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太廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太廟はフエの皇城(阮朝王宮)内の太和殿の東側に南向に位置している。背後(北側)には肇廟がある。嘉隆3年(1804)に建設されたとされるが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)、実際にそれ以前の嘉隆元年(1802)8月1日に仮に建立されたものが最初である(『大南寔録正編』第1紀、巻之18、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年8月己亥朔条)。その後嘉隆3年(1804)3月に肇祖廟・皇考廟とともに改めて建立されたのである。嘉隆元年(1802)に建立したものはあくまで仮のものと考えられていたのである。また太廟は明の太廟の制度に倣っていた(『大南寔録正編』第1紀、世祖高皇帝寔録、巻之23、嘉隆3年3月庚辰条)。同年9月に完成した(『大南寔録正編』第1紀、巻之25、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年9月条)。
嘉隆6年(1807)7月1日には黎文豊を責任者として太廟が修復し(『大南寔録正編』第1紀、世祖高皇帝寔録、巻之33、嘉隆6年7月朔日条)、嘉隆18年(1819)2月にも張進宝・阮文雲・阮科明らに修復させ、その徭役にあたった兵士に銭5,000緡を賜っている。この時祭器もまた修理している(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年2月丁丑条)。明命元年(1820)2月には太廟の神厨・神庫が修理され(『大南寔録正編』第2紀、巻之1、聖祖仁皇帝寔録、明命元年2月辛丑条)、明命4年(1823)5月にも修理が実施されている(『大南寔録正編』第2紀、巻之21、聖祖仁皇帝寔録、明命4年5月条)。
フエの太廟は歴代阮主を祀っており、歴代皇帝を祀る世廟とは中央軸に対して東西対象に位置する。成泰年間(1889〜1907)に修復が行なわれたが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)、1947年にフランス軍との交戦によって破壊された。現在太廟は復元されているが、瓦屋根はトタン屋根になるなど、状態はよくない。嘉隆帝が最も重視した太廟は、現在では荒廃を極めている。ただし付属施設の隆徳殿は明命13年(1832)建立当初の姿をとどめる。
太廟は中国では皇帝の祖廟で、祖先を祭祀する場所である。各皇帝には皇后が配祀されるのが原則であった。阮朝が成立する以前、フエの地は広南阮氏が主(チェア)として君臨して、北の鄭氏政権と対峙し、フエ以南の地を支配してヴェトナムを二分していた。広南阮氏は9代にわたって続いたが、やがて広南阮氏の圧政に堪えかねて西山阮氏が反乱を起こした。広南阮氏はフエを脱出して海路に向かったが、嘉定(ホーチミン)を逃れたところを捕捉され、ほぼ皆殺しにされた。この皆殺しを免れて西山朝と対決したのが一族の阮福映であり、のちの嘉隆帝である。実際、太廟は広南阮氏の主の廟所の故地に建立されたものであった(『大南寔録正編』第1紀、巻之18、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年8月己亥朔条)。さらに嘉隆帝はヴェトナムを統一した同年11月、一族の仇である西山党最後の当主阮光纉(1783〜1802)およびその弟の阮光維・阮光紹・阮光盤を太廟に捧げて復讐を成し遂げたことを報告すると、そのまま城外に引きずり出し、凌遅刑(生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、苦痛を与えた上で死に至らす刑)に処し、最後は五体を五匹の象で引っ張って八つ裂きとした(『大南寔録正編』第1紀、巻之19、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年11月癸酉条)。阮朝の西山朝への復讐は凄まじく、これより以前の辛酉年(1801)にはやはり西山朝の阮文恵(1753〜92)の墓を暴いて頚を晒しており、その子どもや一族郎党と西山朝軍の将校あわせて31人を凌遅刑としている(『大南寔録正編』第1紀、巻之15、世祖高皇帝寔録、辛酉22年11月丙戌条)。明命12年(1831)に西山朝の阮文岳(?〜1792)の子の阮文徳・阮文良、孫の阮文兜(文徳の子)が発見・捕縛されると、腰斬の刑に処し、西山党の血統を根絶やしにした(『大南正編列伝』初集、巻之31、偽西列伝、阮光纉伝)。
嘉隆帝はフエを占領し、皇城の建造を開始すると、まず太廟の建設に着手した。嘉隆帝は広南阮氏の武王(位1738〜65)の孫にあたり、広南阮氏の正統を継いだことを明らかにする必要があり、そのため真っ先に歴代の主を祀る太廟を建設したのであった。
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皇城図・『大南一統志』巻1より太廟部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)
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1947年焼失以前の太廟(『PHA THUAN AN HUE -La Citadelle et ses Palais-』〈THE GIOI,2007〉口絵より部分転載)
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太廟の両側には回廊があり、一つの堂内に9部屋を設け、それぞれ神龕(位牌)を安置した。中央は太祖嘉裕皇帝(位1558〜1613)とその皇后(生没年不明)を祀り、その左右にそれぞれ4部屋があり(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)、「左一」「右二」と、太祖を中央に奇数代・偶数代を交互に配置する昭穆の制をとった。左一は孝文皇帝(位1613〜35)と皇后(1578〜1630)の神龕(位牌)を安置し、右一は孝昭皇帝(位1635〜48)と皇后(?〜1661)を、左二は孝哲皇帝(位1648〜87)と皇后(?〜1685)を、右二は孝義皇帝(位1687〜91)と皇后(1653〜96)を、左三は孝明皇帝(位1691〜1738)と皇后(1680〜1716)を、右三は孝寧皇帝(位1725〜38)と皇后(1699〜1720)を、左四は孝武皇帝(武王)と皇后(1712〜36)を、右四は孝定皇帝(位1765〜75)を祀った(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)。
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太廟門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太廟の東西には付属施設が4箇所あった。東側に隆徳殿があるが、毎年中央の太祖嘉裕皇帝に対する祭祀において、忌日に祭祀を行なう補助施設であった。また廟の庭前の東側に昭敬殿があり、左四の孝武皇帝(武王。嘉隆帝の祖父)の祭祀の補助施設であった。太廟の西側に穆思殿があり、右四の孝定皇帝の祭祀の補助施設であった。穆思殿の北に小さな堂があり、これは土公(土地神)を祀るための堂であった。隆徳殿はもとは左方堂といい、昭敬殿と穆思殿はもとは左右の祭所として使用されていた。
隆徳殿・昭敬殿・穆思殿は明命13年(1832)4月に建造され(『大南寔録正編』第2紀、巻之79、聖祖仁皇帝寔録、明命13年4月朔条)、成泰12年(1900)修理が行なわれた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)。
太廟は周囲を塀で囲まれているが、東側には顕承門が、西側には粛相門があり、後方(北側)には2門あり、東側を元祉門、西側を長祐門といった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)。
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昭敬殿跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。再建工事がすすめられている。
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隆徳殿(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。隆徳殿は嘉隆3年(1804)建立当初の姿をとどめて阮朝王宮に残る嘉隆帝期の数少ない建築とされるが、実際には明命13年(1832)の建造。
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太廟の庭前の中央には綏成閣という楼門があった。嘉隆3年(1804)4月の建立時には穆清閣と呼ばれていたが(『大南寔録正編』第1紀、巻之47、世祖高皇帝寔録、嘉隆12年7月朔日条)、明命11年(1830)に綏成閣と改称された。成泰年間(1889〜1907)に解体され(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)、現在跡地に残る石壁のみが綏成閣の位置を示している。
綏成閣の左右には短墻があり、左(東側)を延禧門といい、上階に鐘楼があった。また右(西側)を光禧門といい、上階には鼓楼があった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)。短墻の外の左右に建物があったが、これは従祀であり、建国の元勲・功臣を祀っていた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)。従祀の建立は嘉隆12年(1813)7月のことであった(『大南寔録正編』第1紀、巻之47、世祖高皇帝寔録、嘉隆12年7月朔日条)。綏成閣の南には太廟の正面門である太廟門があり、門の前と左右にそれぞれ石獅子を安置していた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)。太廟門の前の道は石畳となっており、明命12年(1831)6月に舗装されたものである(『大南寔録正編』第2紀、巻之78、聖祖仁皇帝寔録、明命13年2月甲午条)。
[参考文献]
・坂本忠規・中川武・白井裕泰・中沢信一郎「1947年の被災状況」(『学術講演梗概集 計画系』(F-2)、2002年6月)
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綏成閣跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。現在は石壁となっている。
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光禧門と従祠跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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延禧門と従祠跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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