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レンタカーで室生寺に行きました。
金堂は平安時代前期の建造物です(ただし正面一間分は江戸時代の後補)。
引きが足りず、カメラでは全体が映らないと聞いていましたが、実際にはそんなことはありませんでした。
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金堂の正面に位置するのは弥勒堂です。
鎌倉時代の建築で、典型的なものとなっています。
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平安前期建立の五重塔です。
とても小さくて驚きました。
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室生寺は賢憬が建立した寺院ですが、室生寺として体裁が整う前に賢憬は示寂してしまったので、実際にはその弟子の修円が室生寺を大成させました。
法相宗を代表する高僧でしたが、後世は単なる引き立て役になってしまい、『元亨釈書』などで弘法大師に呪殺されたということになっています。
皮肉なことに、現在室生寺は真言宗で、弘法大師が中興したということになってしまっています。
写真は修円の廟。
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潅頂堂(本堂)は延慶元年(1308年)の建立です。
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室生寺奥の院の御影堂。鎌倉末・室町前期の建築で、宝形造の錣葺です。
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御影堂の隣には石塔があります。
もとは十三重石塔だったそうです。
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室生寺の後は、柳生を通って、木津川市の海住山寺に行きました。
狭く、そしてカーブの多い峠道で、結構大変でした。
写真は本堂。
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海住山寺の五重塔です。
建保2年(1214)の建立で、国宝に指定されています。
この海住山寺五重塔も小さい(日本で2番目に小さい)ので、帰りに通りかかった東寺の五重塔をみて、思わず「でかい〜」と絶叫してしまいました。
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石風呂です。
鎌倉時代のものということですが、貞慶の使ったのでしょうか?
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海住山寺の伽藍の中心よりはずれたところにある貞慶の供養塔です。
比較的古い書籍などでは、苔むした、いかにも貞慶らしい供養塔が映っていたので、是非訪れてみたかったのですが、遠忌にあわせて整備したのか、ピッカピカです。
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海住山寺の麓に恭仁京の遺跡があります。
わずか4年ほどの都でしたが、その後は山城国分寺となっています。
都が続いたとしても、暴れ川木津川の氾濫で結局遷都したのかもしれませんね。
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海龍王寺の東金堂は、奈良時代の建立ですが、外観などからはなかなかそのようにはみえません。
正面には明治に失われた西金堂の跡があります。こちらも奈良時代の建物だったのでしょうか?
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太山寺の本堂は永仁元年(1293)頃の建立で、鎌倉時代の天台本堂建築の代表的なものです。
中世の天台本堂建築であるため、比叡山西塔の釈迦堂(南北朝時代)と多くの共通点(といっても太山寺本堂の方が古いのですが…)がありますが、内陣と外陣はフラットで、他の天台本堂建築のように、内陣のみが低い土間とはなっていません。
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三重塔は貞享5年(1688)の建立ですが、丹色に塗られたため、同じく丹色に塗られた本堂とは、境内では一体感があります。
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京都を歩くと、たまにこのような二つ並んだ石状の物があります。
一見、石造にみえるのですが、コンクリートでつくられたものです。時々銘文があり、戦前に旗(国旗など)を掲げるために造られたもののようです。
そのような経緯をわかっているつもりではいますが、韓国に幢竿(仏画を描いた幢を掲げるための竿を支えるための石造物)があり、これらは新羅時代のものが美術的に優れているので、これを連想すると、何やら古代遺物のようで何やらワクワクします。
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上京区の報恩寺(浄土宗)の山門の手前には、石橋が架けられています。
石橋は埋められた小川に架けられています。この石橋は擬宝珠銘によると、慶長7年(1602)に造営されたもので、桃山時代の石造美術として有名なものだそうです。
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千本笹屋町を東に入ると「The Eel Bed(うなぎの寝床)」という住宅施設兼歯科医の建物があります。
京都の町屋といえば近世期の税金対策のため、極端に間口が狭いことで有名ですが、昭和54年(1979)に建てられたこの建物はそれを極限化したもので、間口3間、奥行23間という、物凄い建物です。
この写真ではみえませんが、ファザードの意匠も面白いです。
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しばらく前、藤森照信『日本の近代建築』下(岩波新書、1993年11月)を見ていると、大正3年(1914)に本間精吾が出世作として設計した「西陣織物館」が掲載されており、どこかで見たことあるような気がしたのですが、今の京都市考古資料館がそれにあたるのですね。
「歴史様式を使わず全体を平坦に仕上げ、白タイル張りの面の分割を見せどころとするデザインで、セセッション系に属する」(同書169頁)そうです。
肝腎の資料館は月曜日のためお休みです
(^^;)
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友人Yと友人Nと呑みました。
友人Yが住む神戸での飲み会でした。
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名古屋出張です。
名古屋駅のホームで、冷やしきしめんを食べました。
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福山駅からみえる福山城です。
見た目が立派な城ですが、全く知らなかったのでウィキペディアを読んでみると、なかなか素晴らしい城であるようです。
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奈良国立博物館で去年7月から8月に行われた展覧会「初瀬にますは与喜の神垣」が開催されていました。
その時に長谷寺蔵の「長谷寺境内図」が出陳されていました。
寛永15年(1638)に描かれた本図をみると、今の長谷寺に行ってみたくなりました。
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というわけで長谷寺に行ってみました。
近鉄を乗り継ぐと長谷寺に着きます。
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本堂は正堂の手前に土間、その手前に礼堂、懸造の舞台となっており、一見非常に複雑です。
正堂は小規模の仏堂を基本として外陣を設け、その左右に脇陣を設け、一間四面の庇を設けたものが原型となっていたようです。
この正堂の前に一般信徒礼拝用の礼堂が設けられ、正堂とともに屋根がけされたのが現在の本堂の原型となり、礼堂の前に設けられた舞台は地形手狭のため懸造となったということになります。
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勤め先から家に帰ろうとしたのですが、いつもは自転車のところ、出張先からの直行だったため、帰りは自転車がなく、やむなくバスを使ってみることにしました。
千本ゑんま堂を通りかかると、夜なのにゑんま堂が明るい。
何事かと聞いてみると、念仏狂言をやっているようでした。
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政秀寺です。
織田信長の守役の平手政秀が切腹した後、信長が彼の死を悼んで建立したといいます。
扁額は山田無文の字形だそうです。
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この付近を携帯からネット検索して地図を見てみると、七寺があることがわかりました。
七寺といえば、七寺古逸経典研究会編『七寺古逸経典研究叢書』(大東出版社)が出ているほど、古経典のに関連しますが、どのような寺なのか行ったことがないので行ってみました。
戦争中の空襲で焼失しているため、古い建築などはなく、ちょっと立ち寄っただけでは、著名な寺院であるとは全くわからないところです。
「右大臣求学十二宗三万九千巻」の記事があることで有名な『一切経論律章疏集伝録并私記』も、七寺の所蔵関連です。巻下が失われていることが残念です。
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名古屋出張です。
昼休み時に時間があったので周辺を見物してみました。
まずは総見寺。
案内板には天正年中(1573〜92)織田信雄が、父信長の菩提のため清須に移し、僧忠嶽を開山として、今の寺号に改め、慶長16年(1611)清須からこの地に移したそうです。
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京都の一条通をずっと西に進むと、やがて妙心寺の北側で二手に分かれ、やや斜め右(北西)へと進むのが今の一条通となっていますが、かつての条里では、一条大路の延長線はそのまま西に進む道となっていました。
今、嵐電の線路沿いに「花園円城寺」という地名があり、ここがかつての四円寺の「円乗寺」の跡地といいます。
この付近はいつも花が咲いており、今は菜の花が咲いています。
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次に広隆寺に行ってみました。
広隆寺の講堂は案内板によると1165年の建立とありますが、到底そうはみえません。花頭窓があり、また正面三間が吹放ちとなるなど、一見だけでは中世以降の建築にみえます。
あと上宮王院ですが、これは享保5年(1720)の建立だそうです。桁行が5間もあるにもかかわらず、側面からみると、庇を除いた部分の梁間が3間しかなく、しかも後方に張り出しがあります。これがもし「三間梁規制」の影響によるものだとすると、現存最古の「三間梁規制」の影響を受けたとされる浄福寺本堂(1733)よりも古いということになります。
ちなみに満願寺本堂(1704)も前方に庇1間がある、桁行5間、梁間3間の建造物で、同様の複合建築であるため、これらよりも現存する上では古い「三間梁規制」を受けた建物ということになります。
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宇多野周辺には大きなお屋敷が建ち並び、とても風情があります。
この周辺はかつて御室川が流れ、さらに池がありましたが、戦後に消滅しています。
また平安から鎌倉時代にかけて、仁和寺の院家が立ち並んでいたところでもあります。
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壬生寺です。
こうやってみると中国のお寺みたいです。
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奈良国立博物館の特別展「御遠忌800年記念特別展 解脱上人貞慶 -鎌倉仏教の本流-」に行ってきました。
出陳物は平成16・17年(2004・2005)の大阪市立美術館他の巡回展「興福寺国宝展」と重なる部分もあったので、懐かしい物や始めてみる物がありました。
「法相宗系図」(興福寺蔵)・「笠置曼荼羅」(大和文華館)・狩野永納「海住山寺縁起」(海住山寺蔵)といったように、展覧会名から出陳がすでに予想される物もいくつかありましたが、それとは別に興味深いものをいくつか紹介してみると…、
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@奈良国立博物館蔵「春日社寺曼荼羅」が出陳されていました。興福寺本・根津美術館本・大阪市立美術館本がありますが、非常に細かく描写されています。
A「興福寺奏上」(東大寺蔵)は貞慶関連の史料、というよりは鎌倉前期の仏教史料としてあまりにも重要なものですが、今回の出陳まで、原本どころか、古い写本すらないことを知りませんでした。今回の出陳物は天保9年(1838)書写のもの。『日本思想大系』の底本も、その原本は天文8年(1539)とはいえ、大内青巒蔵本を明治42年(1909)に東京大学史料編纂所が影写したもので、原本そのものではありません。
B「解脱上人御草等」(花園大学蔵)は、キャプションでは重要文化財になっていましたが、実際には未指定で、図録でも指定の記載はありません。
C「阿弥陀浄土図」(海住山寺蔵)と「兜率天曼荼羅」(興聖寺蔵)はもとは二幅対のものだったそうです。興聖寺一切経のもとは、西楽寺(亀岡市・廃寺)一切経ですが、今話題の信西も関わっていた一切経です。その後海住山寺蔵となり、さらに興聖寺蔵となって現在に至っています。
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展覧会の後は、東大寺に行きました。
東大寺では博物館がオープンしており、今まで奈良国立博物館の常設の常連だった仏像・扁額が展示されています。
写真は戒壇院。
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清凉寺に行きました。
多宝塔近くの桜がきれいです。
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清凉寺の嵯峨念仏狂言に行きました。
去年見た壬生狂言に比べると地味な印象を受けますが、歴史はこちらの方が古く、鎌倉中期の律僧である円覚上人導御(1223〜1311)が弘安2年(1279)にはじめた嵯峨大念仏会に付随して、中世に発生した芸能です。
人手不足なのか、太鼓と鉦は掛け持ち、黒子と笛は掛け持ち、といったように、人手不足を工夫でこなしているのか、もともとそうなのかはわかりません。
ただ笛と黒子(兼任)の人が女性だったので、単なる人手不足なのかもしれません。
たまたま立ち寄ったらしき外国人が喜んで写真を撮っていました。
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浄福寺の釈迦堂が修理しています。
来年の春に公開予定だそうです。
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近くのケーキ屋さん「むっしゅくれーる」で買ったケーキ。
ショコラドトロピカルです。
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