覚が示寂してから、連日雨風が続いていたが、葬送の日のみ晴れ渡り、それが終わると再び雨風となった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
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1920年代の古天童の宏智禅師墓塔(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉105頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。この墓塔は文化大革命の際に破壊された。
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五山制度と天童寺
靖康元年(1126)、宋(北宋)は金軍の南下により、華北一帯を占領されて滅亡した。翌年華南の高宗が即位し、南宋が成立して金と対峙するが、高宗が根拠地としたのが杭州であった。杭州はかつて呉越の首都であり、呉越が仏教を庇護したことから、きわめて仏教が盛んな地となっていた。天童寺が位置する明州(寧波)もまたかつて呉越の領域にあり、非常に仏教が盛んであった。
杭州が南宋の首都(行在)となることにより、南宋の仏教は自然杭州やその周辺を中心に動くことになる。南宋第2代皇帝の孝宗(位1162〜89)は仏教の熱心な帰依者であり、霊隠寺の拙庵徳光(1121〜1203)を宮中に呼び寄せて問答を行なったりしていた(『古尊宿語録』巻第48、仏照禅師奏対録)。このような朝廷と禅宗の関わりは、南宋における国家仏教のあり方を一段と変化させることになる。北宋において発達した十方住持制は、国家による寺院の統率と寺格の序列化に寄与したが、序列化は南宋においてさらに一段と等級化されるにいたる。これが五山十刹制度である。
五山寺院の伝説によれば、禅僧は隋唐以来、定住するところはなく、ただ律院(律宗寺院)に場所を借りて居住していたが、百丈懐海(749〜814)の時代になって禅寺を建てて規矩を定めたという。宋代には禅寺は盛んとなったが等級はなく、ただ都の寺院を首としていただけであったが、南宋代には宰相史弥遠(1164〜1233)の奏上により始めて江南に五山十刹の制度が定められたといい(『宋文憲公護法録』巻第1之上、天界善世禅寺第四代覚原禅師遺衣塔銘)、官署のように小院の住持を経た者が次第に昇進し、五山寺院の住持となる制度を築き上げたという(『宋学士文集』巻第40、翰林別集巻第10、住持浄慈禅寺孤峰徳公塔銘)。
これにより、杭州・明州(寧波)の大寺院を中心に序列化がなされ、官寺晋山(住持となること)の序列も五山を頂点としてなされるようになる。五山の序列の上の頂点は径山寺(後に天界寺に替る)であるが、天童寺は慈航了朴(生没年不明)が住持であった時代に、四明(寧波)の大寺院というだけではなく、東西数千里に渡って第一の寺院とみなされるようになったというから(『攻キ集』巻57、天童山千仏閣記)、天童寺は五山第3位に列班されながらも、一種独自の宗風が育成される場となり、五山の一つでありながらも、反俗的な住持者の好む山となり、天童寺を経て霊隠寺や径山寺に昇住する禅者はきわめてまれとなった(石井1987)。
五山寺院の禅僧は、まず幼少時に寺に入って童行(ずんなん)として見習い修行を行ない、やがておよそ15歳ほどで得度・受戒し、住僧の侍者となって禅寺における基本を身につける。成長すると大蔵経の管理を行なう蔵主(ぞうす)となり、経典について学ぶようになる。さらに文章を書く訓練が必要とされるため、書記に就任する。禅僧の中には科挙の落第生が相当いたことから、禅林では四六駢儷文など典故のある語句を繁用する華美な文辞が盛行したため、文章の訓練が必要であった。書記をへて、僧堂を統括する首座(しゅそ)となる。僧堂は若輩・新参の者がいる後堂と、古参の者がいる前堂に分かれる。書記をへた者はまず後堂首座(第二座)となり、次第に僧堂歴が長くなると前堂首座(第一座)に任じられる。
このように首座となると、法堂の須弥壇にのぼり住持にかわって説法を行なう秉払(ひんぽつ)を行ない、住持就任資格を得なければならない。これが終わると住持は謝上堂を行ない、謝語(じゃご)を述べる。その後秉払を行なった者は住持のもとに赴き、その謝語を書いてもらい、これにより住持就任資格を得た。これを得た者は官寺住持となることができたが、空白の住持職と檀越の招きがなければ住持となることができず、ましてや五山制度の甲刹(かっさつ)・十刹・五山にいたっては尚書省から箚(とう)が発給されて、はじめて住持となることができたのである。実際、無学祖元(1226〜86)も景定4年(1263)に霊隠寺で秉払しているが、実際甲刹寺院の真如寺住持となったのは6年後の咸淳5年(1269)のことであった(『仏光国師語録』巻第9、用潜叟覚明状、無学和尚行状)。また基本的には甲刹の住持をへて十刹寺院、そして五山寺院の住持となるのであるが、十刹住持とならず甲刹からいきなり五山の住持になる者も多かった。このように禅僧であっても五山寺院の住持となるのは極めて少数の、一握りの者のみが就任できたのである。
これら住持は西班と呼ばれる修行僧集団の法階であり、西班には他に来賓を接待する知客(ちか)、鐘をたたく知殿(ちでん)、浴室や風呂を管理する知浴(ちよく)がいるが、一方で寺院運営に携わる東班という集団もいた。禅僧の中には科挙の落第生が相当いたことから、寺院を国家に模した運営を行なっており、この西班と東班は住持を頂点に置き、それぞれが宋代の官僚制度を模した職分を担った。東班は下位から、食事賄いをつかさどる典座(てんぞ)、宿直や寺院の営繕をつかさどる直斎(しっすい)、寺内の治安維持や仏事の際に経典の題名や初句を独誦する維那(いのう)、財政監査をつかさどる監寺(かんす)、財政や荘園管理をつかさどる都寺(つうす)、東班全体をつかさどる副住職格の副寺(ふうす)がいた。天童寺では僧堂における単は、前堂では僧堂を囲むようにして単があり、その内部に南北2列、東西6列づつ単があったが、それとは別に西班・東班の法階を有する者は、別に単を有しており、僧堂の東側に北から直斎・典座・侍者・維那・副司(副寺)・副司・監司・都司、途中に間隔を置いて、知客・知浴・知殿・寮元・堂主・浄頭が坐していた(「大宋諸山図」天童寺配置図)。
南宋寺院の頂点である五山寺院となった天童寺であるが、もとは小院にすぎず、宏智正覚(1091〜1157)が住持であった時代に飛躍的に拡大していた。そのため寺僧の数は1,200人という莫大なものとなり、これによって天童寺は雲水の食事を賄うことができず、財政難となっていた。そこで宏智正覚は二つの山の間の海潮を塞き止めて田畑とし、歳入を以前の3倍とした(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。南宋の宝慶年間(1225〜27)時点での寺領荘園は常住田が3,284畝、所有する山林が19,950畝におよんだ(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。なお同じく明州(寧波)郊外に位置した阿育王寺の寺領荘園は、常住田が3,895畝、所有する山林が12,050畝であったが(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、阿育王山山広利寺)、南宋初頭には径山寺と阿育王寺の寺領荘園が、国家経済を阻害するほど莫大なものであるとして、問題視されていた(『建炎以来朝野雑記』巻16甲集、財賦3、僧寺常住田)。それでも寺僧の食糧確保は既存の寺領荘園ではまかなえないことも度々あり、経営に支障をきたしていた。
明州(寧波)は当時の貿易港であったが、その関係上、多くの檀越を獲得できたらしい。とくに海上貿易が盛んであった福建は、五山の禅院の檀越として有力な地であった。福建は唐代までは仏教が浸透しきれていなかったが、五代十国時代にここを支配したビン(もんがまえ+虫。UNI95A9。&M041315;)の時代(909〜45)には、歴代の国王が仏教に帰依したこともあって、寺院の数が急激に増加していた。その後南宋期には福建の檀越獲得に、多くの禅僧が躍起となっていた。とくに大慧宗杲(1089〜1163)は泉州小豁雲門庵など、福建を拠点としていた時期もあり、多くの檀越を獲得し、さらに福建を離れた後も書簡で彼らを指導した。
法嗣の拙庵徳光も、天寧寺が焼失するや、再建の資金集めのため泉州まで航海して、寄進を集め、それによって寺院を再建した(『明州阿育王山続志』巻第11、仏照光禅師塔銘)。一方で大慧宗杲が「黙照邪師」(『大慧普覚禅師語録』巻第28、答宗直閣)、「近日の叢林、無鼻孔の輩、これを謂いて黙照というはこれなり」(『大慧普覚禅師語録』巻第29、答厳教授)と厳しく警戒している黙照禅の巨匠宏智正覚も福建に檀越を獲得しており、雲水の増加で困窮した天童寺に米1,000石を運んで救済したのも嘉禾(福建省厦門市)の銭氏という檀越であった(『宏智禅師広録』巻第9、勅諡宏智禅師行業記)。
天童寺は雲水1,200人を号したが、事実がどうかは不明である。陸游(1125〜1210)が記すところによると、四明(寧波)には天童寺・阿育王寺・雪竇寺が名刹として知られており、ある日新任の太守が天童寺の宏智正覚に「寺に何人の僧がいるか」と聞くと「千五百」と答え、同じ質問を阿育王寺の無示介ジン(ごんべん+甚。UNI8AF6。&M035739;)(生没年不明)に聞くと「千僧」と答えていた。最後に雪竇寺の行持(生没年不明)に聞くと手をこまねいて「120」と答えた。太守は「三刹の名声はともに等しいのに、僧がこのように同じではないのか」と聞くと、行持は再度手をこまねいて「私の寺は実数ですので」と答え、太守は手を叩いて大笑いしたという(『老学庵筆記』巻3、僧行持)。寺僧数の誇称も檀越獲得のための方便とみるべきなのかもしれない。
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天童寺仏殿(背後から)(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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南宋における天童寺
宏智正覚が示寂すると、大慧宗杲は宏智正覚の法嗣法為(生没年不明)を天童寺住持に推挙している(『天童山志』巻之8、表貽攷、安定郡王趙令衿勅諡宏智禅師後録序)。思想的対立がありながらも、宏智正覚と大慧宗杲の関係は良好であり、紹興26年(1156)に阿育王寺の住持が欠員となった際に、宏智正覚は大慧宗杲を推薦して勧進文をつくり、同寺の住持としていた(『天童寺志』巻之8、表貽攷、安定郡王趙令衿勅諡宏智禅師後録序)。これと同じように大慧宗杲は宏智正覚の法嗣を天童寺住持に推挙したのである。臨済宗楊岐派大慧下と曹洞宗の間で互いに住持を推挙する習慣は、長翁如浄(1162〜1227)の時代まで続いていた。
天童寺は宏智正覚が入寺することにより復興し、しかも規模は以前よりもはるかに拡大した。天童寺は宏智正覚が入寺することによって、一種独自の宗風が育成される場となり、五山の一つでありながらも、反俗的な住持者の好む山となり、天童寺を経て霊隠寺や径山寺に昇住する禅者はきわめてまれとなった(石井1987)。それらの禅僧として大休宗カク(王へん+玉。UNI73CF。&M020926;)(1091〜1162)・応庵曇華(1103〜63)・密庵咸傑(1118〜86)らがあげられる。
大休宗カクは和州烏江(安徽省安慶道和県)の人で、俗姓を孫氏といった。宏智正覚と同じ年に産まれた。代々儒教を生業とする家に生まれたが、出家を願っており、16歳で父母に出家を願い出た。父母は当然止めたが、彼の意志を翻すことはできなかった。真州の定山真如寺の住持徳雲(生没年不明)のもとに行き、18歳の時具足戒を受戒した。その後長蘆山(江蘇省儀征県)洪済寺の祖順道和(1056〜1123)の名声が江南に轟いていたから、大休宗カクは祖順道和のもとに赴いて拝礼した。祖順道和は彼とともに語ることを喜び、侍者とした(『攻キ集』巻110、天童大休禅師塔銘)。
祖順道和が長蘆山洪済寺の住持であった時、真歇清了(1088〜1151)が第一座(首座)に任じられた。大休宗カクは真歇清了のもとに参じて機縁を得た。宣和年間(1119〜25)に真歇清了が長蘆山洪済寺の住持となると、大休宗カクは第一座(首座)に任じられた。建炎元年(1127)に蒋山に行き、慈受懐深(1077〜1132)に参じたが、戦乱を避けて浙江に移り、真歇清了に従って普陀山の宝陀寺にいた。象山(瑞雲山)延寿院住持職が空席となったため、紹興2年(1132)に開堂している。なお大休宗カクは真歇清了の法嗣となった。3年後に翠山の聞庵嗣宗(1085〜1153)のもとに到ったが、仇ヨ(余+心。UNI6086。&M010632;)(?〜1153)が大休宗カクを香山智度寺の住持とし、大休宗カクはそこに18年留まった。紹興25年(1155)には雪竇寺の住持となった(『攻キ集』巻110、天童大休禅師塔銘)。
紹興29年(1159)天童寺住持に招聘された。先々代の宏智正覚の風に倣って規式に従い、改めることがないよう注意していた。そのため道俗(出家者も俗人も)ますます大休宗カクを慕った。湖心寺の住持弁□□宗は大休宗カクと生まれた年月が同じであったが、紹興32年(1162)8月上旬、弁□□宗が突然遺書を持ってきた。大休宗カクは体のどこも悪くなかったため、遺書を笑って「年が同じなのだからもし彼が逝ってしまったのだとしたら、私もまた逝ってしまうだろうさ」と言っており、翌日客を迎えることは普段通りであった。晩に小参(住持が随処で衆僧に対して説法すること)を行なおうとしたところ、侍僧はこれが最期の説法になるのではないかと思い、僧侶を招集した。彼らも何かあるのではないかと思い、結果寺をあげての大法会となった。大休宗カクは従容として説法し、多く別れの言葉を述べた。法会が終わると方丈に戻り、足を洗って坐禅し、結跏趺坐して示寂した。72歳(『攻キ集』巻110、天童大休禅師塔銘)。
応庵曇華(1103〜63)は俗姓を江氏といった。幼い時に世を厭い出家を志した。17歳の時故郷の東禅寺にて出家し、翌年具足戒を受けて僧となった。その翌年には行脚に出て、随州の水南寺の浄厳守遂(1072〜1147)に参じて指導を受けた。その後湖南・湖北を遍歴し、江東・江西の名僧のもとを訪れたが機縁は適わなかった。さらに圜悟克勤(1072〜1147)の指導を受け、圜悟克勤が蜀(四川省)に赴くことになると、彼の指示によりその法嗣虎丘紹隆(1077〜1136)に師事し、法嗣となった(『応庵曇華禅師語録』附、塔銘)。
応庵曇華は妙厳院(浙江省)の住持となり、他に衢州(浙江省)明果院、報恩孝行寺などの住持を務めた(『応庵曇華禅師語録』附、塔銘)。紹興31年(1161)9月に天童寺住持就任の要請を受け、天童寺住持となっている(『応庵曇華禅師語録』巻第5、平江府報恩光孝禅師語録)。病に罹り、示寂に臨んで遺偈を求められたが、「私はかつて方々でこの所作を笑っていたのに、どうして自分でこれをするというのだろうか」といって拒絶した。隆興元年(1163)6月13日に示寂した。61歳(『応庵曇華禅師語録』附、塔銘)。法嗣に密庵咸傑がいる。
次に天童寺住持となったのが慈航了朴(生没年不明)である。無示介シン(ごんべん+甚。UNI8AF6。&M035739;)(1080〜1148)の法嗣である。福建の人で、明州の蘆山に住し、その後阿育王寺に移り、さらに海上の万寿寺にいた。応庵曇華が示寂すると太守は慈航了朴の道風を聞き、天童寺住持とした。住持となること22年に及び、孝宗の第2皇子の魏恵憲王ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(1146〜80)や史浩(1106〜94)がその道徳を慕った(『叢林盛事』巻上、慈航朴禅師伝)。慈航了朴が住持であった時代に、天童寺の歳入は増益し、これ以降、天童寺はただ四明(寧波)の大寺院というだけではなく、東西数千里に渡って第一の寺院とみなされるようになったという(『攻キ集』巻57、天童山千仏閣記)。淳熙5年(1178)、孝宗はみずから筆をとって「太白名山」の字を揮毫し、慈航了朴に与えている(『宝慶四明志』巻第13、寺院、禅院22、天童山景徳寺)。後にこの四大字は石刻されており、その拓本は円爾(1202〜80)が日本に請来して東福寺に所蔵される。
密庵咸傑(1118〜86)は俗姓を鄭氏といい、福州福清の人であった。母はかつて霊山の老僧がその家に入ってくる夢をみて、それによって密庵咸傑が生まれたという。幼い頃から英明で普通とは異なっていたが、俗世を嫌っており、出世したいと思っていた。成人すると受戒して僧となったが、遊行して名僧のもとを遍参した。応庵に参じ、厳しい指導を受けたが、心は怠けることなく、ついに印可を受けた。四明の天童寺に迎えられて首座として分坐説法した。その後祥符寺・蒋山・華蔵寺に行って禅宗を宣揚した(『密庵禅師語録』塔銘)。
淳煕4年(1177)、宣旨によって径山寺の住持となり、選徳殿にて孝宗に謁見し、仏法の大要を問われた。霊隠寺にて開堂したが、この時勅旨が密庵咸傑のもとに遣わされたため、道俗(俗人も僧侶も)はみな安堵した。淳熙7年(1180)径山寺から霊隠寺に移ったが、この時孝宗はみずから宸翰によって法要を尋ね、また侍臣を遣わして『円覚経』中の四病を問われたから、密庵咸傑は実語をもって返答した。孝宗の帰依はますます篤くなった。淳熙11年(1184)老いによって天童寺に戻ったが、淳熙13年(1186)6月に俄に発病し、12日に結跏趺坐して示寂した。69歳。天童寺の東に葬られた(『密庵禅師語録』塔銘)。
海門師斉(生没年不明)は阿育王寺の拙庵徳光(1121〜1203)の法嗣で、法系は臨済宗楊岐派大慧下に属する。台州瑞巌寺の住持であったが、勅旨を賜り天童寺住持となった。入寺の際に童行(ずんなん。幼年で寺に入った得度していない者で、雑用見習い)とともに香炉を捧げてそれぞれの建物を廻ったが、方丈の仏前にて海門師斉は「明朝に『大方広仏華厳経(八十華厳)』一部を読経して真如に回向します」といい、方丈の門から出ると世主妙厳品(華厳経の序品)を読経しながら方丈の周囲を廻った。童行は衆僧にそのことを告げたが、衆僧は怪しんで信じなかった。海門師斉は衆僧81人に華厳経を一巻づつ持たせ、海門師斉が法座上にいるときに一巻づつ読経させた。衆僧の疑いは晴れ、海門師斉が華厳大菩薩の再来であることを知ったという(『増集続伝燈録』巻第1、四明天童海門師斉禅師伝)。
『正法眼蔵随聞記』には海門師斉のものとして以下の説話があげられる。
宋の国の海門禅師という方が、天童山の住持であったとき、その門下に、元首座という僧があった。この人は仏法を会得し、道を悟った人であった。その点では、住持よりも、すぐれたほどであった。
あるとき、夜、住持の居室に参上し、香をたき礼拝して、「なにとぞ、私を後堂首座にしていただきたく、お願い致します」といった。
海門禅師は、これを聞いて、涙を流していわれるに、
「お前のように、禅僧たるものが首座長老になりたいなどと願い出るというとは。私は小僧であったときから、そんな話は、いまだかつて聞いたことがないぞ。お前はすでに、道を悟っている。それは、昔からのきまりに照してみても、私よりも、すぐれているほどだ。そういうお前が、首座の地位をのぞむとは。昇進したいのか。なりたいというなら、前堂にも、長老にも、してあげよう。だが、お前でさえ、こうなのだから、お前以外の、まだ道を悟らぬ僧たちのことが、思いやられる。仏法が、いかに衰え、すたれてきたか、よく判ることだ」こういって、涙をながして、なげき悲しまれた。
そこで、その僧は大いに恥じ入って、願いをとり下げたのであるが、海門禅師は、その僧に、あえて首座の地位をお与えになったのである。その後、元首座は、このことをありのままに書きとめて自分の至らなかったことを公表し、師のすぐれた言葉を世に広く知らせたのであった(『正法眼蔵随聞記』巻4ノ5、宋土の海門禅師。山崎正一全訳注『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉199-200頁より引用転載)。
海門師斉の示寂年はわかっていない。天童寺の西崖の弁山禅師の塔の南を塔所(墓所)とした(『天童寺志』巻之7、塔像攷、海門斉禅師塔)。
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天童寺仏殿内部(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。仏像の金箔張りが行なわれている。
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栄西と千仏閣
宋代には多くの日本僧が海を渡り、仏教の教えを求めた。その中には臨済宗を本格的に最初に日本に伝えた明庵栄西(1141〜1215)や、日本曹洞宗の祖である道元(1200〜53)がいる。この二人とも天童寺に大きく関わっている。
栄西は仁安3年(1168)に重源らと入宋しているが、淳熙14年(1187)に再度入宋してインドへ行こうと試みた。ところがインドへの道は南宋と敵対関係にあった北方の金国に阻まれていたから許されず、やむなく天台山に登った。天台山の万年寺には当時虚庵懐敞(生没年不明)が住持となっており、参禅した(『興禅護国論』巻中、第五宗派血脈門)。虚庵懐敞は栄西との関係史料のみにあらわれる禅僧であって、詳細なことはわかっていないが、雪庵従瑾(1117〜1200)の法嗣である。
また逆に虚庵懐敞が密教について栄西に質問する場面があり、栄西はこれに応じて潅頂法を授けている(『金剛頂宗菩提心論口決』奥書)。栄西は万年寺の三門を芝券300万にて再建している(『洛城東山建仁禅寺開山始祖明庵西公師塔銘』)。淳熙年間(1174〜89)には大旱魃があり、郡は栄西に祈雨の祈祷を要請した。栄西の身から千の光が輝くと天より大雨が降ったという。そのため「千光」と称されたという(『洛城東山建仁禅寺開山始祖明庵西公師塔銘』)。
淳熙年間(1174〜89)の末、虚庵懐敞が天童寺住持に就任すると、栄西もこれに従った。紹熙2年(1191)秋、栄西は帰国のため虚庵懐敞のもとを辞すると、栄西を法嗣とし、これを見送った(『元亨釈書』巻第2、伝智1之2、建仁寺栄西伝)。
ところで天童寺には千仏閣(三門)が長い年月のため破損しており、倒壊の危機に瀕していた。しかし従前の規模のような建築とするには困難が多く、再建をみな断念していた。虚庵懐敞はもとの建物の規模を上回る規模での再建を志していた。栄西は在宋中、虚庵懐敞の志を聞いて、「私はかたじけなくも国王のお側付きとなっています。帰国したら良材を送って手助けをしましょう」と言った。栄西は帰国後2年で大量の大木を集め、海に浮かべ、船にはさんで宋に送った。大木は長江から天童寺付近まで運送し、そこから手車で天童山に運んだ。虚庵懐敞は笑って「我が事はおわれり」と言った。ここに大工を集めて柱を並べること40本、大半は日本から運んだ木材であり、ほかは境内の山から伐採したものであった(『攻キ集』巻57、天童山千仏閣記)。
千仏閣(三門)は紹熙4年(1193)9月21日に着工して3年後に完成した。工費は銭20,000緡を費やした。桁行7間、三層構造で、正面14丈(42m)、高さ12丈(36m)、梁間は84尺(25m)となり、三門を設け、天井は藻井(そうせい。天井装飾で、組物を四方→八角形→円形とするもの)とし、三層目は地上から7丈(21m)のところにあって、内部には千仏を安置した(『攻キ集』巻57、天童山千仏閣記)。
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「大宋諸山図」うち「天童寺配置図」(関口欣也『名宝日本の美術 第13巻 五山と禅院』〈小学館、1983年4月〉132頁より一部転載)。「大宋諸山図」には東福寺本と大乗寺本があり、うち「天童寺配置図」は東福寺本で、淳祐7年(1247)から宝祐4年(1256)にかけて編纂されたもの。
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明全と無際了派
栄西が宋より禅宗を持ち込むと、彼の会下にて多くの門人が輩出した。代表的なのが退耕行勇(1163〜1241)・釈円栄朝(?〜1247)である。彼らは入宋しなかったが、栄西門下には実際に入宋した者がいた。それが仏樹房明全(1184〜1225)である。
明全の俗姓は蘇我氏で、伊賀国(三重県)の人であった(『日本国千光法師祠堂記』)。比叡山首楞厳院の僧で、本師は明融阿闍梨(生没年不明)であったように、もとは天台僧であったが(「明全戒牒」道元識語〈永平寺蔵〉)、正治元年(1199)11月8日に東大寺戒壇院にて受戒(「明全戒牒」〈永平寺蔵〉)、その後建仁寺の栄西に師事して禅宗を学んで入宋を志しており、また後高倉院に菩薩戒を授戒した(「明全戒牒」道元識語〈永平寺蔵〉)。
明全が入宋を志した際、明融は重病であり、今にも死のうとしていた。後に弟子の道元(1200〜53)は以下のように語っている。
明融は「私はすでに老病が重く、息をひきとるのも間近かである。お前ひとりにだけ、この老病人を看護し死出の旅路を見とってもらいたいのだ。このたびの渡唐はしばらく思いとどまって、私が死んでから、その思いを遂げるようにしてほしい」と。
そのとき、明全和尚は、同門の友人や弟子たちを集め、相談されて、こういわれた、
「私は幼少のとき、両親の家を出て以来、この師匠に育てられ成長して今日に至った。世間的にいって養育の恩は、まことに重い。また出世間的な法門のこと、大乗・小乗・権教・実教の教えや文言を教わり、因果の道理を知り是非をわきまえ、同輩にもすぐれ名誉を得たことも、また仏法の道理を知って、いま宋に渡り法を求めようとの志を起すに至るまで、一つとして、この師匠の恩でないものはないのだ。しかるに師匠は今年、老いこんで重病の床に臥しておられる。あといくばくもないと思われる。今、別れては、再びお目にかかることもできまいと思う。そこで、無理にも私を引きとめようとなされているのだ。その仰せには背きがたいものがある。いま、自分の身命をかえりみず、宋に渡り法を求めるのも、菩薩の大慈悲の行為、生きとし生けるものを救わんとの念願に出ずるものである。かの師匠の仰せにそむいて宋国に行くのがよいか悪いか。その道理はいかに。皆の衆、それぞれ、思うところを述べてほしい」 と。
そのとき、人々みな次のようにいった。
「今年入宋なさることは取りやめた方がよい。師の老病はもう先が見えている。もうじき必ずお亡くなりになろう。今年は取りやめにして、来年行くことにするのが一番よろしい。そうすれば、師匠の仰せにもそむかず、師の重恩にも報いられよう。今一年や半年、入宋がおくれたからといって、何の差し支えもないのだ。師弟の情誼にももとらず、入宋の望みもかなうわけである」と。
私(道元)は末席にいたが、そのとき、申し上げた、「仏法の悟りは、いまは、このくらいでよい、とお考えであるならば、おとどまりなさるのがよろしかろうと存じます」と。
先師明全和尚はいわれた、「そのとおりである。仏法修行の道は、ここまでくれば、まずはよかろうと思う。たえず、このようにして努めてゆけば、迷をはなれ悟りを得ることができないことは、よもやあるまいと思う」と。
そこで私は申し上げた、「そのようなわけでしたら、おとどまりなさるのがよろしいでしょう」と。
ところで先師明全和尚は、皆の者が論じ終わってから、いわれた、「おのおの方の御評議の結果は、皆、とどまるのが道理ということになった。私の考えは、ちがう。今回、行くのを中止したとしても、どうあっても死ぬべき人ならば、それで命がのびるわけのものでない。また私がとどまって看病し、身のまわりの御世話をしたからとて、お師匠様の苦しみがなくなるわけのものでない。また御臨終のときに、私が御世話して往生よろしきよう、取りはからい、お勧めしたところで、生死の輪廻から離れられるという道理もない、ただお師匠様としては、一応は自分のいうことを聞いてくれたといって喜ぶだけのことでは、なかろうか。こういうわけであるから、いま入宋を思いとどまるのは、迷いから離れ、悟りの道を得るためには、一切無用である。そんなことをすれば、お師匠様としては、かえって弟子の求法の志をさまたげることになって、罪業の因縁となることであろう。ところが、これと反対に、入宋求法の志をとげて、わずかでも悟りを開いたならば、一人の煩悩を懐いている人間の迷いの情にはそむいても、やがて多くの人が悟りの道を得る縁ともなるであろう。その功徳がもしすぐれているなら、またお師匠様の御恩に報いることができるというものだ。たとえ海を渡っている間に死んで目的が遂げられなかったとしても、求法の志を懐いて死ぬのだから、あの玄弊三蔵法師がインドまで法を求めて赴いたのに、いささかなぞらえることもできよう。一人の迷える人のために、失いやすい時をむなしく過すようなことは、み仏のみこころにかなうわけがない。よって、このたびの入宋は、きっぱりと決意した」 こういわれて、ついに宋に行かれたのだ(『正法眼蔵随聞記』巻6ノ13、先師全和尚入宋せんとせしとき。山崎正一全訳注『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉303-306頁より引用転載)。
明全は師の懇望を振り切り、貞応2年(1223)2月26日、建仁寺を出発して宋に向かった。この時明全は40歳であった(「明全戒牒」道元識語〈永平寺蔵〉)。こうして入宋したが、同行した道元によると、「往事、入宋のとき、船中で下痢をしたが、そのときたまたま嵐になって、船中大さわぎになり、それで病気どころではなくなり、すっかり忘れて、下痢もとまってしまった」(『正法眼蔵随聞記』巻6ノ16、大恵禅師あるとき。山崎正一全訳注『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉316頁より引用転載)と述べているように、入宋の航海は嵐となったらしい。
明全は最初、明州(寧波)の律寺である景福寺に入り(「明全戒牒」道元識語〈永平寺蔵〉)、その後天童寺に入って楮券(紙幣)1,000緡を諸庫に喜捨し、栄西の忌日である7月5日に冥飯を設けた(『日本国千光法師祠堂記』)。
この当時天童寺の住持であったのは無際了派(1149〜1224)であった。無際了派は建安(福建省)の人で、俗姓は張氏。はじめ密庵咸傑(1118〜86)の門下にいたが、阿育王寺の拙庵徳光(1121〜1203)の法嗣となった(『枯崖和尚漫録』巻上、慶元府天童無際派禅師伝)。法系は臨済宗楊岐派大慧下に属する。すなわち前述の海門師斉(生没年不明)の同門ということになる。のちに道元は拙庵徳光が無際了派に与えた嗣書を閲覧しているが、そこには「了派蔵主は威武の人で、今は我が子となった。徳光は径山杲(大慧宗杲)に従い、径山は夾山勤(圜悟克勤)を嗣ぎ、勤は楊岐演(五祖法演)を嗣ぎ、演は海会端(海会守端)を嗣ぎ、端は楊岐会(楊岐方会)を嗣ぎ、会は慈明円(慈明楚円)を嗣ぎ、円は汾陽照(汾陽善照)を嗣ぎ、照は首山念(首山省念)を嗣ぎ、念は風穴沼(風穴延沼)を嗣ぎ、沼は南院ギョウ(偶−にんべん+頁。UNI9852。&M043599;)(南院慧ギョウ)を嗣ぎ、ギョウは興化弉(興化存弉)を嗣いだ。弉は高祖臨済の長嫡である。」とあり、裏打ちした白絹に書かれており、表紙は赤い錦、軸は玉で、全長9寸(270cm)あったという(『正法眼蔵』第39、嗣書)。このことから無際了派が拙庵徳光の法を嗣いだ時には阿育王寺の蔵主(ぞうす。禅寺で経蔵をつかさどる役職)であったことが知られる。
無際了派が天童寺の住持であった時、天童寺の首座(しゅそ。修行僧の首席者)は智明、都寺(つうす。禅寺の寺務を統轄する役)は師広であった(「明全戒牒」道元識語〈永平寺蔵〉)。明全は無際了派のもとで参究していたが、無際了派自身が病にかかり、上堂して大衆に辞世の語を残し、方丈にて端座したまま示寂した。76歳(『枯崖和尚漫録』巻上、慶元府天童無際派禅師伝)。無際了派の遺書は当時浄慈寺の住持であった長翁如浄(1162〜1227)のもとに送られ、如浄は上堂している(『如浄和尚語録』巻上、再住浄慈禅寺語録、上堂)。
明全は在宋3年目の宝慶元年(1226)5月18日、俄に病にかかり、同月27日辰刻(午前7時)に天童寺了然寮で示寂した(「明全戒牒」道元識語〈永平寺蔵〉)。遺体は荼毘に付され、道元が帰国の際に天童寺の祠に石刻し、遺骨を日本に持ち帰った(『日本国千光法師祠堂記』)。
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天童寺仏殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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1920年代の天童寺鎮仏殿(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉102頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。
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道元が見た禅林生活
嘉定16年(1223)、明全に従って宋に渡った道元は、しばらく四明(寧波)の港に停泊した船中で時を過ごした。このとき中国の風習を多く見ている。
同年4月に諸山諸寺をめぐっていたが、歯をみがく習慣がないことに仰天しており、楊枝で歯の汚れをとる方法を問いただしてみると、相手はあわてて顔色を変えたという。そのため現地の僧も俗人も2・3尺(60〜90cm)離れていても口臭が非常に臭いと述べている。また道元は一部の者が馬の尾を切って牛の角の先に植えた歯ブラシのようなで歯を磨くことを見聞しているが、不浄のもので僧は用いるべきではないとし、もともとは靴磨やヘアブラシの用途として用いるもので、これで歯を磨く者はほとんどいないと述べている。逆に宋では顔を洗う習慣があるのに対して、日本では顔を洗う習慣がないため、こちらは宋の習慣を称賛している(『正法眼蔵』第50、洗面)。
さら明州(寧波)において阿育王寺の典座との出会いによって、中国における禅宗の様相を知ることができた。道元は『典座教訓』で以下のように述べている。
また、嘉定16年(1223)5月の夏至のころ(中旬)、私(道元)が明州(浙江省)慶元府の寧波の湊の舟の中で、日本船の船長と話し合っていた折り、一人の老僧がやって来た。年は六十ばかりであった。彼はまっしぐらに私の乗っている船の中に来て、日本から来た人に日本産の桑の実を求め買っていた。私はその老僧を招待して、お茶を差し上げた。そして、その老僧の住んでいる所を尋ねると、阿育王山広利寺の典座であった。老僧は言う、「私は西方の蜀(四川省)の出身である。故郷の蜀を離れてから四十年になる。現在、年は六十一である。これまでに大分方々の修行道場で修行してきた。先年、孤雲権禅師が住持としてつとめられていたころ、阿育王寺を尋ねることができて、そこに入門し、なんとなく空しく日を過ごしていた。ところが、去年の夏安居が終わってから、阿育王寺の典座職に任命された。明日は特別の説法がある『五の日』であるから、なにか修行僧達においしいものを食べさせたいのだが、喜んでもらえそうなものは何もない。おいしい水団を作ろうと思うのだが、材料にする桑の実が手元にない。そういうわけで、こうしてわざわざやってきて、桑の実をさがし求め買い、諸方から集まってきている雲水達に供養しようと思うのです」。私は老僧に尋ねた、「何時ごろ阿育王寺を出てきましたか」。老典座は言った、「お昼の食事がすんでからです」。私は尋ねた、「阿育王寺はここからどれくらいの道のりですか」。老典座は言った、「三十四、五華里(約十九キロメートル)です」。私は尋ねた、「何時ごろお寺に帰られますか」。老典座は言った、「もう桑の実も買ってしまったので、すぐ帰ります」。私は言った、「今日、思いもかけずあなた様にお会いでき、その上、船中でいろいろとお話をすることができました。これはなんとすばらしいご縁ではありませんか。私はあなた様になにかご供養いたしましょう」。老典座は言った、「それはだめです。雲水達の明日の供養を、もし私が管理監督しなかったなら、きっとうまくいかないことでしょう」。私は言った、「阿育王寺には、食事の支度をする同役の方がいないわけではないでしょう。あなた様が一人いなくても、何の不足がありましょう」。老典座は言った、「私はこのように年をとってから典座職をつかさどることになったが、これこそ老人にもできる仏道修行である。どうしてこの典座の仕事を他人にゆずりまかせることができましょう。また、阿育王寺を出てくるとき、一晩の外泊許可をもらってきませんでした」。私はまた典座に尋ねた、「あなた様ほどのお年で、どうして自ら坐禅修行につとめたり、あるいは先人の仏道修行に関する話を読んだりすることをしないのですか。煩わしく典座職などをつかさどって、ひたすらお働きになり、いったいどんなよいことがあるのですか」。老典座はそれを聞いて、大いに笑って言った、「外国からやってこられたお方よ、あなたはまだ弁道修行ということがいかなるものかよく分かっておらず、また文字というものもまだ知っていないようだ」。私は典座のこのような言葉を聞いて、たちまち自ら恥ずかしくなり、また心に深く感じ、ただちに典座に尋ねた、「文字というのはいったいどんなものですか、弁道というのはいったいどんなことですか」。老典座は言った、「今あなたが質問されたところを、もしもうっかり見過ごしたりしなければ、どうして文字を知り、弁道ということをわきまえた人となりないことがありましょう」。私はその当時、この老典座のいう言葉の意味が理解できなかった。老典座は続けて言った、「もしあなたが、私が言ったことを理解できなかったなら、この後いつの日か阿育王寺にやってきなさい。ひとつ文字の道理というものについて、じっくり話し合いましょう」。このようなことを言い終えるや、老典座は立ち上がり、言った、「日も暮れてしまった、急いで帰ろう」。こうしてすぐに帰って行ってしまった(『典座教訓』。中村璋八・石川力山・中村信幸訳『典座教訓・赴粥飯法』〈講談社学術文庫、1991年7月〉76-80頁より一部転載)。
「同じ年(1223)の7月には、私(道元)は正式に天童山景徳寺に寄宿し修行していた。このとき、かの寧波の港の船中で出会った老典座がやってきて、私に面会して言った、「夏の修行期間も終わったので、私は典座の職を退いて、故郷の蜀に帰ろうと思う。ちょうど一緒に修行している仲間が、あなたがここにいるという話をしているのを聞いた。どうして会いに来ないでいられましょうか」。私は踊りあがって喜び、深く心をうたれて、その典座を接待し、いろいろと話をした折り、話題が先日の船中における「文字」と「弁道」についての問答に及んだ。老典座は言った、「文字を学ぼうとする者は、文字の真実の意味を知ろうとするものだ。坐禅修行の道にいそしむ者は、坐禅修行の真実の意味を知ろうと求めるものだ」。私は典座に尋ねた、「文字というものはいったいどんなものですか」。老典座は言った、「一、二、三、四、五」。さらに私は尋ねた、「弁道とはいったいいかなることでしょうか」。老典座は言った、「あまねくこの世界はなにも隠すことなく、すっかりあらわれている」。そのほかの話もいろいろとしたが、今はこれをいちいち記録はしない。私が多少なりとも文字の意味を知り、弁道修行のなんたるかを明らかにすることができたのは、とりもなおさず、かの老典座の大恩のお陰である。これまでの一連のいきさつについては、今は亡き師の明全和尚に話したところ、明全和尚はただただ喜んでくれたことであった」(『典座教訓』。中村璋八・石川力山・中村信幸訳『典座教訓・赴粥飯法』〈講談社学術文庫、1991年7月〉86-87頁より一部転載)。
前述の通り、道元が天童寺に始めて入ったのは嘉定16年(1223)7月のことであった。この地での仏道修行の真摯さに道元は感歎することになる。
道元が長連床(僧堂の中で、修行僧が寝起きする場所)にて修行していたとき、肩を並べている隣の単(僧堂において坐禅のため各個人に割り当てられた区画)の人をみてみると、開静(起床)を知らせる鐘が鳴るごとに袈裟を捧げて頭の上に安置し、合掌恭敬して静かに「大哉解脱服。無相福田衣。披奉如来教。広度諸衆生。」と唱えていた。今までみたことのない光景に接した道元は、歓喜が身に余り、感涙の涙で衣襟をぬらしたという(『(十二巻本)正法眼蔵』第3、袈裟功徳)。
昔、天童山の書記の役位にあった道如上座という方は、高位高官の家に生まれた方であったが、親戚の人々とも交際を断ち、世俗的な利を何にも求めなかったから、衣服も見すぼらしく、ぼろぼろになっていて、目も当てられぬ有りさまであったが、その悟りの道の修行によって身につけた徳は、誰しも認めるところであって、大寺院の書記ともなられたわけである。私(道元)は、この道如上座におたずねしたことがある、「あなたは官職にある方の御子息で富める高貴な家の御生まれである。どうして、身のまわりのものが、みな粗末で貧しげな御様子なのですか」道如和尚は答えていわれた、「僧となったからだ」と(『正法眼蔵随聞記』巻6の2、学道の人は吾我の為に。山崎正一訳『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉276頁より一部転載)。
自分(道元)が実際に見たところだが、四川省出身の僧があった。遠方から来たので、所持品とては何もなかった。わずかに墨を二つか三つ、値段にして二、三百文、わが国の二、三十文相当のものを持っていたが、それで、かの地の紙の下等品の極めて弱いのを買い、これで上着と下ばきを作って着ていたから、起ったり坐ったりするときに、破れる音がして、いかにもひどいものだったが、当人は気にかけず少しも苦にしていなかった。はたの人が、「お前は郷里に帰って用具や衣装をととのえてきたらよい」といったが、「郷里は遠方だ。その道中の時間が勿体ない。仏道を修行する時間が、それだけ失くなってしまうのが惜しい」といって、少しも寒さを苦にすることなく、修行にはげんだのである(『正法眼蔵随聞記』巻1の4、学道の人衣食に労するなかれ。山崎正一訳『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉30頁より一部転載)。
私(道元)が中国に留学して、天童山で修行していた折、地元の寧波府出身の用という方が典座の職に任じられていた。私は、昼食が終わったので、東の廊下を通って超然斎という部屋へ行こうとしていた途中、用典座は仏殿の前で海藻を干していた。その様子は、手には竹の杖をつき、頭には笠さえかぶっていなかった。太陽はかっかっと照りつけ、敷き瓦も焼けつくように熱くなっていたが、その中でさかんに汗を流しながら歩きまわり、一心不乱に海藻を干しており、大分苦しそうである。背骨は弓のように曲がり、大きな眉はまるで鶴のように真っ白である。私はそばに寄って、典座の年を尋ねた。すると典座は言う、「六十八歳である」。私はさらに尋ねて言う、「どうしてそんなお年で、典座の下役や雇い人を使ってやらせないのですか」。典座は言う、「他人がしたことは私がしたことにはならない」。私は重ねて言う、「御老僧よ、確かにあなたのおっしゃる通りです。しかし、太陽がこんなに熱いのに、どうして強いてこのようなことをなさるのですか」。典座は言う、「(海藻を干すのに、今のこの時間が最適である)この時間帯をはずしていつやろうというのか」。これを聞いて、私はもう質問することができなかった。私は廊下を歩きながら、心のなかで、典座職がいかに大切な仕事であるかということが肝に銘じた(『典座教訓』。中村璋八・石川力山・中村信幸訳『典座教訓・赴粥飯法』〈講談社学術文庫、1991年7月〉70-71頁より一部転載)。
後に道元は、寺院において役職に就く者の心構えについて、宋でみた体験をもとに以下のように述べている。
「一方、私(道元)が見てきた中国の南宋時代のあちこちの寺々について言うなら、知事や頭首といった禅寺の役職についている人々は、一年間の任期でそれぞれのつとめにはげんでいるのだが、各自が三通りの住持と同じ心構えを踏まえて、それぞれ役職の任に当たってこれに従事し、たとえば典座の職なら修行僧を供養するというように、それぞれの職に就いたことを好い機会のめぐりあわせとして喜び、きそって仕事にはげんでいる。三通りの心構えとは、次の通りである。
一、他人のためにつとめ、そして自分自身の修行も十分に積めば、
二、修行道場をいっそう盛んにし、人間形成の場という高尚な風格も全く面目を新たにでき、
三、古えのすぐれた人達に肩を並べ、さらに追いこし、古人の歩んだ道を継承し、その行ないの跡をしっかり保持していく」(『典座教訓』。中村璋八・石川力山・中村信幸訳『典座教訓・赴粥飯法』〈講談社学術文庫、1991年7月〉117頁より一部転載)。
宋における真摯な求道をみるにつれ、道元の関心の眼はやがて法系の相承に向けられることになる。とくに道元が関心を示したのは法の伝授を証明する嗣書であった。嗣書はなかなか閲覧することができなかったが、道元の閲覧への熱望は止むことなかった。
はじめて道元が嗣書を閲覧したのは、日本僧隆禅(生没年不明)の仲介による。隆禅は嘉定年間(1208〜24)の初頭に伝蔵主が病で倒れた際に看病し、その労に感謝して伝蔵主より嗣書を閲覧させてもらっていた。それから8年後の嘉定16年(1223)秋、道元がはじめて天童寺に到った時、隆禅は伝蔵主に頼んで道元に閲覧させた(『正法眼蔵』第39、嗣書)。
さらに嘉定17年(1224)正月21日には天童寺住持の無際了派の嗣書を閲覧している。それ前年7月頃に師広都寺が道元と寂光堂にて会話した際、道元は「現在、嗣書は誰が所持していますか」と聞いたところ、師広は「堂頭(住持)のじいさんが持ってるだろうな。後で丁寧にお願いすれば、きっと見せてくれるだろうさ」との返答を得ている。これを聞いてから道元は願望が一昼夜とて止むことなく、智庚に無理にお願いして、真心込めて見せてもらっている。その嗣書の内容は前述したから、ここでは述べないが、道元は焼香礼拝して閲覧し、智庚に礼を述べた後、無際了派のもとに行って焼香・礼拝した。無際了派は「このことは見知っている者は少ない。今あなたは知ることができた。これは学道の実帰である」と述べた。道元は感激にたえなかった(『正法眼蔵』第39、嗣書)。
やがて無際了派が示寂すると、道元は天童寺を離れて、阿育王寺・径山寺・万年寺などを歴参するが、機縁は適わなかった。
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千僧鍋(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。崇禎14年(1641)の鋳造。深さ107cmで2石の米を一度に入れることができる。縁に「大明崇帝辛巳十四年鋳造」の銘文がある。
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天童如浄禅師
道元は無際了派の示寂後、天童寺を離れて半年間諸師を歴参したが、機縁は適うことなく、やがて天童寺に戻ってきた。この時天童寺の住持であったのは長翁如浄(1162〜1227)であり、道元は宝慶元年(1226)5月1日、如浄と天童寺の妙高台(方丈)で面会することになる(『正法眼蔵』第51、面授)。
長翁如浄の法諱は如浄であり、長翁とは「長じいさん」といった意味の綽名であって、正式な名ではない。さらに如浄自身は「浄長」と自称していたといい(『枯崖和尚漫録』巻上、慶元府天童如浄禅師伝)、その下字の「長」から長翁と呼ばれるようになったらしい。如浄には道号がなく、これは南宋末の仏教世俗化の一現象である道号の流行に対して、如浄が反俗精神を示したものとみられる(鏡島1983)。
如浄は越州(浙江省紹興市)の出身で(『正法眼蔵』第39、嗣書)、いつ頃出家したか不明であるが、19歳の時に教学(仏典)ではなく、実践的な禅宗の修行を開始し、以後60歳を超えても怠けることはなかった(『正法眼蔵』第16、行持下)。当初は臨済宗楊岐派に属したらしいが、後に曹洞宗へと移った(『如浄禅師語録』序)。例えば松源崇岳(1132〜1202)のもとに参じたことがあり、松源は如浄に法語を与えている(『松源崇岳禅師語録』巻下、示如浄禅人)。また径山寺の住持をしていた拙庵徳光(1121〜1203)に参じたこともあったが、拙庵徳光は雲水が修行する僧堂について全く関知せず、さらに雲水らに指導せず、ただ官客とのみ会っているとして、後に批判している(『正法眼蔵』第16、行持下)。
その後曹洞宗の足庵智鑑(1105〜1192)に参じたが、その時期についてはわかっていない。如浄は示寂の直前に嗣香して足庵智鑑の法嗣であることを公式に表明したが、それ以前には公式に表明したことはなかったらしく、諸寺住持した時も嗣香はしていない。ただし如浄近辺では彼が足庵智鑑に参じていたことは知られていたらしく、道元が如浄に「釈尊が金襴の袈裟を摩訶迦葉に伝授されたのはいつのことでしょうか」と質問したのに対して、「私も昔、雪竇(足庵)智鑑禅師の会下でこの点を質問しました。亡き師も大変に喜ばれました」と答えている(『宝慶記』)。
嘉定3年(1210)10月5日、当時華蔵寺にいた如浄は、建康府(南京)清涼寺の住持就任要請を受け、同寺に晋山(住持となる)した(『如浄和尚語録』巻上、住建康府清涼寺語録)。これは如浄がはじめて住持となった官寺であり、中国五山十刹制度の中で、十刹に次ぐ甲刹の一寺であった。さらに台州(浙江省臨海県)の瑞岩寺住持に招かれ(『如浄和尚語録』巻上、台州瑞岩禅寺語録)、後に臨安府(浙江省杭州市)の浄慈寺住持に勅書によって住持となった(『如浄和尚語録』巻上、臨安府浄慈禅寺語録)。浄慈寺は中国五山の第4位の寺格を有する大寺であり、南宋代には臨済宗の僧侶が住持の大半を占めていた。ところが如浄は曹洞宗の禅僧であり、このことから如浄の力量が宗派を超えて評価されたことが知られる。また如浄は寧宗(在位1194〜1224)より紫衣号を賜ったが固辞し、かえって寧宗より喜ばれて茶を賜っている(『正法眼蔵』第16、行持下)。また浄慈寺住持時代には中宮(皇后)の帰依を得ており、銭を寄進されて水陸会を行なっている(『如浄和尚語録』巻上、臨安府浄慈禅寺語録)。
如浄はその後明州(寧波)瑞岩寺住持となる。退院して(『如浄和尚語録』巻上、明州瑞岩語録)、再度浄慈寺住持となった。瑞岩寺の住持であった時期は4年間にも及んだが、再住した浄慈寺はわずか9ヶ月で退院(住持を退くこと)し、天童寺住持に就任した(『如浄和尚語録』巻上、再住浄慈禅寺語録)。
天童寺では前住持の無際了派が示寂した直後であり、如浄のもとに無際了派から遺書が届けられている(『如浄和尚語録』巻上、再住浄慈禅寺語録)。如浄の天童寺晋山は嘉定17年(1224)のこととみられ(鏡島1983)、諸寺を歴参していた道元は天童寺に戻ってきた。この当時、道元は多くの禅僧に参じて問答していたが、やがて自負が芽生えて宋には優れた禅僧はいないと思い、帰国しようとした。この時、老シン(王へん+進。UNI74A1。&M021248;)なる僧から、「あなたはすでに多くの寺院にてあまねく名僧に参じてきたが、しかし天下第一等の宗匠はただ一人如浄禅師しかいない。あなたが彼のところに参見すれば、必ず得るところがあるだろう」といわれたという(『初祖道元禅師和尚行録』)。
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天童寺応供堂内部(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。明の崇禎9年(1636)の建立で、民国6年(1917)の修造。応供堂は僧が食事をとる場所で、住持の席を壁面中央に設け、西序(西班)と東序(東班)に分けて着席する。
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道元の嗣法
道元は宝慶元年(1226)5月1日、如浄と天童寺の妙高台(方丈)で面会することになる(『正法眼蔵』第51、面授)。その前後、 道元は如浄に対して書簡で参問の許可を求めているが、如浄は「道元君は、今後、昼夜を問わずいつでも、袈裟を着けても着けなくても、私の居室に来て仏道について質問してよろしい。私は君を、父親が子供の無礼をゆるすようにして迎えるでしょう。」(『宝慶記』。池田魯参『宝慶記-道元の入宋求法ノート』〈大東出版社、1989年6月〉3頁より部分引用)として、暖かい言葉で許可を与えている。
ところが如浄会下の坐禅の厳しさは尋常ではなかったらしく、後に道元は以下のように語っている。
私が大宋国の天童山景徳禅寺にいたころ、如浄老師が住持であられたときだが、夜は十一時まで坐禅し、明けがたは午前二時半から三時には起きて、坐禅したものだ。住持の如浄禅師も、みなの者と共に僧堂の中で、坐禅されたものだ。それは一夜も、欠かされたことがない。その間、僧たちは多く居眠りした。如浄禅師は、その間をまわってゆき、居眠りしている僧をみると拳骨でなぐったり、あるいは、はいている履をぬいで、それで打ち恥ずかしめ、眠りをさまして、はげましたものだ。それでもなお眠っている僧がいるときは、僧堂の裏の照堂に連れてゆき、鐘を打ちならし、行者を呼んで蝋燭をともして明るくし、その場で皆の者に説法していわれた。
「僧堂のうちに集まり生活をしていて、いたずらに居眠りをして、何になる。それなら、お前たちは何んで出家し禅道場にはいったのか。見てみるがいい、世間の帝王でも役人でも、苦労しないで身を安楽にしている者がいるか。帝王は帝王たるものの道を修め、役人はまごころを尽して職務を行い、また、庶民は田を掘り起し鍬をふるって地を耕やして働く者に至るまで、苦労しないで生活している者がひとりでもいるか。こうした世間の苦労をのがれて禅道場にはいりながらむなしく時をすごすとは。それでは何の役に立とうか。生死事大なり、無常迅速なり。教家も禅家も、同じくこういって、努めよといっているのだ。今晩にでも明日の朝にでも、どんな死に方をするかもしれぬ。どんな病気になるやも判らぬ。しばらくでもこの世に在るあいだ、仏法を行ぜずに、居眠りばかりして空しく時をすごすとは、途方もない愚か者たちだぞ。だから仏法は衰えてしまうのだ。到るところ仏法が盛んであったときは、どの禅寺でも、ひたすら坐禅にはげんだものだ。近ごろ、どの禅寺でも坐禅をはげまさなくなった故、仏法は薄手になり水っぽくなってきたのだ」
このように説いて、皆の者をはげまし坐禅させた有りさまを、私は、まのあたり見てきた。今、仏道を学ぶ者も、このような如浄禅師のなされ方を思いみるべきである。
また、あるとき、如浄禅師のおそば近く仕えている侍者たちが、禅師に次のように申し上げたことがある。「僧堂の衆僧たちは、睡眠不足で疲労し、あるいは病気になる者もあり、あるいは修行をやめたい気をおこす者も出てくることと存じます。坐禅があまり長すぎるためでしょう。坐禅の時間を、短縮したらいかがでしょう」 と。
すると如浄禅師は、大いにいさめていわれた。
「それはいかぬ。求道心のない者が、名目ばかり僧堂で坐っているのであれば、ほんのわずかの時間でも、その間に居眠りをすることになろう。だが、道を求める心があって、どうしても修行したいという者は、坐禅の時が長ければ長いだけ、喜んで修行するものだ。私が若かったとき、いろいろな禅寺の住持職をつぎつぎとやってきたものだが、いつも坐禅するようはげまし、眠っている僧を、拳がやぶれるほど打ちのめし責め立てたものだ。いまは年をとって力も衰え、あまり打ちすえることもできなくなったので、立派な僧を育成することができないようになった。諸方の禅寺の住持さん方も、坐禅のすすめ方が手ぬるいので、仏法は衰えてきたのだ。だから一層、打ちすえねばならぬのだ」と、かように教え示されたものだ(『正法眼蔵随聞記』巻3の20、治世の法は天子より。山崎正一訳『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉182〜184頁より一部転載)。
このように如浄会下の坐禅は非常に厳しかったが、指導は熱心であり、如浄が「私は、すでに年老いてしまっているから、今は皆の者と一緒に生活するのをやめ、草庵に住んで、老後を養っているのがよいのだが、皆の者の師匠として、各人の迷いを破り、その仏道修行を助けようために、住持の職についている。このために、あるときは、叱責の言葉を出し、またあるときは竹箆で打ちのめしたりなどしている。だが、これは、まことに恐れ多いことなのだ。さりながら、これは仏になり代わって、大いに教化の実をあげるために、やらねばならぬ事である。皆の者、兄弟たちよ。慈悲の心をもって、これを許してくれよ」(『正法眼蔵随聞記』巻2の5、悪口をもて僧を呵責。山崎正一訳『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉79頁より一部転載)というと、衆僧達はみな涙を流したという(『正法眼蔵随聞記』巻2の5、悪口をもて僧を呵責)。
このような如浄の心意気に答えて、道元は酷暑厳寒の際も、他の者が病気を恐れて坐禅しない中、病気や死を恐れず昼夜坐禅に励んだという(『正法眼蔵随聞記』巻2の11、人は世間の人も衆事を兼ね学して)。如浄も道元の熱心さを見て、「僧堂に居られるあなたのようすを拝見すると、あなたは昼も夜も眠らず坐禅をしておられます。これは大変素晴らしいことです。」(『宝慶記』。池田魯参『宝慶記-道元の入宋求法ノート』〈大東出版社、1989年6月〉127頁より部分引用)と激励している。この頃、如浄は同郷の惟一西堂に推薦して、法眼宗の嗣書閲覧の便宜をはかっている(『正法眼蔵』第39、嗣書)。
天童寺にて道元は日夜坐禅に励んでいた。ある日の払暁、如浄は僧堂をまわって指導していたが、ある僧が坐禅しながら眠っているのを責めて、「坐禅は身心脱落しなければならない。ただ眠っていてはどうして悟りを得られようか」と如浄が言うと、道元は豁然として大悟し、早朝に如浄がいる方丈に行き、焼香・礼拝した。如浄は「焼香するのはどうしてなのか」と聞くと、道元は「身心落々して来ました」と答えた。如浄が「身心脱落、脱落身心」というと、道元は「この悟りのことは一瞬の手並みかもしれませんので、和尚は軽々しく私に印可を与えるようなことをしないで下さい」と述べ、如浄は「私は軽々しくあなたに印可を与えない」と言った。道元は「軽々しく印可しないということはどういうことなのですか」というと、如浄は「脱落、脱落」と言った。この時福州広平侍者が側にいたが、広平が「ささいなことではない。外国人がそのように悟りを得るとは」と称賛すると、道元は「幾度もここで厳しい指導を受けてきたが、悟りの認証を得たことはかえって驚きました」と答えた(『永平寺三祖行業記』初祖道元禅師伝)。
道元は如浄の法嗣となったが、天童寺にしばらく留まっていた。道元は後に「私が宋にいたとき、天童山の如浄禅師が、私を侍者にしようとして、「外国人ではあるが、道元君は、立派な人物である」といわれて、私を侍者に任じようとされたことがある。私は、かたくこれを辞退した。そのわけは、「日本国にこの評判が聞こえることも、また私が仏道の修行をする上でも、まことに有難い大切なことでありますけれども、多くの人の中には、眼の見える達識の人がおられて、外国人であって、この天童山のような大道場の侍者になることは、まるで大宋国に立派な人物がいないとでもいうかのようである、と非難するかもしれません。これは、最も、気を付けねばならぬことと思います」と申し上げ、この旨を手紙に丁寧にのべて差し上げたところ、如浄禅師も、大宋国の体面を重んじて遠慮する私の気持ちを察して、二度と侍者に招こうとはなさらなかった。」(『正法眼蔵随聞記』巻1の1、はづべくんば明眼の人をはづべし。山崎正一訳『正法眼蔵随聞記』〈講談社学術文庫、2003年11月〉18頁より一部転載)と述べている。
如浄は宝慶3年(1227)、道元に嗣書を与え(「如浄自筆嗣書」永平寺蔵)、「山谷に隠居して聖胎長養(悟後の修行)しなさい」と述べている(『永平寺三祖行業記』初祖道元禅師伝)。道元はその後帰国した。如浄はその後病のため天童寺を退院(住持を退くこと)した。臨終の時、涅槃堂にてはじめて足庵智鑑に嗣香して、足庵智鑑の法嗣であることを表明した(『枯崖和尚漫録』巻上、慶元府天童如浄禅師伝)。同時に辞世の偈として「六十六年、罪犯弥天…」と書いている(『如浄和尚語録』巻下、偈頌)。如浄は紹定元年(1228)7月17日に示寂した。66歳。
その法嗣に孤蟾如瑩・石林□秀・無外義遠・田翁□頃・自庵師楷・癡翁師瑩・雪屋正韶(1202〜60)・以道□尊・道元がいるが、道元以外は門下の代で法脈は途絶えた。なお事実ではないが、後代に如浄の法嗣として鹿門自覚があげられ、以後華北で栄えた曹洞宗の流派はすべてこの法脈であるとみなされた時期があり、この法脈の有無に関する論争「五代畳出」問題が発生している。
道元は帰朝18年後の寛元元年(1243)に天童寺と如浄のことを振り返って次のように述べている。
「宝慶2年(1227)3月頃、夜の4更(午前2時)になろうとする時、上方から太鼓の音が3度聞えてきた。坐具をとって袈裟を着け、雲堂の前門から出てみると入室牌が掛かっていた。まず大衆にしたがって法堂の上に到り、法堂の西壁を経て、寂光堂の西の階段を登った。寂光堂の西壁の前を過ぎて、大光明蔵の西の階段を登った。
大光明蔵は方丈である。西の屏風の南から香台の付近に到り、焼香・礼拝した。ここから部屋(妙高台)に入るため、雲水が立ち並んでいるかと思っていたが、一僧も見えず、妙高台は簾が下がっており、かすかに堂頭大和尚(如浄)の説法する声が聞えた。その時、四川の祖坤維那が来て、同じく焼香・礼拝したが、終わってから妙高台の方を見てみると大衆が立ち重なっていた。(如浄の)左や右にもである。この時普説があったから、ひそかに大衆の後ろに立って聴いていた。
この時、大梅の法常禅師の住山の因縁を挙されたが、蓮の葉を着て松の実を食べた故事を述べたところで、衆僧の多くは涙を流した。また霊山釈迦牟尼仏の安居の因縁を詳細に挙されたが、これも聞く者涙を流すものが多かった。(如浄は)「天童山は安居の時期が近づいている。ただいま春は寒からず熱からず、坐禅の時期に適している。兄弟よ、どうして坐禅しないのか」と頌し、それが終わると右手で禅椅の右端を一度叩いて、「入室しなさい」と言った。入室の話には「杜鵑啼きて山竹裂く」とあり、他の話はなかった。大衆の人数は多かったが、誰も下語せず、ただ恐れ畏まるばかりであった。
この入室の方式は諸方に未だになく、ただ先師天童古仏(如浄)のみ、この様式で行なったのである。普説の時には椅子屏風をめぐらせて大衆が立っていた。そのまま立ちながら、適時入室し、入室が終われば通例の通り方丈の門から出た。残る人はただもとのように立っていた。入室する人の威儀や進止、また堂頭和尚(如浄)の容儀、および入室の話はすべて見聞した。この方式は他のどこにもなく、他の長老ではできない方式であった。他の時の入室では人より先に入室しようとしたが、この入室では人より後に入室しようとしていた。人の心と道の違いは忘れてはならない。
それから今まで、日本の寛元元年(1243)にいたるまで18年、歳月は急速に風光の中に過ぎ去っていった。天童山からこの山(吉峰寺)に到るまで、多くの山水を覚えているが、美言奇句の実相であり、身心骨髄に刻んできた。あの時の普説・入室は、大衆の多くが忘れがたいものとして覚えているであろう。この夜は残月の光がわずかに楼閣の間から漏れており、杜鵑(ほととぎす)が頻りに鳴いていたが、静寂の夜であった。」(『正法眼蔵』第43、諸法実相)。
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天童寺の「日本道元禅師得法霊蹟碑」(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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天童寺禅堂前の回廊(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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元・明代の天童寺
宝祐4年(1256)天童寺は火災のため建物を一つ残らず焼失しており、2年後に別山祖智(1200〜60)によって再建され(『天童寺志』巻之7、塔像攷、慶元府太古名山天童景徳禅寺第四十代別山智禅師塔銘)、景定4年(1263)には簡翁居敬(生没年不明)によって千仏閣(三門)が再建されている(『天童寺志』巻之2、建置、景定4年条)。
やがて南宋は滅亡し、元の時代になる。元の時代は喇嘛教(チベット仏教)が優遇され、華北では禅宗の勢力が衰えたが、江南では以前禅宗が優位を占めており、日本からも多くの僧侶が留学している。
環渓惟一(1202〜81)は資州(四川省)墨池の人で俗姓は賈氏といった。10歳の時、村中で疫病が流行し、環渓惟一と母が罹患、母はしばらくして治癒すると、病で苦しんでいる環渓惟一を撫でながら父親に「私の子は幼いですが、器質は非凡です。人の為にならずに死んでしまえば愚かなことです」といった。その後近隣の梵業寺の僧覚開が環渓惟一の容貌が優れているのをみて、弟子としたいと申し出ると、父親は覚開に仕えさせることにした。12歳の時張享泉が寺にやって来た時に問答を行ない、彼の推薦によって成都の甘露寺にて得度・授戒した。22歳の時に行脚に出て、廬山から浙江に入り、杭州で無準師範(1177〜1249)が阿育王寺住持となったことを聞き、ただちに参じた。環渓惟一は方丈に詣でて無準師範に謁すると、無準師範は環渓惟一を見て法器であることを知り、すぐに僧堂に戻らせた。大衆はみな驚きあやしんだ。その後方丈に入室して問答を行ない、わずか数ヶ月後に法嗣となった。無準師範が径山寺に移るとこれに従い、蔵主に任じられた。その後金陵(南京)に行き、太平興味国寺の癡絶道沖(1169〜1250)に参じたが、再度径山寺に戻り、首座となった(『環渓和尚語録』付、行状)。
淳祐6年(1246)建寧府(浙江省)瑞巌寺の住持職が空席となったため、太守楊恢が開元寺清渓□誼に命じて道行の者を推薦させたところ、環渓惟一が推薦され、同寺住持となった。以後、蓮峰庵・恵力寺・宝峰寺・崇恩寺・資聖寺・報恩光孝寺に住し(『環渓和尚語録』付、行状)、咸淳元年5月17日に太平興国寺に入院し(『環渓和尚語録』巻上、住袁州仰山太平興国禅寺語録)、咸淳5年(1269)3月21日に雪峰崇聖禅師の住持となった(『環渓和尚語録』巻上、福州雪峰崇聖禅寺語録)。
5年後、咸淳9年(1273)3月11日、天童寺住持に就任した(『環渓和尚語録』巻上、住慶元府太白名山天童景徳禅寺語録)。前住持の石帆惟衍(?〜1273頃)が示寂すると、宰相の賈似道(1213〜75)は諸山の僧に後任の人事を急かせると、すべてが環渓惟一を推薦した。天童寺が盛んな事は前以上であったが、しばらくもしないうちに天童寺は焼失してしまった。環渓惟一は東奔西走して再建に尽力し、以前と変わらないまでに再建をはたした(『環渓和尚語録』付、行状)。至元14年(1277)無学祖元が天童山にやって来たため、天童寺の第一座(前堂首座)とした。そのため衆をあげてよろこんだという(『仏光国師語録』巻9、用潜叟覚明状、無学和尚行状)。同年秋、環渓惟一は病に罹り、門弟に命じて寺の西に穴地を得て隠居所を造らせ、故郷にちなんで「白蓮峰」と名づけた(『環渓和尚語録』付、行状)。
至元16年(1279)夏、日本の船が中国江南の港に来着した。これは北条時宗の使の船であり、鎌倉建長寺の住持職が空席となったため、それに相応しい人物を中国に求めたためであった(『仏光国師語録』巻9、如芝状、無学禅師行状)。時宗は徳詮蔵主・宗英典座の二人を遣わして、宋(当時すでに元の支配下にあったが)の名僧の誰かを招聘しようとした(「北条時宗書状」円覚寺文書4)。徳詮蔵主・宗英典座の二人は当初環渓惟一を招聘する予定であったが、環渓惟一が齢80歳であったため、天童寺の前堂首座であった無学祖元が代わりに日本に行くことになり、環渓惟一は鏡堂覚円(1244〜1306)を侍者としてつけたという(『臥雲日件録抜尤』長禄元年5月21日条)。同年冬に環渓惟一は住持を退いて東堂に移った(『環渓和尚語録』付、行状)。
至元18年(1281)9月、門徒に遺誡を与え、同日4日に沐浴して着替え、結跏趺坐して示寂した。80歳。この日、大風雨であったが翌日には快晴となり、四方より会葬者が集まり、盛大な葬儀が行なわれた。隠居庵の後ろの山に葬られた。法嗣は前述の環渓惟一の他、覚此・雪鏡□明・石梁□忠・可堂□悦・破衲□修・南峰□吉がいる(『環渓和尚語録』付、行状)。ちなみに道元が天童寺にいた時、如浄の推薦によって嗣書を道元に閲覧させた惟一西堂なる人物がいるが(『正法眼蔵』第39、嗣書)、一見環渓惟一と同一人物にみえるが、出身地をみると惟一西堂は如浄と同じ越州(浙江省紹興市)(『正法眼蔵』第39、嗣書)、環渓惟一は資州(四川省)墨池(『環渓和尚語録』付、行状)であり、別人であることがわかる。とはいえ、世代がかなり隔たるようにみえる道元と環渓惟一であるが、道元が2歳年長であるだけで、ほぼ同世代の人物であった。
大徳5年(1301)に天童寺住持の東巌浄日(1221〜1308)のもとに「朝元宝閣」の勅額を賜っている(『天童寺志』巻之2、建置、元、大徳5年条)。大徳11年(1307)、実際には至大2年(1309)のことであるが、寧波にて日本の商人が暴動を起して放火し、寧波の城中がすべて焼失する事件が起こっており、これにより日本僧の摘発が天童寺にも及び、龍山徳見(1284〜1357)を含めた十数人が逮捕されて大都に送られている(『東海一オウ集』巻5、真源大照禅師行状)。至治年間(1321〜23)には住持の雲外雲岫(1242〜1324)が構畳軒を中峰に建造している(『天童寺志』巻之2、建置、元、至治年間条)。
天暦2年(1329)朝元閣(三門)が焼失しているが(『天童寺志』巻之2、建置、元、天暦2年条)、至正5年(1345)には同年住持となった孚中懐信(1280〜1357)が仏殿を再建している(『宋文憲公護法録』巻第1、大天界寺住持孚中禅師信公塔銘有序)。至正19年(1359)には原明元良(生没年不明)が宝閣を再建し、銅仏を鋳造している(『天童寺志』巻之2、建置、元、至正19年条)。
明代となった洪武25年(1392)これまで天童山景徳禅寺と称していた寺号を改めて「天童禅寺」とし、天下禅宗五山の第2位とした(『天童寺志』巻之2、建置、明、洪武15年条)。永楽20年(1422)にはほとんど消滅していた松並木道を整備している(『天童寺志』巻之2、建置、明、永楽20年条)。宣徳3年(1428)に天童寺が焼失しているが(『天童寺志』巻之2、建置、明、宣徳3年条)、宣徳7年(1432)には住持円ガイ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(生没年不明)が仏殿・伽藍堂・祖師堂などを再建している(『天童寺志』巻之2、建置、明、宣徳7年条)。
正統6年(1441)には梵鐘・鉄香炉が鋳造されており(『天童寺志』巻之2、建置、明、正統6年条)、応仁2年(1468)に遣明使にしたがって入明した雪舟等楊(1420〜1506)は天童寺において第一座(前堂首座)の称号を得ており、以後「天童第一座」と自署したという(『梅花無尽蔵』第3下、七言絶句、題雪舟揚知賓之小軸)。ちなみに弘治年間(1488〜1506)から万暦年間(1573〜1620)の初頭まで、天童寺の住持など、詳細なことはほとんどわかっていない。後述するが万暦15年(1587)に被災したためである。
嘉靖14年(1535)には楊明(生没年不明)により『天童寺集』全7巻が編纂された(『天童寺志』巻之2、建置、明、嘉靖14年条)。この『天童寺集』は万暦年間(1573〜1620)に住僧無憂万懽(生没年不明)によって増補されているが、現在では散佚して2巻ほどしか残っていない。『四庫全書存目叢書』史部に所収される。なお嘉靖34年(1555)、官により松並木が伐採されたが、これは倭寇対策による警備艦建造のためであった(『天童寺志』巻之2、建置、明、嘉靖34年条)。
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天童寺法堂(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。民国20年(1931)の再建。重層入母屋造の建造物で、一階は法堂、二階は蔵経楼となっている。
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焼失前(1922年頃)の天童寺天王殿(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉102頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。
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天童寺の潰滅と密雲円悟の再興
万暦15年(1587)7月21日、天童寺は大雨と洪水によりことごとく破壊され、礎石や瓦礫すら残らない有様であった(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、万暦15年7月21日条)。被災状況からみると、集中豪雨により天童寺を形成する太白山が山体崩落などの崖崩れをおこし、そのまま天童寺正面で洪水による濁流が流し去ったようである。実際、天童寺の前にあったとみられる松並木の扁額の残欠が東谷で発見されており(『天童寺志』巻之2、建置攷、宋、大中祥符年間、質実)、破壊の強力さをかいま見ることができる。この時の天童寺僧の数は不明であるが、その大半が犠牲になったとみられており、この時の住持の名や被災状況が伝わっていないことから生存者はいなかった可能性がある。この災害により天童寺の建造物・碑文・文書・塔などは、古天童などでは一部残存しているものの、主要伽藍のある太白山ではすべて失われてしまい、災害以前の天童寺の歴史は別の史料に引用されたもの以外、存在していない。
まず復興に向けた動きは同年冬に住持として因懐(生没年不明)を招いて法堂を再建したことにはじまる(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、万暦15年是年条)。この法堂はわずか5ヶ月で完成した仮のものであったらしく、まず禅寺に不可欠な法堂から再建したとみられている(吉田1998)。さらに万暦30年(1602)には伝僖(生没年不明)が鐘楼を再建している。当時、達観真可(1537〜1603)が寧波の三寺のうち、天童寺と雪竇寺の「法鼓が鳴らなかった」、すなわち住持による説法が行なわれていなかったといい(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、万暦30年是年条)、鐘楼の再建はその「法鼓」再興の象徴的出来事であった。実際雪竇寺も後に天童寺とともに再建事業が本格化した際に、鐘楼・鼓楼がともに再建されたという(『雪竇寺誌』巻之3、梵刹、楼、鐘楼)。
万暦42年(1614)には住持慧高(生没年不明)が緇素(僧と俗人)6人とともに金陵(南京)に赴き、大蔵経の版行・頒布を願い出、それを獲得しており、天童寺の経蔵を宝峰蔵と号した。その事業が終わると慧高は病で示寂し、同行の3人も相継いで没したという(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、万暦42年是年条)。
天童寺が本格的に再建されるのは、天童寺中興と称される密雲円悟(1566〜1642)が住持であった時である。密雲円悟は天童寺のみならず、寧波の阿育王寺・雪竇寺の復興も行なっている。
密雲円悟は嘉靖45年(1566)に常州宜興(江蘇省常州府宜興県)で産まれた。俗姓は蒋氏。8歳の時に念仏を知り、世間の無常を感じるようになったが、15歳で耕作して親を養うようになった。26歳の時に『六祖壇経』を閲覧して禅宗を慕い、30歳の時、ついに出家を決意して妻と離婚し、顕親寺の幻有正伝(1548〜1614)に師事(『天童寺志』巻之7、塔像攷、勅賜慧定禅師密雲和尚塔)、33歳の時に出家・受戒した。その後幻有正伝に従い各地へ赴き、印可を受けた(『天童寺志』巻之7、塔像攷、慧定禅師密雲和尚塔)。
万暦42年(1614)幻有正伝が示寂すると、跡を継いで龍池山禹門禅院住持となる。以後、天台山通玄寺・金粟山広慧寺の住持を歴任した(『天童寺志』巻之7、塔像攷、勅賜慧定禅師密雲和尚塔)。崇禎2年(1629)には天童寺の住僧明貫(生没年不明)や檀越らが密雲円悟を住持に招聘しようとしたが、広慧寺住持であったため、天童寺に来ることはなかった(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎2年条)。さらに崇禎3年(1630)3月に黄檗山万福寺住持となる。
崇禎4年(1631)に阿育王寺住持となり、3月に天童寺の応庵曇華・密庵咸傑の塔を拝している。同年4月3日に天童寺住持となり、入院上堂を行なうが、5月には広慧寺に再住し、さらに8月に再度天童寺の住持となった。密雲円悟は天童寺に入寺するや、天童寺を十方住持制の寺院と宣言している(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎4年条)。この宣言は同時に天童寺復興の宣言でもあり、しかも小手先のものではなく、最盛期の姿へ戻そうとする意図が働いていた。
この当時の天童寺の衰退ははなはだしく、崇禎6年(1633)春の段階で、寺領荘園の大半を売り払ってしまい、残るはわずかに12畝であり(『天童寺志』巻之9、轄麗攷、付、荘産)、南宋時に比較すれば100分の1となっていた。しかも万暦15年(1587)の潰滅以来、法堂・鐘楼・宝峰蔵(経蔵)を慌ただしく再建したのみで、仏殿はまだ無かった。
天童寺の復興にあたって、密雲円悟はまず寺産の増加に着手する。崇禎6年(1633)に天童寺の山場の利益を住持の権限で獲得して住僧らに管理させ、さらに清関橋から玲瓏巌に至る地を囲い込みして寺田730畝を確保し、さらに清関橋の外山3畝、新庵の後山の46畝ほかを購入して、再建資金を調達した(『天童寺志』巻之9、轄麗攷、付、荘産)。
密雲円悟はまず仏殿の再建と天王殿の建立に着手し、その後法堂を建て直し、先覚堂・蔵閣・大方丈を次々と再建していった(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎8年条)。仏殿は崇禎8年(1635)に再建された。桁行7間で11丈(36m)、梁間は13丈5尺(27m)、高さは9丈6尺(20m)であった(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎8年条、正疏)。また同年中に天王殿を新造した。規模は仏殿と同様であり、高さ8丈6尺(19m)、桁行90尺(31m)である(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎8年条、正疏)。天王殿は朝元閣(三門)の跡地に新建されたもので、それまで二層門であった三門は、単層一重裳階付の天王殿へと変化した。
崇禎9年(1636)に仏堂の西側には祖師堂、東側には伽藍堂を建てており、梁間は7間であった(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎9年条)。また同年中に延寿堂を天王殿の西側に建立している(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎9年是年条)。延寿堂は嘉禾(福建省厦門市)の銭士貴が寄進した資財によって建立されたものである(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎9年是年条、正疏)。崇禎10年(1637)には西禅堂と東西の客堂を建立しており(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎10年条)、崇禎13年(1640)には東禅堂・鐘楼・新新閣などを建立した(『天童寺志』巻之2、建置攷下、明、崇禎13年条)。
このように密雲円悟は天童寺を復興していった。現在みる天童寺の伽藍配置は、密雲円悟が再興した時のものを踏襲しており、仏殿などは現在も往事のままの姿を保っている。
崇禎15年(1642)6月、密雲円悟が天童寺住持となること11年、病に罹り、同年7月7日、結跏趺坐して示寂した。77歳。翌年、門弟らによって天童寺の南山の幻智庵の右に葬られた(『天童寺志』巻之7、塔像攷、勅賜慧定禅師密雲和尚塔)。
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天童寺伽藍配置図(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月)〉159頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)
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天童派下の争い
密雲円悟が示寂すると、天童寺の住持は法嗣の木陳道サ(1596〜1674)が継ぐことになる。密雲円悟は天童寺復興に際して十方住持制の寺院であることを宣言していたが、結局自身の法嗣が継いだことにより、度弟院(つちえん)寺院となってしまったのである。彼ら密雲の法嗣たちを臨済宗天童派と呼ぶことがある。
木陳は密雲円悟の法嗣の中で、比較的若い方に入るが、先輩格を差し置いて天童寺を継いだことにより、法兄弟間で争いが発生する。木陳も冗舌な方であったから、法兄の費隠通容(1596〜1674)、法姪の継起弘儲(1605〜72)などとの争いは熾烈となった。費隠の法嗣に日本に渡来して黄檗宗の祖とされる隠元隆g(1592〜1673)がおり、かつ陳垣(1880〜1971)の『清初僧諍記』にて木陳が酷評されたことから、木陳の日本でのイメージは極めて悪い。
木陳は天童寺において、密雲の後継者を自認して代付、すなわち密雲に代わって、その名で付法することを行なった。これに費隠のように密雲生前に嗣法した者たちが猛反発した。このような経緯もあったため費隠は『五燈厳統』を撰述して法系の師承を明らかにしようとしたが、曹洞宗の五代畳出問題に触れたため、曹洞宗側の官への訴えにより『五燈厳統』の書籍と版木の廃棄を命じられている。
木陳が天童寺を退院すると、費隠が天童寺住持となった。順治4年(1647)に費隠はかつて天童寺が領していた東谷を再編入し、さらに南山の地を整備した。また田300余畝を天童寺の寺田とした(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、順治4年条)。前述した通り、費隠の法嗣に、日本に渡って黄檗宗の祖となった隠元がおり、密雲らの明朝風様式の臨済禅の宗風を日本に伝えた。しかし宋代禅を基調として展開した日本の臨済禅とは宗風がかなり異なっていたため、従来の臨済宗とは一線を画してしまい、黄檗宗として現在も存続している。
費隠が天童寺を退院した後も、密雲の法嗣が天童寺住持となっていたが、この時期は明が滅亡して清が明の残存勢力を掃討していた頃であった。順治8年(1651)に復明を目指す魯王朱以海(1618〜62)は舟山で清軍に抵抗するも敗北し、同時に浙江の地も荒廃し、天童寺・霊隠寺といった大禅刹ですら大衆が四散する有様であったという(『宗統編年』巻33、順治8年条)。
この天童寺の荒廃を再興したのが、前述の木陳である。順治14年(1657)天童寺に再住(二度目の住持となること)しており、輾屋(輪蔵)を建造している(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、順治14年条)。さらに順治16年(1659)には順治帝より「弘法」の寺額を賜り、順治帝(位1643〜61)の招きにより順治帝と対面している(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、順治16年条)。皇帝の帰依を受けたことにより、木陳による天童寺の復興は加速し、順治17年(1660)には木陳に弘覚禅師号を特賜され、金1,000両を順治帝より賜り、再興の費用に充てている(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、順治17年条)。
木陳が順治帝の帰依を受けたことにより、木陳の権威は高まり、その一門が隆盛へと繋がった。結果、天童寺の住持は密雲の法系によって占められ、この寡占は150年続いた。一方で、再度門派内の争いが立て続けに発生し、しかも激しさが増した。順治帝が崩じた後康煕帝(位1662〜1722)が即位したが、康煕帝は喇嘛教(チベット仏教)に関心を示したから、臨済宗の隆盛は陰りをみせ、さらに雍正帝(位1722〜35)は僧侶が朝廷からの恩寵をかさにきることを嫌い、木陳の著作『北遊集』を禁書とした。こうして明末清初にかけて隆盛した密雲の法系が衰えたのみならず、臨済宗そのものが力を失う結果となったのである。
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天童寺庫房(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。修理が行なわれている。
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その後の天童寺
康熙34年(1695)経蔵閣(法堂)が焼失しており(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、康熙34年条)、法堂再建の前に仏殿の修築が康熙40年(1701)に実施されている(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、康熙40年条)。康熙45年(1706)に法堂が再建されたが(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、康熙45年条)、乾隆21年(1756)に再度焼失(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、乾隆21年条)、嘉慶16年(1811)に再建した(『天童寺志』巻之2、建置攷下、国朝、嘉慶16年条)。
咸豊3年(1853)信真により仏殿・天王殿が修理されており(『天童寺続志』巻上、建置攷第2、咸豊3年条)、光緒8年(1882)にも住持慧源により天王殿が(『天童寺続志』巻上、建置攷第2、光緒8年条)、光緒31年(1905)には仏殿が修理された(『天童寺続志』巻上、建置攷第2、光緒31年条)。
民国21年(1932)には天王殿が焼失し、民国25年(1936)に再建された。天童寺は文化大革命のため、仏像のすべてが破壊され、寺僧は数十名にまで減少した。文化大革命が終わると復興を開始した。臨済宗の時期が長いとはいえ、日本の曹洞宗は天童寺が道元の祖庭であったことから、1980年には「日本道元禅師得法霊蹟碑」が建立している。
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天童寺羅漢堂周辺(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。羅漢堂は民国7年(1918)住持浄心によって再建された。
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[参考文献]
・常盤大定/関野貞『支那文化史蹟 第4輯』(法蔵館、1939年10月)
・宇井伯寿『第三禅宗史研究』(岩波書店、1943年4月)
・関口真大『禅宗思想史』(山喜房仏書林、1964年7月)
・高雄義堅『宋代仏教史の研究』(百華苑、1975年5月)
・石井修道「明末清初の天童山と密雲円悟」(『駒澤大学仏教学部論集』6、1975年)
・関口欣也「中国江南の大禅院と南宋五山」(『仏教芸術』144、1982年9月)
・石井修道「中国の五山十刹制度の基礎的研究(一)」(『駒澤大学仏教学部論集』13、1982年10月)
・横山秀哉「宋代天童寺伽藍の規模について」(『禅研究所紀要』11、愛知学院大学、1982年)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・鏡島元隆『天童如浄禅師の研究』(春秋社、1983年8月)
・鈴木哲雄『唐五代の禅宗-湖南江西篇-』(大東出版社、1984年7月)
・吉田道興「天童寺世代考(一)」(『禅研究所紀要』12、1984年)
・鈴木哲雄『唐五代禅宗史』(山喜房仏書林、1985年12月)
・吉田道興「天童寺世代考(二)」(『禅研究所紀要』14、1985年12月)
・池田魯参「四明知礼の生涯と著述」(『東洋文化研究所紀要』100、1986年3月)
・石井修道『宋代禅宗史の研究』(大東出版社、1987年10月)
・陳垣著/野口善敬王訳注『訳注 清初僧諍記』(中国書店、1989年9月)
・吉田道興「天童寺世代考(六) 」(『禅研究所紀要』22、1994年3月)
・吉田道興「天童寺世代考(九)」(『禅研究所紀要』25、1997年3月)
・吉田道興「天童寺世代考(十)」(『禅研究所紀要』26、1998年3月)
・吉田道興「天童寺世代考(十一)」(『禅研究所紀要』28、2000年3月)
・佐藤秀孝「天童山の無際了派とその門流-」(『駒沢大学仏教学部論集』39、2008年10月)
・『特別展 聖地寧波【ニンポー】』(奈良国立博物館、2009年7月)
・蔭木英雄『凡俗による如浄禅師語録全註釈』(大法輪閣、2009年12月)
・蔭木英雄『凡俗による宏智拈古全註釈』(大法輪閣、2010年3月)
・沖本克己他編『新アジア仏教史08 中国V 宋元明清』(佼成出版社、2010年9月)
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天童寺の伽藍。羅漢殿付近より(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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