ワット・マハータート



ワット・マハータート(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)

 ワット・マハータート Wat Mahathat はアユタヤに位置する廃墟寺院で、木の根で覆われた仏頭で有名です。


 建立年について諸説に分かれており、ファン・フリート本『アユタヤ王朝年代記』(『シアム王統記』)では初代国王ラーマーティボーディー1世(位1349〜69)の建立によるものとし、「彼はまた三つの寺院を建設したが、それらは今日でも王国全体でもっとも有名な寺院である。まずナ・ペタート(ワット・マハータート)はもっとも神聖な寺院である。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉223〜224頁より一部抜粋)とあり、アユタヤの建都とともに、ワット・マハータートが建立されたことが知られます。ワット・マハータートは王宮の東の地に位置していました。『アユタヤ王朝年代記』によると、2代王ラームスエン(在位1369〜70)の時、ワット・マハータートの建立に着手され、王自らが選地し、聖遺物(仏舎利)が納められたといい、マハータートと名付けられ、王は儀式を行った後に王宮で祝宴を催したとあります(Cushman & Wyatt eds., 2006, p.13)

 ワット・マハータートは仏舎利を祀る寺院で、「マハータート」とは仏舎利を意味します。ワットは寺の意味なので、あえて直訳すると仏牙寺となるのでしょう。このようにマハータートと名付けられた寺院はタイ各地に存在しています。

 1424年にワット・マハータートの北にワット・ラーチャブラナが建立され(Cushman & Wyatt eds., 2006, p.15)、1448年に王宮北方の広大な地に新王宮が建立されると(Cushman & Wyatt eds., 2006, p.16)、新王宮からワット・マハータートとワット・ラーチャブラナを通過して、アユタヤの東の市壁まで到達する直線街路が現出します。旧王宮は後にワット・プラ・シー・サンペットとなりました。

 ワット・マハータートの主塔はプラーサートトーン(位1629〜56)の時代に倒壊・修復されています。それについてはファン・フリート本『アユタヤ王朝年代記』(『シアム王統記』)に以下のように記述されています。「彼の治世の三年目(1631)にナ・ペタート(ワット・マハータート)の黄金の塔は、地表を吹く風もなく、空に稲妻もひらめかないのに突然崩壊した。彼は大急ぎでこれを再建させたが、その塔が完成する前に、竹でたくみに、また頑丈に作られた足場が突然大雨の際に崩壊した。この倒壊には不思議な意味があるものとされたが、すべては占師によって秘密にされている。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉284頁より一部抜粋)


ワット・マハータート(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)



ワット・マハータート(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)

 ワット・マハータートの僧は非常に権威があり、アユタヤに400近くある寺院のなかでも最も権威がありました。オランダ東インド会社のファン・フリート Jeremias van Vliet(1602〜63)は自身の著作『シアム王国記』の中で、「修道院には多数の聖職者がいて、平和に暮らし、修道院長やその他の教会の役職者のもとで神々に奉仕している。かれらは然るべき規律に服し、きびしい服従を求められている。かれらは最高の統治者であるユディア(アユタヤ)の筆頭寺院の四名の司教に服従している。この四名の司教のうち、ナ・ぺタート(ワット・マハータート)のそれが最高の権威をそなえている。これらの司教の宗教上の権力はおどろくほど大きい。かれらはなみはずれて尊敬され、敬意を払われている。しかし、俗世の諸問題についてはかれらは国王に服従している。ユディア(アユタヤ)市には二万名もの聖職者がいる。王国全体の聖職者の数を完全に確かめることはできないが、疑いもなくその四倍はいるであろう。聖職者の間には目立った上下の区別はなく、みな質の悪い黄色の亜麻布〔実際には綿布〕を身につけているだけである。しかし数名の身分の高い人々は左肩から木綿の赤色の布をかける。かれらの頭はかみそりでそられる。一番学識のある者が司祭になり、かれらの中から寺院の長が選ばれる。これらの聖職者は平民から非常に尊敬されている。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉180〜181頁より一部抜粋)と記しています。

 またファン・フリートは、「それらのお伽話によると、ワット・シ・セルプート(ワット・プラ・シー・サンペット)とナ・ペタート(ワット・マハータート)の偶像の下にある財宝は、荒廃した王国をふたたび復興させることができるほどの〔巨額な〕ものだということである。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉178頁より一部抜粋)と記しており、ワット・マハータートの仏像の下には多くの財宝があったことを述べています。

 このように隆盛を誇ったワット・マハータートも1767年のアユタヤ陥落によってビルマ軍によって破壊されました。仏像の頭部には黄金が埋め込まれていると信じられており、また手には黄金によって装飾されていたため、アユタヤ陥落によってビルマ兵は仏像を破壊して黄金を持ち去りました。そのためアユタヤの多くの仏像は頭部・手が破壊されています。

 主塔は1911年に倒壊していますが、もとはブラーン型 prang と呼ばれる塔状祀堂で、11〜12世紀頃に完成された様式です。北側のワット・ラーチャブラナの主塔もブラーン型です。

 1956年に仏塔の発掘調査が行なわれ、深さ17mの地下室が発見されました。地下室の底部には納骨入が安置されていました。1975年から1981年にかけて王宮ワット・プラ・シー・サンペットワット・マハータートワット・ラーチャブラナワット・プラ・ラームなどに一貫性のある保存措置がとられました。この時ワット・マハータートは無理な再建を行なわず、遺跡の補強と保存を主とされました。


ワット・マハータート主塔(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)

[参考文献]
・肥塚隆編『世界美術大全集 東洋編12・東南アジア』(小学館、2000年12月)
・長谷川由紀夫・後藤幸三『東南アジア建築逍遥』(鹿島出版会、2008年3月)
・布野修司編/アジア都市建築研究会執筆『アジア都市建築史』(昭和堂、2003年8月)
・Richard D.Cushman and DaVid k.Wyatt eds.,THE ROYAL CHRONICLES OF AYUTTHAYA.Bangkok:The Siam Sosiety,2006


ワット・マハータートの仏頭(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)



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