京城



『大南一統志』巻1より京城図。南が上で、北が下に描かれる。@皇城A都城隍廟B社稷壇C観象台D旗台E敷文楼F国子監G機密院I六部J都察院国史館通政使司K浄心L蔵書楼火薬碪硝庫M慶寧宮N保定宮O宮監院・平安堂P武庫Q鎮平台、R恭宗S舒光園
(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

京城概略史

 京城とは現在のフエ旧市街を指す。一般的にはヴォーバン式の稜堡式城郭で囲まれていると理解されており、広さ約22m、深さ4mの堀をめぐらせ、城壁の高さは6.2m、幅は20mで、周囲は約9.9kmとなっていた。坊と呼ばれる町は95箇所ある(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)

 フエは17世紀以来、広南阮氏の根拠地である富春城があり、現在のフエ旧市街内の東南に位置していた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)

 広南阮氏第5代の主(チェア)義王(英宗1649〜91)の正和8年(1687)7月に本拠地を富安に移している。前山(御屏山)を案としたというから(『大南寔録前編』巻6、英宗孝義皇帝寔録、前紀丁卯7月条)、フエ郊外の御屏山(ヌイグービン)を案山(風水において穴の前方にある小山)に相対して選地されたことが知られる。

 御屏山はもとは鵬山と呼ばれており、御屏山と改名したのは嘉隆年間(1802〜20)になってからのことである(『大南一統志』巻之2、承天府上、山川、御屏山)。御屏山と改められた理由として、形が平方で屏風を広げたような形状であったからと説明されるが、もともと「御屏」とは風水の用語で、清代の風水書『地理啖蔗録』では、案山の形状の一つで、頂上の両端が丸ではなく直角に曲がっており、帝王が用いる屏風のようであることからこの名があるという。この御屏は案山の形状としては龍楼・宝殿・帝座と並んで最も貴いものとされる。すなわち、フエの御屏山は、風水の案山「御屏」に仮託されたものであり、実際に「御屏」の形状をしているとは言い切れない。このような仮託が起こったのは、嘉隆年間(1802〜20)にフエを風水に則った地勢であるとみなす際に、もとの故地・富安を踏襲する以上、その前方にある香江を金帯水とみなし、フエ自体を風水の「明堂」とみなすならば、ちょうど御屏山を案山に設定すると都合がよく、よって御屏山が実際に「御屏」の形状とは異なったとしても、設定上期待された役割はあくまで「御屏」のようなに風水上最善のものたるこそにあった。

 その後、第8代の武王(世宗1714〜65)時代にはじめて都城と号するまでとなり、金華殿・光華殿・瑤池閣・朝陽閣・光文殿・就楽殿・正冠堂・中和堂・怡然堂・暢春堂・建瑞雲亭・同楽軒・内院庵・絳香亭といった建物を建造した。香江の上流域に建陽春府を営み、長楽殿・閲武軒といった建造物があり、庭園を設けた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)

 広南阮氏は後に長年対峙していた鄭氏政権と反乱を起した西山党と南北に挟撃され、景興35年(1774)12月、本拠地であった順化(フエ)は飢饉も重なり、鄭氏政権の将軍黄五福(1713〜76)率いる23営、すなわち11,500人もの大軍によって陥落した(『大南寔録前編』巻11、睿宗孝定皇帝寔録上、甲午9年10月・12月条)。阮氏の一族は海路嘉定(現ホーチミン)に逃れたが、やがて西山党に捕捉され、全滅した。順化はその後西山朝の支配下に入った。後に広南阮氏の生き残り阮福映(1762〜1820)によって回復し、阮朝の首都となった。


御屏山(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

フエ城郭の生みの親、陳文学

 フエはヴォーバン式の稜堡を多数もつ城壁で囲まれていると理解されているが、この表現には若干齟齬があり、稜堡は設けられているがヴォーバン式を正しく踏襲したものではなかった。このフエの城郭を設計したのが阮朝初期のテクノクラート(技術官僚)である陳文学(?〜1821)である(wikipediaには「黎文学」とあるが誤り)

 陳文学は嘉定(ホーチミン)の人で、はじめ百多禄に従って、当時嘉定に逃れていた阮福映(1762〜1820)に謁見した(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)。「百多禄」とはフランス人宣教使ピニョー・ド・ベーヌ(1741〜99)のことであり、陳文学は当初彼の布教活動に従っていたらしい。当時ヴェトナム南部を支配していた広南阮氏(広南国)は、西山党の反乱とヴェトナム北部を支配していた鄭氏の攻撃によって、根拠地富春(フエ)を離れて海路嘉定(ホーチミン)に逃れていた。陳文学が謁見した阮福映は嘉定に数多くいた広南阮氏の王族の一人にすぎなかったが、壬寅(1777)に西山党が嘉定を攻撃すると、ピニョー・ド・ベーヌと陳文学は阮福映の家族を護衛して、高蛮(カンボジア)領内に逃れた(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)。西山党の嘉定攻略によって広南阮氏の王族は皆殺しとなったが、阮福映のみはかろうじて逃れることができた。

 阮福映は芹苴(カントー)を拠点としてシャム(タイ)に援軍を求めるため阮有瑞(?〜1785)を派遣した。シャム王ラーマ1世(位1782〜1809)は水軍を派遣し、阮福映とともに西山党を攻撃したが惨敗し、阮福映はシャムに逃れた。阮福映はピニョー・ド・ベーヌと陳文学・范文仁(1745〜1815)・阮文簾(生没年不明)らに命じて、自身の長子阮福景(1780〜1801)とともに西洋に行き、援軍を求めさせることとした。船でフランスに渡った一行であったが、フランス革命のためオランダ人の助けを得て帰国を余儀なくされた。その後西洋船に乗船している時、嵐に遭って呂宋(フィリピン)に漂流するなどしたが、嘉定(ホーチミン)に戻った(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)

 嘉定(ホーチミン)に戻った陳文学はフランス人オリヴィエ・ド・ピュイマネル(1768〜99)の通訳となり、大砲などの兵器製造に力を発揮した。庚戌年(1790)にピュイマネルの設計のもと嘉定城がヴォーバン式で建造された(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)。ヴォーバン式要塞は城壁から外向きに突き出した稜堡が築かれており、大砲の破壊を避けるため高い城壁を築かず、低い土塁としたもので、さらに城郭のプランは多角形を基礎とし、その先端に稜堡を設けて死角の発生を防いだ。ヴェトナムにおいて最初に建造されたのが、フランス人のピュイマネルの手によった嘉定(ホーチミン)の城郭で、現存しないが、五稜郭のような要塞である。フランス人のピュイマネルの手によったものであるが、陳文学は彼の通訳として嘉定城の建造をみながら、一方で設計・建造方法を西洋人から尋ねていた(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)

 壬子年(1792)に陳文学は美湫(ミトー)の城塞の設計図を提出、設計図の通り稜堡式の城郭として建造を行なった(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)。このように陳文学はピュイマネル生前よりヴォーバン式の稜堡式の要塞を設計・建造しており、以後、阮福映がヴェトナムを統一すると、多くの要塞が彼の手により建造されることになる。

 阮福映はヴェトナムを統一し、嘉隆帝と称されるようになるが、嘉隆2年(1803)に陳文学は監城使欽差掌奇に昇進し(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)、以後ヴェトナム城郭建造の中心的役割を担った。

 嘉隆4年(1805)4月、京師の造営が開始されている(『大南寔録正編』第1紀、巻之26、世祖高皇帝寔録、嘉隆4年4月癸未条)。史料にはみえないが、当時監城使であった陳文学が城郭の設計を行なったとみられる。これ以前、京師の城壁は土塁であったらしく、辛酉(1801)に修理された時にはすでに土塁であった(『大南正編列伝』初集、巻之8、諸臣列伝第5、阮文張、付、雲伝)。後に嘉隆17年(1818)に京城の城壁を磚造(レンガ造)としていることから(『大南寔録正編』第1紀、巻之57、世祖高皇帝寔録、嘉隆17年2月条)、嘉隆4年(1805)の京師造営時も土塁であったらしく、このことから陳文学はヴォーバン式セオリーに忠実に、大砲の破壊を避けるため高い城壁ではなく、低い土塁による稜堡としたらしい。後に京城の城壁を磚造(レンガ造)となり、ヴォーバン式要塞としては無価値となったが、すでに世界史的にみると、ナポレオン戦争を経て要塞自体の価値が低下していた。

 また京城はヴォーバン式ではなく、それよりも古い形式であった。四方に稜堡を設け、稜堡と稜堡の間に4箇所づつ中提を設けた、ヴォーバン式よりも古い形態のイタリア式城郭であった。このような時代遅れな城郭となったのは陳文学の稜堡式要塞に対する理解不足からきたものか、あるいは施工主(嘉隆帝)の中国的都城のセオリーである四方形との妥協であったのかは定かではない。

 明命2年(1821)、陳文学は嘉定(ホーチミン)の諸鎮および真臘(カンボジア)の山川、村や道などの地図を作成し、献上した。陳文学が年老いたのをみて明命帝は、「これからの日々はそう長くはないだろう。どうして名を後世に残すことを考えないのだろうか」といい、銭100緡を陳文学に賜った。間もなくして陳文学は卒した。子はいなかった(『大南正編列伝』初集、巻之15、諸臣列伝第12、陳文学伝)


北奠台から北清台をみる(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)。フエの城郭はヴォーバン式の稜堡城壁を特徴としている。それぞれの稜堡は「台」と称される。



体仁門(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)。体仁門の内側に左将軍廠があることから、現在ガン門と通称される。

京師の改造

 嘉隆4年(1805)4月、京師の造営が開始されているが(『大南寔録正編』第1紀、巻之26、世祖高皇帝寔録、嘉隆4年4月癸未条)、これに先立って同月中に阮伯汪を工部僉事に任命している(『大南寔録正編』第1紀、巻之26、世祖高皇帝寔録、嘉隆4年4月朔日条)。嘉隆17年(1818)2月に京城の城壁の造築を行なっており、黄公理・張福トウ(登+おおざと。UNI9127。&M039630;)・阮徳仕らがこの事業の責任者となった(『大南寔録正編』第1紀、巻之57、世祖高皇帝寔録、嘉隆17年2月条)。同年7月には京師の城壁の前・右(南・東)の2面が竣工し、この建造に携わった兵士14,000人に銭10緡を与え、工事責任者の黄理や工匠らにも報賞を与えた(『大南寔録正編』第1紀、巻之58、世祖高皇帝寔録、嘉隆17年7月朔日条)。嘉隆18年(1819)3月に京城の後面(北側)の工事に着工し(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年3月条)、同年5月に竣工した。この時も徭役にあたった兵士14,336人に対して、一人銭10緡、合計143,000余緡を支払った(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年5月条)

 嘉隆17年(1818)9月に「京城条禁」が定められた(『大南寔録正編』第1紀、巻之58、世祖高皇帝寔録、嘉隆17年9月条)。この「京城条禁」は20ヶ条からなり、太廟・皇考廟()・皇仁殿(奉先殿)への立ち入り禁止や、左右の端門、清和殿の南門を通過する際の下馬、壇・廟・宮殿の前で射的・投石の禁止、皇城内の騎馬走行の禁止、皇城の諸門の開閉、および大砲発射の禁止などが定められた。


東南門(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)

城壁の石造化

 明命元年(1820)10月に京城の城壁が大雨により300丈(1,200m)の範囲にわたって崩れているが(『大南寔録正編』第2紀、巻之5、聖祖仁皇帝寔録、明命元年10月辛卯条)、この時より土壁であった京城の城壁は石造化が図られることになる。

 本来のヴォーバンの築城思想では、砲撃で破壊されやすい高い城壁よりも、低い土壁を是とするところであるが、明命3年(1822)2月の明命帝(位1820〜41)の勅に、「方今、国家間暇にして正にこの経営に及ぶべし。以て国を固め民を保つの本となし、それ式のごとくこれを砌築せしめん」とあるように(『大南寔録正編』第2紀、巻之13、聖祖仁皇帝寔録、明命3年2月丁酉条)、城壁を防衛の観点からではなく、国家経営の視点から石造化することを標榜したのである。この時から城壁の石造化に着手され、まずは左面(東側)の565丈5尺(2.2km)の石造化が着工された(『大南寔録正編』第2紀、巻之13、聖祖仁皇帝寔録、明命3年2月丁酉条)

 ところが工事着工間もない明命3年(1822)9月に京師は大洪水に見舞われ、家屋は倒壊し死者が多数という惨事となった(『大南寔録正編』第2紀、巻之17、聖祖仁皇帝寔録、明命3年9月条)。翌年明命4年(1823)3月に京城の城壁のうち前(南)・右(西側)・後(北)の修理を実施しているが、これは前年の大雨で2,057丈(8.2km)にわたって崩れたためであった(『大南寔録正編』第2紀、巻之20、聖祖仁皇帝寔録、明命4年3月条)。このように立て続けに城壁工事が行なわれたため、一方で工事に支障が出始め、とくに後面(北側)城壁の修理が遅れていることが問題視された(『大南寔録正編』第2紀、巻之21、聖祖仁皇帝寔録、明命4年5月条)

 明命4年(1823)7月に京城の前(南側)・右(西側)の城壁が竣工しており、総工距離は東泰台より西成台までの1,368丈(5.3km)に及んだ。修理に携わった兵士に1丈(4m)ごとに80緡を給付し、合計109,500緡を支出した(『大南寔録正編』第2紀、巻之22、聖祖仁皇帝寔録、明命4年7月朔条)。さらに明命5年(1824)2月には遅れていた後面(北側)城壁の修理が完了している(『大南寔録正編』第2紀、巻之25、聖祖仁皇帝寔録、明命5年2月癸丑条)

 明命12年(1831)3月には京城前面の城壁裏面を石造とし、三段構造としている(『大南寔録正編』第2紀、巻之72、聖祖仁皇帝寔録、明命12年3月条)。同年4月には左(東側)城壁の裏面を(『大南寔録正編』第2紀、巻之73、聖祖仁皇帝寔録、明命12年4月朔条)、5月には前面(南側)・右(西側)の城壁裏面を三段の石造としており、同時に正北門・西北門を修造している(『大南寔録正編』第2紀、巻之73、聖祖仁皇帝寔録、明命12年5月丁卯条)。明命13年(1832)3月には京城の後(北側)裏面を三段の石造としており(『大南寔録正編』第2紀、巻之79、聖祖仁皇帝寔録、明命13年3月壬子条)、同年5月に京城のすべての石造化が完了している(『大南寔録正編』第2紀、巻之80、聖祖仁皇帝寔録、明命13年5月丙辰条)


広徳門より南正台をみる(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)

台と門

 城門の前には石橋があり、京城外の南側正面には旗台がある。城壁には稜堡・中提といった張り出しが設けられており、これらは稜堡・中提は「台」と呼ばれた。京城にはこのような台が24箇所あり、前方を南明・南興・南正・南昌・南勝・南亨、左側を東泰・東長・東嘉・東輔・東永・東平、右を西成・西綏・西静・西翼・西安・西貞、後方を北定・北和・北順・北中・北奠・北清といった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)。明命5年(1824)5月に京城の諸台の上に大砲を設置しており、また台にはそれぞれ火薬庫1、更店1が置かれた(『大南寔録正編』第2紀、巻之27、聖祖仁皇帝寔録、明命5年5月条)

 石造の門は11あり、前から体仁門・広徳門・正南門・東南門、左側は正東門・東北門・鎮平門、右側は正西門・西南門、後方は正北門・西北門があった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)。明命5年(1824)4月に正東門・東南門の楼と、正北門の橋を石造としている(『大南寔録正編』第2紀、巻之26、聖祖仁皇帝寔録、明命5年4月朔条)

 明命元年(1820)5月に京城街道を設置しており、体元門(体仁門)より皇城後方の手前までの道を体元大街、広徳門から皇城後方の手前までの道を広徳大街といった(『大南寔録正編』第2紀、巻之3、聖祖仁皇帝寔録、明命元年5月辛巳条)


東南門(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)。



東南門(ドンパ門)(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)。フエの各門は現在も自動車・バイクなどで交通量が多い。

御河と橋

 京城の中には御河(グーハー)と呼ばれる運河が流れている。御河は嘉隆年間(1802〜20)初頭に左護城河から武庫付近まで掘削したことにはじまる。この時に清溝と名づけられている。明命6年(1825)、再度武庫から掘削して右護城河まで打通させた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)。また石によって護岸を行なっており、明命13年(1832)5月に御河東南の工事をもって完了した(『大南寔録正編』第2紀、巻之80、聖祖仁皇帝寔録、明命13年5月丙辰条)

 この御河には石橋が3橋架かっている。東南門から長街を通過して正北門に抜ける道の途中にある橋を御河橋という。御河橋は嘉隆年間(1802〜20)初頭に架橋された時は木造であり、清溝橋という名であったが、明命元年(1820)5月に石造となり、御河橋に改められた(『大南寔録正編』第2紀、巻之3、聖祖仁皇帝寔録、明命元年5月辛巳条)。この橋の両側には欄杆があり、橋の上には屋根を掛け、猛暑の時に日差しから歩行者を守ったが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)、屋根は現在では存在しない。

 皇城の北から慶寧宮に至る道の途中にある橋を慶寧橋といい、明命2年(1821)に建造された。正南門から長街を通過して西北門に抜ける途中にある橋を永利橋といった。他に木橋が2橋あり、京倉門の前から籍田の南に至る橋を博済橋といい、皇城の右街から保定宮の左に至る途中の橋を平橋という(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)


御河(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



永利橋(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



慶寧橋(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



御河橋(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

水関と河川

 京城内部の東西方向に対する中央には運河である御河が流れている。御河は都城を流れるという位置上、当然ながら城壁に面する部分があり、城郭としては防備上の欠点となってしまう。そこで城壁に面する場所は東西それぞれ水関となっている。東側は東城水関といい、西側は西城水関といった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)

 東城水関は嘉隆年間(1802〜20)初頭に木造の橋を架けられ、青龍橋という名が付けられたが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)、明命11年(1830)4月に東城水関と改められて石橋となり(『大南寔録正編』第2紀、巻之65、聖祖仁皇帝寔録、明命11年4月辛巳条)、橋の下は閘門が設けられて河関となり、上部は砲台となっていた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)。東城水関は現存していない。

 西城水関もまた明命7年(1826)に閘門と砲台が設けられている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)。構造は概ね東城水関と同様であるが、現在では砲台はコンクリート製のトーチカとなっており、インドシナ戦争・ヴェトナム戦争ともに戦火を蒙ったフエの一面が現われる。

 また京城の城外の前(南側)には香江(フォン川)が流れているが、京城は堀の外側にさらに護河という人工的に掘削された河が東西北三方を流れ、東側と西側はいずれも南で香江に接する。このように南に香江、東西北に護河、その内側には堀があり、さらに城壁で防禦するようになっていたが、これらの河は京城への河川交通としても用いられた。香江には波止場として正南門津・東南門津の2港があり(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)、物資を京城に運び入れるのに役立った。

 護河にはそれぞれ1橋づつ架けられている。東南郭の先にあるものを嘉会橋といい、正東門の郭外にあるものを東嘉橋といい、東北門の郭外にあるものを東会橋といい、西南の郭外にあるものを利済橋といい、正北門の郭外にあるものを長利橋といった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)


城内からみた西城水関(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



西城水関から見た御河(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。御河の西側は水量が少なく、現在ただの湿地となっている場所も多い。遠くにみえる石橋は永利橋。



正東門と東嘉橋(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

鎮平台

 京城(フエ旧市街)東北の外側に水濠で囲まれた堡塁がある。これを鎮平台という。形状としては王冠堡に分類される。

 京城はヴォーバン式要塞を習った陳文学によって設計されたことは前述したが、ヴォーバン式要塞のプランには第一から第三まで様式があった。第一様式は稜堡を外側に突き出して、十字砲火の射界を確保することにあったが、そのままでは射界が確保できるのみで、実際に侵攻されるとすぐに陥落する危険性があった。ヴォーバン第二様式はその弱点を克服したもので、稜堡と稜堡の間に独立した稜堡を設けることによって、独立した稜堡が陥落した場合でも内部は陥落しないよう縦深がとられた。京城を設計した陳文学は、ヴェトナムの地で築城するフランス人ピュイマネルから現地でヴォーバン式要塞を学んでおり、ヴォーバン式要塞のプランをある程度理解していたようであるが、一部でその理解に錯誤があったらしい。実際に京城はヴォーバン式ではなく、それ以前にイタリア式城郭の思想によって建造されており、しかも鎮平台は各稜堡・中提(台)の射界とは無関係に存在しており、単に出丸としての役割でしかない。

 嘉隆年間(1802〜20)初頭に建造された時には太平台といい、鎮平門も太平門と呼ばれていた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)。建造プラン自体は陳文学の手になるとみられるが、実際の建造の責任者は阮文雲(?〜1823)であり、彼は他に京城・宮殿の建造や河の掘削、陵墓の造営など、建築の分野に多く携わっていた(『大南正編列伝』初集、巻之8、諸臣列伝第5、阮文張、付、雲伝)

 明命13年(1832)3月に裏面を三段の石造とする工事を行なっており(『大南寔録正編』第2紀、巻之79、聖祖仁皇帝寔録、明命13年3月壬子条)、明命17年(1836)に太平台は鎮平台、太平門は鎮平門と改められた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)

 鎮平台の周囲は738m、高さ約20m、厚さは10mあり、堀の広さは22mあった。また上には旗竿が2基あった。大砲は3門、火薬(弾薬庫)は1箇所あった。阮朝がフランスの事実上の植民地となると、鎮平台はフランス軍の駐屯地となっていた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)

 ヴェトナム戦争時には鎮平門は南ヴェトナム政府軍の駐屯地となり、1968年のテト攻勢に際しては激戦地となった。現在もヴェトナム軍が駐屯している。


鎮平台(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



京師図・『大南一統志』巻1より鎮平台部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。「原(もと)鎮海台(鎮平台の誤り)、現、貴官兵(フランス兵)住す」とある部分が鎮平台で、現在ヴェトナム軍の駐留地となっている。



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