大雲寺



大雲寺(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)

 大雲寺(だいうんじ)は京都市左京区岩倉上蔵町305に位置(外部リンク)する天台宗系単立寺院です。真覚(?〜978)により天禄2年(971)に建立されました。広大な敷地に多くの子院が建立され、とくに観音院は皇太后昌子内親王(950〜1000)の御願寺となりました。中世には実相院の末寺となりました。たびたびの焼失で寺運は衰え、近世期には本堂を中心とするわずかな建物のみ残存しました。観音霊場として知られ、精神疾患者に霊験があるとして多くの参詣者・参籠者を集めました。昭和60年(1985)に焼失し、その東側に仮本堂が再建されました。


大雲寺の建立

 岩倉は京都市左京区北部に位置し、東は八瀬、北西は静市、南は松ヶ崎を境に接する。岩倉の名は神が降臨する依代である磐座(いわくら)より起こった語で、石座神社・山住神社といった神社に神籬といった形で原初体系が残されている。平安時代になると、平安京の北方に位置する岩倉は、幽邃の地とみなされ、「石蔵」として史料上に多く現われる。大雲寺のみならず解脱寺も建立され、さらに多くの往生者の伝記もみられるようになった。

 大雲寺は円融天皇の御願であり、藤原文範(909〜96)が草創し、真覚(?〜978)が造営したという(『大雲寺縁起』)。文範は小野郷に別業の小野山荘を有しており、寛和元年(985)3月6日に藤原実資が訪れている(『小右記』寛和元年3月6日条)。天禄2年(971)4月2日に比叡山にて五堂会が実施されたが、この時岩蔵(岩倉)の山々から紫の雲がたなびいては消えていった。この日講の勅使となっていた日野中納言藤原文範(909〜96)は奇瑞を見て拝み見て、心の中に「この紫の雲のもとには必ず仏の在所があろう。仏閣を建立しよう」と深く誓った。法会が終わると下山し、西坂(雲母坂)より岩倉に分け入った(『大雲寺縁起』)

 『大雲寺縁起』にはその様子を以下のように記す。
 松・柏などが生い茂り、かつ人は絶えて無人となっていた。文範は乗物を停めて、従者を残してただ一人山中に分け入った。すると山に祠があり、蔓や草が絡みついて戸を閉ざしていた。文範がこの祠の前に詣でると、突如として老尼が現われ石に腰掛けた。

 文範は「あなたは何者ですか。またこの山の来歴を知っていますか」と聞くと、老尼は「わたしは石座(岩倉)の老尼で、仏法を守る者です。釈尊の在世中は霊山浄土にいました。釈尊が涅槃された後は住むべき地を探していましたが、この山の風が、(観音がまるで)慈悲の眼をもって衆生をご覧になり、大海のように無量無限の福徳を一切の衆生を救済するためかのように吹いています(いずれも「観音経」の文句)。人が聞いて解脱することができれば、この山の奥は観音浄土なのです。名付けて相転寺としました。無始無終の仏閣なのです。さらに凡夫の濁った眼では見ることができず、諸天は常に影向(ようごう)しているから、紫の雲がそびえ、音楽が聞こえ、鳥が三宝(仏法僧)を唱えるのです。弥勒が現われる(五十六億七千万年後)にも当寺の仏法は残っているでしょう。あなたは奏上してこの清浄の地に仏閣を建立すべきです。あなたには宿執があるからこの地に来たのです。私は人が熱心に祈るところならどこでもに出現し、必ず当寺の仏法を守ります。この山は(観音が住む)補陀山と思うべきです」。老尼は一本の松の根本に消えていった(『大雲寺縁起』)

 文範は都に戻り、翌日参内して奏上した。天皇は中納言敦忠・参議佐理に宣旨を発給させ、勅願寺とした。佐理はたちまち出家して、真覚と号した(『大雲寺縁起』)。大雲寺が建立された時の勅使は中納言藤原敦忠卿で、真覚上人の本願により造営された。本尊は行基(668〜749)が造立したという金色の等身十一面観音で、桓武天皇が仙洞御所に安置したとものとされ、相続して本院左大臣藤原時平(871〜909)が感得したという。敦忠の室の藤原明子が、勅によって大雲寺へ遷座したという。本堂は桓武天皇の仙洞の旧宮を移築したとされ、智証派流の潅頂堂となった(『大雲寺縁起』)

 このように藤原文範が比叡山の法会の際にみた奇瑞の地を訪ねていくうちに、老尼と出会い、ここに寺院を建立したという説話が語られる。ところで、建立年とされる天禄2年(971)には、大雲寺を勅願所とした中納言藤原敦忠(906〜43)はすでにかなり以前に薨去しており、しかも「参議」になっている藤原佐理は、能書家(三蹟の一人)として知られる藤原佐理(944〜98)であり、『大雲寺縁起』でも「三国無双の能書にして、異国に至りてもその隠れなし」とあるように、三蹟の佐理のこととしているが、彼が参議となったのは天元元年(978)になってからのことであるから、大雲寺建立時点で参議であったとするのは全く辻褄が合わない。

 藤原敦忠は、菅原道真と対立して道真を失脚させた藤原時平(871〜909)の子であり、文範はその家令であった。敦忠も時平一族の例に漏れず、若くしてこの世を去る運命に見舞われたが、敦忠の室は文範に再嫁している(『大鏡』第2巻、時平)。敦忠の4男にも藤原佐理(生没年不明)がいる。この佐理は、官職は右兵衛佐にまで昇ったが、康保4年(967)に突如として出家した。これが真覚である(『日本極楽往生記』延暦寺沙門真覚伝)。この時の出家は村上天皇の四十九日が終わった7月のことであったといい、親(父敦忠は薨去していたから母か)も妻も捨てて、山(比叡山)に登って僧となった。妻もまた尼となり、かつての夫と手紙を交わしあっていたという(『かげろふ日記』悲しきあま雲)

 このように、大雲寺は藤原時平の子敦忠の一族に関連する寺院として成立した。その後大雲寺は御願寺となり、さらなる発展をみる。


かつて大雲寺本堂が位置した場所にある医療法人三幸会介護老人保健施設紫雲苑(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)

大雲寺と関連の人々

 大雲寺は藤原時平の子、敦忠の子孫に関連する寺院として成立していた。開創者の真覚は前述の通り敦忠の4男であり、官職を捨てて出家していたが、その後の僧として師に従って両界法を受け、阿弥陀供養法を怠らず、晩年は往生したとされ、『日本往生極楽記』に伝記が掲載されるほどであった(『日本往生極楽記』延暦寺沙門真覚)

 真覚の母は藤原明子(904頃〜?)であり、同母弟の明昭もまた幼少より延暦寺に登って僧となっていた。母の明子には自身が産んだ3人の子のうち、2人が出家したことによって、老後を顧みる者が長子佐時のみとなってしまい、そのため天延4年(976)2月1日に上表して、明子自身の四位の位を停止して、佐時に一階を叙位することを願っている(『本朝文粋』巻第6、奏上中、申譲爵、為藤原明子請被停所帯爵令男右少弁佐時加一階状)

 その明子は少なくとも延長9年(931)2月の段階で朝廷に女官として仕えており、当時は内侍であり(『貞信公記』延長9年2月1日条)、翌月の3月までには掌侍となっている(『貞信公記』延長9年3月30日条)。天慶元年(938)11月14日に掌侍から典侍に昇進しており(『本朝世紀』第2、天慶元年11月14日丁巳条)、天慶年間(938〜947)以来、女官として朝廷に仕えること30余年で、「御匣殿別当」の称号を得た(『本朝文粋』巻第6、奏上中、申譲爵、為藤原明子請被停所帯爵令男右少弁佐時加一階状)

 その間、天慶6年(943)に夫敦忠が薨去し、天慶8年(945)9月には父藤原仲平も同母妹で中宮の藤原穏子(明子の叔母にあたる)に娘の後事を託し(『貞信公記』天慶8年9月2日条)、間もなく薨去した。仲平薨去後、仲平の枇杷殿を伝領し、夫の遺産を含めて膨大な富を得た。寛和元年(986)に叙位され、また長徳2年(996)正月10日にも叙位された(『小右記』長徳2年正月10日条)。『大雲寺縁起』によると、大雲寺の本尊観音像は藤原明子が勅によって大雲寺へ遷座したという(『大雲寺縁起』)

 大雲寺開創の真覚は余慶(919〜91)の門弟である。余慶は筑前国早良郡の人である(『寺門高僧記』巻1、余慶権僧正)。明仙の弟子であり、承平5年(935)7月2日に得度受戒した。行誉(893〜970)の受法潅頂の弟子となり、行誉の奏上により康保3年(966)12月27日に延暦寺阿闍梨となった(徳川昭武氏本『僧綱補任』乾〈『大日本史料』2編1冊〉)

 余慶が修行していた頃、如意峰に登って園城寺に行く途中、深い谷に松風が吹き、高い巌に滝が流れる中、読経の声がした。余慶は音の方へ行く手を遮る枝を折りながら行ってみると、3間4面(桁行3間の建物に1間の庇が周囲4面につく建物)の桧皮葺の建物があり、年30歳ばかりの僧が読経していた。余慶は静かに「年はいくつですか」と問いかけた。阿師なる僧は「今700歳になりました」と答えたものの、姿形はとても見えなかった。余慶は再度読経するよう勧め、法華経の安楽行品の諸天童子が給仕するの句にあたると、天童二人が降りてきた。一童は膳を持ち、一童は蓋を持っていた。その時余慶は普通の人ではないことを知った。膳を二つに分け、一つは余慶に与えた。その味はとても美味しかった。その後無駄話を数刻ほどして、帰ろうとしたところ、阿師「普通の人は来られないところである。今日出会ったことは嬉しくありがたい」、余慶「今日の奇怪なことは他の人にも伝えたいと思いますが、何を証拠といたしましょうか」、阿師「確かに」、余慶「所持している脇息を私に与えて下さい」、「百年もの間、ある時は読経し、ある時は疲れをとる時には、これを使っていたのだ。とても与えることはできない」といった。余慶は不動明王に加護をさせ、阿師はこれを知るや十羅刹女を唱え、法華経を読んだ。非常に怪異な容貌となった。余慶は神呪を唱えて印契を結び、大聖明王に貴した。この時脇息は壊れて真っ二つとなり、片方は阿師の所に、片方は余慶の前に来たという(『園城寺伝記』5之6、阿師仙人与余慶僧正競験事)

 安和2年(969)3月10日に権律師に補任され(興福寺本『僧綱補任』第2、安和2年条)、安和2年(969)6月19日に定心院十禅師に任じられた(徳川昭武氏本『僧綱補任』乾〈『大日本史料』2編1冊〉)。貞元2年(977)5月30日に律師に転じた(興福寺本『僧綱補任』第2、貞元2年条)。天元2年(979)12月21日に権少僧都に転じ(興福寺本『僧綱補任』第2、天元2年条)、同年、園城寺長吏に補された。天元3年(980)観音院は円融院の御願寺となり、阿闍梨4口(人)が置かれた(『寺門高僧記』巻1、余慶権僧正)。天元4年(981)9月5日に権大僧都に補任され、同年11月28日に法性寺座主に補任された(興福寺本『僧綱補任』第2、天元4年条)。永祚元年(989)9月29日に天台座主に補任され、座主宣命を受けた(『天台座主記』巻1、20世大僧都余慶、永祚元年9月29日条)。比叡山では第3代天台座主の円仁の門下たる慈覚門徒と、第5代天台座主の円珍の門下たる智証門徒が互いに勢力を争い、1世紀後には事実上敵対関係に陥っていた。余慶は智証門徒の領袖であり、天元4年(981)12月に法性寺座主に余慶が任じられると、慈覚門徒は法性寺座主は慈覚門徒が代々相続していたことを主張して騒動をおこし、太政大臣邸に押しかけるほどであったため、余慶は法性寺座主職を辞さざるを得なくなった(『扶桑略記』第27、天元4年12月条)

 余慶は争いを避けて大雲寺観音院に逃れていたが、天元5年(982)正月には天台座主良源らが智証門徒の拠点となっていた比叡山千手院・観音院・一乗寺を焼き払って、余慶・勝算(939〜1010)を殺害しようとする風聞が流れている(『扶桑略記』第27、天元5年正月10日条)。永祚元年(989)9月29日に余慶は天台座主に任じられたが(『扶桑略記』第27、永祚元年9月29日条)、余慶は宣命を観音院で受けているが(『扶桑略記』第27、永祚元年12月2日条)、比叡山を実行支配する慈覚門徒は余慶を受け入れることはなかった(『天台座主記』巻1、20世大僧都余慶、永祚元年12月20日条)。しかし争いは止まず、正暦4年(993)8月10日、智証門徒1,000人は円珍像を背負い叡山を退去して大雲寺に移り、長徳年間(995〜99)の初め、園城寺に移った(『寺門伝記補録』第19、雑部乙、両門不和之事・両門別離之事)。永祚元年(989)12月27日に権僧正に補任された(興福寺本『僧綱補任』第3、永祚元年条)。正暦2年(991)閏2月18日に示寂した。73歳。余慶の4人の門弟は観修(935〜1000)・勝算・慶祚(955〜1020)・穆算(944〜1008)がいる(『寺門高僧記』巻1、余慶権僧正)

 文慶は藤原佐理の子で、余慶の入室の弟子となった。初代大雲寺検校となり、明王院法印と号した。正暦2年(991)12月に勝算より三部大法職位を受法した(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)。寛弘5年(1008)に一条天皇の内親王が病となるも平癒しており、この時文慶は平癒の祈祷を行ったため、一条天皇の希望により文慶は4月24日に権律師に補任された(『御堂関白記』寛弘5年4月24日条)。寛弘8年(1011)に律師となる(興福寺本『僧綱補任』第3、寛弘8年条)。長和3年(1014)10月28日に護持僧となり(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)、同年10月28日に権小僧都となった(興福寺本『僧綱補任』第3、長和3年条)

 長和3年(1014)第19世園城寺長吏に補任され、3年間後に離任したが、寛仁3年(1019)から10年間、長元2年(1029)から1年間と、園城寺長吏職を三任した(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)。その間、治安3年(1023)12月29日に権大僧都となるも(興福寺本『僧綱補任』第3、治安3年条)、翌治安4年(1024)に病のため辞職を申し出ており(興福寺本『僧綱補任』第3、万寿元年条)、同年6月26日に宣旨により官職を停止された(『小右記』万寿元年7月11日条)。永承元年(1046)7月2日に示寂した。81歳(『寺門伝記補録』巻第13、僧伝部丁、長吏高僧伝巻上、法印大僧都文慶伝)。弟子に成尋がおり、また興昭(生没年不明)・芳盛(生没年不明)・清台(生没年不明)・文円(生没年不明)・行意(生没年不明)・慶縁(生没年不明)・雅縁(生没年不明)・証真(生没年不明)・観音院阿闍梨となった昌範(生没年不明)・雅円(1005〜60)・成尋・悟覚(敦儀親王、997〜1054)に付法した(『伝法潅頂血脈譜』文慶下)。文慶は大雲寺に如意輪観音を本尊とする持宝院を建立している(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。この持宝院は「大雲寺古絵図」によると南大門外に位置していた。


大雲寺からみた比叡山(平成24年(2012)12月12日、管理人撮影)

大雲寺の子院@ 〜観音院〜

 大雲寺は現在、ただ本堂のみがある小寺となっているが、かつては広大な寺域に多くの子院を配置する壮大な伽藍であった。実相院本『大雲寺縁起』所載の「大雲寺諸堂目録」や、同じく実相院所蔵の「大雲寺古絵図」をみると、古代・中世には多くの子院が大雲寺にあったことが確認できる。

 子院の多くは、大雲寺そのものを中心として、血縁・法系に関係する者たちの建立になっており、これら子院と建立者の関係をみることは、当時の人脈上の交流をみる上で、大変興味深い。これら子院のなかで中核となったのが冷泉天皇の皇后であった昌子内親王の御願であった観音院である。

 観音院は皇太后昌子内親王(950〜1000)の御願として建立された。永観3年(985)2月22日、皇太后(昌子内親王)は観音院を建立し、供養のため観音院に行啓した(『日本紀略』後篇第8、寛和元年2月22日丁酉条)。本来は19日に予定されていたが、雨のため延期となっていた(『日本紀略』後篇第8、寛和元年2月19日甲午条)

 観音院には建物が6堂あり、講堂・五大堂・潅頂堂・法華堂・阿弥陀堂・真言堂があった。うち講堂には金色の六観音像・六天像が安置され、五大堂には五大尊像、法華堂には普賢像、阿弥陀堂には阿弥陀如来像が、真言堂には両部曼荼羅が安置された。建立は父朱雀天皇と母煕子女王の供養のためであり、供養のため屈請された僧は100名、僧に供する者は3,000名弱に及んだ(『扶桑略記』第27、永観3年2月22日条)。この時の導師は真言宗の寛朝が行った(『小右記』永観3年2月23日条)。観音院には昌子内親王より荘園が施入されており(『新勅撰和歌集』巻第10、釈教歌、第587番歌)、また同年3月7日には円融院が御幸している(『小右記』寛和元年3月7日条)。天元3年(980)正月24日には阿闍梨が置かれた(『小記目録』)

 長保元年(999)12月1日、昌子内親王は崩御した。その最期は剃髪して手には名香を盛り、西方に向かって阿弥陀の宝号を唱えたものであった(『小右記』長保元年12月1日条)。翌日には棺を観音院に移し(『小右記』長保元年12月2日条)、5日に荼毘に付すとともに、御車・牛・屏風・几帳・簾などが観音院に寄進された(『小右記』長保元年12月5日条)

 長和2年(1013)10月13日には観音院にて塔が造営されていたが、完成による塔供養が行われており(『扶桑略記』第28、長和2年10月13日辛未条)、これは太皇太后宮職らが中心に行ったものであり、右大将藤原実資・中納言源俊賢であった(『御堂関白記』長和2年10月13日条)。長保元年(999)9月22日には楽子内親王(952〜98)の周忌法会が大雲寺で実施されている(『権記』長保元年9月22日条)

 その後観音院は荒廃しており、藤原実資が寛仁2年(1018)閏4月6日に観音院を詣でたところ、寺中はの多くは破壊されていたという(『小右記』寛仁2年閏4月6日条)。寛弘2年(1005)6月7日には丈六の不動尊が開眼供養されており、勝算の書状により多くの公卿が列席した(『権記』寛弘2年6月7日条)

 大雲寺は園城寺を中心とする智証門徒の拠点であったことから、比叡山の慈覚門徒との抗争において、たびたび被害を受けているが、とくに観音院は保安2年(1121)5月27日に延暦寺の衆徒によって一乗寺とともに焼き払われており(『百練抄』第5、保安2年5月27日条)、保延2年(1136)3月12日にも観音院は全焼している(『中右記』保延2年3月12日条)。これ以後、再建されなかったらしく、観音院は記録上に現われない。


宮内庁治定昌子内親王岩倉陵(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)

大雲寺の子院A 〜北大門〜

 『大雲寺縁起』によると、大雲寺は同寺自体を本寺として、その他に二寺を建立しており、大雲寺を三分して中大門・北大門・南大門とし、それぞれ大雲寺・福泉寺・是王寺となっていたという(『大雲寺縁起』)。いわばこの古代以来の幽邃な聖地「石蔵」が、大雲寺建立によって多くの僧坊・子院・子坊が林立し、それらを組織的に運営する必要に迫られたため、地勢的配置から区分されていったものとみられる。これが大雲寺の三門制である。ただし大雲寺の三門制は、比叡山の三塔制より始まった大寺運営における制度を模倣したものに過ぎず、しかも直接的に模倣したのは園城寺の三院制であったと思われる。

 もっとも大雲寺の縁起などにみられる子院と建立者のリストは必ずしも古代における実情を正確に現わしたものではなかったらしく、ある程度中世の大雲寺の寺院組織の伝承を遡及し、並列化しただけなのかもしれない。実際、中世の大雲寺の姿を現わしたとされる「大雲寺絵図」は、園城寺の「園城寺絵図」を筆写し、それを大雲寺の配置をもとに引き写したものとみられる。よって必ずしも史料上の信憑性があるとは言い切れず、中世末から近世初期にかけて大雲寺を支配した実相院が、自身が支配する実相院の規模を、本寺である園城寺と同等のものと見せかけるための、いわば誇張表現であったのかもしれない。


 北大門は福泉寺と称されたといい(『大雲寺縁起』)、延喜年間(901〜23)に建立されたという(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。いわば大雲寺建立以前の「石蔵」と称された隠遁地としての岩倉の地の原初の姿を垣間見せている。

 その北大門の中心子院の一つが成金剛院である。本尊は金剛童子であり、不動・毘沙門も安置されていた。建立は山本供奉理念であるという(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。この人物について詳細はわかっていないが、『大雲寺縁起』には正暦4年(993)に智証門徒が比叡山を降りて大雲寺に退去した際の4人の頭領の一人として、山本房賀延阿闍梨(生没年不明)なる人物がみえる(『大雲寺縁起』)。賀延は教静(944〜1018)より伝法潅頂を受け、松本坊と号し、龍花院の初祖である(『伝法潅頂血脈譜』教静僧都下、賀延尻付)。賀延の弟子に山本房を称した人物に明尊(971〜1063)と蓮昭(988〜1048)がいる。明尊は余慶の弟子で、園城寺長吏を勤めた人物であるが(『寺門高僧記』巻第2、明尊大僧都法務伝)、観修・慶祚・賀延の弟子でもあった(『伝法潅頂血脈譜』明尊前大僧正)。明尊が示寂した後、慶暹(993〜1064)はしばらくして、坊を石蔵に見てみると年を経て草が生い茂っている様をみて「亡き人の跡をだにとて来てみれば あらぬ様にも成りにけるかな」と詠んでいる(『新古今和歌集』巻第8、哀傷歌、第819番歌)。蓮昭は賀延の弟子とも(『大雲寺縁起』当寺名哲之系図)、勝算の弟子ともいうが、結局兄弟子の明尊より伝法潅頂を受法している(『伝法潅頂血脈譜』明尊前大僧正、蓮昭尻付)

 「大雲寺古絵図」によると、成金剛院は北大門内に南向きで位置しており、桁行6(5カ)間、梁間4(3カ)間の入母屋造桧皮葺の縁に高欄がめぐる建物として描かれている。そのすぐ東側には1間流造の弁財天社が鎮座する。また「大雲寺古絵図」によると、成金剛院の西側には潅頂堂が位置しており、桧皮葺入母屋造の桁行5間、梁間3間の東向きの縁に高欄がめぐる建物が描かれている。成金剛院は応仁の乱後に実相院が移転しており、そのまま廃院となった。

 同じく北大門に位置した正教院は威儀師延源が建立したもので、本尊は六観音である(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。延源は比叡山の僧侶であるが、東大寺戒壇院における円融院の授戒に参加するなど(『円融院御受戒記』)、活動は広範囲におよび、宗派を超えた活動を行っており、花山法皇の側近の一人であったらしい。天元3年(980)9月3日の根本中堂供養にあたって右方の讃衆として参加し(『叡岳要記』巻上、中堂供養)、長保元年(999)頃までには天王寺別当となっており(『小右記』長保元年10月30日条)、寛弘元年(1004)5月4日に僧綱に準じた待遇を得た(『日本紀略』後篇第11、寛弘元年5月4日条)。絵をよくしたらしく、長保4年(1002)花山法皇の命により性空(917〜1007)の肖像画を描いている(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝(悉地伝)』)

 正教院には池があり、源泉(976〜1055)が正教院に住している時、池で船を漕いでいたが、その櫂は金の古鋤であり、操船中に池中に落としてしまった。そこで源泉は本堂にむかって「私は観音に身を預けている。もし立身するならもう一度古鋤が揚がってくるように」と誓願すると揚がってきたという(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。源泉は後に観音院に住していたらしいが、天喜元年(1053)10月に天台座主に任じられるものの、比叡山と園城寺の抗争を危惧してか結局3日で辞退することになり、辞退したその日に園城寺の大衆数千人が観音院にやってきて源泉を迎えに来たため、京中は騒動になったという(『扶桑略記』第29、天喜元年10月28日条)。正教院は幕末まで存続したが、天保4年(1833)5月12日の火災で焼失し(『京都府寺誌稿』)、明治5年(1872)11月に正教院の石座密道が実相院を購入して移り(「愛宕郡寺院明細帳」393、大雲寺〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)、明治12年(1879)2月に正教院の保存のめどが立たないため、廃絶した(「愛宕郡寺院明細帳」394、大雲寺〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)


「大雲寺古絵図(実相院蔵)」(島津草子『成尋阿闍梨母集・参天台五台山記の研究』〈大蔵出版、1959年12月〉口絵より転載)

大雲寺の子院B 〜南大門〜

 南大門の中心となったのが、尊星王を本尊とした平等院である。この平等院を建立したのが悟円(951〜1041)である(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。悟円は俗名を致平親王といい、村上天皇の第三皇子で、母は右大臣藤原在衡(892〜970)の娘正妃(?〜967)であった。天元4年(981)に出家入道し、余慶に師事した。その後禅耀(924〜?)・慶祚より受法し、明王院に入って御室を造営した。そのため明王院御室と称され、また法三宮ともいう。寛和3年(987)2月24日、余慶より大法潅頂を受けた。また平等院を建立し、在俗時の子の永円を院主とした。これが平等院門跡の基礎となったという(『寺門伝記補録』巻第15、非職高僧略伝巻上、悟円伝)。鎌倉時代には大雲寺寺務職を兼任して寺内に大きな勢力を保ったが、元弘・建武年間(1331〜38)に園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれた(『京都府寺誌稿』)

 悟円の同母弟である平景(944〜1013)もまた石蔵に隠棲した人物である。平景は俗名を昭平親王といい、村上天皇の第九皇子で、天徳4年(960)12月29日に一旦源氏を賜姓され(『日本紀略』後篇第4、天徳4年12月29日条)、安和元年(968)8月25日には外祖父の藤原在衡家で元服した。(『日本紀略』後篇第4、安和元年8月25日条)。貞元2年(977)4月21日に親王となった(『日本紀略』後篇第6、貞元2年4月21日条)。永観2年(984)に出家し、勝算より伝法潅頂を受けた(『園城寺潅頂血脈系譜』智観権僧正下、入道九宮尻付)。長和2年(1013)6月28日に石蔵にて示寂した(『日本紀略』後篇第13、長和2年6月28日条)

 同じく南大門に位置したのが理智院であり、これは悟覚(997〜1054)の建立である(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。悟覚は俗名を敦儀親王といい、三条天皇の第三皇子で(『日本紀略』後篇第12、寛和8年10月5日条)、長徳3年(997)5月19日に藤原セイ(女へん+成。UNI5A0D。&M006288;)子(972〜1025)を母として誕生した(『日本紀略』後篇第10、長徳3年5月19日条)。産まれた時、三条天皇はいまだ東宮(皇太子)であり、藤原道長より佩刀を奉られた(『後拾遺和歌集』巻第19、雑5、第1103番歌)。寛和8年(1011)10月5日、三条天皇の即位にともなって親王となり(『日本紀略』後篇第12、寛和8年10月5日条)、長和2年(1013)3月23日に清涼殿で元服した(『日本紀略』後篇第12、長和2年3月23日条)

 敦儀親王の母の皇后藤原セイ子は藤原済時(941〜95)の娘であり、済時は極官は大納言で終わったものの、三条天皇は皇太子時代からの妻であるセイ子を皇后にたてた。しかし朝廷の実力者藤原道長は娘藤原妍子(994〜1027)を三条天皇に入内させ、中宮にたてたため、二后並立状態となった。しかし妍子との間には禎子内親王(1013〜94)しか産まれず、かえって三条天皇と藤原道長の間は険悪となり、三条天皇は道長の圧力で譲位を余儀なくされた。これにより敦儀親王の前途も暗いものとなる。寛仁4年(1020)に式部卿に補任されたものの(『皇年代記』)、同年、藤原隆家(979〜1044)の娘と結婚する予定であったが、道長の機嫌を損ねたため延期となり(『小右記』寛仁4年10月23日条)、治安元年(1021)2月1日にようやく結婚できた(『小右記』治安元年2月1日条)。この妻とは長元元年(1028)8月23日に死別し、弔問客の前で立ちながら号泣したという(『小右記』長元元年8月23日条)。妻の三回忌の1ヶ月後の長元3年(1030)9月23日にわずか34歳で出家し、石蔵に入った(『日本紀略』後篇第14、長元3年9月23日条)

 出家した敦儀親王は法号を悟覚と称し、文慶の門下に入った。文慶はかつて藤原セイ子の病を加持祈祷で癒したことがあり、文慶はそれによって大雲寺別当となったという(『大雲寺縁起』)。『大雲寺縁起』によると、悟覚は岩倉南大門西谷の幽閑の地に住み、乗乗房と号したという(『大雲寺縁起』)

 「大雲寺古絵図」によると、理智院の四方は塀に囲まれており、北側と西側に門があり、本房は入母屋造桧皮葺の桁行5間、梁間3間の南向の建物であり、その東側には桁行3間、梁間2間の切妻造の付属建造物があった。 

 大雲寺南大門は、いわば塀で覆われた部分の他にも子院があったらしい。「大雲寺古絵図」の記載を信じるならば、大雲寺の塀は岩倉川付近まであったが、その外には持宝院・定林院があり、南大門を超えた南側には金龍院が描かれている。

 持宝院は文慶によって建立され、本尊は如意輪観音である(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。「大雲寺古絵図」によると桧皮葺入母屋造で、桁行7間、梁間4(5カ)間の南向きの建物である。

 定林院は後三条天皇の御願で、本尊は阿弥陀如来である(『大雲寺縁起(続群書類従本)』大雲寺諸堂記)。建立した備前守源朝棟(生没年不明)は醍醐天皇の末孫であるという。定林院には大池があり、巨石が建てられているが、この石一つを動かすのに牛12頭で引っ張ったという(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。「大雲寺古絵図」によると桧皮葺入母屋造で、桁行5間、梁間3間で1間向拝付の南向きの建物である。また大きな池も描かれている。また定林院の西側には浄雲寺という寺院があった(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)

 金龍院は本尊が丈六の阿弥陀如来像で、明範が建立した(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。明範は連昭僧都の弟子で(『大雲寺縁起(続群書類従本)』当寺名哲之系図)、承保2年(1075)に頼豪(1002〜84)から伝法潅頂を受けた他はわかっていない(『伝法潅頂血脈譜』頼豪下、明範)


岩倉川(平成24年(2012)12月12日、管理人撮影)。岩倉川は「大雲寺古絵図」によると、大雲寺の西側の塀の堀のような役割を果たしており、大雲寺境内の西限であったが、岩倉川の西側にも持宝院・定林院などの子院が建てられていた。

成尋阿闍梨と子院

 大雲寺を語る上で見過ごすことができない人物に成尋がいる。成尋は入宋しており、その日記『参天台五台山記』は神宗期の宋における政治・社会・経済・文化の諸法面にわたる第一級の史料である。その成尋は大雲寺の僧であり、入宋するため京都を離れる直前まで大雲寺に住していた。

 成尋の父については不明であるが、あるいは貞叙なる僧が成尋の父と推定されている(島津1959)。文慶(966〜1046)の弟子となり、師より胎蔵・金剛両部の大法、護摩秘法・諸尊別行儀軌を学んだ(『参天台五台山記』第4、熙寧5年10月14日条)

 成尋は後に宋に渡った際の上奏文において、「大雲寺主となりて三十一年、左丞相に護持して二十年」と述べていることから(『参天台五台山記』第1、煕寧5年6月2日条)、奏上した熙寧5年(1072)より逆算すると、長久2年(1041)に大雲寺主となったようである。同様のことから永承7年(1052)に藤原頼通の護持僧となっていた。

 さらに恒円法親王・行円(?〜1047)・明尊(974〜1063)からも教えを受けている。その後延暦寺における広学竪義をつとめたらしく、天喜2年(1054)12月に釈照の闕分として延暦寺阿闍梨に補任するとともに、伝法潅頂が授けられた(『参天台五台山記』第4、熙寧5年10月14日条)

 康平3年(1060)9月13日に新羅明神祠に詣でて夜を通じて誦念すると、夜に新羅明神が成尋のもとに降臨したという。成尋は神鏡一枚を求め、蔵人頭泰生が円慶に授け、円慶は大雲寺に戻って山麓に新羅明神の祠を造立し、神祠を納めたという(『寺門伝記補録』第1、神祠部甲、新羅祠巻上、北石蔵祠)。成尋は康平4年(1061)7月30日夜、夢に大河に白い石橋が架かっており、これを渡ったが、夢の中で天台山の石橋であると思っていたという(『参天台五台山記』第1、煕寧5年5月18日条)

 成尋は藤原頼通に護持僧として用いられ、また朝廷にも用いられていたから多忙な毎日を過ごしていた。治暦3年(1067)に頼通が病となったため、成尋は加持祈祷を行っていたが、12月になると後冷泉天皇が不予(病気)となり、翌治暦4年(1068)4月に崩御、その後成尋は7月1日に岩倉の大雲寺に戻り、岩倉に老母を呼び寄せた(『成尋阿闍梨母集』)。成尋はすでにこの頃から五台山巡礼を志して入宋を決意しており、不臥の行を三年間行ったという(『朝野群載』巻第20、外国、聖人申渡唐、阿闍梨伝灯大法師位成尋上奏)

 延久元年(1069)閏10月7日に成尋は旅路にて帝王より薬を賜ったという夢を見ており、成尋はこの夢を後に五台山巡礼成就の予知夢と考えている(『参天台五台山記』第4、熙寧5年10月29日条)

 延久2年(1070)成尋は老母に対して、趺坐の行が三年済んだならば、宋に渡って五代山巡礼の宿望を果たしたいと述べた(『成尋阿闍梨母集』)。延久2年(1070)正月11日、成尋は朝廷に入宋の許可を得るべく、官符を求めて上奏したが(『朝野群載』巻第20、外国、聖人申渡唐、阿闍梨伝灯大法師位成尋上奏)、梨の礫であったらしく、結局密航することになる。

 延久3年(1071)正月30日、成尋は母を兄である仁和寺の律師のもとに預け、2月16日に京都を出発する予定であったが、早めて2月2日に京都を発ち、九州に向けて出発した(『成尋阿闍梨母集』)。翌延久4年(1072)3月15日、肥前国松浦郡壁島(佐賀県唐津市加部島)にて乗船し、翌日16日に宋に向けて出発した(『参天台五台山記』巻第1、延久4年3月15・16日条)

 入宋後、神宗皇帝より善慧大師の号を賜り、弟子5人に日本に向かう宋船に乗り込ませ、自身の日記も託した。成尋は帰国することなく元豊4年(1082)に開封の開宝寺で示寂した。

 成尋は入宋して善慧大師として尊崇されたが、大雲寺内では寺坊建立している。

 如法院は成尋が建立しており、法華曼陀羅木像四十六尊・五大尊像を本尊としている。この如法院の内陣は潔斎しており、不精進の輩が入るのを禁じた。五大尊を安置すると如法院にて百日の間不動護摩供を行っている(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)

 宝塔院は法華曼陀羅木像四十六尊を本尊とし、やはり成尋が建立した。宝塔院の東南の方角に大槻の樹があり、枝葉が茂っていた。成尋が坐禅して誦経すると夜半に風や雪がないのにもかかわらず枝がにわかに地に落ちたため、成尋が恐れていると、その朝に伊勢大神宮からの使者(双環童子)が来て、多くの神々が成尋が誦経する声を聞こうと木の枝の上に登ったから折れたのだといい、それを言い終わるとたちまち見えなくなっていたという(『大雲寺縁起(実相院本)』大雲寺諸堂目録)。近世にも存続しており、天保4年(1833)5月12日の火災で焼失し(『京都府寺誌稿』)、明治12年(1879)2月に保存のめどが立たないため、廃絶した(「愛宕郡寺院明細帳」394、大雲寺〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)


成尋阿闍梨像(島津草子『成尋阿闍梨母集・参天台五台山記の研究』〈大蔵出版、1959年12月〉口絵より転載。

大雲寺の所領

 大雲寺の子院の観音院には昌子内親王より荘園が施入されており(『新勅撰和歌集』巻第10、釈教歌、第587番歌)、寺領が形成されていたことが知られるが具体的なことはわかっていない。大雲寺が位置した小野郷は、別雷社(下鴨神社)の社領であるが、開創に関係する藤原文範の別業の小野山荘があり(『小右記』寛和元年3月6日条)、大雲寺領が小野郷に形成されるにおいて、基礎的役割を果たした。

 上下賀茂社の社領の四至は、寛仁2年(1018)11月25日の官符によって、東は延暦寺、南は北大路、西は大宮東大路、北は郡の堺となっていたが、延暦寺領八瀬・横尾両村の田畠については、禅院(赤山禅院)の燈分とし、かつ住人が延暦寺の役者となっていたことから、社領から除外されていた(『小右記』寛仁3年7月9日条裏書)。寛仁3年(1019)に八瀬・横尾が延暦寺領であることは確認されていたが、田畠に関する点が疑問とされた(『小右記』寛仁3年2月16日条)。そこで藤原道長(966〜1028)によって田3町余と畠若干は禅院の燈明料であり、官符などの証拠はないものの、長年の慣例であったため、比叡山領とし、八瀬・横尾の住人も比叡山に召し仕えさせることとなった(『小右記』寛仁3年5月16日)。しかし山城国司の注申により、横尾村所在の田畠2町8段は官物で、禅院の燈分に充てるとなっていたが、実際には山城国・愛宕郡ともに掌握しておらず、しかも横尾村住人自体も延暦寺は掌握していないばかりか、観音院・修学院の住僧・下人であったという(『小右記』寛仁3年8月23日)。そこで再度実検してみると、観音院・月林寺などの田畠は、あるいは大門の内にあり、あるいは大門の付近にあったという(『小右記』寛仁3年12月11日条)。このように智証門徒が比叡山を退去して、観音院・修学院に移った後も、比叡山の入口ともいうべき雲母坂の麓に留まっていたことが知られる。

 大雲寺は園城寺を中心とする智証門徒の拠点であったことから、比叡山の慈覚門徒との抗争において、たびたび被害を受けた。保安2年(1121)5月27日に延暦寺の衆徒によって大雲寺観音院と一乗寺が焼き払われており(『百練抄』第5、保安2年5月27日条)、保延2年(1136)3月12日にも観音院は全焼している(『中右記』保延2年3月12日条)

 長寛元年(1163)6月にも比叡山と園城寺が抗争して、園城寺が焼き払われているが(『百練抄』第7、長寛元年6月9日条)、この時比叡山側の鞍馬寺と園城寺側の大雲寺との間で合戦となり、大雲寺は堂舎・僧房を焼き払われており、その際、近隣の鴨御祖太神宮(下鴨神社)領や家々が灰燼と化し、財産・牛馬が掠奪された。その後鞍馬寺と大雲寺の僧が路頭で争いとなり、同年7月3日に鞍馬寺側が狐坂を封鎖すると、行き来していた鴨御祖太神宮の番役・神人の往還が不可能となり、しかも神人の吉友が斬首されてしまったため、番役・神人が恐れて参勤しなくなったため、鴨御祖太神宮は鞍馬寺に対して、大雲寺との抗争を停止するよう求めている(「鴨御祖大神宮政所牒」林康員文書〈平安遺文3262〉)

 大雲寺は中世期には荘園のみならず、大雲寺内の検断・水利権を雑掌が有していたが、この先例となっていたのが応徳2年(1085)の公験であった(「足利義詮御判御教書案」実相院文書)。この応徳2年の公験とは、応徳2年9月26日付の「検非違使庁勘録状」のことで、地頭分・諸役検断権・堰料・河水権を大雲寺寺家が管領するものとされ、その四至は東は安禅寺坂旧岡に限り、西は篠原大道西端に限り、南は木行坂峠に限り、北は静原氷室山谷河越に限るものであった(「検非違使庁勘録状」実相院文書)。この文書が果たして実際に応徳2年(1085)のものであるかどうか信を置きがたいが、中世を通じて大雲寺領の証拠として用いられ続けた。


閼伽井(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)。智弁水とも称され、精神疾患・眼病に効果あるとされ、近世における大雲寺の発展に寄与した。

中世大雲寺の諸相

 大雲寺中に位置した平等院は、円満院門跡となり、大雲寺寺務職を兼帯していたが、元弘・建武年間(1331〜38)に園城寺への移転にともなって大雲寺寺務職を解かれた(『京都府寺誌稿』)。代わって大雲寺を管領したのが実相院門跡である。実相院は建武3年(1336)9月3日に大雲寺および同寺の荘園を光厳上皇より安堵されており(「光厳上皇院宣案」実相院文書〈『大日本史料』6編3冊〉)、以後実相院による大雲寺への支配がはじまる。

 観応2年(1351)2月12日に足利義詮より大雲寺内の検断・水利権を大雲寺雑掌に安堵されているが(「足利義詮御判御教書案」実相院文書)、これ以降、たびたび大雲寺は自領をめぐる紛争がおこる。応永元年(1394)には栂尾(高山寺)の間で相論があったらしく、守護遵行によって大雲寺の当知行が認められたが、押領を退けるため、また大雲寺雑掌の検断権と寺家の知行を先例とするため、山城守護に下知を求めており、応永2年(1395)10月8日に山城守護結城満藤によってそのように下知された(「山城国守護結城満藤遵行状案」実相院文書〈『大日本史料』7編2冊〉)

 大雲寺の所領安堵は、応永6年(1399)11月6日に足利義満より北岩蔵中殿敷地が(「足利義満御判御教書」実相院文書)、翌応永7年(1400)2月18日に山城国峰越山が安堵されている(「足利義満御判御教書案」実相院文書〈『大日本史料』7編4冊〉)。ところが大雲寺領の山林・田畠は諸人が買得相伝と称して押領する場合が多かったらしく、大雲寺本堂の造営に支障を来していたらしい。そのため応永13年(1409)9月に幕府は諸人の買得相伝と称して押領することを禁止している(「室町幕府将軍家御教書案」実相院文書〈『大日本史料』7編8冊〉)

 大雲寺は隣接する賀茂社との間で皆越山内の堂山をめぐって境相論となっており、賀茂社は堂山が原野であって、大雲寺が知行していたものではなく、そのことは賀茂社側が証拠として提出した沽却状(売却状)に明らかであるとされたため、境相論は賀茂社有利の裁決が下されていた。これを不服とした大雲寺衆徒は応永16年(1409)6月に意見書を提出したが、その中で大雲寺は賀茂社の言い分は捏造であって、堂山は大雲寺本堂のための山であり、西は鞍馬大路(鞍馬街道)から八葉峰八谷まで大雲寺領の山であり、その詳細は曩祖大師(円珍か)の差図に明らかであるとし、原野である堂山の所在地が八谷の尾根にあるから賀茂領であるとするのは理屈が合わず、しかも原野ならば根本預状がどうして大雲寺から出されているのかと述べる。さらに強訴や武力に訴えても構わず、山木を伐採する用意があったものの、北山殿(将軍義満)より昼夜祈祷を命じられているから、差し控えていると述べている(「大雲寺衆徒申状」実相院文書)。後に応永23年(1416)6月1日に大雲寺の四至内の地を安堵されているものの(「称光天皇綸旨案」実相院文書)、この大雲寺の主張は入れられなかったらしく、かえって大雲寺を管領する実相院門跡に不信感を抱かせたらしい。

 以降、大雲寺内の自治を完遂しようとする衆徒と、支配を強めようとする実相院門跡が対立し、嘉吉3年(1443)5月28日に大雲寺衆徒の頼尚ら9名が門跡別当の命により、無礼を働かない旨を神仏にかけて起請している(「頼尚等連署起請文案」実相院文書)。しかし門跡側はこの起請文を不審があるとしたため、6月23日に頼尚ら4名が忠誠を誓う申状を提出しているが、尭仙坊尚賢は違例(病気)と称して署判しなかった(「大雲寺衆徒申状」実相院文書)。この尭仙坊は大雲寺内において勢力があったらしい。応永6年(1399)11月6日に足利義満より安堵された大雲寺領北岩蔵中殿敷地は(「足利義満御判御教書」実相院文書)、永正7年(1510)に広橋守光を含めて建仁寺清住院・如意軒との間で相論となっており、同年7月29日に幕府より守光と大雲寺に半分宛を安堵する奉書が大雲寺雑掌に出されているが、その正文は尭仙坊が所持していたというから(「室町幕府奉公人連署奉書案」実相院文書〈『大日本史料』9編2冊〉)、尭仙坊は大雲寺雑掌の地位にあったことが知られる。大雲寺の雑掌についての詳細は不明であるが、門跡支配が強化される以前は大雲寺の子坊が合議制で運営していたらしく、その子坊として尭雲坊・教生坊・尭仙坊・密乗坊がみえる。彼らは尚任(尭雲坊)・尚賢(尭仙坊)・尚超(密乗坊)と、教生坊(承舜)以外はいずれも「尚」字を系字としていた(「頼尚等連署起請文案」実相院文書)

 文安元年(1444)に武田下条政信が管領に訴えたことにより、福田庵尚茂が闕所(財産没収刑)となっているが(「実相院門跡雑掌申状」実相院文書)、この福田庵尚茂は「尚」字を系字にすることから、大雲寺の子坊の僧であったらしい。この闕所は12月晦日に幕府の奉公人から実相院門跡に通達されたが、闕所地は実相院門跡ではなく他人の手に渡ってしまっていた。そのため実相院は訴えをおこし、享徳3年(1454)烏丸卿より奉書・御教書を得たが、今度は武田下条政信に押領され、長禄2年(1458)9月に訴えをおこした(「実相院門跡雑掌申状」実相院文書)。幕府の右筆らは長禄3年(1459)12月に武田下条政信に給付されたものとはいえ、大雲寺領境内であり、実相院が検断権を有するなど実効支配してきた地であり、文書上に明らかであるとして、享徳3年(1454)の裁定のままに実相院門跡雑掌のものとすべきとしている(「室町幕府意見状」実相院文書)。このように実相院門跡は末寺の大雲寺への直務支配を強化しつつあり、大雲寺領内の地が闕所になったとしても、それは本寺たる実相院の地であるという論理を展開している。それは大雲寺における衆徒や子坊であったとしても、それはすべて本寺実相院に帰結するものであり、彼らの権利は実相院よりの借り物であるとの考え方があった。

 応仁元年(1467)5月、応仁・文明の乱において今出川小川の地に位置した実相院門跡は東軍側の陣地が築かれ、両軍間が対峙しては激戦を繰り返す最前線となった(『大乗院寺社雑事記』応仁元年5月29日条)。そのため実相院門跡はこの戦乱の最中は大雲寺へと避難しており(『大乗院寺社雑事記』文明6年5月19日条)、以後、実相院門跡は大雲寺境内の成金剛院の旧地へと移転し、現在にいたることになる。応仁・文明の乱後、実相院は荘園所領において相論が相継ぎ、年貢の未進や支配の弱体化が目立つようになり、経済的にも困窮するようになる。このような場合、権門側が直務支配に乗り出すケースがあり、極端な例としては日根野荘に下向した九条政基(1445〜1516)が有名である。実相院門跡もまた大雲寺および同領の直務支配に乗り出し、これによって大雲寺の自治を死守しようとする衆徒らとの軋轢が多くなった。

 文亀2年(1502)8月6日に実相院門跡義忠(1479〜1502)が将軍足利義澄の命によって殺害され(『後法興院記』文亀2年8月6日条)、実相院領は収公され、将軍夫人日野氏領となった(『後法興院記』文亀2年8月9日条)。これによって、大雲寺に対する実相院門跡の支配を強めようとする動きに陰りをみせ、大雲寺衆徒は一時的に大雲寺内の自治勢力回復に成功したらしい。しかし永正の錯乱にともなう京都の混乱のため、将軍義澄は近江に退避、前将軍義材(義尹)が将軍職に復帰し、実相院も門主が入室することになり(「室町幕府奉行人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編2冊〉)、実相院門跡と大雲寺衆徒の抗争が再開する。永正12年(1515)に実相院門跡と大雲寺衆徒の対立はピークに達し、大雲寺寺僧・地下人は自専(自治)を行って、門跡の下知に従わなかったらしい。そのため同年6月5日に幕府は大雲寺寺僧・地下人に対して自専することを禁止し、これに背く者は名を連ねて注進するよう命じている(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編5冊〉)

 これによって実相院門跡側は大雲寺衆徒の寺院運営からの排除に乗り出す。最初の標的になったのが尭仙坊父子である。永正12年(1515)に尭仙坊は大雲寺供僧職の臈次を違乱していると実相院門跡雑掌より幕府に訴えられ、幕府は奉書をもって糾明を命じているが、翌永正13年(1516)7月22日に幕府より尭仙坊に対して違乱するを停めるよう申し渡された(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)。この問題に関しては幕府より実相院門跡へ処理が一任されたが(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)、尭仙坊父子は門跡の下知に従わず、寺領を押領したとして、永正13年(1516)12月24日に田畠・山林作職などが闕所(財産没収)となった(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)。さらに詮議は他の衆徒に及び、翌永正14年(1517)7月25日に尭仙坊に同意する者は罪科に処し、名を連ねて注進するよう命じるとともに、大雲寺衆徒の円乗・侍従も尭仙坊に与力したため、実相院門跡境内より追放された(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編6冊〉)。尭仙坊尚栄に定林頼尚が寄進した大雲寺領内散在田畠についても、尭仙坊闕所後に三善中将女某が権利を主張したものの、永正14年(1517)12月29日に幕府より寺領を女性に譲与することを問題視され、実相院門跡に安堵された(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編7冊〉)。これによって尭仙坊といった実相院門跡の支配に抵抗する衆徒は排除され、しかも子坊の私領は女性に相続されないことが原則となり、永正15年(1518)にも金龍坊尚が買得して知行地とした岩倉郷内の田畠・屋敷・山林について、尚済が大雲寺衆徒であり、女性に寺領を相続させないとして、同年5月18日に幕府より実相院門跡雑掌に引き渡されている(「室町幕府奉公人連署奉書」実相院文書〈『大日本史料』9編7冊〉)

 大永8年(1528)閏9月8日に堺幕府足利義維より実相院門跡に対して大雲寺ならびに寺領が安堵されており(「足利義維奉行人連署奉書」実相院文書〈『室町幕府文書文書集成』3981〉)、同大永8年(1528)10月2日(同年8月20日に享禄に改元されているが、堺幕府は享禄の正朔を用いず大永を使用し続けた)にも尭仙父子の跡田畠・山林が実相院門跡に安堵されている(「足利義維奉行人連署奉書」実相院文書〈『室町幕府文書文書集成』3986〉)。天文6年(1537)10月6日にも幕府より大雲寺領を実相院門跡に安堵されている(「山城守護細川晴元奉行人飯尾為清書下」実相院文書)。これによって実相院門跡による大雲寺の支配は完成したが、今度は在地の山本氏による押領が続き、さらに天文16年(1547)に兵火のため実相院が炎上してしまっている(『諸門跡譜』実相院)


大雲寺石仏(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)。『山城国愛宕郡大雲寺堂社旧跡纂要』によると、近世期には弥勒であるとの口伝があったという。

近世・近代の大雲寺

 近世大雲寺は実相院の末寺であり、かつ実相院の本堂的役割を果たしていた。そのため実相院と大雲寺が分離するまで実相院には本尊がなく、分離後の明治28年(1895)になってからようやく客殿に本尊を安置して本堂と称すようになった(『京都府寺誌稿』)

 大雲寺の本堂は入母屋造桟瓦葺で桁行5間、梁間5間の建物である。棟札によると寛永18年(1641)に建立された。本堂の四方に縁をめぐらせ、内部は前方2間を外陣とし、引違網入格子戸で結界して奥を方3間の内陣と脇陣にし、伝統的な密教寺院本堂の平面形式を踏襲していると評価されている(京都府教育委員会1983)。義尊の実相院復興とともに建立されたとみられる。天保4年(1833)5月12日の大雲寺大火災では焼失を免れたが(『京都府寺誌稿』)、昭和60年(1985)に焼失した。


 大雲寺の寺内組織は、慶長9年(1604)の段階で、六供僧6人、長講2人、新長講1人の合計9人で運営されていた。このうち長講・新長講は本堂にて勤行する役であった。彼らはいずれも弟子がおり、得分が満員であった場合は、死闕が出てのみ補充された。僧が没するとその弟子が坊地・道具を継承し、弟子が無い人の場合は坊地・諸道具は寺中の老僧3人が協議して、一和尚が預かり、廃絶しないように適任な弟子をつけた(「宝城房慶□大雲寺衆徒弟子書上」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文37〉)

 大雲寺には他に力者・力士といった集団がいた。大雲寺のみならず園城寺にもあり、本来は凶事にかかわったとみられ、例えば寛延3年(1750)5月には桜町天皇葬送において、御棺を担ぐ役として、園城寺力者より大雲寺に対して20人の力者を派遣する要請が来ている(「桜町院葬送ニ付三井寺力者御用請状」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文45〉)。他にも勅使供奉や、仏事における行列の供奉を勤めた。大雲寺力者には力者頭が置かれ、竹王・竹徳の名称が冠された。元禄の頃、岩倉の本百姓には侍分中間・明神宮役中間・公人中間があり、このうち竹王・竹徳は公人中間の預置となり、かつ宮中における下役の役人扱いとなっていた(管2003)

 大雲寺は近世期に観音霊場として信仰を集めた。霊験によって精神障害者に霊験あるとみなされ、多くの参詣者を集めた。参詣者のみならず、大雲寺に参篭する者も出て、彼らのための「篭屋」が大雲寺周辺に建造された様子が『都名所図絵』にみえる。

 当初は大雲寺の力者が彼らを介抱していたが、寛政11年(1799)には力者が精神障害者の内、暴れる者に対して、暴行を振るったり、三度の食事を与えず、罪人同様に拘留し、自身は山内・村方へも遊び歩き、さらに婦人を預かった場合には慰み者にし、参篭者に対して賭博を勧誘したため、追放となるものの、手引きする者があり、いつの間にか戻って来ていたという(「当山参籠ニ付御条目并茶屋共請書」実相院文書〈「実相院の古文書」釈文47〉)。当初大雲寺側でも参籠者に対して鑑札を発行して数量管理していたが(京都市歴史資料館2009)、参籠者増加により収容しきれず、文政年間(1818〜30)篭屋をわかさや城守家に宿屋として譲与し、またくるま屋今井家も同様に篭屋を譲り受けている。これら宿屋が事実上の保養所となり、スティーダにより、ベルギーのゲールに対比させられ、岩倉が「日本のゲール」と称されるようになった(藤川・東村1983)。「日本のゲール」と称されたような家庭介護は第二次世界大戦とともに終りを告げ、現在大雲寺の旧境内には医療法人三幸会の施設が建っている。

 明治維新になると、実相院と大雲寺は分離したが、明治12年(1879)2月には子院の宝塔院・正教院・不二坊を保存のめどが立たないため、廃絶した(「愛宕郡寺院明細帳」394、大雲寺〈京都府立総合資料館蔵京都府庁文書〉)。昭和60年(1985)に本堂が焼失し、跡地には現在三幸会の病院施設が建てられている。大雲寺は旧境内の東側に仮本堂を建てて、現存している。


『都名所図絵』巻6、北岩倉大雲寺(『新修京都叢書11 都名所図会』〈光彩社、1968年1月〉368頁より一部転載)。安永8年(1779)頃の大雲寺境内。



焼失以前の大雲寺本堂(京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』〈京都府教育委員会、1983年〉284頁より一部転載)。寛永18年(1641)に建立され、伝統的な密教寺院本堂の平面形式を踏襲した優れた堂で、木割が大きいことから伏見城の移築伝承もあった。昭和60年(1985)焼失。

[参考文献]
・湯本文彦『京都府寺誌稿62 実相院』(京都府、年次不明)
・島津草子『成尋阿闍梨母集・参天台五台山記の研究』(大蔵出版、1959年12月)
・角田文衛「大雲寺と観音院」(同『若紫抄』至文堂、1968年)
・『京都の社寺文化』(財団法人京都府文化財保護基金、1971年9月)
・『京都府古文書等緊急調査報告書 天台宗寺門派実相院古文書目録』(京都府教育委員会、1982年3月)
・藤川達明・東村輝彦「洛北の地「岩倉」における精神障害者に対する処遇の歴史について(その1)」(『藍野病院医学雑誌』4-1、1982年12月)
・西岡虎之助「鴨社と鞍馬寺と大雲寺」(『西岡虎之助著作集』2、三一書房、1983年7月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・管宗次『京都岩倉実相院日記』(講談社、2003年3月)
・『実相院の古文書(テーマ展「実相院の古文書」釈文(抄録)附)』(京都市歴史資料館、2009年1月)


不動の滝(平成24年(2012)1月22日、管理人撮影)



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