芬皇寺



芬皇寺磚塔(平成16年(2004)8月25日、管理人撮影) 

 皇龍寺の見学が終了するとガイドさんが、「では芬皇寺に行きましょう」といいました。バスか何かで行くかと思っていたら、「すぐそこなので歩いて」というではないですか!
 面倒くさいな〜、と思っていたら、皇龍寺の北方500b、本当にすぐでした。というよりは道路を挟んだ向かい側でした。境内に入るとすぐに磚塔がみえてきました。


芬皇寺の創建

 その創建は『三国史記』巻5、新羅本紀第5、善徳王3年春正月条に、
   三年春正月、改元仁平。芬皇寺成。
とあるように、仁平元年(634)に芬皇寺が完成したことが記されている。

 新羅に仏教を伝えた我道が北魏に留学し、19歳の時に帰国して母に再会したところ、母が述べるには、「この国は今に至るも仏法を知らないが、この後三千余月を経れば鶏林に聖王が出て、大いに仏教を興すだろう」として七処伽藍の場所を列挙するが、その内に「四に龍宮の北という。〔今の芬皇寺なり。〕」とある(『海東高僧伝』巻1、釈阿道伝)。この文は『三国遺事』巻3、興法第3、阿道基羅に引用される『我道本碑』も内容が類似するが、「今の芬皇寺なり。」という分註に続けて「善徳甲午(634)始めて開く〕」とある。この分註が『我道本碑』本来の文ではなく、一然の補と思われるが、ともかく皇龍寺をはじめとした新羅王城(慶州)の七大伽藍の一つに数えられていたことが知られる。

 『続高僧伝』巻第24、慈蔵伝によると、慈蔵が貞観17年(643)に唐より帰国した時に王命(善徳王か)により大国統に任命され、「王芬寺」に住まわせたとある。『続高僧伝』では、「王芬寺」について、「寺は即ち王の造るところなり」としていることから、芬皇寺のことであると思われ、『三国遺事』でも「命じて芬皇寺に住ましむ〔唐伝に「王芬」となす〕」とあり、慈蔵が帰国後の住房は芬皇寺であったという認識にたち、『続高僧伝』(「唐伝」は『続高僧伝』のこと。唐代に道宣によって記されたことからいう。唐代の全般的の僧伝という意味ではない)の「王芬寺」は芬皇寺とみて間違いないようである。


元暁

 『三国遺事』巻4、義解第5、元暁不覊に引用される郷記によると、新羅随一の仏教学者・布教家の元暁(617〜86)は、かつて芬皇寺に住み、華厳疏を纂して第四十廻向品に至ったが、ついに絶筆して完成しなかったという。この元暁による『華厳疏』はもとは8巻であったが、第5巻と宗要を均等配置して10巻としたという(『新編諸宗教蔵総録』)。現在では巻第3のみが残存する。

 元暁はかつて義湘とともに唐に留学しようとしたが、一切は心より生ずるという悟りを開き、入唐を断念した。その後は布教・著述に専念したが、戒を破って寡公主との間に薛聡をなしたため、還俗して小姓居士と称した(『三国遺事』巻4、義解第5、元暁不覊)。垂拱2年(686)3月30日、穴寺にて70歳の年で没したが(『高仙寺誓幢和上塔碑』)、『三国遺事』によると、元暁が没すると、子の薛聡が遺骸を砕いて元暁の塑像を造り、芬皇寺に安置した。薛聡が時に礼拝すると、像が振り向き、そのままとなったという。

 元暁と芬皇寺に関連する説話として、『三国遺事』に広徳と厳荘の説話がある。それを略述すると、文武王(位661〜81)の時、沙門の広徳と厳荘は、二人とも仲が良く、日ごろより、「先に安養に帰った(極楽に行く)者はすみやかに告げよう」と約束していた。広徳は芬皇寺の西里に妻子とともに隠居し、厳荘は南岳の庵に住んでいた。ある日、厳荘に声が聞こえて広徳が別れを告げたため、翌日、広徳の家にいってみると、広徳は没していた。厳荘は広徳を埋葬した後、広徳の妻に同居を申し出、妻は承諾した。夜になって情を通じようとしたが、妻は厳荘に対して、広徳とは関係を持たず、ただ毎晩正座して一声に阿弥陀仏を唱え、結跏趺坐するのみであったことを述べ、厳荘を批判した。厳荘は恥じて家を退き、元暁の指導を受け、一心に道を修め、極楽往生したという(『三国遺事』巻5、感通第7、広徳厳荘)
 この「芬皇寺の西里」の分註に「或いはいわく、皇龍寺に西去房ありと。いまだいずれが是か知らず」とあるように、広徳の住居については異説があったようである。なお『三国遺事』に、「芬皇寺の東里に女あり」(『三国遺事』巻5、孝善第9、貧女養母)という記述がみられる。また「その婦すなわち芬皇寺の婢なり。蓋し十九応身の一徳ならん。」(『三国遺事』巻5、孝善第9、貧女養母)とあることから、芬皇寺の奴婢である妻は、広徳と厳荘といった優婆塞(在家信者)の類である夫と信仰生活を送り、元暁の布教を受けるといった、元暁の布教層の一例をここにかいま見ることができる。

 ほかに芬皇寺に居住した僧として、唯識派の玄隆があげられる。その伝記・学系は全く不明であるものの、その著作である『玄隆師章』15巻(1巻・4巻・6巻・16巻とも。散佚)は日本において善珠・安然・源信・凝然といった錚々たる学僧らに引用されている。
 また『東域伝灯目録』に「劫義 芬皇寺玄隆房本」とあることから玄隆は元暁の『劫義』を書写して流布させたとされ、それにより元暁より後代の人と推定されている。また日本において天平勝宝2年(750)7月1日に『玄隆師章』の書写記録(『正倉院文書』)があることから、7世紀後半から8世紀前半の人物とされている。


芬皇寺の薬師像と率居

 天宝14載(755、景徳王14年)に、芬皇寺の薬師銅像を鋳造し、用いられた銅は重さは30万6700斤(約60トン)に達した(東大寺大仏の5分の2)。匠人は本彼部の強古乃未であった(『三国遺事』巻3、塔像第4)。また『東京雑記』によると、この薬師銅像は高麗の粛宗(位1096〜1106)朝の鋳造とし、のちに小さく改められたという(『東京雑記』巻2、仏宇)。この粛宗朝の鋳造という説はほかにはみえず、そのような所伝があったのか、あるいは『東京雑記』の史料上の特徴である説話の混同なのかは不明である。現在では境内の法堂普光殿に李朝の薬師如来立像(半丈六?)があるが、『東京雑記』はこれを念頭において小さく改められたとしたのであろうか。この薬師如来立像を撮影しようとデジカメを向けようと思ったが、五体投地している女性がいたため気が引けて撮影をやめてしまった。石窟庵も仏国寺もそうであったが五体投地している人は多かったが、日本のように手を合わせるだけという人は少ないようにみえた。韓国では統計上では仏教徒の割合は日本よりも低いが、信仰は敬虔である。

 芬皇寺のほかの美術工芸については新羅の絵師率居(生没年不明)が描いた「芬皇寺の観音菩薩」というものがあったという。
 率居はもとは身分の低い者であったとされ、生まれつき絵をよく描いたという。率居は皇龍寺の壁に「老松図」を描いており、その「老松図」の壁画は鳥が本物の松と勘違いして飛び込んできては壁に激突して墜落するというほど優れたものであったという。長い年月を経て色が落ちたため寺僧が絵具で修復したところ、鳥は二度と来なくなったという。また「芬皇寺の観音菩薩」と「晋州断俗寺の維摩像」は率居の筆跡で、世間は「神画」として伝えているという(『三国史記』巻48、列伝第8、率居伝)。率居の絵は現存しないためこの「芬皇寺の観音菩薩」の詳細は不明だが、「神画」というのは「神品の画」という意味かと思われる。「神品」は中国南朝斉の画家・謝赫(479〜502)が撰した『古画品録』にて画を評価する際に用いた語句で、上ランクより「神品」・「妙品」・「能品」の三品があり、「気韻生動天成より出で、人その巧を窺うことなからむる者」を「神品」としている。唐代の朱景玄『唐朝名画録』引載の張懐甞の『画断』に「逸品」が「能品」の下に付されているが、率居の画は「神品」と評価されたことが知られる。「芬皇寺の観音菩薩」も皇龍寺の「老松図」のように壁画であった可能性がある。

 『三国遺事』に「景徳王(位742〜65)の代に、漢岐里の女、希明の子どもが、生れて5歳になって急に盲目となってしまった。ある日、その母(希明)が子どもを抱いて芬皇寺左殿北の壁画の千手大悲に参詣すると、さきに子どもに歌をつくらせて祈ると、遂に光を取り戻した」(『三国遺事』巻3、塔像第4、芬皇寺千手大悲盲児得眼)とある。「芬皇寺の左殿」とあるように、芬皇寺は発掘調査によって創建当時、中金堂・東金堂・西金堂の三金堂を「品」字形に配置する一塔三金堂伽藍配置であったことが確認されている。

 その左殿北の「千手大悲」の説話によって景徳王代までは一塔三金堂伽藍配置であったと考えられているが、芬皇寺は薬師銅像を鋳造した天宝14載(755、景徳王14年)に伽藍配置を一金堂方式に改めているという。これは3金堂にわけられていた機能を中金堂の場所に拡大した一次再建金堂に収斂したという。その収斂された一次再建金堂に鋳造されたのが薬師如来であったというのであるから、創建当時より芬皇寺の本尊は薬師如来であったことが推定される。ともすれば「左殿」は発掘された東金堂と思われ、「千手大悲」とは千手観音菩薩のことから、芬皇寺は一金堂一本尊の形式をもっており、薬師三尊形式であるため東金堂に観音菩薩像が安置され壁画が尊像の後ろに描かれたということが推測される。一般的には薬師如来の眷属は日光菩薩と月光菩薩であるが、阿弥陀如来のように観音菩薩と勢至菩薩であることがある。この薬師三尊形式によって考えれば「左殿」に対応するであろう「右殿」は西金堂であり、その安置された尊像は、勢至菩薩であった可能性がある。ただし以上のことは推測にすぎない。また千手観音について最初に説いた『千眼千臂観世音菩薩陀羅尼神呪経』2巻が唐の智通によって漢訳されたのは7世紀中葉であることから、千手観音菩薩の壁画が芬皇寺が創建された仁平元年(634)当時より存在したと考えることには無理がある。
 『三国史記』に「世間は「神画」として伝えている」とあることから、「芬皇寺の観音菩薩」と「晋州断俗寺の維摩像」は少なくとも『三国史記』の撰述された頃までは残存していたと思われる。断俗寺は景徳王22年(763)に官職を辞めた先王孝成王と景徳王2代の寵臣であった信忠が建立した(『三国遺事』巻5、避隠第8、信忠掛冠)とも、李純が建立した(『三国史記』巻9、新羅本紀第9、景徳王22年8月条)ともいい、両史料では建立者は異なっているが、双方とも景徳王代に建立したというところは一致する。このことは断俗寺が建立された際に率居が維摩像を描いたことが推定され、また「芬皇寺の観音菩薩」も一次再建金堂に描かれた壁画と考えれば、率居は景徳王の代に生きた絵師であると思われる。なお皇龍寺の第三時期の伽藍建立は景徳王13年(754)と推定されていることは「老松図」の描かれた時期を推測する上で興味深い。


芬皇寺の落日

 元聖王の即位11年(795)、唐の使が来京して、1ヶ月の滞在後帰国した。その後ある日、2女が(宮廷の)庭にやってきて(王に)奏じて、「わたし達は東池と青池の2竜の妻です。唐の使が河西国の二人を引き連れてきましたが、我が夫の2龍と芬皇寺の井戸の(あわせて)3竜に呪いをかけて小魚に変え、筒に入れて帰国してしまいました。願わくは陛下、(河西国の)2人に勅して、我が夫ら護国の竜を留めてください」といった。王は追って河陽館に至り、みずから享宴を賜い、河西の人に勅して、「お前達はどうして我が3竜を取り得てここにいるのだ。もし真実を告げなければ、必ず極刑を加えるであろう」といった。ここに(河西国の2人は)3魚を出して献上した。三箇所に放してやると、それぞれ湧水が大きくあがり、喜び躍って去った。唐人は王の明聖さに感服した(『三国遺事』巻2、紀異第2、元聖王)
 国王や、それに感服したという唐使の双方ともかなり電波が入っているとしか思えない説話だが、ガイドさんがそれだという井戸を説明していた。

 高麗、粛宗6年(1101)8月、粛宗は、「元暁・義湘は東方の聖人であるが、碑記・諡号がなく、その徳があらわれることはない。朕は甚だこれを悼んでいる。元暁には「大聖和静国師」を、義湘には「大聖円教国師」を贈り、有司は(二人が)住処していたところに石を立て徳をしるし、以て無窮を垂れよ。」と詔した(『高麗史』巻第11、世家第11、粛宗元年8月癸巳条)。これによって韓文俊が「和諍国師碑(和静国師碑)」の文を撰し、金石文にして芬皇寺に立てた(『新増東国輿地勝覧』巻之21、慶州、仏宇)。現在では石碑がなく、台座となっていた亀趺石が無造作に置かれている。

 その後の芬皇寺の様相は詳かではない。高麗朝の高宗25年(1238)閏4月に皇龍寺が蒙古兵に焼き払われた際に、皇龍寺と運命を共にしたのだろうか。


芬皇寺の磚塔

 さて、ここで肝心の磚塔についてだが、意外なことに『三国遺事』にはその記述がみられない。初出の史料は『東京雑記』に、「芬皇寺の九層塔、新羅三宝の一なり。壬辰の乱、賊その半ばを毀す。後に愚僧あり。これを改築せんと欲して、またその半ばを毀す。」(『東京雑記』巻2、仏宇)とあるのが最初かと思われる。『三国遺事』編纂の時代には、薬師銅像なり元暁塑像なりの方が著名であったから磚塔はさほど気にも止められていなかったのであろうか。

 『東京雑記』3巻は李朝(朝鮮王朝)の顕宗10年(1669)に慶州府尹閔周冕が『東京誌』をもとに増補編纂・刊行させた慶州の地誌で、『東国輿地勝覧』を基礎として、『三国史記』・『三国遺事』・『高麗史』、慶州府の官文書を資料に用いている。粛宗37年(1711)に権以鎮が改訂、憲宗11年(1845)に成原黙が増訂している。『朝鮮群書大系』第15輯(朝鮮古書刊行会、1910年11月)などが代表的刊本である。

 この『東京雑記』に「芬皇寺の九層塔、新羅三宝の一なり」とあるのは、皇龍寺の九層塔の誤りで、芬皇寺の磚塔がはたして九層であったかは疑わしいとされている。「壬辰の乱」とはいうまでもなく、豊臣秀吉の文禄の役(1592〜93)のことであるが、そこで日本軍によって半分破壊されたという。ただし慶州が日本軍によって焼き払われたのは慶長の役(1597〜98)の時の慶長2年(1597)10月3日のことである。大河内秀元の従軍記録である『朝鮮記』乾、慶長2年10月3日条(『続群書類従』第20輯下、巻590)には以下のように記されている。「三日慶州ニ著陣ス。〔此道三里。〕此処モ帝都ノ旧跡ナレバ、内裏ノ殿中大仏殿イマタ明カニ楞厳殊勝ノ寺々モ、共ニ甍ヲ双ヘ、洛中ノ高屋(商屋カ)洛外ノ民屋三十余万軒有テ、富貴ノ処ナリ。爰ニ十八階アル橦鍾アリ。鍾木ノ当ル蓮花ハ九尺四方ヲ丸メタル程アリ。此ニ三日逗留シ、禁中殿ヲ先トシテ、一宇モ残サス、放火ス。」とある。なお「十八階アル橦鍾」というのは現在慶州国立博物館に野外展示されている聖徳大王神鐘のことである。それにしてもこの文章は「此ニ三日逗留シ…」までの部分を除くとまるで旅行記のように慶州の様子が記されている。それだけに「此ニ三日逗留シ…」以降の文の様相は簡潔であるが、すざましい。

 再び『東京雑記』の記述に戻ると、芬皇寺の磚塔を改築しようとした僧がいたが、むしろ半分破壊してしまうこととなってしまったという。日本軍の破壊と愚僧の行為によって九層であったのが往事の4分の1になったというのが『東京雑記』の主張であろうが、実際には磚塔はバランスからみると五層を超えないという。4分の1は大げさで、そこに『東京雑記』の史料としての位置に疑問を感じざるを得ない。ただし芬皇寺の境内にはレンガの瓦礫の山があり、これで磚塔がもう一基は造れるかもしれない。

 磚塔自体は7世紀新羅の時の建立である。中国では北魏より多くの磚塔が築造されており、唐代には各地に築造され、その影響があるという。


[参考文献]
・関野貞『朝鮮美術史』 (朝鮮史学会、1932年9月)
・葛城末治『朝鮮金石攷』(大阪屋号書店、1935年8月)
・関野貞著・藤島亥治郎編『朝鮮の建築と芸術』(岩波書店、1941年8月、《新版》岩波書店、2005年5月)
・坪井良平『朝鮮鐘』(角川書店、1974年7月)
・趙由典/南時鎮「新羅寺院跡の発掘-芬皇寺跡の発掘-」(『仏教芸術』209、1993年7月)
・岡本一平「新羅唯識派の芬皇寺玄隆『玄隆師章』の逸文研究」(『韓国仏教学SEMINAR』8、2000年7月) 


☆平成20年(2008)12月16日補足☆
以下のサイト(choson Online 朝鮮日報2008年12月12日版)によると、芬皇寺の発掘調査が行なわれ、南側の正門である中門と、2重の回廊となっている南西複廊の構造が確認されたという。以下部分引用。「中門の長さは12.63メートル、南西の複廊の長さは62.89メートルであることから、寺が左右対称型であれば東西の幅が138.41メートルとなり(複廊×2+中門)、これは新羅最大の寺とされる皇竜寺の176メートルに匹敵する規模となる。」
http://www.chosunonline.com/article/20081212000056


瞻星台(平成16年08月25日管理人撮影。参考までに…) 



「韓国慶州寺院参詣の旅」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る