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ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピット Wiharn Phra Mongkhon Bopit はアユタヤに位置するプラ・モンコン・ボピット仏を本尊とする礼拝堂です。すぐ北にはワット・プラ・シー・サンペットが位置しています。
オランダ東インド会社のファン・フリート Jeremias van Vliet(1602〜63)は自身の著作『シアム王国記』の中で、「その他の偶像の中には三の大きな座像があり、それはもし立ち上がったとしたら、二〇尋、すなわち一二〇フートの高さがあるに違いない。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉177頁より一部抜粋)と述べており、当時から有名な仏像でした。
プラ・モンコン・ボピット仏は青銅仏で、内部は煉瓦によって造られていました。このプラ・モンコン・ボピット仏は、もとはワット・プラ・チアング Wat Phra Chi Chiag に安置されていた仏像でした。
このワット・プラ・チアングはチャイヤラーチャーティラート王(位1534〜47)によって王宮の前庭に建立され、ファン・フリート本『アユタヤ王朝年代記』(『シアム王統記』)では、「彼は聖職者と貧乏人に対して多くの善行を施し、多くの寺院や聖職者の住居を建設したり、改修したりした。とくに陛下は、大きくまた壮麗なプラ・ツィ・ツェーウ(ワット・プラ・チアング)寺院を建立した。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉243頁より一部抜粋)とあります。
このワット・プラ・チアングはのちに雷雨のため倒壊し、廃墟はそのままとなっていたようです。前述のファン・フリートは、「ユディア(アユタヤ)市には広場、すなわち王宮の前庭に一つの寺院がある。それはなみはずれて大きく、また高く、国内にそれに匹敵するものはない。その柱はみな直径が三尋(5m48cm)以上である。しかし寺院全体はずっと前に廃墟となっている。ある者はそれは雷と稲妻で崩壊したものだと述べている。この寺院はなみはずれて神聖なもので、その下には大きな財宝が埋められていると確言されている。しかし聖職者たちは、崩壊した寺院は正当な世子で古い正統の王統に属する国王だけが再建することができるという昔からの預言を信じている。これまでの歴代の国王の多くは前記の寺院の再建を始めたが、その仕事にかかった者はみなたちまち死んでしまった。人足、人足頭、監督はみな理解力を失い、気が狂い、盲目になったり、その他あらゆる災厄に見舞われた。このためその工事はやむを得ず、また多くの人々を失ったために、中止しなければならなかった。現国王はこの預言と、この寺院について起こった事件をよく知っており、また自分自身が不法に王位を簒奪したことをよく心得ているにもかかわらず、驕りと誇りに導かれて、昨年寺院の建設に着手しようと考えた。しかしプラメネは今はその時期ではないといって国王を諌め、決意をかためたその他のマンドライン(大臣)たちもこれにならったので、その企ては中止された。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉179〜180頁より一部抜粋)と述べています。
ワット・プラ・チアングの跡地はプラーサートトーン王(位1629〜56)が寺院跡から宝物を取り出すために完全に破壊され、仏像はすぐ後ろに移されて、仏像安置のためにヴィハーン(礼拝堂)が建造されました。ファン・フリート本『アユタヤ王朝年代記』(『シアム王統記』)では「前にシアム(タイの古名)の第一三代〔正しくは第一四代〕国王プラチアイアラーチア(チャイヤラーチャーティラート)がプラ・チティエーウ(ワット・プラ・チアング)寺院を建設したが、それについて多くの不思議な話があるということについて触れたが、それはあまりにもお伽話めいているので、ここでは省略することにする。この寺院は国中でもっとも大きく、またもっとも高かった。しかしそれは随分昔に雷雨と稲妻のために倒壊してしまった。歴代の国王の多くはこの寺院を再建しようと企てたが、工事を始めると直ちに中止しなければならなかった。というのは、人夫頭たちや人夫たちが多くの災難で死んだり、病死したりしたからである。一部ではブラメネと聖職者たちが、この寺院はシアムの歴代の国王の純粋な血統の、直系の国王でなければ修復できないという予言をしているといわれている。現国王は数ヵ月以前にこの寺院を基礎からはじめて完全に破壊させ、その中に安置されていた巨大な銅の偶像をそこから数ルードうしろに移動させ、前の国王たちが行なっったように、この像を入れるための寺院を建設しようとした。この寺院の再建についてはさまざまな意見がある。多くの人々は国王は工事を完成させるに違いないという意見であるが、かれらは気がとがめるのか、その理由としては陛下は〔シアム王国の〕初代の建国者と多くの点で似ているということしかあげない。これはもっともな説明であるが、シアム人〔の大部分〕はそうは考えていない。というのはこの寺院を建設した者は国を後見役として統治し、五歳の幼い国王が五ヵ月間統治したのちにこれを殺害し、王位を簒奪した人物だからである。一方ブラメネたちは、陛下は自分が建設を始めたこの寺院を完成することはできず、それが完成する前にこの世を去るだろうというしるしが天に現われているのを見たと語っている。それはとくに、この再建は純粋な信心から始められたものではなく、陛下が以前の寺院を破壊して、大きな財宝を発見しようとしたからである。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉223〜224頁より一部抜粋)とあり、ワット・プラ・チアング跡が完全に破壊され、また仏像を安置するため寺院を建立しながらも、完成をみないことが預言されていたことが知られます。結局、寺院としては完成せず、ヴィハーン(礼拝堂)のみとなりました。
ヴィハーン(礼拝堂)は1767年のアユタヤ陥落でビルマ軍に破壊され、建物は煉瓦造りの壁面と柱のみが残ったため、プラ・モンコン・ボピット仏は屋根のない建物内で風雨にさらされていました。1858年にアユタヤを訪れたフランス人探検家アンリ・ムオ Henri Mouhot (1826〜61)は、「崩壊して今はわずかに台座だけが大きな破壊力をもつ時間と環境にさからって遺っている昔の壁龕の中には、仏陀(ここではゴータマと呼ばれている)の像を見出した。高さは十八メートルあり、一見青銅製のように見えるが、つぶさに見ると中は煉瓦で、その上に厚さ三センチの青銅が被せられている。パルゴア猊下の語るところでは、このアユタヤーの廃墟には無尽蔵に宝物が匿されていて、未だによく宝物が掘り出されているとのことである。なお師の語るところでは、現在この崩壊物中に埋もれてい眠っている像の中には、ただ一つで、二万五千リーヴルの銅と、四百リーヴルの金を用いたものがあるはずであるという! 今日では、それらの仏像を埋めつくしている崩壊物の上には禿鷹や尾白鷲が巣喰っている。」(アンリ・ムオ著/大岩誠訳『インドシナ王国遍歴記 アンコール・ワット発見』〈中央公論新社、2002年2月〉52・53頁より転載)と述べています。その後損傷した仏像はラーマ5世(1868〜1910)によって修復され、1956年にはビルマからの寄付も受けてヴィハーン(礼拝堂)が再建されました。
ヴィハーン(礼拝堂)は妻入の切妻造で、前方に二段の突出部があります。白く鮮やかな壁面のヴィハーン(礼拝堂)は、他の寺院のヴィハーン(礼拝堂)の形式を知る上で非常に重要なものです。また現在も多くの信仰を集めており、周囲には露店が無数に立ち並び、極めて賑やか(というよりはかなり騒々しい)となっています。
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ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピットと露店(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)
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