天安寺跡



成就山(北)よりみた双岡(南)(平成21年(2009)12月29日、管理人撮影)。写真は御室八十八箇所の第五十一番石手寺の手前より撮影したもの。

 天安寺(てんあんじ)は京都市右京区花園扇野町の法金剛院付近に位置(外部リンク)した寺院で、平安時代前期に、右大臣清原夏野(782〜837)の山荘が寺院となったもので、双ヶ丘の麓にあったため双丘寺とも称されました。天安2年(858)10月に文徳天皇陵の付近で三昧を修する沙弥20口が同寺に住まわせられたのをはじめとして、天安寺は文徳天皇関連の仏事の場となりました。しかし11世紀前半以後は史料上より姿を消し、やがて廃絶、跡地に法金剛院が建立されました。


清原夏野と双丘山荘

 天安寺は、もとは双丘寺が前身であり、双丘寺はさらに右大臣清原夏野(782〜837)の山荘である双丘山荘が前身であった。

 夏野は御原王の孫で、小倉王の第5子である(『続日本後紀』巻6、承和4年10月丁酉条)。弘仁2年(811)6月8日に正六位上から従五位下を授けられ(『日本後紀』巻21、弘仁2年6月庚午条)、同年7月23日には宮内少輔(『日本後紀』巻21、弘仁2年7月乙卯条)、10月11日には春宮亮に任じられ(『日本後紀』巻21、弘仁2年10月壬申条)、弘仁4年(813)正月10日には讃岐介を兼任した(『日本後紀』巻22、弘仁4年正月甲子条)

 清原夏野が春宮亮となったことは、即位前の淳和天皇の信任を得ることとなり、淳和天皇が即位すると、弘仁14年(823)4月には天皇の秘書官長たる蔵人頭に任じられ(『公卿補任』弘仁14年条、参議従四位下清原夏野尻付)、弘仁14年(823)11月25日には参議に任じられて公卿に列し(『日本紀略』弘仁14年11月乙亥条)、天長2年(825)7月2日には中納言に昇進した(『類聚国史』巻99、叙位、天長2年10月己酉条)

 天長2年(825)10月に嵯峨太上天皇が交野に遊猟した際には、朝廷より派遣されて供奉しており(『類聚国史』巻32、太上天皇遊猟、天長2年10月己酉条)、天長3年(826)正月28日に淳和天皇が芹川野に行幸して遊猟した際も随行した(『類聚国史』巻32、遊猟、天長3年正月乙未条)。天長5年(828)3月19日には権大納言に任じられ(『公卿補任』天長5年条、権大納言従三位清夏野尻付)、同年8月22日には左近衛大将を兼任(『公卿補任』天長3年条、中納言従三位清夏野尻付)、天長7年(830)9月11日には大納言となった(『公卿補任』天長7年条、大納言従三位清夏野尻付)

 清原夏野が双岡の地に山荘を建てたのは天長7年(830)頃である。天長7年(830)9月21日には淳和天皇が夏野が新造した山荘に行幸しているが(『類聚国史』巻31、天皇行幸下、天長7年9月壬辰条)、この時の山荘こそが双岡山荘であった(『日本三代実録』巻7、貞観5年正月11日甲戌条、清原滝雄卒伝)。この時、天皇は30人を選んで詩文を詠ませており、夏野の室(夫人)葛井庭子と次男の滝雄(799〜863)に従五位下が叙されている(『類聚国史』巻31、天皇行幸下、天長7年9月壬辰条)。また同年閏12月2日にも淳和天皇は北野の行幸のついでに双岡山荘に立ち寄っており、夏野は親族を率いて拝舞している(『類聚国史』巻31、天皇行幸下、天長7年閏12月壬申条)

 天長9年(832)11月2日、夏野はついに右大臣に昇進した(『日本紀略』天長9年11月庚寅条)。この4ヶ月後淳和天皇は仁明天皇に譲位したが、夏野は淳和天皇在位わずか11年の間に蔵人頭から右大臣まで昇り詰めた。

 承和元年(834)4月21日には嵯峨太上天皇が夏野の双岡山荘に御幸し、水木を観賞した。夏野は慇懃にもてなしている(『続日本後紀』巻3、承和元年4月辛丑条)。承和2年(836)2月21日には仁明天皇が紫宸殿にて清原夏野が献上した芝草を見ている。この芝草は一茎が二つに分かれており、その色は紫と赤が交互に混ざっており、茎の先はきのこのようになっていた。これは夏野の双丘山荘で採取されたものであった(『続日本後紀』巻4、承和2年2月丙申条)

 夏野は承和2年(835)4月23日に上奏して兼任していた左近衛大将の辞任を請うたが許されず(『続日本後紀』巻4、承和2年4月丁酉条)、再三の辞任の請いの末、同年12月1日にようやく許された(『続日本後紀』巻4、承和2年12月辛未朔条)

 夏野は承和4年(837)10月7日に薨去した。56歳(『続日本後紀』巻6、承和4年10月丁酉条)


法金剛院と五位山(平成23年(2011)9月13日、管理人撮影)

文徳天皇陵と天安寺

 清原夏野薨去後、その山荘は寺院となったらしい。これが双丘寺である。双丘寺について詳細はわかっておらず、しかも夏野薨去後13年ほど双丘寺に関する音沙汰はない。この寺院がにわかに注目を集めるのは、文徳天皇陵の陵寺となったからである。

 天安2年(858)8月23日夜、文徳天皇は突然病に伏せ、近侍する男女が騒動となった(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年8月辛亥条)。翌日には急激に悪化し、言葉が通じないような状態となった(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年8月壬子条)。26日にはもはや薬(医療)も効果なく、名僧50人を冷然院に屈請して大般若経を読ませるといった、祈祷に頼らざるを得なかった(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年8月甲寅条)。闘病わずか4日目の27日、文徳天皇は新成殿で崩御した。公卿は蔵人所にて葬礼について協議した(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年8月乙卯条)

 同年9月2日、大納言安倍安仁(793〜859)らは陰陽権助の滋岳川人(?〜874)・陰陽助の笠名高(?〜872)らとともに山城国葛野郡田邑郷真原岳を山陵の地に選定している(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年9月庚申条)。9月6日夜に文徳大行皇帝を山陵に葬っている。殯葬の礼は仁明天皇の故事と同様であったが、廃止されていた方相(大舎人が楯・桙をもって呪師に扮して目に見えない鬼を追い出すように行列・行進すること)のみは復活している(『日本文徳天皇実録』巻10、天安2年9月甲子条)。仁明天皇の故事とは、基本的には薄葬とし、綾や錦の類はすべて紙や布で代用するもので、鼓吹(楽器演奏)・方相も廃止していた(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年3月癸卯条)

 文徳天皇の陵墓は当初真原山陵と称されたが、天安2年(858)12月10日に詔により田邑山陵と改められ(『日本三代実録』巻1、天安2年12月10日丁酉条)、14日には陵戸4烟(戸)が設置された(『日本三代実録』巻1、天安2年12月14日辛丑条)。これに先んじた12月9日には毎年年末に荷前すべき十陵四墓が再定され、天智天皇の山階山陵、春日宮御宇天皇(施基皇子)の田原山陵、光仁天皇の後田原山陵、贈太皇大后高野新笠の大枝山陵、桓武天皇の柏原山陵、贈太皇大后藤原乙牟漏の長岡山陵、崇道天皇(早良親王)の八島山陵、平城天皇の楊梅山陵、仁明天皇の深草山陵、文徳天皇の田邑山陵が十陵に、藤原鎌足の多武峰墓、藤原冬嗣の宇治墓、藤原美都子の次宇治墓、源潔姫の愛宕墓が四墓に定められている(『日本三代実録』巻1、天安2年12月9日丙申条)

 文徳天皇の田邑陵は山城国葛野郡に造営され、兆域は東西4町(432m)、南北4町(432m)で、守戸は5烟(戸)であった(『延喜式』巻第21、ゥ陵寮、陵墓、田邑陵)。また田邑陵の南原には神代三陵が造営されており、兆城は東西1町(108m)、南北1町(108m)であった(『延喜式』巻第21、ゥ陵寮、陵墓、神代三陵)

 現在宮内庁治定の文徳天皇陵は京都市右京区太秦三尾町に位置しているが、ここに治定されたのは文久の修陵時に谷森善臣が考察した地を選んだことによる。これ以前には松尾村大字御陵(現京都市西京区御陵塚ノ越町)に位置する古墳や、法金剛院の北の壇岡(五位山)とする説があり、とくに後者は宝暦2年(1752)の『山城名勝志』に支持されるなど、一定の影響力を持った(上野1925)。また現在治定される文徳天皇陵も、谷森善臣が封土が崩れて石室の天井石がみえていたとしていることから、実際の陵墓ではなく古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳とする説があり(山田2003)、すなわち現状において文徳天皇陵がどこになるのか不明というしかない。

 そのため双丘寺が文徳天皇陵寺の天安寺となったのが、近接していたのは間違いないにしろ、いかなる地理的要因で選ばれたのかは不明である。『新儀式』において天安寺は貴族の私寺をもって奏請された御願寺に分類されている(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)。このことは嘉祥寺とは異なり、陵墓に近い寺院を便宜上陵寺としたことを示唆しているかのようで、興味深い。

 双丘寺が最初に文徳天皇の追善行事を担ったのは天安2年(858)10月17日のことで、文徳天皇陵の付近で三昧を修させた沙弥(僧侶)20口(人)を双丘寺に住まわせたことが始まりである
(『日本三代実録』巻1、天安2年10月17日甲辰条)。翌年の貞観元年(859)8月21日には皇太后が双丘寺に60僧を屈請し、5日間法華経を講義させた。これは文徳天皇の1周忌の斎会に合わせたものであり、群臣がことごとく参会した(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月21日甲辰条)。同月27日には双丘で文徳天皇の1周忌の斎会が修され、親王・公卿が集まった(『日本三代実録』巻3、貞観元年8月27日庚戌条)

 双丘寺がいつ天安寺となったか不明であるが、貞観8年(866)正月5日に天安寺にて3日間、文徳天皇のおんために金剛般若経1,000巻、般若心経10,000巻を転読させており(『日本三代実録』巻12、貞観8年正月5日壬午条)、少なくともこれ以前であったことが知られる。この時のこととして、西大寺で法相宗の光善律師(?〜874)が講義した際に、設問内容がわからなくなったため、代わって天台宗の円仁(794〜864)が進み出て答えたところ、法相宗の元興寺の明詮大僧都(789〜868)・薬師寺の真慧律師(797〜870)・山階寺の戒燈(生没年不明)らが怒り、円仁に会釈する者がいなくなったという(『愍諭辨惑章』隣昭跋文)

 前述したように、天安寺は御願寺となっているが、それに伴って寺領の形成がなされている。貞観17年(875)11月15日に伴善男(811〜68)の没官地一町が右京二条四坊にあったが、勅して天安寺に施入し(『日本三代実録』巻27、貞観17年11月15日甲午条)、さらに伴善男の没官田の墾田3町2段50歩が山城国葛野郡上林郷にあったが、これも元慶3年(879)4月7日には天安寺に施入した(『日本三代実録』巻35、元慶3年(879)4月7日丙寅条)。左大臣藤原忠平(880〜949)は延長3年(925)閏12月25日に小幢を天安寺に施入している(『貞信公記』延長3年閏12月25日条)

 しかし天延2年(974)2月6日夜、天安寺の宝蔵が焼失しており(『日本紀略』天延2年2月6日条)、以後衰退したらしく、記録には散見される程度である。永延元年(987)5月8日には藤原実資(957〜1046)の室(源惟正女)の周忌日のため、天安寺で諷誦が修されている(『小右記』永延元年5月8日条)。以後実資の日記『小右記』には定期的に室の周忌日の記事が散見される。天安寺で行われたのは、実資の室が文徳源氏の源惟正(906〜80)の娘であったことによるものとみられる。また長和2年(1013)7月14日には実資が盂蘭盆供を送った諸寺の中に天安寺が含まれている(『小右記』長和2年7月14日条)。治安3年(1023)7月11日には当季仁王講が天安寺で行われている(『小右記』治安3年7月11日条)。また寛徳2年(1045)の後朱雀上皇の初七日の諷誦を行う七箇寺として天安寺が含まれていたが、延久5年(1073)の後三条上皇の初七日では、天安寺が除かれて円宗寺が組み入れられている(『師守記』貞治3年7月9日条、中原師茂勘例、延久5年5月11日)

 またかなり後代のことであるが、嘉保2年(1095)の「大江公仲処分状」によると、摂津国河崎荘はもとは天安寺領であり、その後大江広経(生没年不明)がこの地を購入して、大江公仲(生没年不明)・藤原盛仲(生没年不明)へと伝領した(「大江公仲処分状案」大江仲子解文〈平安遺文1338〉)。このことからも知られるように、天安寺は11世紀半ばには寺領荘園を手放さざるを得ないほど衰微していた。

 天安寺がいつ頃廃寺となったか不明であるが、12世紀にはすでに跡地となっており、この地に法金剛院が建立された。大治4年(1129)9月10日に待賢門院の「仁和寺御堂(後の法金剛院)」を建立するため、待賢門院より候補地の視察を命じられた源師時(1077〜1136)は中原師能(?〜1129)とともに天安寺を視察しており、天安寺の東西に川が流れており、また後方に山があり、南は開けていたことから、建立地に最適であると考えていた(『長秋記』大治4年9月11日条)。一時文徳天皇の御願寺であることから、天安寺の地での建立を差し控える意見があったが、師時の意見が通り、天安寺の地での待賢門院の御堂建立が決定された(『長秋記』大治4年9月16日条)。こうして天安寺は完全に廃寺となり、跡地は法金剛院に受け継がれることになる。後世、法金剛院は寺号として「天安寺」を用いたことがあるが、あくまで修辞ほどのものにすぎず、天安寺が復興したわけではない。


[参考文献]
・上野竹次郎編『山陵』(名著出版、1989年2月〈山陵崇敬会(上・下)1925年の再版〉)
・杉山信三「院の御所とその御堂ー院家建築の研究」(『奈良国立文化財研究所学報』11、1962年3月)
・古藤真平「仁和寺の伽藍と諸院家(下)」(『仁和寺研究』3、2002年)
・山田邦和「文徳天皇陵 探訪ノート」(『図説天皇陵』新人物往来社、2003年6月) 


宮内庁治定文徳天皇陵(平成21年(2009)12月29日、管理人撮影)



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