仏国寺



仏国寺紫霞門(平成16年(2004)8月25日、管理人撮影) 

 韓国慶州の旅の2日目、まず石窟庵に行きました。迷彩服の兵隊さんが社会見学で来てました。仏像の前なんだから、迷彩服ではなくてせめて礼服ではいかがでしょう(←誰にいってるの?)。
 石窟庵の中はガラス張りになっていて、一般の人は入れません。おばさんが何人かガラスの向こうにいって、礼拝していました。石窟庵の中は薄暗くてあまりよくはみえません。また石窟庵は写真撮影禁止でしたので、写真はありませんし、説明もできません。あしからず…。

 石窟庵の次は仏国寺に行きました。石窟庵から仏国寺までは、バスに乗ったような気もしますし、歩いたような気もします。よくは覚えていません。韓国では「水を飲むとお腹を壊す」といわれたので、韓国旅行の3泊4日はビールしか飲まず、それ以外で水分を摂ったのは食事時のスープ類だけでした。おかげで日本に帰った時に覚えていた韓国語は「メクチュ(ビール)」だけでした。そのため、韓国旅行の記憶が若干曖昧です。しかし1日中ビールを飲んでいたおかげで、韓国は暑いとは全く思いませんでした。

 仏国寺境内に入ると、まず門内に極彩色の四天王像が安置されています。「四天王を全部いえるか?」という話になったとき、とっさに思い浮んだのが、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の「徳川四天王」でした。せめて坂田金時(以下略)だったらよかったのですが…。答えは持国天・増長天・広目天・多聞天です。韓国だからといって、ペ・ヨンジュン、チャン・ドンゴン、ウォン・ビン、イ・ビョンホンではありません。四天王は「トン・ナン・シャー・ペー(東南西北)地蔵購うた(持・増・広・多)」で覚えると立ち位置でどの像が何かすぐにわかる、と教えられました。ちなみに友人は高校の時に「赤点四天王」の一人だったそうです。
仏国寺の境内は広大ですが、仏国寺本体はこぢんまりとしています。また仏国寺境内のトイレには紙がなかったので借りましたが、持参すればよかったですね。
仏国寺は世界遺産だそうです。何が重要なのかといえば、上の極彩色の建物ではなく、下部構造物がだそうです。上部は近代になってもともとあった上部構造物を撤去して復元したものです。世界遺産なのに近代の構造物なのです。そんなのでいいのかな?ポーランドのワルシャワは戦火で破壊されたのを復元しましたが、それとは次元の違うような気もしますし…。では、上は附(つけたり)世界遺産なのでしょうか? まぁ日本の金閣寺も近代再建で似たようなものですが…。


『三国遺事』にみる仏国寺の創建

 仏国寺の草創は、『三国遺事』巻5、孝養第9、大城孝二世父母神文代に記されている。繁多ではあるが、仏国寺に関する数少ない史料であるので、全文の大意を以下に掲げる。

 牟梁里(または浮雲村という)の貧女である慶祖には子がいた。その子は頭が大きく、上が平らで、まるでお城のようだったから、「大城」と名付けられた。家は貧しくて大城を育てることができなかったため、富裕である福安の家で働き、その家に田んぼ数畝をあてがわれ、生活のたしにしていた。

 ある時、漸開和尚が六輪会を興輪寺にて設け、福安の家にやってきて施しを求めた。福安は布50疋を寄付した。漸開和尚は「あなたは寄付を好むから、天の神は常にあなたを護持して、一たび施せばその万倍に返ってくるでしょう」といった。大城はこれを聞いて、走って戻り、母(慶祖)に「私は門のところで僧侶が「一たび施せばその万倍に返ってくる」といっていたのを聞きました。思うに、私が宿善が無いために、今困窮しているのでしょう。今ここで施しをしなければ、来世ではますます苦しむことになるでしょう。そこで、私の田んぼを法会に施して、来世の応報を期したいのですが、どうでしょうか?」といった。すると母は「よろしいでしょう」といったので、田んぼを漸開和尚に施した。すると、時を経ずして、大城は死んでしまった。
 この日の夜、宰相の金文亮の邸宅で、天より声がして「牟梁里の大城少年を、今、お前の家にあずける」といった。家の人は仰天して、使の者を牟梁里に派遣してみると、大城は本当に死んでいた。その日、天の声と同時に子供が生まれた。左手は握ったままで開かなかったが、七日後に開いた。その左手には「大城」の2文字が刻み込まれていた。そのため大城と名付けた。そして、大城の母であった慶祖を金文亮の邸宅に迎えて、養ったのであった。

 (大城は)成長して、狩猟を好んだ。ある日、吐含山に登って一匹のクマを捕殺し、山の下にある村に泊まった。すると夢の中にクマが鬼となって、「何でお前はワシを殺したんじゃ。ワシは化けてお前を喰ってやる!」といった。大城は怖れて許しを請うた。すると鬼(クマ)は「ワシのために寺を造るか?」といったため、大城は「わかりました」と誓うと、目が覚めた。汗が流れて蒲団がぬれていた。その後は狩猟をせずに、クマのために、クマを捕まえた土地に長寿寺を建立した。
 その後は思うところがあって、信仰の悲願はますますつのり、現世の両親のために仏国寺を建立し、前世の両親(←前世の母は慶祖)のために石仏寺を建立した。神琳・表訓の2僧をそれぞれの寺に住まわせた。伽藍や仏像を整備した。また、大城自身の一身をもって前世・現世の父母に対して養育された恩に酬い孝行を尽くした。この様なことは古にも殆ど聞いたことがない。善い施しを行えばその報いがあるということは、信じるべきことである。

 石仏を彫ろうとして、1つの大石を加工して仏龕や宝蓋にしようとしていると、石はたちまちに3つに裂けてしまった。大城は激怒して仮寝してしまった。夜(夢の)中に天の神がやってきて、石仏を完成させて帰っていった。大城は目覚めると、走って南峰に行き、香木を天神に備えた。そのため、この地は「香嶺」と呼ばれた。この仏国寺の雲梯(階段)・石塔、石や木に施された彫刻の見事さは、東都(慶州)の諸寺院の中にいまだこれに比類するものはない。古の『郷伝』に掲載されていることは、以上の通りである。

 その一方で、『寺中有記』には次のように述べられている。“景徳王の御世、宰相の大城は天宝10年(751)辛卯の歳に始めて仏国寺を創建した。恵恭王の御世をへて、大歴9年(774)甲寅の歳の12月2日に大城は卒去したため、国家は(大城に代わって)仏国寺を完成させた。初め瑜伽大徳を招聘して、降魔(魔を祓う)させて、この寺に住まわせた。(法系は)継承されて今に至っている。”
 このことは古伝と同じではない。どちらが正しいかどうかは未詳である。
 讃にいう、
  牟梁里の春の終わりに三畝を施せば、香嶺の秋に万金を得た。
  その母は百年の貧しさの後富貴となったが、宰相家の庭(でのこと)は一夢の去来今に過ぎない。 」

 『三国遺事』5巻は高麗朝の曹渓宗の僧一然(1206〜89)は撰述した朝鮮半島三国(新羅・高句麗・百済)の遺聞を蒐集した史書。仏教関係を中心に記述し、『三国史記』・『海東高僧伝』を補いつつも、多数の独自の史料をもつ。刊本には影写本に@『学東叢書第2 三国遺事』(学習院大学東洋文化研究所、1964年1月)があるが、同じ学東叢書『三国史記』とは異なり、そのままの利用は困難である。代表的な翻刻本はA『大正新修大蔵経』第49巻、史伝部1、2039、B『卍新纂大日本続蔵経(卍続蔵)』第88巻,支那撰述・史伝部1670(巻数は国書刊行会、1988年11月による)、C『韓国仏教全書』第6冊、高麗時代篇2、245など仏教叢書系が多い。他にも朝鮮史学会編・ 末松保和校訂『三国遺事』(国書刊行会、1974年3月)が代表的である。訓読本にはE『国訳一切経』を始めとして、現代語訳にはF林英樹訳『三国遺事』上・下(三一書房、1975〜76年)、G金思&M056061;『完訳三国遺事』(六興出版、1980年12月。復刊、明石書店、1997年11月)がある。特にGは原文付き一冊本であり、入手しやすい(決して値段が安いということではない)ということもあり、比較的よく用いられる。また『三国遺事』を用いる際に忘れてはならないのは、H三品彰英・村上四男『三国遺事考証』上・中・下之一・下之二・下之三(塙書房、1975年5月〜1995年5月)。これは『三国遺事』の文に訓読・現代語訳と詳細な註を施したもので、最も有益なものである。


石窟庵遠景(平成16年08月25日、観音殿より管理人撮影。参考までに…) 

新羅唯識宗学僧の太賢

 『三国遺事』の仏国寺関連の説話は、以下の説話に分類される。

@、貧しい家の少年が、施入をしたことによって、宰相の家に生まれ変わる応報譚。
A、宰相の金大城が、殺したクマのために長寿寺を創建したこと。
B、それを契機として、金大城が前世と現世の父母のため石窟庵と仏国寺を建立したこと。
C、石窟庵造営の際の奇蹟(@〜Cは『郷伝』よりの引用)。
D、金大城が仏国寺造営の最中に没したため、国家がその事業を継承して仏国寺を完成させたこと(『寺中本記』よりの引用)。

 @にみえる「六輪会」とは、占察法会のことであるが、布施を好む者は天神によって常に護持され、一つを布施すれば万倍の利を得ることが出来、安楽と長寿を得ることができるとしている。

 Dには仏国寺の造営着手は天宝10載(751)で、金大城が大歴9年(774)に没した後に完成したとする。本来貴族の私寺として建立された寺院が、国家の手によって完成したとしている。仏国寺の造営に着手されたのは、新羅では景徳王(位742〜65)の時であったが、この時代は、官寺では皇龍寺・芬皇寺の改装、私寺では断俗寺の建立が行われる等、造寺の盛んな時期であった。そのような風潮の中、仏国寺が建立されたのである。
 「瑜伽大徳を招聘して、降魔(魔を祓う)させて」の部分は「初請瑜伽大徳降魔住此寺」とあるのだが、詳細は不明である。「瑜伽(宗)の大徳(高僧)の降魔を」というような解釈も充分可能である。この部分の意は、『仏国寺古今創記』が瑜伽大徳を太賢とし、「初創の大功徳主(施主) 青丘国師 金大城」と青丘国師、つまり太賢を仏国寺建立者とみなしていることによった。「青丘」というのは東方のことをいい、転じて朝鮮半島をもさしたが、太賢は自ら青丘沙門と号している。

 太賢は新羅唯識宗の学僧で、円測・道証の法系を継ぎ、五十余部百十余部という数多の著作があり、奈良時代には早くも日本にその著作が請来されて多大な影響を与えた。『成唯識論学記』8巻、『菩薩戒本宗要』1巻、『梵網経古迹記』2巻、『薬師経古迹記』2巻、『起信論内義略探記』1巻が現存している。太建のその詳細な伝は不明であるが、『三国遺事』によると、瑜珈祖大徳の大賢は、慶州南山の茸長寺に住んでいたという。この茸長寺には慈氏(弥勒)の丈六石仏があり、太賢はこの常にこの周囲を廻っていたが、太賢が廻ると、像の顔も太賢の行く向きにしたがって回転したという。景徳王の天宝12載(753)夏に旱があったため、詔によって内殿にて『金光明経』を講義して祈雨した。ある日の斎(昼食)の時、展鉢(食事するために鉢を広げること)したにもかかわらず、浄水が献ぜられることが遅かったため、監督の官吏が供者に詰問すると、供者は「宮中の井戸が枯涸して、遠くに汲みに行ったため遅くなりました」といった。太賢はこれを聞いて、「どうしてそのことを早くをいわないのだ」というと、昼講の時、炉を捧げて黙った。すると井戸の水の湧き出て、7丈(約21m)ほどの高さになり、宮中の建物の高さと同じになった。そのため、この井戸を名付けて金光井といった(『三国遺事』巻第4、義解第5、賢瑜珈海華厳)。太賢が『金光明経』を講義したというのは、太賢が『金光明経』に関する注釈書として『金光明経述記』4巻、『金光明経料簡』1巻を撰している(『新編諸宗教蔵総録』)のと関係があると思われる。

 仏国寺の史料で比較的古いのは、実は先ほど掲載した『三国遺事』の記事だけで、他は成立が李朝(朝鮮王朝)にくだる史料になってしまう。もっとも、朝鮮半島自体古代の史料は少なく、意外なことに高麗以前は極めて数が限定される。例えば、古文書では、李基白編著『韓国上代古文書資料集成』(一志社、1987年1月)という本があるが、これは高麗末期までの朝鮮半島の古文書を蒐集したものである(木簡も若干ある)。日本でこの時代に相当するのは南北朝時代までである。仮に鎌倉時代の代表的なものだけとしても、『大日本古文書』の編年文書(25冊)、『寧楽遺文』3巻、『平安遺文』11巻(これとは別に金石篇1巻、題跋篇1巻)、『鎌倉遺文』正編42巻、補遺編4巻がこの『韓国上代古文書資料集成』に相当する時代の古文書であることをみても、この量数格差は一目瞭然である。これは朝鮮半島歴代王朝が記録に関心を持たなかったからではなく、戦火等で散逸してしまったことによる。そのことは朝鮮半島の金石文が日本よりも盛行していたことに窺える。また日本伝来の古文書はその多くが寺院伝来の古文書であるが、それに対して朝鮮半島では李朝の時に排仏が断行されて、多くの寺院が廃寺となったことも大きな要因である。これについては豊臣秀吉の文禄・慶長の役に原因を帰す意見もあるが、それ以降の朝鮮半島寺院古文書も必ずしも多くないことは、上記を原因とする意見が誤謬であることを示唆している。また朝鮮半島古文書情勢をもって、朝鮮半島の歴史自体を嘲笑するような見解を多々見受けられるが、日本でも残存古文書が東大寺・東寺・醍醐寺・仁和寺はともかくとして、朝廷・摂関家(九条家は比較的残存しているが)・鎌倉室町両幕府・興福寺・延暦寺・相国寺といったその時代を代表する重要勢力の古文書が微々たるものしか残存していない状況では朝鮮半島古文書情勢を嘲笑する意見には同意しかねる。   


90年前の仏国寺紫霞門。左の塔は釈迦塔、右は多宝塔(朝鮮総督府編『朝鮮古蹟図譜』第4冊(朝鮮総督府、1916年3月)455頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている) 

伝説上の仏国寺の始源説話

 仏国寺の始源について、『三国遺事』の建立説話とは異なる始源説話が『仏国寺事蹟』と『仏国寺古今創記』にあげられている。

 『仏国寺事蹟』は、仏国寺の縁起で1巻。正式には『新羅国東吐含山華厳宗仏国寺事蹟』という。奥書に「慶歴六年丙戌二月日国尊溪宗圓鏡冲照大禅師一然撰」とあることから、『三国遺事』の編者一然(1206〜89)が撰述したように仮託されているが、文中に示される一然の「国尊」号は、忠烈王9年(1283)3月に授けられたものであり、かつ識語の年紀が「慶暦六年(1046)二月」という一然生存年代以前の年紀であるという矛盾により、後世、同書撰述時に何者かが撰者を一然に仮託したものと考えられる。
 『仏国寺事蹟』の内容は、序文の後、『三国遺事』より載録したと思われる朝鮮建国神話と新羅建国神話について述べる。次に中国における仏教流入説話を載録する。次に『三国遺事』の文を用いて我道による新羅仏教初伝説話を記すが、その中で『三国遺事』本文にない仏国寺起源を巧みに盛り込み、仏国寺は一旦創建されたものの、廃寺となったとする独自の縁起を記す。次に法興王による造寺説話を『三国遺事』によって記したのち、法興王による仏国寺建立説話を述べるが、その創建年を法興王(14年)丁未歳(557)とする。次に真興王代の伽藍拡張とその後の仏国寺について記す。次に『三国遺事』によった宰相金大城による仏国寺重興を記したのち、独自の伽藍縁起について記し、石仏寺(石窟庵)創建について述べる。そののち、崔致遠(858〜?)の作とする「毘盧仏并二菩薩像讃」・「阿弥陀仏像讃」・「釈迦如来像幡讃」の3賛を載せる。これらは崔致遠の文集である『桂苑筆耕集』(『(大本原式精印)四部叢刊』38、台湾商務印書館)にはみえないが、「釈迦如来像幡讃」・「阿弥陀仏像讃」は、『東文選』巻50「華厳仏国寺繍釈迦如来像幡賛并序」の、序は前者に、頌は後者に共通する。崔致遠の文は『仏国寺事蹟』より後に成立した『仏国寺古今創記』によって、現在佚している『東国僧史碑』を用いたことが知られる。後跋は載粛が著し、仏国寺の聖教が女真族の兵火によって失われたため、仏国寺の事跡を後昆に知らしめることを目的として同本を刊行することを記す。この『仏国寺事蹟』は表題・奥書および後跋によって、康熙47年(1708)に石刷した35部のうちの1冊であることが知られる。韓国学文献研究所『韓国寺志叢書第11輯 仏国寺誌(外)』(亜細亜文化社、1983年11月)に写真版が載録される。

 『仏国寺古今創記』は、仏国寺の寺誌で全1冊。正式には『慶尚道江左大都護府慶州東嶺吐含山大華厳宗仏国寺古今歴代諸賢継創記』といい、『仏国寺古今歴代諸賢継剏記』とも略される。内容は、第1創として法興王27年(540)に法興王の母迎帝夫人が創建したことを始めとして、仏国寺歴代の重建・重修を記していく。文章構成は、基本的に編年的に綱文の後に引用史料を付載するものであるが、引用史料は、最初は『三国遺事』を中心に、『三国史記』・『海東高僧伝』を記事に採用し、他に『鶏林本記』・『東国僧伝』・『崔侯本伝』・『三国僧』・『遺事』・『郷伝』・『阿度沙門本記』・『羅史僧録』・『東祖碑文』・『東国僧史碑』・『釈苑詞林碑』・『上&M015427;文』などを出典を明記する形で引載している。李朝における仏国寺の引用史料は、銘文や簡潔な略記の類を用いていると思われる。引用史料のうちでとくに重要なのは、崔致遠の文集である『桂苑筆耕集』や現存碑文にはみえない崔致遠の文を、『東祖碑文』・『東国僧史碑』を引用して5文掲載していることで、崔致遠文は、他には『三国史記』・『東文選』・『東国輿地勝覧』・『華厳寺事蹟』などにみえるのみであるから、このことは『仏国寺古今創記』の史料的価値を高めている。ただし『華厳寺事蹟』と字句の大半が共通しながら、寺院名のみ異なるので、必ずしも仏国寺に関連するかどうかは不明である。また極めて牽強付会が多く、慎重な史料批判が必要である。豊臣秀吉の朝鮮出兵の兵燹の後、仏国寺の堂宇の再興とその化主を記すが、これ以降は必ずしも編年ではなく、仏国寺の末寺ごとにまとめられている部分等がある。同本の成立は、最も年代の下る記事が嘉慶10年(1805)であるから、それ以降であると思われる。『仏国寺古今創記』も韓国学文献研究所『韓国寺志叢書第11輯 仏国寺誌(外)』(亜細亜文化社、1983年11月)に写真版が載録される。

 両書とも独自の記事があるが、その大半は『三国遺事』の新羅仏法受説話や他寺に関する説話に巧みに仏国寺を竄入しているものであって、もとより信用するに値しない。結局、仏国寺の建立は8世紀を溯ることはないのであるが、参考までに以下にあげておこう。

 仏国寺の創建について『仏国寺事蹟』は新羅に仏教を伝えた阿道と関連して記述している。大略すると、「阿道は魏(北魏)に留学の後帰国すると母が、“鶏林(新羅)聖王が出て、大いに仏教をおこすであろう”として建立されるであろう七所伽藍を述べたが、この後に“また五百禅刹の墟あり、その第一を妙吉坊という。(今の仏国寺なり。)すべて釈迦以前の仏の伽藍の地である”と述べている。訥祇王3年己未(419)、成国公主の病を治した賞として訥祇王に望むところを述べるよういわれた阿道は仏寺の建立を申し出ると、王はこれを許し起工させた。これによって始めて第一伽藍の興輪寺と第一禅刹の仏国寺を建立した。しかし訥祇王が薨去すると、国の人は阿道を殺害しようとしたため、塚をつくって(中に入って)戸を閉じて再び現われることはなかった。このため大教は行なわれず、禅刹もまた破壊された。これが仏国の初創である。」
 これによると、仏国寺の創建は訥祇王3年(419)であるとし、その後、阿道が仏難による不慮の死を遂げ、それとともに一旦廃寺になったとする。この創建説話は『三国遺事』巻第3、興法第3、阿道基羅の文に「仏国寺」の語を巧みに挿入したものであり、もとより信ずるに値しないものであるが、仏国寺の始源が新羅に仏教が伝来されたのと同じうすることを主張しているのである。

 その後、新羅は法興王(位514〜40)の時代となって律令の編纂(520)、年号の建元(526)、上大等官制の設置(531)、金官加羅の併合(532)と国威を発揚した。この法興王の事跡として最も著名なのは仏教受容であるが、前述の『仏国寺事蹟』は、『三国遺事』の文の後に巧みに仏国寺建立説話を接続している。それによると仏国寺建立開始年は法興王14年丁未(527)であり、法興王22年乙卯(535)に完成したとする。その中で、以下のように記している。
 「大王(法興王)は群臣に問いかけた。“仏国はどこにあるのか?” 群臣は誤って、“西域が仏国です。”と答えた。通使舎人の朴伊宗という者が、(法興王の問いの意味を)悟って、“先君にあらせられる訥祇大王の御世に、都の東30里の吐含山の麓に始めて第一禅刹を建立し、名を「仏国」と掲げていましたが、これのことではないでしょうか?”と答えた。大王(法興王)はその答えを善として、(朴伊宗を)宰相に抜擢し、その地を調べさせた。すると果たしてその遺跡があり、伽藍の礎石や階段は草むらに埋もれていた。舎人(朴伊宗)は都に戻り、見たことを奏上した。大王(法興王)はよろこび、知恵を用いて、左右の群臣たちに、(仏国寺再建の)命令に背かせず、力をあわせてこれに従わせた。民衆が(よろこんで従ったということは)いうまでもなかった。」

 その一方で、『仏国寺古今創記』では、法興王の母でこの時すでに尼であった迎帝夫人が、仏国寺を建立させたとしている。迎帝夫人の法号が「法流」であるから、仏国寺の別名を「法流寺」という伏線を張っている。なお、『仏国寺古今創記』には、この説話を現在佚している『鶏林本記』より引用したとある。

 太建6年(574、真興王36年)、真興王が母只召夫人のために皇龍寺丈六仏像を鋳造したという説話にあわせて、毘盧舎那像と阿弥陀像の2躯を仏国寺に安置したとする(『仏国寺古今創記』)。この2像は現在も仏国寺に安置されているが、6世紀のものではなく、8世紀以降のものとされている。

 咸享元年(670、文武王10年)、無説殿を創立し、華厳を講義する。文武王は義湘とその弟子である悟真・表訓ら十僧に論を講義させた。また別勅があって表訓を仏国寺に住まわせた(『仏国寺古今創記』)

 ところで、『仏国寺事蹟』や『仏国寺古今創記』において、このような説話が竄入されたのであろうか。阿道の新羅仏法伝来説話と法興王の仏法受容説話に共通するのは、興輪寺である。『三国遺事』では新羅で最初に建立された寺院は興輪寺であるとされ、阿道の建立ののち同寺は廃寺となり、法興王によって復興されたとある。この興輪寺は先ほど述べたように、仏国寺建立の金大城が前世の時、漸開和尚に寄進したが、寄進は興輪寺にて六輪会を行うためであった。また興輪寺の金堂に10体の塑座像があったとあるが、そのうち西壁に安置されていた塑像5体のうち1体は表訓の塑像であった(『三国遺事』巻第3、塔像第4、東京興輪寺金堂十聖)ことは注目に値する。表訓は金大城が建立した石仏寺(石窟庵とされる)に屈請されて住んだことは先にのべたが、ここに興輪寺と仏国寺、表訓と金大城の関係がみえ、仏国寺は建立時点(八世紀)より興輪寺との関係が深かったことが窺えるのである。なお金大城による仏国寺の建立は、『仏国寺古今創記』では「第四創」としている。


多宝塔と釈迦塔

 さて、仏国寺大雄殿の近くには多宝塔と釈迦塔が立っている。釈迦塔は『仏国寺古今創記』によると無影塔とも呼ばれ、以下の説話を述べている。
「寺を建立するときに唐人の匠工を招いた。彼には阿斯という妹がいて、兄を訪ねてやって来たものの、匠工の仕事は終わっておらず、賎しい身分だとして境内に入ることは許されなかった。翌日、仏国寺の南東十里ほどのところに天然の沢があり、妹はそこから兄がいる仏国寺の方を見てみると、釈迦塔には塔の影がなかったという。」

 1966年9月に釈迦塔舎利具の盗難未遂事件があり、釈迦塔が解体されたが、相輪部の露盤上と第二層の舎利孔内から、小木塔合計11基が、木版の『無垢陀羅尼経』とともに発見された。舎利容器には透彫の飾りが施されおり、現在、慶州国立博物館に所蔵されている。また、木版の『無垢陀羅尼経』は、仏国寺釈迦塔の建立年より現存最古の木版印刷物とされている。『無垢陀羅尼経』は正式には『無垢浄光大陀羅尼経』(大正蔵1024)といい、小泥経を多数建立して内部に陀羅尼(呪文の一種)を写して中に安置供養すれば、寿命がのび、極楽・妙喜世界・兜率天に往生することを説いた経典である。8世紀の新羅において『無垢浄光大陀羅尼経』を所依経典として多数の小塔がつくられており、日本でも天平宝字8年(764)の恵美押勝の乱後の鎮魂のため、称徳天皇が発願した百万塔陀羅尼が有名である。

 仏国寺の多宝塔・釈迦塔は法華経の「見宝塔品」の思想によって造営されている。多宝塔と釈迦塔が東・西に建てられたことは、釈迦如来が法華経を説法する前方に七宝で荘厳された多宝如来の多宝塔が現われたことを造型化したものとされている。なお『仏国寺事蹟』によると、釈迦塔は「釈迦如来常住説法の宝所」であり、多宝塔は、「多宝如来常住証明の刹幢」であるとしている。釈迦塔は仏国寺の西塔であり、高さ10m76cmである。東塔の多宝塔は高さ10m40cmとなっている。


仏国寺多宝塔(平成16年08月25日、管理人撮影) 

金大城子孫の氏寺としての仏国寺

 光啓元年(885)、女王である真聖王(位887〜97)の即位元年、献康・定康大王および先考(父)と兄の追善のため、穀を仏国寺に施入し薦席を設けて円測和尚を屈請して華厳経を講義させた。その時、崔致遠に讃を撰述させたという(『仏国寺古今創記』)
 「献康」は『三国史記』巻第50、列伝第10、甄萱伝に「弟の献康王(憲康王)」とあるように憲康王(位875〜86)のことである。憲康王と定康王(位886〜87)はともに真聖王の兄にあたる。ところで、「献康・定康大王および先考(父)と兄」というのは、真聖王の兄である憲康王・定康王が述べられてた後に「兄」の語が挿入されるにもかかわらず、真聖王の父である景文王(位861〜75)がみえないのには、史料に混乱があるように思われる。
 『仏国寺古今創記』では崔致遠の文を典拠として五文引用している。ところが、先に述べた真聖王の追善の記述と、引用されている崔致遠の五文の内容が完全に食い違っている。五文の内容を@〜Dとして下に示してみよう。

@「大華厳宗仏国寺毘盧遮那〔真興王所鋳仏〕文殊普賢像讃并序」
 「大華厳宗仏国寺の毘盧遮那・文殊・普賢像の讃ならびに序」。この文に「光学蔵〔媛妃の権氏、落飾して尼となる。法号は秀円。または光学と名づく。〕」とあるように、修媛あるいは媛妃の権氏が落飾して仏国寺に入ったことが知られる。同文に憲康王の極めて簡単な伝と、修媛あるいは媛妃の権氏がその追善をおこなう旨が記された後、「惟れ王は是れ神仙の中の人なり。媛はすなわち菩薩の化身なり。」とある。この権氏については諸書にみえず、また修媛・媛妃というのも『三国史記』職官志にみえないので詳細は不明だが、崔致遠が唐制に基づいて文飾したと考えれば、『唐会要』に「旧制では、皇后の下に貴妃・淑妃・徳妃・賢妃がそれぞれ一人あり、(これを)夫人とした。(夫人が)正一品であった場合、(その下に)昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛がそれぞれ1人いて、(これを)九嬪とした(以下略)。」(『唐会要』巻3、皇后、内職)ともあることから夫人につく女官であったと思われる。権氏は憲康王の薨去直後に落飾して尼となり、仏国寺に入ったらしい。なお「惟るに王はこれ神仙の中の人なり。媛はすなわち菩薩の化身なり。」と国王と対句表記されていることから、寵姫であった可能性もある。憲康王の後宮には権氏のほかに、王妃の懿明夫人がいた。また憲康王の子・孝恭王(位897〜912)は庶子で、即位後に母は金氏を義明王太妃と称させた。このことから、憲康王の後宮には王妃の懿明夫人、寵姫に権氏・金氏の3人がいたことが知られる。
 この文が記されたのは光啓丁未(光啓3年。887)正月8日のことで、同じ月には、定康王は皇龍寺の百座講会を実施している(『三国史記』)。この百座講会にあわせて、仏国寺の法会を行ったと思われる。なお定康王はこの年の七月に薨去している。

A「大華厳宗仏国寺阿弥陀仏像〔真興王所鋳仏〕讃并序」
 「大華厳宗仏国寺の阿弥陀仏像の讃ならびに序」。この文は@と同年。文末に「東祖碑文」よりの引用とある。なお、『仏国寺事蹟』・『仏国寺古今創記』・『華厳寺事蹟』のいずれも、「阿弥陀仏像」と表題しているにもかかわらず、文中には阿弥陀如来はみえず、阿&M041309;(あしゅく)如来の事が記されている。

B「王妃金氏〔金大城三世之孫女也〕為考繍釈迦如来像幡讃并序」
 「王妃金氏、考のために釈迦如来の像幡を繍するの讃ならびに序」。この文は、「中和6年丙午相月日」に作文されたことになっているが、中和5年(885)3月に光啓に改元しているため、「6年丙午」は存在せず、光啓2年(886)が正しい表記である。ここで何故に光啓に改元せずに中和の年号を用いたままであったのかは不審であるが、これは崔致遠が光啓改元以前に新羅に戻ったため、唐の改元の知らなかったという。事実、「進桂苑筆耕文」では中和6年としている。また相月とは陰暦の7月のことである。この時の王は憲康王であるので、王妃金氏とは『三国史記』にみえる懿明夫人のことであろう。この王妃金氏は、仏国寺を建立した金大城の孫で、金順憲の子である。この時、王妃金氏は、亡き父金順憲のために釈迦如来の繍像を仏国寺に施入したのである。

C「羅朝上宰国戚大臣等奉為献康大王結華厳経社願文」
 「羅朝の上宰・国戚・大臣ら、献康大王のおんために華厳経社を結するの願文」。この文の末尾に「唐暦壬寅相月5日」とあることから、中和2年(882)7月5日のことであることがわかる。これは憲康王が薨去したため、重臣・王族等がその追善のために華厳経を仏国寺円測和尚講壇に奉納したというもの。定康王は、宣懿王后が太和年間(827〜35)に僧均諒のもと結縁した故事に倣って華厳経に結縁すること求める僧賢俊の奏上によって、華厳経の義熙本経(六十華厳・旧訳華厳経)を書写し、また国統・僧録には貞元新経(四十華厳)を書写させた。最後に仏国寺の光学蔵講室で100編転読させた。
 法会が仏国寺で行われたのは、憲康王の王妃金氏が、仏国寺の建立者である金大城の孫であったというのと極めて密接に関係していると思われる。「円測和尚講壇」とあるが、円測(613〜96)にどのように関係するのかは不明である。円測自身は仏国寺が建立されるより以前の人物であり、新羅に戻ることはなかったのであるから、円測に由縁する地であるとは思われない。ただしDの「王妃金氏奉為先考及亡兄追福施穀願文」にも「表訓・瑜伽・円測三聖講院」とある。表訓は仏国寺の建立者金大城の建立した石仏寺に住み、瑜伽は仏国寺の初住太賢である。円測は直接的には仏国寺に関係しないが、仏国寺の初住太賢は円測の法孫であることから、彼ら先賢の名を冠した講院の類が仏国寺にあったかと思われる。
 この願文によると、憲康王の薨去は中和2年(882)としているが、この願文と字句が同一で寺院名のみ異なる『華厳寺事蹟』所引の文には、「唐暦景午相月五日〔唐僖宗光啓二年丙午七月也、(以下略)〕」とあるように光啓2年(886)とし、『三国史記』と同一である。この中和2年(882)は崔致遠はまだ唐土におり、新羅に帰国(885)する前であるため、年代に不審があるようにみえるが、これは華厳経社に関する文を崔致遠が遡上して記したとすれば、年代に食違いはない。なおこの法会の実施に大きな影響力を及ぼした賢俊は、崔致遠の母の弟にあたる(『三国史記』巻第16、列伝第6、崔致遠伝)ことから、この願文の作成あたって崔致遠と賢俊の縁故的性格が垣間見える。

D「王妃金氏奉為先考及亡兄追福施穀願文」
 「王妃金氏、先考および亡き兄のおんために追福して穀を施すの願文」。この願文の末尾に「中和丁未年暢月」とある。中和丁未年は887年に相当し、中和は5年(885)3月に光啓に改元しており、「中和丁未年暢月」というのは光啓3年(887)11月にあたる。この年の7月に定康王が立妃の記事がみえないまま即位1年で薨去し、女王の真聖王が登位しているのであるから、「王妃」というのは不審であるが、仏国寺で法会が行われていることから、先々代の憲康王の王妃金氏(懿明夫人)のことと思われる。定康王は立妃しなかったばかりではなく、嗣子がおらず、そのため妹に王位を継承するよう遺教している(『三国史記』巻第11、新羅本紀第11、定康王2年5月条)ことから、憲康王が薨去した後も懿明夫人は太后にならず、以前として「王妃」のままとなっていたのであろう。
 この法会は父と兄の追善のための法会で、仏国寺の表訓・瑜伽・円測三聖講院にて行われた。「父」は金順憲のことで、「兄」の名はわからない。


 以上@〜Dをみると、『仏国寺古今創記』が本文中で、「光啓元年(885)、女王である真聖王(位887〜97)の即位元年、献康・定康大王および先考(父)と兄の追善のため、穀を仏国寺に施入し薦席を設けて円測和尚を屈請して華厳経を講義させ、崔致遠に讃を撰述させた」というのは、明らかに史料の誤読で、中和2年(882)7月5日に薨去した憲康王の追善のため、定康王や重臣が華厳経を書写して仏国寺に奉納した(C)のと、光啓2年(886)7月に王妃金氏が亡き父のために釈迦如来の繍像を仏国寺に施入した(B)のと、光啓3年(887)正月8日に権氏が法会を行った(@)のと、光啓3年(887)11月に王妃金氏は父と兄のために追善法会を行った(D)というのを混合して再構成してしまったのであろう。

 ところで、『仏国寺古今創記』によると、崔致遠五文のうち、Bには典拠は記されないが、@・Aは『東祖碑文』より、C・Dは『東国僧史碑』より引用したとある。両書は現在ではみることのできない佚書である。ところで、『仏国寺古今創記』に引用される崔致遠五文は、康熙36年(1697)に開版された『華厳寺事蹟』に全文掲載されている。『仏国寺古今創記』(開版されたのは嘉慶10年(1805)以降)と『華厳寺事蹟』に引用される崔致遠五文を比較すると、ほぼ字句が同一で、寺院名の部分のみ、仏国寺を華厳寺に変えている。むしろ、『華厳寺事蹟』の方が『仏国寺古今創記』よりも誤植が少ないため内容は明快であり、文題が異なるも五文の配列は同一であるため、一見、『仏国寺古今創記』は『華厳寺事蹟』を孫引きしたかのようにみえる。だが『華厳寺事蹟』には典拠は示されず、『華厳寺事蹟』開版の11年後の康熙47年(1708)に石刷された『仏国寺事蹟』には@・A・Bが掲載されており、また『東文選』巻五十、賛、華厳仏国寺繍釈迦如来像幡讃并序(『学東叢書第4 東文選第2』〈学習院東洋文化研究所、1970年3月〉339〜340頁)は、Bの前半とAの末尾に相当する部分が組み合わさったものであり、このことからみれば少なくとも、A・Bは『東文選』編纂(1478)時には仏国寺関連の讃であることが認識されていたようである。崔致遠研究の第一人者である今西龍「新羅崔致遠伝」(『新羅史研究』近沢書店、1932年6月)に「華厳寺如来像幡并序〔同(東文選)巻五十〕」とあるように、今西龍氏の底本と『学東叢書第4 東文選第2』は系統を異にするものなのであろうか(朝鮮古書刊行会編『朝鮮群書大系続々10 東文選3』(朝鮮古書刊行会、1920年9月)116頁では表題は学東叢書に同じ。なお氏は「仏国寺古今歴代記に載するものは稍少しく疑はしき点あり」とみなしている)。結局、崔致遠五文は、それ自体が仏国寺について記されたものであるかどうかは疑わしい点があるのみならず、『仏国寺古今創記』が引用して作成した本文も誤読している点よりみれば、『仏国寺古今創記』の史料的価値は極めて減退するものである。ただし、それ以前の史料(『東文選』・『仏国寺事蹟』)にみえ、また『仏国寺古今創記』自体が誤読しているのであるから、崔致遠五文は『仏国寺古今創記』の編者が作文したわけではない。


仏国寺青雲橋(平成16年08月25日、管理人撮影) 

高麗における仏国寺

 天聖2年(1024、顕宗15年)、高麗の顕宗(位1009〜31)が、先代の穆宗(位997〜1009)を追慕して仏国寺にて設斎し、三重大徳の方紹・神府等を屈請して設斎し僧30人を得度させ、田20結を納めた(『仏国寺古今創記』)。これに関する記事は『高麗史』・『高麗史節要』では確認できないが、『仏国寺古今創記』によると、この説話を現在佚している『東祖碑文』より引用したという。
 穆宗は若年・病弱のため、母献哀太后と金致陽が政治を壟断した。穆宗はこれを除こうとして族叔の良君王(顕宗)を後嗣に定めて、康兆を都に呼び寄せて、金致陽を粛清した。ところが康兆は良君王(顕宗)を国王に擁立して、穆宗を廃位・弑殺した。そのため宗主国の契丹の干渉を受け、契丹の征討軍が高麗に侵攻した。高麗軍は大敗して康兆は捕殺され、首府の開城は焼き払われて廃墟と化した。その後、顕宗は穆宗を追謚しているが、仏国寺の説話もこれに関係すると思われる。

 乾道8年(1172、明宗2年)、 毘盧殿と極楽殿を重創する。観玉・秀蘭は高麗の禅林中、抜秀の者であった。明宗(位1170〜97)は2人の徳行が並び高いため、2人を王師にしようと、王寵之を遣わしたが、これを断られた。そのため東京(慶州)宣廟に親幸して仏国寺に到り、光学蔵をみると、室内の東壁に憲康王の像があり、これに礼拝した。その後、詔して2師をこれに住まわせ、毘盧殿と極楽殿を修補した(『仏国寺古今創記』)
 この記事は『仏国寺古今創記』によると「郷伝」より引用したとあるが、文意は矛盾が多い。王寵之(?〜1067)は明宗の時代の人物ではなく、また「東京宣廟」というのも不明である。宣廟は宣宗(位1083〜94)、あるいは忠宣王(位1298、復位1308〜13)という解釈もできるが、それでもまだ文意が詳かではない。

 皇慶元年(1312、忠宣王4年)、道場を重創する(『仏国寺古今創記』)
 『仏国寺古今創記』では、この記事の後に、『釈苑詞林碑』の李穀撰の文よりの引用として海円(1272〜1340)の伝を記す。内容は皇慶元年(1312)の道場重創とは直接的には無関係であるが、それによると海円が忠粛王の請によって仏国寺に住んだという。しかし、この文は、『東文選』掲載の文(『東文選』巻118、碑銘、大崇恩福元寺高麗第一代師円公碑)とほぼ同一で、『東文選』では「百済金山寺」とある箇所を「仏国寺」としているだけである。恐らくは『仏国寺古今創記』を編纂する際に、『東文選』を孫引きして、仏国寺に牽強付会したようである。


李朝初期の仏国寺

 正統元年(1436、世宗18年)、孝寧大君・安平大君・永膺大君が大功徳主(施主)となり、大雄殿・観音殿・紫霞門を重創した。また正統13年(1448)3月18日に、世宗より仏国寺仏法僧三宝印信を賜った(『仏国寺古今創記』)
 これは一見、世宗(位1418〜50)が仏国寺に対して尊崇を加えたようではあるが、これは李朝における崇儒排仏政策によるものある。李朝初期に台頭した新進の士大夫は、高麗末の混乱は仏教と密接に関係していると考え圧力を加えた。李朝の初代太祖(位1392〜98)は仏教への尊崇があつかったが、太祖の子で第3代太宗(位1400〜18)は、排仏を断行した。譲位して太上王となっていた太祖はこれに反対し、両者の関係は悪化した。結局、太宗は全国242寺を残してすべて廃寺とし、寺領土は収公した。この時、仏国寺の属する華厳宗は42ヶ寺のみ存続を認められた。太宗が子の世宗(位1418〜50)に譲位した後も、諸宗派を禅・教二宗に統合して、各18寺のみ認定するなど、仏教弾圧は継承された。世宗個人は内仏堂を宮中に設置するなど、仏教信仰がみられるものの、李朝の趨勢は既に排仏に傾いていたのであった。
 孝寧大君(1396〜1486)は太宗の次子で、僧侶となって仏教を尊崇した。彼は多くの仏事を主催して、李朝の崇儒排仏の状況下で非難を受けたが、それは同時に排仏によって衰えた仏教を支援したことを意味する。なお安平大君(1418〜53)と永膺大君(1434〜67)はともに世宗の子である。重創の一年前に孝寧大君は桧巌寺重修を建議している。このように、士大夫階級が排仏を主張・断行したが、王族・宮廷女官等が仏教を支えた。世宗朝の仏国寺に関する記事は、仏国寺の復興に関する記事とみてよい。

 景泰6年(1455)、恵能・通泰が顕徳大妃・魯山君を大功徳主として釈迦像の左右を改め、壁画や仏閣を修補した(『仏国寺古今創記』)
 顕徳大妃(?〜1441)は文宗(位1450〜52)の妃で、文宗即位以前に産褥のため没した。この時の子が端宗(位1452〜55)であるが、端宗は叔父の首陽大君(世祖)に王位を簒奪されて、上王となったが、魯山君に降封され、配流先で弑殺された(1457)。このことからみると、景泰六年(1455)に大功徳主として顕徳大妃と魯山君がみえるのは、年代的に全くありえないことなのである。

 弘治3年(1490、成宗21年)、義玄大師が月山大君(成宗の兄)を大功徳主とし大雄殿および各殿を重創する(『仏国寺古今創記』)
 成化6年(1470)、了明が観音殿を修補する(『仏国寺古今創記』)
 正徳9年(1514)、月清が極楽殿の壁画を修補する(『仏国寺古今創記』)
 嘉靖43年(1564、明宗19年)、達文大徳が大雄殿を重修する(『仏国寺古今創記』)


90年前の仏国寺紫霞門・青雲橋・白雲橋(朝鮮総督府編『朝鮮古蹟図譜』第4冊(朝鮮総督府、1916年3月)455頁より転載) 

文禄・慶長の役における仏国寺の回禄と復興

 万暦21年(1593、宣祖26年)5月、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、左兵使の精鋭と弓や剣を秘かに仏国寺地蔵院の壁間に移した。日本軍が数十人やってきて仏国寺の伽藍や仏像を見物していたが、その時、隠れていた兵銃をみて驚き逃げ、8人が踏み殺された。その報復なのか大雄殿・極楽殿・紫霞門のほか二千余間がことごとく兵火によって焼失し、仏像・石棺・宝塔のみが炎を免れた。住僧の曇華は門徒を率いて長寿寺に疎開していたため、難を免れた(『仏国寺古今創記』)

 戦役終了後、仏国寺は万暦32年(1604)に観音殿を再建されたのを始めとして次々と再建されているが、以下、『仏国寺古今創記』をもとに主要建造物ごとに再建と重修をみてみよう。

@再建されて現存する建造物(大雄殿・極楽殿)
 大雄殿は日本でいうところの金堂であるが、その再建工事は仏国寺焼失の約60年後の順治16年(1659)に行われた。この時は大雄殿は宝殿と表記されており、大功徳王(施主)に慶州府尹厳鼎、引勧化士に克思・法鑑らによる大規模なものであった。翌順治17年(1660)8月には僧一湖が自ら費用を負担して大雄殿の戸闥(門戸)の四面の荘厳を雕造した。康熙21年(1682)には大雄殿に雨漏りがするため、化主登信・釋宗・草全・冲益らが瓦の葺き替え工事を実施している。康熙44年(1705)に寺内執事の雲珠らは大雄殿の西柱の改修工事を行っている。雍正7年(1729)には3年かけて瓦葺を行い、その間塗装も行った。
 乾隆30年(1765)、大雄殿の重修のため天龍山の老僧の釆遠は600金を喜捨した。これを聞いた施者光泰上人は発心して自ら募って500金を得、さらに諸人に文をつくらせ勧誘させたところ合計四千余金を得た。2月6日に材木の切出を開始し、5月3日に着工、6月中旬に落成した。この重修工事に携わった者は百余人であった(『仏国寺大雄殿重創丹ワク記』)。乾隆32年(1767)4月に塗装を行い、6月に終了している。大雄殿は新羅建立時の基壇の上に造営されており、4面中央に石壇があり、正面5間、側面5間の入母屋造となっている。大雄殿の建築は李朝時代後期に属しており、この時代の建築は装飾が繁雑となり、後には虚飾に流れるようになると評価されている。何やら日本の近世社寺建築と同様の傾向が思いおこされる。
 極楽殿は乾道8年(1172)に重創されたとされるが、やはり文禄・慶長の役の兵火で焼失した。再建年次は不明であるが、康熙59年(1720)に極楽殿は善処・再遠を化主として塗装工事されているため、少なくともそれ以前には再建されていたと思われる。極楽殿は乾隆15年(1750)に悟還を化主として新たに建造され、大正14年(1925)に建替えられた。規模は正面4間、側面3間となっている。

A再建され、近代になってから大規模に改造された建造物(紫霞門・安養門)
 仏国寺の印象を形成する青雲橋・白雲橋の文禄・慶長の役における被害は不明であるが、紫霞門をはじめとした上部構造物は焼失している。青雲橋・白雲橋の上部構造物のうち、最もはじめに再建されたのが歩廊である南行廊で、万暦40年(1612)に大師海眼を化主として再建された。その15年後、天啓6年(1626)に山人清彦が安養門を再建し、翌崇禎元年(1628)に首座泰湖を化主として紫霞門が再建された。
 康熙47年(1708)に紫霞門は祖英を化主として塗装工事を行っている。康熙54年(1715)には戒聡・克暹を化主として青雲橋・白雲橋の修理工事を行っている。乾隆2年(1737)に居士浄行・清信を化主として安養門は修理工事が行われている。なお歩廊は大正時代に毀却されているが、1972年に復元された。

B再建されたものの、後に毀却された建造物(観音殿・無説殿・毘盧殿・香炉殿)
 仏国寺で最もはじめに再建されたのが観音殿で万暦32年(1604)であることは先に述べた。観音殿は、無説殿の裏手の小高い丘状の上にある。康熙34年(1695)に明哲・宗伯・覚岑・勝元・貫湖・霊修・斗仁・勝貫らを化主として修理工事が行われている。同時に化主守孟・思運を化主として、瓦葺も実施している。康熙57年(1718)に善清・順択を化主として塗装工事を実施している。観音殿は少なくとも20世紀になる頃にまで廃絶している。1972年に復元された。規模は方3間である。
 日本でいうところの講堂にあたる無説殿は、順治5年(1648)に大徳海浄によって再建された「説法殿」がそれにあたると思われる。焼失後50年ほどになる。無説殿は康熙47年(1708)に化主卓行・卓林・双訓・恵根・日雲等を化主として修理工事が行われている。当時の無説殿は八間四面、単層で屋根は切妻造であったという。関野貞の見聞したところによると、一時内部を僧侶の住居として用いていたたため多くの部屋にわかれ、オンドルが設けられており、屋根が破れ軒が傾いていたという。そのためか大正時代に毀却された。1972年に復元されている。正面8間、側面4間の比較的大規模な建造物である。
 毘盧殿は仏国寺主要建造物の中では比較的遅い順治17年(1660)に道天・印祐を化主として再建された。毘盧殿も少なくとも20世紀になる頃にまで廃絶している。やはり1972年に復元されている。規模は正面5間、側面3間となっている。
 天啓8年(崇禎元年、1628)に香炉殿が大徳聖体を化主として再建されている。この時に文殊殿もともに再建されている。康熙17年(1678)に察信が修理工事を行い、同年、義俊が東に別室を造営している。また雍正7年(1729)に化主真聡らを化主として十王殿とともに修理工事が行われている。香炉殿は観音殿・無説殿・毘盧殿とは異なり、廃絶の後、現在に至るも復興していない。

C新たに建立され、後に廃絶したもの(羅漢殿・玄真堂・十王殿・光目堂)
 ここにあげる三建造物は、文禄・慶長の役後に新たに建立され、後に廃絶したものである。
羅漢殿は順治四年(1647)に一悟を化主として観音殿の前方東に建造され、また尊像もこの時につくられた。乾隆25年(1760)に移建している。
 玄真堂は順治5年(1648)に大徳海浄が建立し、康熙48年(1709)に修理工事が実施されている。
 十王殿は康熙13年(1674)に察信を化主として毘盧殿の西に建立された。康熙51年(1712)に塗装工事が、雍正7年(1729)に真聡らを化主として香炉殿とともに修理工事が行われている。
 光目堂は康熙46年(1707)に呂浄を化主として建立された。乾隆14年(1749)に光目堂の禅室が新たに建造されている。

D廃絶した仏国寺の末寺・子庵(長寿寺・黄龍寺・深寂庵・石堀庵)
 「末寺」という呼び方が穏当かどうかはわからないが、ここにあげるのは仏国寺との間に何らかの隷属関係が見出せるものである。その大半が廃絶している。
 長寿寺は、『三国遺事』の仏国寺建立説話でもその名を見出すことのできる寺院であるが、いかなる変遷をたどったのか、その詳細は不明である。文禄・慶長の役の際、曇華が弟子とともに避難した先が長寿寺である。戦役終了後の万暦32年(1604)に大徳海清が重創している。万暦42年(1614)に曇華が長寿庵を建替えているが、長寿寺との関係は不明であり、その後の変遷もわからない。
 黄龍寺は、一般的には新羅の大刹皇龍寺のことであるが、ここでいう黄龍寺はそれではない。『仏国寺古今創記』によると、新羅の善徳王(位632〜47)が貞観7年(633)に工匠を召して薬師像を鋳造して安置し、黄トン(くさかんむり+屯。UNI829A。&M030695;)寺と名付けた。昭聖王(位799〜800)の時に5年の日照りがあったが、この山だけが草木がうるおっていたため、山号を隠霑とし、寺号を改めて黄龍寺としたという。文禄・慶長の戦火で焼失したもの、天啓3年(1623)に曇華が復興した。順治七年(1650)には首座一具が修復工事を行っている。しかし康熙四十年(1701)に黄龍寺の僧侶や寺材は仏国寺に併合され、深寂庵となっている。
 深寂庵は黄龍寺の後身で、康熙42年(1703)に崇屹・思欠を化主として再建された。しかし康熙54年(1715)に失火により焼失したため、国浄を化主として再建され、康熙47年(1708)には貫英を化主として法堂が重創されている。また雍正8年(1730)に法常を化主として重建されている。それ以降の変遷の詳細は不明である。
 石堀庵は、康熙42年(1703)に従悦が重創したとあるが、仏国寺との関係から石窟庵を連想させる。あるいは石窟庵そのものかもしれない。ほかにも康熙57年(1718)に太謙が重創した等窟階というのもある。
 熊寿庵・青蓮庵・祖室・白雲庵など多くの末寺・子庵があるが、詳細は不明である。その多くが廃絶したのかもしれない。


近代における仏国寺

 仏国寺は朝鮮総督府時代には荒廃していた。その当時の仏国寺白雲橋・青雲橋等の石造の下部構造物の写真をみると、いずれも無惨に破損している(上の写真を参照されたい)。さらに大正時代の仏国寺は『朝鮮古蹟図譜』第4冊をみると、歩廊が毀却されており、ほかにも無説殿も毀却されたという。1923年に補修工事が行なわれ、関野貞『朝鮮美術史』 (朝鮮史学会、1932年9月)図版第60に掲載されている写真では白雲橋・青雲橋等の石造の下部構造物は修復されている。
 韓国独立後、1961年に五・一六クーデターによって政権を掌握し、韓国大統領に就任した朴正煕が1972年に仏国寺を再建したが、これは慶州景観復活の一貫として行われ、皇龍寺・天馬塚の発掘・遺跡整備と同時進行に実行された。これは文化の大衆化が韓国の国際化とともに進展し、無国籍文化的様相をみせたことから、政府が国民統合のために伝統文化を強調した政策の一貫として行われ、なおかつ、朴正煕が慶尚道出身であったことから、新羅の古都慶州を含めた同地の開発に力を入れたことによる。この開発の不均衡への不満は1971年の大統領選挙で、野党側の躍進という結果を生み出した。ともあれ、荒廃していた仏国寺が、今日みえるような壮大な伽藍となったの朴正煕の功績である。仏国寺に掛かる扁額の書跡は彼の手によるものある。



[参考文献]
・朝鮮総督府編『朝鮮古蹟図譜』第4冊(朝鮮総督府、1916年3月)
・忽消谷快夫『朝鮮禅教史』(春秋社、1930年9月)
・今西龍「新羅崔致遠伝」(『新羅史研究』近沢書店、1932年6月)
・関野貞『朝鮮美術史』 (朝鮮史学会、1932年9月)
・末松保和「新羅下古諸王薨年存疑」(『青丘学叢』14、1933年11月)
・関野貞著・藤島亥治郎編『朝鮮の建築と芸術』(岩波書店、1941年8月、《新版》岩波書店、2005年5月)
・米田美代治『朝鮮上代建築の研究』(秋田屋、1944年)
・黄寿永「新羅皇龍寺九層塔の刹柱本記」(『仏教芸術』98、1974年9月)
・鎌田茂雄『朝鮮仏教史(東洋叢書1)』(東京大学出版会、1987年2月)
・朴永圭著・尹淑姫/神田聡訳『朝鮮王朝実録』(新潮社、1997年9月)
・菊竹淳一・吉田宏志責任編集『世界美術大全集 東洋編 第10巻 高句麗・百済・新羅・高麗』(小学館、1998年7月)
・武田幸男編『朝鮮史(世界各国史2)』(山川出版社、2000年8月)
・『仏舎利と宝珠ー釈迦を慕う心』(奈良国立博物館、2001年7月)
・李興範「新羅時代仏国寺伽藍の構造と思想基盤」(『宗教研究』331(75-4)、2002年3月)
・尹張燮著/西垣安比古訳『韓国の建築』(中央公論美術出版、2003年12月)
・藤谷厚生「金光明経の教学史的展開について」(『四天王寺国際仏教大学紀要』4・39・47、2004年度) 


仏国寺回廊と大雄殿と多宝塔(平成16年08月25日、観音殿より管理人撮影)  



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