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比叡山延暦寺西塔法華堂(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)
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法華堂(ほっけどう)は比叡山延暦寺西塔に位置(外部リンク)する建造物の一つで、一辺12mほどの規模です。隣の常行堂と渡廊下によって連結していることから、両者あわせて「にない堂」と称されています。天長3年(826)に建立されましたが、その後幾度かの焼失をへて、文禄4年(1595)に現在の建物が再建されました。
法華三昧と東塔法華堂
法華堂は四種三昧(ししゅざんまい)の一つ、半行半坐三昧を実施するための堂として建立された。師主三昧は常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧のことで、うち半行半坐三昧とは、行(あゆ)むのと坐するのを併用する修行法である。これは智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)の著作『法華三昧懺儀』にあらわれたもので、道場に高座を設けて法華経を安置し、二一日間、十方の三宝を礼し、釈迦・多宝などの仏を勧請し、法座をめぐりながら焼香散華して三帰依文および法華経の安楽行品を唱え、坐禅を行なうものである。
最澄は止観業の者は四種三昧を修習することを「八条式(勧奨天台宗年分学生式)」にて規定しており、僧綱の四種三昧に関する疑問に対して、『摩訶止観』を引用して回答している(『顕戒論』巻上、開示四種三昧院明拠)。
現在、比叡山上には法華堂という名称の建物は西塔に現存するものを指すが、かつては東塔・西塔・横川に一つづつあり、それぞれが法華堂(法華三昧堂)という名称を有していた。
東塔の法華堂は弘仁3年(812)7月上旬に造立されたもので(『叡山大師伝』)、その後円仁(794〜864)が貞観2年(860)に法華経安楽行品を法華堂に伝えたとも(『慈覚大師伝(通行本)』)、嘉祥元年(848)春に半行半坐三昧行法を伝え、四季が終るごとに三七日(27日間)懺法を行なったともいう(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、東塔、法花三昧院)。
最澄が建立した法華堂は康保3年(966)10月28日の延暦寺大火災の際に焼失したが(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)、康保4年(967)4月には再建されている(『慈恵大僧正拾遺伝』)。この時再建された法華堂は元久2年(1205)に焼失するまで存在していたが、桧皮葺の5間の建物で、堂には金銅の如意がある宝形造があったというから(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、東塔、法花三昧院)、現在の西塔法華堂と同様の形式の桧皮葺宝形造の方5間堂であったことが知られる。この東塔法華堂の形式は、以後の天台宗寺院における法華堂の形式として踏襲される。また「止観院西北に在り」(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、東塔、法花三昧院)とあるように、根本中堂の北西に位置していた。
東塔法華堂は元久2年(1205)10月2日に焼失(『天台座主記』巻3、67世僧正真性、元久2年10月2日条)、翌元久3年(1206)7月24日に再建の上棟が行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、元久3年7月24日条)。さらに建長5年(1253)9月22日(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長5年9月22日条)、文永元年(1264)3月25日にも焼失しており(『天台座主記』巻4、83世無品最仁親王、文永元年3月25日条)、同3年(1266)8月18日には大風により破損している(『天台座主記』巻4、84世前大僧正澄覚、文永3年)。ほかに永仁5年(1297)9月19日(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)、元弘元年(1331)4月13日(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王、元弘元年4月13日条)、明応8年(1499)7月11日(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)にも焼失しており、元亀2年(1571)の信長による焼討ちの際の後にも再建されたものの、寛永7年(1630)9月18日の大風によって倒壊(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永7年9月18日条)、以後再建されることはなかった。
横川の法華堂は天暦8年(954)に藤原師輔の発願によって良源(912〜85)が建立したものであるが、信長の焼討ち以降、再建されることはなかった(『慈恵大僧正伝』)。
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比叡山延暦寺西塔法華堂須弥壇(『重要文化財延暦寺常行堂及び法華堂修理工事報告書』〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課、1968年3月〉写真16より転載)
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比叡山延暦寺西塔法華堂(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)
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西塔の法華堂
西塔の法華堂は天長2年(825)11月3日に円澄(771〜836)と延秀(生没年不明)が建立したものである(『叡岳要記』巻下、法花堂)。円澄が法華堂建立に果たした役割について、円澄の盟友である光定(779〜858)は「西塔の院、三昧堂を建て、法華三昧を修念し、三部大乗を長講す」と讃えている(『伝述一心戒文』巻下、大法師円澄功能)。
建立したもう一人の人物として名があげられている延秀については、最澄が定めた十六院の一つ法花三昧院において「別当延秀」として見え(『叡岳要記』巻上、十六院)、また「信心ある仏子」と称された最澄の弟子数十人の中の一人として、円仁とともに名が挙げられている(『叡山大師伝』)。なお天安3年(859)正月23日には、円珍が帰朝報告のため比叡山の各堂を巡行しているが、その中に「法華三昧堂」、すなわち法華堂が含まれている(『行歴抄』天安3年正月23日条)。
普賢菩薩像が安置され、最澄筆の法華経一部が納められた。これは座主の喜慶(889〜966)が村上天皇より賜ったものであり、伝えによると、康保2年(965)2月に仁寿殿にて村上天皇の病気の際に孔雀経法を行なった賞として得たものであり、経典は銀の箱に納められたという(『叡岳要記』巻下、法花堂)。
西塔の法華堂は久寿元年(1154)11月11日夜に焼失している。そのため法華三昧行法を丈六堂にて修することになった。この焼失の原因は、常行堂にて行なわれる二十八講の香火が仏壇に引火したため、常行堂と法華堂がともに焼失することになってしまったものである(『山門堂舎記』西法華堂)。
文永8年(1271)4月15日、西塔南谷北上房より火災が発生し、大風であったため類焼し、法華堂・常行堂・勧学堂・鐘楼が焼失した(『天台座主記』巻4、86世前大僧正慈禅、文永8年4月15日)。同年5月19日には西塔法華堂・常行堂の造営のため、但馬国平野荘・箕浦荘・木徳荘・朝妻荘などの料所を承詮に付属しており(『天台座主記』巻4、87世前大僧正無品澄覚親王、文永5年5月19日条)、同8年(1271)7月29日には西塔法華堂・常行堂の上棟が行なわれた(『天台座主記』巻4、87世前大僧正無品澄覚親王、文永8年7月19日)。
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比叡山延暦寺西塔法華堂(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)
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比叡山延暦寺西塔法華堂(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)
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文禄の法華堂
法華堂は元亀2年(1571)信長の比叡山焼討ちにおいて焼失したらしいが、その詳細についてはわかっていない。
法華堂の再建は文禄4年(1595)に常行堂とともに行なわれた(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)。これが現存する法華堂であるが、なお昭和39年(1964)に行なわれた解体修理工事に際しての発掘調査によると、前身建物や焼土層が検出されなかったため、焼討ち以前の法華堂の場所は現在地ではなかったことが知られる(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968)。
法華堂再建に際して地山をすきとって地盤としているが、礎石には焼失跡があったため、礎石は他の建物を転用したものとみられている。例えば北側に面する礎石6つは転用礎石であり、南側に面する礎石5は野面石、南側の一番西側の礎石はもとは五輪塔であった石である。また法華堂・常行堂の再建は釈迦堂の移建に際して同時並行的に進行したため、長押など一部の材には釈迦堂からの転用がある(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968)。
その後貞享4年(1687)に法華堂・常行堂の修理が行なわれ、両堂を繋ぐ渡廊下が新造された(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)。渡廊下は東塔法華堂・常行堂には付属していたことが京都国立博物館蔵「東塔絵図」(鎌倉時代)によって確認されるが、西塔法華堂・常行堂については室町時代後期(1495〜1571)の絵図「比叡山絵図(比叡山南渓蔵)」によって中世にあったことは確認されるが、再建以後は貞享4年(1687)の新造まで確認できない。なお「にない堂」は、「担い堂」「二内堂」とも表記される。
寛保3年(1743)に法華堂・常行堂の修理が行なわれ(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)、安永10年(1781)3月にも修理が実施された(『天台座主記』巻6、212世入道二品尊真親王、安永10年3月19日条)。また文化2年(1805)(延暦寺文書〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課1968所載〉)・明治24年(1891)にも修理が行なわれている。また昭和12年(1937)に屋根を銅板葺に改めたが、昭和39年(1964)から同43年(1968)に行なわれた解体修理工事に際して栩葺に復旧された。昭和30年(1955)6月22日に法華堂・常行堂は重要文化財に指定されたため、昭和の解体工事に際して費やした6294万のうち、国庫負担分も利用された。
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解体工事で露出した法華堂及び廊下の基礎(『重要文化財延暦寺常行堂及び法華堂修理工事報告書』〈滋賀県教育委員会事務局文化財保護課、1968年〉写真57より転載)
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比叡山延暦寺西塔法華堂、背面より(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)
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[参考文献]
・『重要文化財延暦寺常行堂及び法華堂修理工事報告書』(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課、1968年)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)
・清水擴『延暦寺の建築史的研究』(中央公論美術出版、2009年8月)
更新日;平成22年(2010)7月26日
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比叡山延暦寺西塔法華堂、背面より(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)
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