皇龍寺跡



皇龍寺九層塔跡(平成16年08月25日、管理人撮影。まがってるけど…) 

 仏国寺見学が終わり、昼食(←やっぱり辛かった!)の後、バスにて皇龍寺跡に向いました。目的地はバスを降りてやや歩かなければならなかったのですが、歩きながら皇龍寺のかつての伽藍の広大さを体験できます。現在では建造物一つもないため、「どうして建物がないのに行くんだ?」にみたいなことをいっていた人もいましたが、いってみると「以外によかった」なんていっていました。
 まわりには何もなく、だだっ広いところで、目につくものといえば盆地である慶州を囲む山々と近くのお寺らしきもの(芬皇寺ですが…)位なものです。ちなみに九層塔跡は後述しますが、それぞれの層に仮想敵が示され、第一層は日本になっています。基壇の上は第一層ですので、日本人である我々がそこにいるのは何やら不思議な気分でした。この九層塔にはよく落雷があったので、それは仮想敵である日本の僧の祈祷が雷を落とせしめた、なんて想像をするのも楽しいです。ガイドさんは「東洋最大」といっていました。ただし九層塔に関しては80メートルあったといわれている九層塔の高さも、『洛陽伽藍記』で有名な北魏洛陽の永寧寺の塔(120メートル)の方が高いのです。


皇龍寺の創建と丈六仏像

 史書にみる皇龍寺の初見は、『三国史記』真興王14年(553)2月条に、「十四年春二月、王は所司に命じて、新宮を月城の東に築かしむ。黄龍その地に見ゆ。王これを疑(あやし)み、改めて仏寺となし、賜号して「皇龍」と曰う。」(『三国史記』巻第4、新羅本紀第4、真興王14年春2月条)とあり、同真興王27年(566)春2月条に、「皇龍寺功畢りぬ。」とあって、13年の歳月をかけて完成させたとある。この間、新羅は、隣国百済の侵入を迎撃して、百済王聖王(『日本書紀』では聖明王)を敗死させるということがあった。『三国史記』50巻は現存する朝鮮半島最古の紀伝体の史書である。高麗朝の金富軾(1075〜1151)が撰述した。主な刊本に@鋳字本の『学東叢書13 三国史記』(学習院大学東洋文化研究所、1986年5月)。翻刻本としてA朝鮮古書刊行会編『朝鮮群書大系 三国史記』(朝鮮古書刊行会、1909年11月)、B朝鮮史学会編・末松保和校訂『三国史記』(近沢書店の復刊。国書刊行会、1971年)が代表的なもの。Bが最も良く用いられるが、@の状態がよいため、A・Bを用いずに@を用いても特に不自由さは感じられない。現代語訳には、主なものだけでもC林英樹訳『三国史記』1〜4(三一書房、1974〜75)、D井上秀雄・鄭早苗訳注『三国史記』1〜4(平凡社東洋文庫、1980年2月〜)、E金思&M056061;訳『三国史記』上・下(六興出版 1980〜81年。のち合冊して明石書店、1997年11月)などがある。中でも、Dは註が最も詳しく、訳注本の白眉。Eは原文付き。また、F佐伯有清『三国史記倭人伝(朝鮮正史日本伝T)』(岩波文庫、1988年3月)は、『三国史記』・『三国遺事』・『広開土王(好太王)碑』など七篇の史料より、日本関連の記事を抄出し、訳注したものである。


 皇龍寺はその後、同真興王35年(574)春3月条に、「35年春3月、皇龍寺の丈六像鋳成す。銅重さ三万五千七斤、鍍金重さ一万百九十八分。」とあるように、3万5007斤(10d)の銅と金メッキ用に1万98分の金を用いて丈六の仏像を完成させ、同真興王36年(575)春夏条に、「36年、春夏旱(ひでり)なり。皇龍寺丈六像、涙を出して踵に至る。」と新羅国内の変貌に対応するという記事を示している。これらの記事は『三国遺事』に「新羅の第24代真興王の即位14年癸酉(553)2月、紫宮を龍宮の南に築こうとしたが、黄龍がその地に現われたので、これを改めて寺とし、「黄龍寺」と名付けた。己丑(569)にいたって、堂塔をめぐらせ、17年目に完成した。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、皇龍寺丈六)とあるのと一致するのであるが、この年に丈六仏鋳造することによって、皇龍寺が13年の歳月をへて完成させたばかりの金堂とその中に安置されていたであろう尊像はどうなったのか不明とされている。
 その後『三国遺事』では皇龍寺の丈六仏像の由来について記すが、やや長文であるため略して、内容のみ記すが、阿育王(『三国遺事』の中では仏滅後百年の人としている)が仏像建立の志を果たすため船に黄金や鉄を大量に搭載して各国を廻らせ、その船が新羅に至って、ようやく完成し、皇龍寺の丈六仏がそれであるとする。また、皇龍寺は釈迦と弟子の迦葉仏が講演した地とされている。


 皇龍寺の丈六仏像について、『三国遺事』は以下の文で締めくくっている。「像が完成した後、東竺寺の三尊像も移して皇龍寺に安置した。『寺記』には以下のように記載されている。“真平王五年甲辰(584)、金堂が完成した。善徳王の御世に、寺の初代の住職は歓喜師、第2代は慈蔵国統、次は国統恵訓、次は廂律師であった。” 今は兵火のために、大像と2菩薩像はすべて溶けてなくなってしまい、小釈迦像のみが残るだけである。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、皇龍寺丈六)


新羅の官寺としての皇龍寺

 真平王35年(613)7月、隋使の王世儀が皇龍寺にやってきて百高座を設け、円光などの僧に経を説かせている(『三国史記』)。これに先立つ開皇14年(594)に真平王は隋に使節を派遣した。これは北の高句麗の圧迫を軽減するため隋に朝貢したのだが、新羅は隋との関係良好のため、大業年間(605〜16)には毎年使節を派遣している(『隋書』)。真平王30年(608)には、真平王は隋軍に高句麗を征伐してもらおうと、円光に命じて出兵を乞う上表文を書かせている。33年(611)に新羅は隋に上表文を奉り高句麗征伐の出兵を願い出た(『三国史記』)。結果、隋は高句麗遠征とおこない、失敗して隋滅亡の端緒となっている。隋に留学経験のある円光に皇龍寺で隋使の歓待させるということは、新羅の国防政策の延長線上にあることを示しており、このことは皇龍寺が単なる護国寺院としてのみならず、国家政策上の一翼を担っていることが垣間みえる。

 円光は、俗姓は朴氏(『続高僧伝』巻第13、義解篇9、本伝17、唐新羅国皇隆寺釈円光伝)とも薜氏ともいわれる。新羅の王京で生まれた(『海東高僧伝』巻第2、流通1之2、円光伝)。儒学を学ぶため真平王11年(589)3月、中国・南朝陳に留学した(『三国史記』巻第4、新羅本紀第4、真平王11年3月条、および『三国遺事』巻第4、義解第5、円光西学、以下『三国遺事』円光伝と略)。その後仏教に転じて彼の地で名声を博したが、隋軍の侵攻と、それにともなう陳の滅亡の際、危うく隋兵によって殺害される寸前であったという(『三国遺事』円光伝)。真平王22年(600)に隋に派遣された新羅の聘使である奈麻諸文・大舎とともに帰国し(『三国史記』巻第4、新羅本紀第4、真平王22年条)、君臣の帰依を受けたが、皇隆寺(皇龍寺)で99歳で示寂した。貞観4年(630)とも貞観14年(640)ともいわれている(『三国遺事』円光伝)
 帰国後、加悉寺に居住していた円光のもとに貴山・箒項の2人が訪れ、終身の誡とする教えを求めた。この時円光は仏の十戒ではなく、臣下たる者の守るべき「世俗五戒」を示している。それは君につかえるに忠をもってし、2に親につかえるに孝をもってし、3に友に交わるに信をもってし、4に戦いに臨んでは退かず、5に生きているものを殺するには選択する、ということである。貴山・箒項の2人は百済軍との戦いに従軍して、円光の教えにしたがって退かず、戦死した(『三国史記』巻第45、列伝第5、貴山伝)。このように円光の国家主義は、新羅統一以前の国際環境の危うさによるもので、新羅において新興の仏教が三国統一事業にむけた精神的支柱になっていたことが窺える。

 皇龍寺において実施された百高座とは百座講会のことで、100人の僧が一斉に護国経典である仁王経を読誦して、外敵の侵入と内乱を防除し、国家の安寧を祈願する護国的色彩の強い仏教儀礼である。新羅に百座講会が開始されたのは開国元年(真興王12年・551)、高句麗の恵亮が亡命してきた時に百座講会と八関の法を伝えたのが始めという(後述)。百座講会は実際には新羅滅亡までの400年間にわずかに9例みえるのみであるが、そのうち7例は皇龍寺にて実施されており、残り2例のうち1例は「外寺」、もう1例の実施場所が不明である。皇龍寺にて実施された百座講会は、王の病の治癒祈願、豊作祈願、地震の被害者供養を目的として行われたが、憲康王2年(876)2月を境として、即位後間もない王が親幸して聴講する、日本の一代一度仁王会に類似した法会となり、単なる護国法会から即位儀礼の一つに発展した。

 また皇龍寺では看灯会という法会が行われている。これは記録に残るだけでは景文王6年(866)と真聖王4年(890)の2度行われるのみであるが、2度とも正月15日に国王が親幸して開催された。

 これらの百座講会・看灯会は、八関会とあわせて新羅において重要な国家儀礼であり、いずれも国王の親幸のもと皇龍寺で行われていることに留意しなければならない。このことは皇龍寺が新羅において最も重要な官寺であることを示している。


皇龍寺金堂跡の丈六像礎石(平成16年08月25日管理人、撮影) 

慈蔵の仏舎利求得

 皇龍寺が地上から姿を消して久しいが、皇龍寺といえば、なによりも九層塔が連想されるほどに、皇龍寺九層塔は有名である。

 『三国史記』善徳王14年(645)3月条に、「三月、皇龍寺の塔を創造す。慈蔵の請いによるなり。」(『三国史記』巻第5、新羅本紀第5、善徳王14年3月条)とある。これにより、皇龍寺の九層塔は慈蔵なる人物の要請によって建立されたことがわかる。その事情は『三国遺事』に詳しいが、それは後回しとして、先に慈蔵について述べていきたい。

 慈蔵は生年は不明である。辰韓の王族で、姓は金氏。茂林の子として生まれた。永徽年中(650〜56)に病によって没した(『法苑珠林』巻第64、慈悲篇第74、観苦部第5、感応縁、唐新羅国大僧統釈慈蔵伝)というので慈蔵は三国統一をみることはなかった。
 慈蔵の出家動機について諸説あり、「早くに二親を喪ない、そのため俗世を厭い、深く無常を感じて、僧侶となって、妻子を捨てた。」(『続高僧伝』巻第24、護法下正伝、五唐新羅国大僧統釈慈蔵伝五。以下、『続高僧伝』慈蔵伝と略す。)というのと、「早くに二親を喪ない、そのため俗世を厭い、妻子を捨てて、田園を喜捨して元寧寺を建立した」(『三国遺事』巻4、義解第5、慈蔵定律、以下『三国遺事』慈蔵定律と略)というのと、「幼い時より殺生を好み、鷹狩をして雉を捕えると、雉が涙を流しているのをみて発心し、出家した」(『皇龍寺刹柱本記』)というのと、「年齢が大きくなるにつれ、世俗を厭い、世俗を離れたいという気持ちがおこり、愛欲をすて、親に別れを告げ、出家した」(『通度寺事蹟略録』通度寺舎利袈裟事蹟略録)という4説ある。実際にはこの時には出家しなかったようで、「慈蔵は日々厳しい修行を行っていた。、王より王族であったことから宰相にしようと頻りに呼ばれたが行かなかったため、王の怒りに触れ、誅殺のための使者を差し向けられたが、慈蔵は“我れむしろ戒を持して1日にして死するも、一生戒を破りて生きることを願わず。”といったため、使者は誅殺せずに王に奏上すると、王は羞じて、釈放して出家させ、道業を修することを許した」(『続高僧伝』慈蔵伝)とあることによって、私度の沙弥であったのが、王許により出家したととることもできる。

 慈蔵は仁平3年(636)に、勅によって門人の僧実ら十余人とともに、入唐し五台山清涼山に入った(『三国遺事』慈蔵定律)。『三国遺事』には次のように記載されている。
 「新羅第27善徳王の即位5年、貞観10年(636)丙申、慈蔵法師は西の(唐)に留学し、そして五台山にて文殊の授法を感得した〔詳しくは本伝をもみよ〕。文殊は、“お前の国王は、天竺の刹利種(クシャトリア)の王で、仏記を授けていた。そのため特別な因縁があり、東夷の未開人とは同じではない。しかし山川が厳しいため、人性は粗野で、多く邪見を信じて、時には天の神が災いを降り注いでいる。しかし多聞比丘が国の中にいて、そのため君臣は安泰で、万人は平和である。”といい、いい終わると見えなくなっていた。慈蔵はこれが大聖の変化したものであったことを知って、泣血して退ぞいた。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、皇龍寺九層塔条。以下『三国遺事』九層塔と略)

 五台山は中国山西省東北部に位置する5つの台状の峰からなる山岳で、『華厳経』にみえる清涼山にあたって文殊菩薩の住地であると考えられるようになり、とりわけ唐代以後、信仰をあつめた。日本に渡ったインド僧の菩提僊那をはじめとして西域方面からの参詣者もあり、日本の円仁が五台山を巡礼して克明に記録している。とくに慈蔵は入山した清涼山は、宋代に日本僧の「然が訪れたことでも著名である。


 「慈蔵が中国の太和池の辺を通過すると、たちまち神人がやってきて“どうしてここに来たのか?”と問われた。慈蔵は“菩提を求めるためです”と答えた。神人は(慈蔵に)礼拝して“お前の国にどのような難儀なことがあるか?”と問うた。慈蔵は、“我が国は、北は靺鞨に連なり、南は倭人接し、麗(高句麗)・済(百済)の二国はたがいに国境を侵し、近隣は思いのままに攻撃してきます。これが民のうれいなのです。”と答えた。神人は“今お前の国は女が王となっている。徳はあっても威がない。だから隣国は(攻撃を)謀るのだ。すみやかに本国に帰国しなさい。”といった。慈蔵は“故郷に帰って何をすれば利益となるのでしょうか。”と尋ねた。神人は“皇龍寺の護法の竜は、わたしの長男である。梵王の命を受けてやって来てこの寺を護る。本国に帰って九層の塔を寺の中につくれば、隣国は降伏し、九韓は来貢し、王位は永く安穏である。塔を建設した後、八関会を設けて罪人を赦免すれば、外賊は害をくわえることはできない。さらにわたしの為に京畿の南岸に一精廬を設置し、共にわたしの福にいのれば、わたしはまたこの徳に報いるよう。”と答えた。言い終わって玉を捧げて慈蔵に献上すると、たちまち隠れてみえなくなってしまった。〔『寺中記』に、「終南山の円香禅師のところで、建塔の由来を受けた」とある。〕」

 慈蔵が太和池の神人にあい、新羅の艱難について問われ、周辺諸国の脅威を答え、皇龍寺の九層の塔の造営を進言されるというものである。但し『皇龍寺刹柱本記』では終南山の円香禅師より進言されたとある。『三国遺事』で神人は周辺諸国の脅威は王位に女性が即いていることが(脅威の)要因であると述べている。唐の太宗からも貞観17年(643)9月に新羅使より周辺諸国の脅威を訴えられると善後策を3つ提唱したが、その3つ目に婦人が主となっているため周辺諸国に軽んじられているのであるから、唐の皇族を王位に即けるという策をのべている(『冊府元亀』巻之991、外臣部、備禦、貞観17年9月庚辰条)。使節が新羅に帰国報告は、新羅国内で大きな衝撃をもたらし、4年後には女王廃位を唱える叛乱が発生し、叛乱は鎮圧されたが、間もなく善徳王は薨じている。この時期の新羅の国内外の情勢は極めて不安定であり、地神である竜を祀り、九層塔を建立すれば国は安定するというところに皇龍寺の護国寺院的性格を示している。この九層塔は、その類似性から中国・北魏洛陽の永寧寺の影響が指摘されている。北魏仏教の護国性は、北魏より高句麗に伝播され、それが高句麗より亡命してきた恵亮を通じて新羅に伝わり、護国寺院である皇龍寺は恵亮の建言によって建立されたという説がある。

 この際であるから、八関会と恵亮について軽く述べておきたい。八関会とは、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒・不座高広大牀・不著華鬘瓔珞・不習歌舞妓楽の八悪を閉じて罪科を生ぜしめない八関斎(八関斎戒)に関する儀式で、国家行事としては東晋の咸安元年(371)に行われた(『仏祖統紀』第36、法運通塞志第17之3、晋、簡文帝、咸安元年条)のを初めとして中国魏晋南北朝に盛行し、高句麗を通じて新羅に伝わった。その後高麗では燃灯会とならぶ二大国儀となり、土俗信仰が取り入れられ国王朝賀の儀式となった。そこには宋・女真・耽羅・日本の商人もこの儀式に参加し、そこに服属儀礼として高麗の国際秩序意識が形成された。八関会は李朝(朝鮮王朝)の反仏政策により廃止されるまで続けられた。八関会の初めについて以下の説話がある。新羅の金居漆珍は、出家し放浪して高句麗の恵亮のもとで講経を聞き、恵亮に将相を見出され、もし高句麗に侵攻した時には助命することを約諾し、帰国して還俗して将軍となった。開国元年(真興王12年・551)、新羅は金居漆夫および仇珍ら八将軍に命じて百済とともに高句麗に侵攻した。百済軍は高句麗の首都平壌を陥落させ、新羅軍は勝ちに乗じて高句麗領の十郡を占領した。この時、恵亮法師が弟子を率いて路上にあらわれ、将軍の金居漆夫は馬を下りて“思わぬところでめぐりあい、いかにして報いてよいかわかりません”というと、恵亮は“今我が国(高句麗)は政治が乱れ、滅亡の日も近くなっています。あなたの国に行きたいと思います”といったため、居漆夫は法師を車に同乗させ、新羅に帰国して、王に謁見させた。王は恵亮を僧統に任命し、はじめて百座講会と八関の法を設けたという(『三国史記』巻44、列伝第4、居漆夫伝)。この記述だけでは開国元年(551)というその年に恵亮が僧統に任命され、百座講会と八関の法を設けるといった一連の動きがあったかどうかは不明だが、八関会に関しては鴻済元年(572)10月20日、戦死者のために八関筵会を7日間にわたって外寺で行っている(『三国史記』巻4、新羅本紀第4、真興王33年冬12月20日条)


皇龍寺九層塔の建立

 再び話を皇龍寺九層塔に戻す。

 「貞観17年(643)癸卯16日、唐帝が下賜した経像・袈裟・幣帛を請来して帰国した。塔を建立する事を国王に奏上した。善徳王は群臣に議り、群臣は「工匠を百済より招聘するとできるでしょう」といったため、宝帛をもって百済の匠、阿非知を招聘した。伊干の龍春〔あるいは龍樹という〕を主任とし、小匠200人を率いて建造を開始した。初めて刹柱を立てる日、匠は夢に本国の百済が滅亡するのをみた。匠は心にあやしんで(仕事の)手を休めていたが、にわかに大地が震動して暗くなり、その中に一老僧と一壮士がいて、金殿の門より出てその柱を立てた後、僧と壮士は隠れてみえなくなった。匠は悔い改め、その塔を完成させた。
 『刹柱記』に“鉄盤以上の高さは42尺(15メートル)、(鉄盤)以下は183尺(65メートル))”とある。慈藏は五台山で授けられた舎利百粒を柱中、および通度寺戒壇、および大和寺の塔に分置し、池龍の要請にしたがった〔大和寺は河曲県の南であったが、今は蔚州にある。これも慈蔵が建立したのである〕塔をたてた後、天地泰平となり三韓は一つとなった。どうして塔の霊のお蔭でないといえるだろうか。後に高麗王が新羅を討伐しようとしたが、“新羅に三宝あり侵すことはできない”といった。(三宝とは)何をいうかというと、皇龍寺の丈六仏と九層塔、真平王の天賜玉帯のことである。遂にその謀を中止した。周に九鼎があって楚の人は敢えて北を窺うことがなかったのは、このような類なのである。(讃略)」(『三国遺事』皇龍寺九層塔)

 九層塔は隣国百済より技術者を招聘して造営された。ここにみえる『刹柱記』は、現在国立中央博物館(ソウル)所蔵の皇龍寺九層塔出土の『皇龍寺刹柱本記』のことであり、『三国遺事』に引用されている史料では珍しく残存する例ではある。『皇龍寺刹柱本記』の文と『三国遺事』に引用されている『刹柱記』は若干字が異なるも文意は同じである。
 『三国遺事』に引用される『刹柱記』に、「鉄盤以上の高さは43尺、以下は183尺」とあり、合計すると225尺になり、地上から頂上までの高さが80メートルというものであり、日本で現存する五重塔のなかで最も高い東寺五重塔の55メートルをはるかにこえる。
 ここに「新羅三宝」がみえるが、これらはすべて皇龍寺に関連するものであり、「新羅三宝」説話は皇龍寺周辺より発生した説話の可能性がある。この双方とも後述する。なお「周の九鼎…」というのは、有名な「鼎の軽重を問う」であり、紀元前606年、中国春秋時代に楚の荘王が武力を背景として周王朝の使である王孫満に周王室の宝である九鼎の大きさと重さを問い、暗に自分が九鼎の所有者の資格を有することをほのめかしたが、王孫満は天命と徳をのべて、荘王が鼎の軽重を問う資格をもたないことをのべた(『史記』楚世家、荘王10年・『春秋左氏伝』宣公3年)故事である。


皇龍寺鐘の鋳造と第3次伽藍

 「天宝13載(754)、皇龍寺の鐘を鋳た。長さ1丈3寸、厚さ9寸、注入された銅は重さ49万7581斤であった。施主は孝貞伊王三毛夫人、匠人は里上宅一典である。〔粛宗朝に新鐘を重成した。長さは6尺八8であった。〕」(『三国遺事』巻3、塔像第4、皇龍寺鐘)

 皇龍寺の鐘は現存しないが、これによると、皇龍寺の鐘は長さ394pで、最大の朝鮮鐘である聖徳大王神鐘(写真下)よりも30p高い。重さの「49万7581斤」というのは聖徳大王神鐘との比較から「4」が衍字で「19万…」の誤写と考えられている。唐の制度は大小2種類の斤を用い、新羅もそれを踏襲しているが、この「斤」字は小斤であり、小斤は大斤の3分の1であり、1小斤あたり0.195sほどであると考えられている。これによって換算すると、皇龍寺の鐘に用いられた銅の重量は約38トン、完成重量は2割減の約30トンとなる。
 「孝貞伊王三毛夫人」は景徳王の先妃三毛夫人とされている。先妃三毛夫人その後宮中を出ることとなるが(『三国遺事』巻1、王暦、第35景徳王)、天宝13載(754)の段階では王妃であったようである。皇龍寺の鐘が鋳造されるとともに鐘楼が建造されたらしく、それらしきものが東側僧房の南端の西側に2間×1間の小規模建物が、僧房と小回廊で連結されていることが発掘調査によって発見されている。これによって皇龍寺第3次伽藍の時期が天宝13載(754)を始めとすることが推定されている。第3次伽藍では西僧房跡の南端に隣接して経楼跡が発見されている。

 この天宝13載(754)に皇龍寺の鐘の落成とともに、第3次伽藍が造營されたと推測されているが、それと符合するかのように、この天宝13載(754)の夏には、景徳王は皇龍寺に親幸し、法海を屈請して華厳経を講じさせている(『三国遺事』巻4、義解第5、賢瑜珈海華厳)。これは皇龍寺にて、伽藍の完成法要のようなものを王の親幸のもとに実施されたのであろう。

 また「新羅白紙墨字大方広仏華厳経写経跋文」(龍仁湖巌美術館蔵)によると、天宝13載(754)より翌年(755)にかけて、皇龍寺の縁起(烟起)が写経を主催したことがみえる。この「新羅白紙墨字大方広仏華厳経写経跋文」は吏読が用いられて難解であるため、木村誠「統一新羅の骨品制−新羅華厳経写経跋文の研究」(『都立大学人文学報』185、1986年3月)を引用する。

 「天宝13載(754)8月1日より初めて乙未(755)2月14日に一部を写し終えた。写経を行う願旨は、皇龍寺の縁起法師さまが、第一に恩を賜わった父を願(おも)い、第二は法界の一切の衆生が皆仏道を成ぜんことを欲して、写経を行われまして、経(紙)を作る方法は、楮根に香水をかけて生長させ、然る後に楮の皮をはぐか、はいだ川を練るかし(て紙を作るが)、紙作伯士でも経写でも経心匠でも仏菩薩像筆師(でも)走使人でも(すべて)菩薩戒を授けしめ、斎食し、右の人々が大小便をしたり、あるいは宿舎に泊まったり、あるいは食事をとるなどした場合には、香水を用いて沐浴させてはじめて作処(写経場)に入るようにした。経を写す時には、すべて清浄にした新しい浄衣・禅・水衣・臂衣・冠・天冠等で荘厳させた者(経写筆師)に、二人の青衣童子が灌頂針を捧じ、又、青衣童子が著われたら、四人の伎楽人たちが一斉に伎楽をし、又、(青衣童子の)一人が香水を行道にまき、又、一人(の青衣童子)が花を捧じて行道にまき、又、一法師が香爐を捧じて引導し、又、一法師が梵唄を唱えて引導し、経写筆師たちは、おのおの香と花を捧じ、右のごとく念じて行道し、作処(写経場)に至れば、三宝に帰依して、三度の頂礼(頭頂礼足)をした仏菩薩に花厳経等を供養した後に、坐に昇って経を写したのである。経心を作り、仏菩薩像を描く時に、青衣童子と伎楽人等を除いた他の清浄の法は、上と同じである。経心の内に舎利を一粒入れるのである。」

 ここにみえる「皇龍寺の縁起法師」とは烟起とも烟気ともいう新羅華厳宗の創始者義湘の弟子であり、華厳寺の初創者である。著作に『開定決疑』30巻、『開定要決』12巻(6巻とも)、『真流還源楽図』1巻、『大乗起信論珠網』3巻(4巻とも)、『大乗起信論捨繁取妙』1巻の5部があることが知られているが(『新編諸宗教蔵総録』)、皇龍寺の縁起が、天宝13載(754)8月に華厳経の写経事業を開始したのは、皇龍寺の鐘の完成とそれによって推定される第3次伽藍の造営、その夏に皇龍寺で行われた景徳王の親幸のもと法海が華厳経の講義を行ったことは、天宝13載(754)における皇龍寺での数々の事業が、極めて重要かつ盛大なものであったことが窺える。


慶州国立博物館所蔵聖徳大王神鐘(平成16年08月26日管理人撮影。参考までに…。) 

新羅代における皇龍寺再建と『皇龍寺刹柱本記』

 皇龍寺九層塔は、護国的性格と国家的象徴の意味を有したが、その80メートルにおよぶ塔高と電導率の高い金属製の宝輪がその上にそびえていることから、当然のことながら幾度も落雷に遭い焼失した。しかし、焼失のたびに速やかに再建工事を行っている。そのことは『三国遺事』皇龍寺九層塔に「また国史および『寺中古記』より考えてみれば、真興王癸酉(553)に寺を創立して後、善徳王の御代の貞観19年乙巳(645)に塔が初めて完成した。第32代孝昭王の即位7年の聖暦元年戊戌(698)6月に霹靂(落雷)があった〔『寺中古記』に「聖徳王の代」としているが誤りである。聖徳王の代には戊戌がないからである〕。第23代聖徳王の御代庚申(720)歳、重成。第48代の景文王の御代の戊子(868)6月、第2の霹靂があった。同代に第3の重修がおこなわれた」とあることからも明らかである。

 新羅の時には2度の落雷による焼失があった。2度目の落雷(868)の後、九層塔の3回目にあたる工事を行い完成した(873)が、その記録は皇龍寺の礎石下にあった銅板に記された『皇龍寺刹柱本記』と若干の食違いがある。

 『皇龍寺刹柱本記』とは、皇龍寺九層塔跡心礎石より1964年12月に舎利具とともに盗掘された銅板に記載された銘文のことで、全3枚。「皇龍寺跡塔誌銅版」ともいう。盗掘された舎利具は、民間に密かに売却されたが、1966年9月に仏国寺三層舎利具盗難未遂事件の際に、犯人一味が一網打尽され、犯行自白によって皇龍寺舎利具も回収され、国立中央博物館(ソウル)に収蔵された。その舎利具の中に同銅板があったが、銅板全面に緑銹が覆っており、下部も脱落しており判別が困難であったが、緑銹の除去が行われ、黄寿永「新羅黄龍寺九層塔誌」(『考古美術』116による)によって判読・紹介された。翻刻は他に、黄寿永「新羅皇龍寺九層塔の刹柱本記」(『仏教芸術』98、1974年9月)、同『韓国金石遺文』(一志社、1976年4月)、濱田耕策「寺院成典と皇龍寺の歴史」(『学習院大学文学部研究年報』第28輯、1982年3月)、斎藤忠『古代朝鮮・日本金石文資料集成』(吉川弘文館、1983年7月)133頁、および秦弘燮(編著)『韓国美術資料集成(1)』(一志社、1987年3月)152〜154頁、斎藤忠編著『高麗寺院史料集成』(大正大学綜合仏教研究所、1997年10月)457〜462頁、趙東元『韓国金石文大系』第7巻(円光大学校出版局、1998年5月)217〜218頁などにされている。

 その『皇龍寺刹柱本記』によると、文聖王(位839〜56)の代に九層塔が東北の方角に傾き、国家は倒壊することをおそれ、修造のため材料を集めたにもかかわらず、30年もの間工事に着手されなかった。咸通12年(871)にさらに傾いたため、宰相の金魏弘や皇龍寺の寺主の惠興に命じて8月12日に古い塔を解体して新造する工事に着手した。翌年(872)7月、九層塔は完成したが、刹柱(塔心礎石か)は動かさなかったため、景文王(位861〜75)はその下にある舎利はどのようになっているのかを金魏弘に下問した。11月6日、景文王は群僚を率いて現地に赴き、柱(塔心礎石)をあげて礎臼の中をみてみると、金銀の高座があり、その上に舎利の瑠璃瓶が安置されていたが、年月がわかる事由記のようなものがなかった。同25日にはもとどおりに戻して、さらにそこに加えて舎利100枚と法舎利(経典のこと)二種を安置し、始建の源と改作のことを略記させた。そしてこの時に納められた品目が列挙されているが、『無垢浄光大陀羅尼経』にしたがって小石塔99躯を安置し、その小石塔ごとに舎利1枚・陀羅尼4種・経1巻・舎利1具を納め、これら小石塔99躯は地上よりの高さ約65メートルの所にある鉄盤に納められた。


皇龍寺の成典

 新羅王朝の有力官寺には成典と呼ばれる官庁があり、それぞれの寺院の修理・営繕を行った。この成典が設置された寺院として『三国史記』に、奉聖寺・感恩寺・奉徳寺・奉恩寺・霊廟寺・永興寺の7寺院に成典が設置されたことが示されているが(『三国史記』巻第38、雑志第7、職官上)、新羅最大規模の寺院である皇龍寺の成典に関する記述はない。

 しかし『皇龍寺刹柱本記』に皇龍寺の成典が監修成塔事守が1人、上堂が1人、赤位が1人、青位が4人、黄位が4人であることがみえる。これらの官職についている者はいずれも僧籍にあるものではく、俗人の官吏である。とくに監修成塔事守の任にあった金魏弘は、宰相の任にあり、後には新羅における最高官位である上大等に就任した。女王の真聖王(位887〜97)が即位すると、金魏弘は真聖王が即位以前より私通していたとも、真聖王の乳母の鳬好夫人の夫であったともいわれ、宮中に自由に出入りして権力をほしいままにした。このため政治は混乱し、女王の在位中に甄萱(?〜936)が、薨去1年後に弓裔(?〜918)が自立し、後三国時代に突入する基をなした。金魏弘はその一方で、王命によって大矩和尚とともに郷歌集『三代目』(散逸)を編纂し、没した時には恵成大王の謚号を賜るなど、金魏弘の功績は大きいものがあった。

 このように、皇龍寺の成典には重要官僚貴族が任命され、修理・営繕の円滑な実行をはかった。皇龍寺の成典について記載される『皇龍寺刹柱本記』は咸通13年(872)11月に記されたものであるから、皇龍寺の成典の官職はこの時点のものであり、ここに列挙されている官職は必ずしも新羅代を通じてのものではない。むしろ、皇龍寺九層塔の再建工事に関するものであるかと思われるが、宰相がそのトップに任命されるところに新羅における皇龍寺の位置が窺えるのである。


高麗における皇龍寺とその終焉

 9世紀前半より新羅国内に自立勢力が浮沈していったが、9世紀も後半になると、甄萱と弓裔が自立し、それぞれ王号を称して甄萱の後百済(900)、弓裔の摩震(901)のち泰封(911)が成立し、この二国および新羅との間で再統一抗争である後三国時代に突入した。実際には甄萱と弓裔の抗争であり、新羅が徐々に領土を侵食される有様であった。弓裔は部下に殺害され、部下の王建が王位を継承し、泰封の国号を改めて高麗とした(918)。これが高麗の太祖(位918〜43)である。高麗は新羅と結び(920)、後百済に対抗した。このため新羅は後百済による攻撃を受け、援軍を要請した。
 この前後のことと思われるが、高麗の太祖は新羅の使節金律に対して「新羅に三宝があると聞いている。それは丈六尊像と九層塔と聖帯であり、像と塔は今もなお存在してるが、聖帯は今もあるかどうか知らないだろうか。」と問うた。金律は新羅に帰国してこれを景明王(位917〜24)に報告したが、景明王は聖帯とは一体何なのか群臣に問いかけたが、誰も答えられなかった。時に皇龍寺に年が90歳以上の僧がいて、「わたしはかつて聞いたところでは、宝帯というのは真平大王の所有したもので、代々伝えられており、(皇龍寺の)南庫に納められています。」といったので、景明王は南庫を開いてみたが、発見できなかった。別の日、斎祭した後に見てみると、その帯は金や玉で装飾されて非常に長く、常人が束ねることができなかった(『三国史記』巻第12、新羅本紀第12、景明王5年春正月条)。これは真平王(位540〜76)が身につけたものとされ、真平王の身長が11尺(3m30p)であったとか、即位元年に天使が宮廷の庭に降りてきて授けたとか、弓裔が新羅三宝である皇龍寺丈六仏・九層塔・玉帯があるため攻撃することができないといった(太祖の誤りか)、というような説話がある(『三国遺事』巻第1、紀異第1、天賜玉帯)

 新羅では景明王が薨去して景哀王(位924〜27)が即位したが、景哀王4年(927)3月に皇龍寺の塔が北に傾いている。これが前兆であったのか、11月には後百済軍が新羅の王都に侵攻し、景哀王を殺害して王妃・宮妾を兵士に暴行させた。甄萱は傀儡としての敬順王(位927〜35)を即位させたが、敬順王は新羅に降伏して新羅は滅亡(935)し、後百済は一族の内紛によって自滅して滅亡(936)して、高麗が朝鮮半島を統一して、後三国時代が終了した。

 新羅の象徴であった皇龍寺の九層塔であるが、高麗が統一したのち、太祖は「昔、新羅は九層塔を造ったため、統一の業をなしとげることができた。今、開京に七層塔を、西京(平壌)に九層塔を建立してと思う。願うところは玄功を力を借りて群醜を除き、三韓を合わせて一家としたい」と述べている(『高麗史』巻第92、列伝第5、崔凝伝)。新羅滅亡後、新羅の都であった王城(慶州)は東京と改称され、首府としての地位を失い、開京の七層塔(開国寺)、西京(平壌)の九層塔(重興寺)と並ぶ三塔の一つにすぎなくなったものの、皇龍寺は以後も国家的支柱として重要な位置を占めた。

 皇龍寺九層塔の護国性については、『三国遺事』皇龍寺九層塔に次のように示されている。
「また海東の名賢安弘の撰述した『東都成立記』に“新羅第27代、女王を主とした。道があっても威がなかったため、九韓が侵入してきて労苦した。竜宮の南の皇龍寺に九層塔を建てれば、隣国(に侵入される)災を鎮めることができる。第1層は日本、第2層は中華、第3層は呉越、第4層は托羅、第5層は鷹遊、第6層は靺鞨、第7層は丹国、第8層は女狄、第9層は穢貊である。”とある。」

 安弘の撰述した『東都成立記』の詳細は不明である。書名、各層にみえる国・種族からみれば、新羅の国際感をもととした説話ではなく高麗の時に撰述されたものであろうが、安弘は『三国史記』新羅本紀、真興王37年条にみえる人物であり、『東都成立記』の著者として予言書の一種である『讖書』1巻を撰述したとされる安弘を仮託して、『東都成立記』自体が安弘が予言したことを記したものとして高麗での国際感に合致させたものである。「九韓」は『皇龍寺刹柱本記』の、九層塔は「三韓を合わせ、以て一家となす」功徳があるとされているのが、九韓の立塔縁起に発展したと考えられている。なおこの『東都成立記』の九韓は、『三国遺事』巻1、紀異第1、馬韓にも引用されている。ここで第一層にあげられているのが日本であることに注目したい。


 以下は『三国遺事』皇龍寺九層塔と『高麗史』より、皇龍寺の沿革を示すが、両史料の間には年号に1年のづれがある。これは『三国遺事』が即位称元法を採用したのに対して、『高麗史』は踰年称元法を用いたためである。
 『高麗史』は鄭麟趾・金宗瑞他編が撰述した高麗の断代史。文宗元年(1451)に完成した。紀伝体で記されており、世家46巻、志39巻、年表2巻、列伝50巻、目録2巻の合計139巻である。翻刻は@『高麗史』1〜3(国書刊行会、1908年11月-1909年。復刊、国書刊行会、1977年5月)が代表的。仏教関係ではA金昌淑訳註『高麗史仏教関係史料集』訳注編・原文編(民族社、2001年12月)が、『高麗史』の仏教関係記事を抄出している。訳注編はハングルで、原文篇は漢文横組。ちなみに、表紙は何故か『高麗史』ではなく『高麗史節要』の版本写真。またB田村洋幸編『高麗史・高麗史節要 日麗関係編年史料』(峯書房、1967年5月)は『高麗史』・『高麗史節要』の日本関連記事を網羅的に抄出したもの。高麗時代の他の史料は用いられていない。Bに類似するものとして岩波文庫よりC『朝鮮正史日本伝U 高麗史日本伝』(上下2冊、2006年)が出版された。入手し安いため、これがきっかけとなって日麗交渉史の研究者が増えることが期待される。『高麗史』の姉妹編ともいうべきものに文宗2年(1452)に完成した『高麗史節要』35巻がある。これは『高麗史』が紀伝体で書かれているのに対して編年体で記述されている。流布している刊本に蓮佐文庫本の影印として『学東叢書 高麗史節要』(学習院東洋文化研究所、1960年10月)がある。


 乾祐2年(949)10月に皇龍寺九層塔が焼失した(『高麗史』巻第53、志第7、五行1、火)
本朝(高麗王朝)光宗の即位5年癸丑(953)10月、第3の霹靂があった(『三国遺事』皇龍寺九層塔)
 統和30年(1012)5月、慶州朝遊宮を解体してその材を用いて皇龍寺の塔を修造させた(『高麗史』巻第4、世家第4、顕宗3年5月己巳条)。現宗(顕宗)13年辛酉(1021)、第4の重成(『三国遺事』皇龍寺九層塔)。崔(?〜1024)は仏教を信じて黄龍寺の塔を修造を願い出て、自ら監督したが、それによって農務に障害があったという(『高麗史』巻第93、列伝第6、崔伝)

 また靖宗2年乙亥(1035)、第4の霹靂があった(『三国遺事』皇龍寺九層塔)
 また文宗の甲辰の年(1064)、第5の重成(『三国遺事』皇龍寺九層塔)

 寿昌元年(1095)6月、皇龍寺の塔が焼失した(『高麗史』巻第53、志第7、五行、火)が、八月に修造している(『高麗史』巻第10、世家第10、献宗元年8月甲申条)。

 また憲宗末年の乙亥(1095)に第5の霹靂(『三国遺事』皇龍寺九層塔)
 粛宗の丙子(1095)、第6の重成(『三国遺事』皇龍寺九層塔)

 乾統6年(1106)3月には皇龍寺を修造し、落成している(『高麗史』巻第12、世家第12、睿宗元年3月丙申条)。この間の皇龍寺の様相は不明だが、12世紀の李義ビン(「日」の右に「文」。UNI65FC。&M013776;)が幼いときに青衣を着て黄龍寺(皇龍寺)九層塔に登った夢をよく見た(『高麗史』巻第128、列伝第41、叛逆3、李義ビン伝)というので、第六重創の九層塔は上に登れたのかもしれない。

 高宗25年(1238)閏4月、モンゴル兵が東京(慶州)に侵入し皇龍寺を焼き払った(『高麗史』巻第23、世家第23、高宗25年閏4月条)。この記事は『三国遺事』皇龍寺九層塔では「高宗16年戊戌(1228)の冬月、西山の兵火(蒙古の侵入)によって塔・寺・丈六仏・殿宇のすべてが焼失した。」としており、10年の差があるが、モンゴル軍の東京(慶州)侵入は1238年のことなので、『高麗史』の年紀の方が正しい。いずれにせよ皇龍寺は、モンゴル軍の侵入によって焼失した後は、再建されることはなかった。

 皇龍寺が焼失してから746年後の1976年から1983年にわたって発掘調査が行われ、現在は史蹟公園となっている。現在の皇龍寺跡は往事の広大な伽藍を偲ばせる。ところで現地では九層塔再現計画というのが持ち上がったらしいが、地権の問題で白紙となったという。



[参考文献]
・坪井良平『朝鮮鐘』(角川書店、1974年7月)
・黄寿永「新羅皇龍寺九層塔の刹柱本記」(『仏教芸術』98、1974年9月)
・江田俊隆『朝鮮仏教史の研究』(国書刊行会、1977年)
・武田幸男「創寺縁起からみた新羅人の国際観」(『中村治兵衛先生古希記念東洋史論叢』刀水書房、1986年3月)
・金東賢「新羅皇竜寺跡の発掘」(『仏教芸術』207、1993年3月)
・濱田耕策「寺院成典と皇龍寺の歴史」(『学習院大学文学部研究年報』28、1982年3月)
・木村誠「統一新羅の骨品制-新羅華厳経写経跋文の研究-」(『東京都立大学人文学報』185、1986年3月)
・鎌田茂雄『朝鮮仏教史(東洋叢書1)』(東京大学出版会、1987年2月)
・菊竹淳一・吉田宏志責任編集『世界美術大全集 東洋編 第10巻 高句麗・百済・新羅・高麗』(小学館、1998年7月)
・濱田耕策「新羅の下代初期における王権の確立過程とその性格」(『朝鮮学報』176・177、2000年10月)
・崔福姫「慈蔵と仏舎利-五大寂滅宝宮の成立を中心に-」(『仏教大学大学院紀要』32、2004年3月 )


皇龍寺金堂跡の礎石(平成16年08月25日管理人、撮影) 



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