皇城



皇城内図・『大南一統志』巻1より。南が上、北が下に描かれる。
@午門、A太和殿B太廟C世廟D肇廟E興廟F紫禁城G奉先殿H寿址宮I長寧宮J内務府、K幾暇園L瀛洲M馬厰・象厰N将軍厰O和平門、P彰徳門、Q顕仁門
(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉41-42頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

 皇城は京城(フエ旧市街)内の、現在「阮朝王宮」と呼ばれる範囲がそれに該当する。この中に皇居である紫禁城や官庁が建ち並んでいた。建設は嘉隆3年(1804)4月に宮城(紫禁城)とともに開始され、建設責任者は阮文張・黎質が担った(『大南寔録正編』第1紀、巻之24、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年4月朔日条)

 周囲は640丈1尺(2.5km)で、南北151丈(604m)、東西155丈5尺(620m)である。周囲は城壁に囲まれており、高さは1丈5寸(6m5)、厚さは2尺6寸(104cm)であった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)。皇城の背後(北側)は後圃と呼ばれる地となっており、明命12年(1831)には濠と北畔に欄杆が設けられている(『大南寔録正編』第2紀、巻之72、聖祖仁皇帝寔録、明命12年3月条)


彰徳門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。啓定8年(1923)に改建された。

 城壁には門が4つ、皇城の東西南北にある。南側は午門、東側は顕仁門、西側は彰徳門、北側は和平門となっている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)


西台関(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

午門

 午門は皇城の正門であり、南の門である。コ字形の平面をもち、石造の基台には門が5箇所穿たれている。上部中央には二層の楼があり、その左右は翼楼となっている。明命14年(1833)に建造された。

 午門の前身は南関台という。皇城には東西南北の中央四箇所に関台が設けられており、それぞれの方角に位置した門を守る役割を果たした。他の方角の関台は保存状態こそ様々ではあるが現存しており、これによって南関台も概ねの形状・役割を知ることができる。いずれの関台も石造であり、皇城の城壁から張り出した形状をしていた。関台の前面には堀と橋があり、付近には門があるが、橋は直接門に架けられておらず、橋の正面は関台となっていた。つまり橋を渡るとまず関台があり、そこから道を迂回して門に到るようになっていた。これによって外部からの攻撃は直接門に及ぶことはなく、関台でひとまず防備されるようになっていた。

 南関台は嘉隆年間(1802〜19)初頭に建造された。上部には乾元殿という建造物があった。南関台の左右には門が2箇所あり、それぞれ左端門・有端門といった。嘉隆年間(1802〜19)初頭に、左を武公署とし、右を文公署としていたが、明命4年(1823)に左右朝堂と改めた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)

 午門の建造は明命13年(1832)8月に計画された。この時同時に太和殿将軍厰の移転、午門の前に池を掘削することを計画している。この工事に際して明命帝(位1820〜41)は、城壁の工事が完成したばかりで兵が休まる暇がないことを知りつつも、翌年春の竣工を目指して敢えて貫行している(『大南寔録正編』第2紀、巻之82、聖祖仁皇帝寔録、明命13年8月条)

 阮朝は都城建造にあたって、京城の防備はフランス軍事学の影響を受けながらも、城内における施設などは中国古代の『周礼』の思想によって構想されていた。また初代嘉隆帝は政務にあたって『明史』を参照することが多かったように、官制などで明の制度を多く取り入れており、随所で中国的な影響を見ることができた。第2代の明命帝は、父が明代の風を慕ったのに対して、現在国境を接する隣国・清の影響を受けることが多く、実際政務の参照にするため、如清使(冊封使)に対して、清の実録の入手を命じている。

 彼ら父子は中華文明を慕ってはいるが、現実として隣国にあたる清に対して、表面上は冊封を受け入れて服従の意を示しながらも、国内では小中華帝国的な王朝を築き上げた。北の隣国に対するもう一つの中華を標榜し、明命帝は国内において、清朝から下賜された国号「越南」ではなく、「大南」を使用し、阮朝が清と対等の国家であると標榜した。その標榜の方法は、実際に清と覇権を争うというものではなく、制度面において顕著であった。フエの文廟を中心として全国に文廟を設置し、政治機構は明・清にならった中央集権制となり、中央行政は六部が実務にあたり、皇帝へは内閣(後に機密院)が補佐した。また単に宮城と呼ばれていた宮殿地帯も北京の紫禁城に倣って「紫禁城」と改め、内部の宮殿施設もまた北京の紫禁城に倣って改称しており、また紫禁城内部の建物の外壁は、皇帝の色とされた黄色で統一された。午門もやはり北京の紫禁城がモデルとなったのである。

 午門は明命14年(1833)正月に完成した(『大南寔録正編』第2紀、巻之88、聖祖仁皇帝寔録、明命14年正月庚寅条)。現在、コ字形した門全体を午門というが、本来は5つある門の内、中央の部分のみを午門といい、皇帝専用の儀式用の出入り口であった。その左右はそれぞれ左夾門・右夾門、そのさらに左右は左闕門、右闕門である。午門の上には五鳳楼を、その左右に待漏院を建設している(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)

 午門の正面には堀があり、この堀池を金水池という。金水池は嘉隆年間(1802〜19)初頭、まず左右と後方の三面を掘削し、明命14年(1833)になってから前方も掘削している(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)


午門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



午門と金水池(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

門と関台

 和平門は嘉隆年間(1802〜19)初頭に拱辰門として建造された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)。明命2年(1821)5月に地平門と改名され(『大南寔録正編』第2紀、巻之9、聖祖仁皇帝寔録、明命2年5月条)、さらに明命14年(1833)に現行の和平門と改名した。成泰6年(1894)に修理を行なっており(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)、保大8年(1933)に現在みる姿となっている。

 皇城は東西南北にそれぞれ門があるものの、それぞれの方角の中央に位置しているのは午門のみで、あとは中央には関台があり、門はややずらして建てられている。顕仁門の左を東関台、彰徳門の右を西関台、和平門の左を北関台という(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)


和平門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。現在のものは保大8年(1933)に再建されたもの。



北台関(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



顕仁門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。啓定8年(1923)の改建。



東台関跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



東台関跡から顕仁門方面をみる(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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