通度寺



通度寺霊山殿(平成16年08月26日、管理人撮影) 

 この韓国旅行で最後に訪れたのは通度寺です(本当は飲み屋だけど…)。「慶州参詣…」とありますが、通度寺は慶州の属する慶尚北道ではなく、慶尚南道梁山郡下北面の寺院です。慶州よりは釜山に近いのです。通度寺の境内に入って、まずは通度寺聖宝博物館に行きました。入館してすぐの中央ホールに巨大な掛仏幀がベローンと下げられていました。ガイドさんによると縦15mあるそうです。近寄ってみると下方の表に銘がありました。ところでガイドさんがこの巨大な仏画は「韓国独自」といっていました。韓国に行くとこの「韓国独自」という語をイヤというほど聞かされます。また、皇龍寺もそうでしたしが、慶州国立博物館に野外展示されている聖徳王鐘のその巨大さがに圧倒され、古代における朝鮮半島の文化が優れていたものであることは認めざるを得ません。しかし悔しさか「いや、日本にもあるゾ!」といいたくなるのが人間というものでしょう。そのような時、心の支えになってくれるのが、我らが東大寺です。皇龍寺でも、「いや、規模は東大寺の方が大きいし、九層塔には負けるけど、七重塔が二基あったもんね!」とか、聖徳王鐘をみても「東大寺にもこの位の大きさの鐘があったハズ!」と周囲と話していました。この巨大な掛仏幀にしても、「いや、『七大寺巡礼私記』には大仏殿に16mの繍像が2つかかっていたと書いてある!」といった具合です。ちなみに護国寺所蔵の狩野種信「涅槃図」(水墨、1,815×880cm、18世紀前半)は縦18bあるそうです(『別冊太陽131 狩野派決定版』〈平凡社、2004年9月〉91頁)。韓国旅行ではこのように「韓国独自」ではなく「日本にもあるゾ」と、あまり建設的ではないことを語り合っていました。ありがとう!東大寺!(←何のこっちゃ)。

閑話休題、

 通度寺聖宝博物館に所蔵される仏画は素晴らしいものが多かったです。博物館を一通り見学した後は境内を散策しました。通度寺は現在は韓国仏教最大の宗派・曹渓宗(禅宗系)に属していますが、少なくとも高麗の時までは南山律宗という、律宗の最大宗派に属していました。広大な寺院で、多くの堂宇が山の麓より頂上に向って林立する様は、日本でいえば天龍寺を思い浮かべると雰囲気がわかりやすいかもしれませんが、登るとき右側に川が流れており、風情もよいです。通度寺の伽藍は上爐・中爐・下爐にわかれています。ところで、今回の駆け足の慶州の旅の中では、この通度寺には比較的長い時間参詣しましたが、写真はほとんど撮影できませんでした。序盤に多く写真を撮りすぎたため、メモリーが足りなくなったこと、堂宇が多かったため、全部撮影するのは無理だと、端からあきらめていたためです。またメモリーが足りなかったので先に撮影したのを片っ端から消していったので、仏国寺の釈迦塔を間違って消してしまったりしています。そのため通度寺の建造物のうち、下爐の建造物は霊山殿(写真上)、上爐の建造物は大雄殿(写真中)と金剛戒壇(写真下)しか撮影していません。


通度寺大雄殿(平成16年08月26日、管理人撮影) 

通度寺の建立

 慈蔵については、「皇龍寺跡」にて述べたので、慈蔵自身については通度寺に関する事項以外は触れないこととしよう。

 通度寺はその詳細な建立年は不明であるが、「当時国中の人は受戒して仏を敬うこと十中八九で、髪を剃って得度したいと願い出る者が、歳月を増すに至って、ついに通度寺を創り、戒壇を築いて四方からくる人を得度した。」(『三国遺事』巻4、義解第5、慈蔵定律)とあることによって、慈蔵が新羅に帰国した貞観17年(643)以降であることがわかる。この「通度」の名は、『望月仏教大辞典』では「当山の気象が西域五印度に通ずるが為なりとし、或は通方度人の意なりと云ひ、或は慈蔵が戒壇を設けて通受度牒を行ひしに由るとなせり。」と三説をあげている。最初の説は『通度寺創剏由緒』にもみえるが、最後の説はあまりにも事務的すぎるのではないだろうか。

 この時期の通度寺については詳細なことはわからないが、「貞観17年(643)、慈藏法師が三蔵を四百余の函を載せて帰国し、通度寺に安置した。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、前後所将舎利)とあることによって慈蔵が仏舎利以外にも三蔵四百余函を安置したとある。三蔵は経・律・論のことであるが、この三蔵に中国撰述の論疏を含めて仏教経典の大集成したものを一切経という。三蔵四百余の函というから三蔵というのは一切経を差しているものと思われる。新羅に一切経がもたらされたのはこの時が最初である。


通度寺戒壇の舎利

 通度寺といえば「金剛戒壇」と称される戒壇があることで有名である。戒壇とは、戒の授受を行うために土を築いて設けられた特定の壇をいうのであるが、新羅において戒壇の設置は通度寺に始まるとされている。通度寺戒壇について、「善徳王の貞観17年(643)に慈蔵法師が仏頭骨・仏牙・仏舎利百粒・仏が着た緋羅金点袈裟1領を請来した。その舎利は分けて3つとし、1つは分けて皇龍寺の塔に、1つは太和寺の塔に、1つは(仏舎利と)袈裟とあわせて通度寺の戒壇にある。そのほかの所在は未詳である。壇に2段あり、上段に石蓋が鼎を覆うかのようになっている。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、前後所将舎利)とあるように、慈蔵が請来した仏舎利は皇龍寺の塔・太和寺の塔・通度寺の戒壇に分蔵されたとある。
 ところで、慈蔵が通度寺戒壇を設置したという伝承について、横超慧日氏は、『三国遺事』に示される通度寺戒壇の形状は『関中創立戒壇図経』(大正蔵1892)に基づいているとした上で、貞観17年(643)に唐を去った慈蔵が、乾封2年(667)に撰述された『関中創立戒壇図経』を参照することは不可能で、唐の式を移して戒壇を設置することは考えられないとし、通度寺の戒壇は慈蔵の後何人かにより『関中創立戒壇図経』なり唐の戒壇の実際形式が通度寺に実施された結果、通度寺の創立者である慈蔵に功が帰せられた、としている(横超1942)

 戒壇自体は仏教の興隆とともに発展したが、中国・唐代初期随一の学僧・道宣(596〜667)がその戒壇造営方法を確立するまで、決まった形状というのはなかった。道宣は、乾封2年(667)2月に浄業寺に戒壇を建立し、この時に『関中創立戒壇図経』を著した。この『関中創立戒壇図経』によって以後戒壇の造営方法が確立され、東アジアの戒壇の創立に影響を及ぼしている。

 『関中創立戒壇図経』によると、戒壇の形状は、釈迦の在世中に定まっていたものであるとする。戒壇は地より起って三重構造とするのであるが、これは三空をあらわすのである(『関中創立戒壇図経』戒壇形重相状第3)。下層は地より起基し、高さ3尺(90cm)、広さ2丈9尺8寸(約9m)。第2層は高さ4尺5寸(135cm)、広さ2丈3尺(約7m)、第3層は高さ2寸(約6cm)、広さ7尺(約2m)であるとする(『関中創立戒壇図経』戒壇高下広狭第4)。また覆釜形を壇上に加へて舎利を覆い、無価宝珠を覆釜形の上に置いて舎利を供養することにしたから、あわせて5重となり、これは五分法身を表すものである(『関中創立戒壇図経』戒壇形重相状第3)

 現在の通度寺戒壇の状態は下の写真の通りである。大雄殿(写真上の「金剛戒壇」の扁額のある建物)の奥にあり、修復工事中からなのか普段からなのか金剛戒壇に入ることができなかった。しかし大雄殿の右側面をまわって塀より片手を突き出して撮影したのが下の写真である。
 現在の通度寺金剛戒壇の形状は上に示した『関中創立戒壇図経』とほぼ同じであり、あえて異同があるとすれば、通度寺金剛戒壇では覆釜形の下に蓮台があること位なものである。ところが『三国遺事』によると、「壇に2段あり、上段に石蓋が鼎を覆うかのようになっている。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、前後所将舎利)とあるため、現在の戒壇や『関中創立戒壇図経』の形状と比較すると、壇一段が減っている。『三国遺事』に記述された通度寺戒壇は豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に破壊され、現在のものは戦役終了後、松雲大師惟政が門下の敬岑・太然・性元・雪雄に命じてまるで昔のように復元させた(『通度寺事蹟略録』跋文)ものであるという。

 ところが、『関中創立戒壇図経』戒壇形重相状第3によると、仏在世中の戒壇は、仏涅槃の後、宝珠は没して明珠に替え、また2珠を奉じて舎利を供養したが、この2珠は仏典結集がおわった後、再び没したため、今では諸処の立壇に供養すべき珠を置かない、とした上で、壇上には石を鋪いて地とし、受戒の時に西南のすみに別に高座を安置して比丘に登らせる、とあることからみても、通度寺戒壇が3層基壇の上に覆釜形と宝珠を設置するのは、『関中創立戒壇図経』とは異なる異相であることが示される。

 通度寺の戒壇は現在、金剛戒壇と称されている。これは仏舎利が納められているための名称であろう。この名称は『通度寺事蹟略録』のうち、釈瑚によって泰定5年(1328)にまとめられた「西天指空和尚為舎利袈裟戒壇法会記」に引用される『金剛戒壇図』なるものみえるため、少なくとも高麗時代よりの名称であったことはわかる。


金剛戒壇の仏袈裟・仏舎利の増減

 『高麗史』には通度寺そのものに関する記述はみられないが、ほかの史料では通度寺は仏舎利・仏袈裟に関する説話の舞台となっている。そのなかで最も重要な史料が『通度寺事蹟略録』である。

 『通度寺事蹟略録』は通度寺の寺誌で全1冊。本書は6編で構成され、@通度寺舎利袈裟事蹟略録、A舎利霊異、B袈裟稀奇、C寺之四方山河裨補、D西天指空和尚為舎利袈裟戒壇法會記、E跋となっている。@は慈蔵が入唐して文殊の化身から舎利・袈裟を授かり、それを請来して通度寺を創建したことを記す。A・Bは舎利・袈裟の不思議な作用を伝える。Cは長生標を主題として通度寺の寺領に関して記される。これは高麗時代の寺領経営の実態を示す貴重な史料として著名である。Dは印度僧指空が通度寺を訪れ、盛大な法会を営んだことを記す。この@〜Dのうち、記述年代の確実なのはDのみで、泰定5年(1328)に釈瑚の筆による。
 本書は写本と刊本が知られるが、刊本には天順4年(1460)9月に「伝書」、万暦8年(1580)9月に「移書」、万暦37年(1609)3月に通度寺に所蔵することを願って通度寺に安置されたのを底本として崇徳7年(1642)9月に重書開刊した、とある。旗田巍「通度寺の『事蹟記』について」(『朝鮮学報』61、1971年10月)にモノクロ写真とともに紹介されたほか、韓国学文献研究所『韓国寺志叢書第5輯 通度寺誌』(亜細亜文化社、1983年)にも写真版が掲載されている。

 その『通度寺事蹟略録』袈裟稀奇に、「光宗は仏教を深く信仰していた。通度寺に釈迦が実際に着たという袈裟が現存することを知って驚喜し、自ら通度寺に行幸して礼拝しようとした。百官・御史台は“王が外巡したならば民は安堵しないので、王がもし親しく御覧になりたいのいうのであれば仏衣を進上させましょう”といい、光宗はこれを許可して通度寺に行くことを中止し、右承宣の蔡景宗を通度寺に派遣した。通度寺より蔡景宗が都に函とともに戻ると王は喜んで康安殿に迎え入れ、高僧300人ばかりを招集して、仏前にて函を開いてみてみると、函の中は空で何も無かった。光宗は驚き怒り、蔡景宗を遠島にしてしまった。左右の群臣は光宗に“これは如来神通変化の不思議であり、王がもし懺悔して精進すれば、仏徳があらわれるでしょう”といった。光宗はこれにしたがって、約一七日(7日間)懺悔して精進すると、函の中に黄蜂が雀のように満ちた。光宗はますます驚きあやしみ、さらにまた一七日懺悔して精進すると、函の中に大蛇がとぐろをまいていた。光宗はさらにまた一七日懺悔して精進すると、夜、夢の中に一人の梵僧が光宗に“ここ(宮中)は住むところではないため、本処(通度寺戒壇)を離れないのだ”といった。光宗は驚き目覚めて懺悔してますます懼れた。左承宣の朴シン(王へん+咸。UNI744A。&M021105;)を通度寺に遣わして、函を速やかに戻させた。朴シンが通度寺で函を開くと、袈裟はもとのようであった。」とある。
 この説話の該当年は未詳であり、説話自体が信のおけるものであるかどうかは不明である(例えば「右承宣」というのは高麗の官制にはなく、李朝のものである)。なお『通度寺創剏由緒』には光宗16年(965)のこととしている。光宗は高麗の第4代国王(位949〜75)で、「中歳(治世の半ば)以後、讒を信じて殺を好み、仏法を酷信して奢侈すること節なし。」(『高麗史』巻2、世家第2、光宗26年5月甲午条、論賛)と仏教を酷信したと評価されている。この説話では函の中の袈裟に変化があるとするが、通度寺戒壇に納められた袈裟のみならず、仏舎利もその数が変化するという説話がある。

 『三国遺事』に通度寺戒壇の仏舎利に関する説話が記載されている。「巷のいうところによると、昔、本朝(高麗)に相次いで2人の廉使が来て、戒壇に礼拝して石の蓋をあげてこれを敬った。開けてみると大蛇が函の中におり、後でまた開けてみるとヒキガエルがうずくまっていた。そのため、これ以降はあえて石蓋を開ける者はいなかった。
 上将軍の金公利生と侍郎のユ(まだれ+臾。UNI5EBE・&M009398;)碩が高廟(高宗)の命令によって江東を指揮して寺に到った。石を開けて礼拝しようとしたが、寺僧は過去の例をあげてこれを渋ったが、金公利生とユ碩は兵士に命じて強引に開けさせた。内には小さな石函があり、函襲の中に瑠璃筒があり、筒の中に舎利が四粒あるだけであった。礼拝すると、筒に小さく傷つき裂けているところがあった。ここにユ公はたまたま水晶の函を一つ盛っていたので、施入して(函として)納めて、(ことの顛末を)記録した。この出来事は江都に移ってから4年乙未の歳(1235)であった。
 古記には百枚を3所に分蔵したとあるが、今ではただ4枚だけになってしまった。(舎利が)隠れたり現われたりするは人によるのであるから、多いとか少ないということはとくに怪しむに足らないことなのである。また巷では「皇龍寺の塔が火災にあった日に、石函の東面に始めて大班があった。」という。これ(の大班は)今でもまだある。これは大遼の応暦3年(953)癸丑歳、本朝(高麗)の光廟(光宗)5載の時、(皇龍寺)塔の第3災の時である。
 至元甲子(1264)より以来、大朝使、佐本国、勅使は争ってやってきて礼拝した。(この時)四方より禅僧が集まってきて参詣した。ある者は(蓋を)開き、ある者は開かないということをしていたため、真身の舎利四枚あったほか、変身の舎利は砕けて砂礫のようになっていたが、石蓋の鼎のから出されて異香を放っていた。(この香がついて)何日も消えない者が多くいた。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、前後所将舎利)

 「江都」というのは江華島のことで、崔氏武臣政権下の高麗はモンゴルの侵攻のため、疎開するように江華島に遷都(1232)し、地方の民衆を山城や海島に強制移住させている。このため、高麗国内に叛乱が多発している。高宗22年(1235)9月に安東の叛民が謀ってモンゴル兵を引きいれて東京(慶州)に向った。この際に上将軍の金利生は東南道指揮使に、忠清州道按察使のユ碩が副指揮使に任命されている。2人が通度寺の仏舎利をみたのはこの時期である。後年のことではあるが、「梁州通度寺釈迦如来舎利之記」に、倭寇が来襲するたびに通度寺住持の月松が舎利函を背負って逃げていたとあることからみると、舎利が増減する理由は以外と外寇や叛乱や災害に際して住僧が戒壇より持ち出したり戻したりしていることによるかもしれない。結局、高麗はモンゴル(元)に服属するのだが、「至元甲子…」以降の記事をみてわかるように、元の使者のように権力者や高麗における貴賓者(モンゴルの使者が不慮の死を口実に侵攻されたこともあった)にも仏舎利は持ち去られているということにも留意しなければならない。


高麗時代の通度寺の寺領

 高麗時代には寺領に関する史料は、『高麗史』や若干の金石文に頼らざるを得ないが、通度寺に関しては『通度寺事蹟略録』寺之四方山河裨補に詳細な記述がみられる。この部分は釈瑚によって泰定5年(1328)にまとめられたものとされている。

 それによると通度寺の四方に長生標七塔が設置された。長生標とは守護神祠・里程標・境界標などの機能をもつもので、寺領の界標の役目を有する。通度寺の長生標は3塔現存し、銘文がある。日本でいえば荘園等のボウ示を連想するとわかりやすい。通度寺の長生標の塔数は時期によって異なり、後には12塔まで増加したという。
 長生標には直干と称される者が、長生標の管理・保護・修理のために置かれた。通度寺は多数の長生標を寺領の四域に設置したため、塔ごとに10人ともいわれた長干は100名以上になるまで増加した。直干は寺院より家代田を給与され、また位田・位イ(「水」の下に「田」。UNI7553。&M074007;)も給与されて生活の基盤を確保していたという。

 長生標によって示された通度寺の寺領は周囲47,000歩の広大な区域であった。その領内には通度寺の他、祖日房・慈蔵房・月明房・赤房・呼応房・白雲房・穀成房・三千大徳房・一千僧衆房などの多くの属院、五以上の村落が存在した。通度寺の境内は現在でも広大ではあるが、高麗時代にはそれをさらに凌ぐ莫大な寺領を所有していたことが窺えるのである。通度寺寺域内の村落は、寺領内にあるものの、身分的に一般良民であり、通度寺との間に強度な隷属関係にあったわけではないが、通度寺寺領の茶所である冬乙山茶所村は、身分的に下位にあり、同族集団が村落を形成して居住し、通度寺との間に強度な隷属関係にあったという。茶は寺院の儀礼上欠くべからざるものであることから、通度寺では茶所である冬乙山茶所村を設置し、所民に茶を栽培・製造させて通度寺に貢納させていたのであった。

 通度寺の寺領内に居住する僧侶には修道僧と雑役僧の区別があり、修道僧は「一千僧衆」と称され、布川洞に庵をかまえて居住して朝夕ごとに寺を往来し、通度寺戒壇の仏舎利・仏袈裟を礼拝し修道に勤めた。これに対して雑役僧は「三千大徳」と称され、別途の住居に住みながら築石大川等の役に動員されるだけではなく、規則に違反した場合には寺院境内より追放されたという。この「一千僧衆」と「三千大徳」が実数としての1,000人+3,000人=4,000人であるかどうかは不明であるが、20世紀初頭の通度寺には700人の僧侶が居住していたということから、寺領規模が絶頂期であった高麗時代の通度寺に居住した僧の人は相当な人数にのぼったであろうと思われる。


指空の通度寺参詣

 高麗朝における通度寺の事績として、通度寺に指空が参詣したことがあげられる。

 指空は諱は禅賢。提納薄陀(Dhyana-bhadra)ともいい、指空というのは号である。インドの摩竭提国王の子で、八歳の時に出家し、那蘭陀寺(ナーランダー)にて学び、十九歳の時に南インドの楞伽(ランカー)国の吉祥山頂音菴に詣でて普明(サマンタ・プラバーサ)のもとに参禅した。中国に赴き、元の泰定年間(1324〜28)に元の順宗に謁見し、仏法を論じた。泰定四年(1327)、元を去って高麗に向かい、金剛山法起道場に住居した。天暦元年(1328)、勅旨があって元に燕京(大都)に戻り、仏法を内庭にて文宗に講じた。のちに蜀に去り、さらに雲南に到った。のちに再び大都に戻った。至正23年(1363)11月20日に貴化方丈にて示寂した。

 指空の高麗滞在は1年半にすぎなかったが、多くの足跡を残している。泰定4年(1327)10月には乾洞寺に滞在し(『益斎集』重修乾洞寺記)、翌天暦元年(1328)5月には延福亭にて戒を説いている(『高麗史』巻35、世家第35、忠粛王15年夏5月辛未条)

 その足跡の一つに通度寺を参詣したことが『通度寺事蹟略録』西天指空和尚為舎利袈裟戒壇法会記に記されている。
 それによると、泰定丙寅(1326)の春に、都に到り、時の人は「達磨来たる」といった。上は公侯より庶民まで、喜び躍らない者はなく、先を争って礼拝し、指空の説戒の法を聞いた。みな正信を発し、ますます薫腥を絶った。指空は本師(釈迦)の袈裟・舎利を見ようとして、この年仲春に通度寺に到った。この時、通度寺の門は壊れていたが、私銭を喜捨して日を経ずして修復したという。方々の僧侶百千人ほどを招集され、指空はここで禅や戒の講義を行った。指空は重ねて戒壇に上がり、袈裟・舎利に頂戴して衆に、「本師(釈迦)の衣はすでに半ばボロ布となり、本師の身(仏舎利)はすでに半ば露出している。わたしはこれを見るのに忍びないので、着ている布衣を捧げたい」といい、これで仏袈裟を補綴して通度寺を去ったという。

 この説話を忽消谷快夫『朝鮮禅教史』(春秋社、1930年09月)252頁では「恐くは後人の作ならん。」としているが、『通度寺事蹟略録』をまとめた釈瑚は一度指空に会ったものの、一蹴されている(『益斎集』送大禅史瑚公之定慧社詩序)という経験があるため、指空が通度寺戒壇の仏舎利・仏袈裟を見たという記述は信のおけるものかもしれない。


通度寺仏舎利の流転

 通度寺の仏舎利・仏袈裟が金剛戒壇より流失するということは先に述べたが、高麗末期になるとそれが頻繁に行われるようになっていく。通度寺金剛戒壇の仏舎利は国王・太妃やその寵臣といった王権そのものか、それに近似するものの手、あるいは内心の要請によって通度寺金剛戒壇より離れていくのである。また高麗末期における通度寺の仏舎利は、通度寺金剛戒壇より離れた場所での見在記録が多いのである。

 至正22年(1362)6月に、恭愍王は俗離寺(法住寺か)に行幸して、通度寺所蔵の仏舎利・仏袈裟をみている(『高麗史』巻40、世家第40、恭愍王11年6月丁亥条)

 また通度寺金剛戒壇に納められていた仏舎利が松林寺に納められたという記事が李得芬が李穡に委託して記させた「梁州通度寺釈迦如来舎利之記」(『牧隠文藁』巻3。および『東文選』巻73、記)にみえる。内容を要約すると、
「月松は乙卯(1375)の年より、通度寺の住持となっていたが、丁巳歳(1377)4月、倭寇が通度寺を襲撃して、舎利を得ようとしたため、月松は仏舎利の函を背負って逃げ隠れた。洪武12年(1379)閏5月15日、通度寺に倭寇が襲撃し、月松は再び仏舎利の函を背負って通度寺の後ろの丘に登り、草むらに隠れた。倭寇がそのことを聞いて、“住持はどこだ。舎利はどこだ”と寺奴を拷問した。すると急に空が黒くなり雨が降って止まなかったため、倭寇は月松を追うことがなかった。月松は山をこえて彦陽に到り、その翌日に寺奴にあい、泣いて通度寺に戻ろうとしたが、倭寇は通度寺を占領したままであり、また通度寺新住持が任命されて月松の居場所がなくなってしまった。
 宦官の李得芬は微病のため自邸で臥せっていたが、仏舎利が自邸に来たことを聞いて“舎利がわが家に来たのか”と飛び上がって驚喜あまり病気は回復した。ただちに宮中に仏舎利を運び入れようとしたが、たまたま張氏の謀叛事件のため、果たされなかった。1ヶ月後、睦仁吉らは主上(国王)・太后謹妃に奏上して、みな礼拝した。太后は仏舎利の函に銀盂と宝珠を施し、朴乙生に命じて松林寺に安置させた。
 李得芬は再び松林寺にて落成会を設けた。国中の檀越・貴賎・智愚を問うことなく、大挙してやってきて仏舎利に祈ったところ、李得芬は3枚を得た他、永昌君瑜は3枚、尹桓は15枚、檜城君黄裳の夫人趙氏は30余枚、天磨山の諸僧は3枚、聖居山の諸僧は4枚を得た。月松もたまたま檀越の中にいて、月松自身も仏舎利を得て去ったが、月松は仏舎利が通度寺のものであったということは全く知らなかった。
 明年6月19日、李得芬はわたくし李穡に語っていうには、“かつて江南の牢獄に入れられ拷問されている時、生還することを願っていたが、心の中で本国の名山に礼拝しており、通度寺は目の前に実在するのも同じであった。生還することができて、わたしは自分自身に命じて、獄中に心の中で行った場所に参詣した。通度寺に至ると、仏舎利を乞い、6枚を得ることができた。
仏舎利が通度寺にあるのは新羅善徳大王の時代より我が国に入ってからまさに500年になろうとしているが、いまだかつて一度も松京(開城)に通度寺の仏舎利が来た事はなかった。主上殿下が臨御して私も末席を汚したが、月松師は仏舎利を奉って来た。これは偶然ではないことは明かである旨を主上(国王)に奏上した所、主上は“李穡にそのことを詳細に書かせなさい”と仰せになったので、私がここに来たのだ。”」とある。

 慈蔵が請来した仏舎利は皇龍寺九層塔・太和寺の塔・通度寺の戒壇に納められていたが、この時期になると皇龍寺の九層塔は焼失し、恐らくは太和寺も、一然が「古記には100枚を3所に分蔵したとあるが、今ではただ4枚だけになってしまった。」(『三国遺事』巻3、塔像第4、前後所将舎利)と述べていることから、高麗末期には存在しなかったと思われる。つまりのところ、慈蔵の請来した仏舎利は通度寺金剛戒壇に納められている以外はすべてなくなってしまったということになり、このことから、通度寺の仏舎利の価値は相対的に上昇した。その一方で、戒壇自体は顕宗9年(1018)に、開国寺の塔の法会を行い、舎利を安置し、戒壇を設けて僧3.200余人を度している(『高麗史』巻第4、世家第4、顕宗9年閏4月是月条)ほか、靖宗2年(1036)には、4子に1子の割合で出家を許したが、この時、「霊通・嵩法・普願・桐華等の寺の戒壇に業するところの経・律を試せよ」と詔している(『高麗史』巻第6、世家第6、靖宗2年5月辛卯条)ことから、戒壇は開国寺・霊通寺・嵩法寺・普願寺・桐華寺にも設けられていることがわかり、通度寺戒壇の地位は相対的に低下している。この慈蔵請来の仏舎利の価値上昇と、通度寺戒壇の価値低下は、先に述べた外寇や叛乱や災害に際して住僧が戒壇より持ち出したり戻したりしていることが頻繁となるのと相俟って、流出自体が珍しいことではなくなっていったようである。そのことの要因として、通度寺が倭寇の襲撃とは必ずしも無縁の存在でなかったことを前述したが、倭寇の襲撃のため松林寺に避難・保管していた通度寺の仏頭骨舎利と『菩提樹葉経』を洪武29年(1396)2月22日に人を遣わしてこれを取らせている(『太祖実録』巻9、太祖5年2月庚戌条)ように、通度寺に返還されるものもあった。建文元年(1399)に4日間もの間、慶尚道の海水のうち蔚州より東莱にいたるまでの長さ30里、広さ20里が赤く血のようになり、魚がことごとく死ぬ事件が起こっている。人は天狗星が海中が堕ちたためにおこったと噂した。そのため8月6日に定宗は命じて道場を通度寺に設置してこれを祓わせている(『定宗実録』巻2、定宗元年8月癸卯条)。この赤潮のような天変地異で通度寺が除災祈祷を行っている。

 李朝の国王である太宗(位1400〜18)は、徹底した崇儒排仏政策を実施し、永楽四年(1406)3月27日には曹渓宗・惣持宗はあわせて70箇寺、天台・疏字・法事宗はあわせて43箇寺、華厳・道門宗はあわせて43箇寺、慈恩宗は36箇寺、中道・神印宗はあわせて30箇寺、南山・始興宗はそれぞれ10箇寺の、全国合計242寺を残してすべて廃寺とし、寺領土は収公するという暴挙を行った(『太宗実録』巻第11、太宗6年3月丁巳条)。結果寺僧は住むところがなくなってしまった。通度寺は名刹であったことから幸いにもこの淘汰から逃れることができた。永楽5年(1407)12月2日、議政府(李朝の最高中央行政機関)は残存する名刹をもって諸州の寺院の代用としたが、そのうち梁州の曹渓宗僧侶は通度寺に身を寄せることと決定された(『太宗実録』巻14、太宗7年12月辛巳条)。さらに永楽22年(1424)4月5日には曹渓・天台・惣南の三宗を統合して禅宗とし、華厳・慈恩・中神・始興の四宗を統合して教宗としたように、朝鮮全土の宗派を二宗派のみに限定し、さらに全国で存続を許された寺院は禅宗18、教宗18の合計わずか36箇寺とした(『世宗実録』巻第24、世宗6年4月庚戌条)。このときついに通度寺も廃寺となってしまった。しかし極端な廃仏政策は世宗の薨去とともに終結し、通度寺も復興した。

 天順7年(1463)6月15日、通度寺住持徳寛と梁山郡郡事羅裕善は世祖に舎利を献上した。議政府は世祖に上表して賀を奉った。そこで世祖は教を下して強盗の以外の罪を赦す恩赦を命じた(『世祖実録』巻30、世祖9年6月癸酉条)。このように通度寺の舎利信仰は李朝においても継続され、現在にいたっている。

 通度寺は現在、五台山中台(上院寺)・鳳頂庵・法興寺・浄厳寺とあわせて韓国五大寂滅宝宮に数えられている。寂滅宝宮とは、仏舎利を安置した殿閣であるが、五大寂滅宝宮は慈蔵請来の仏舎利が納められた皇龍寺・太和寺・通度寺を淵源として、通度寺に月精寺・大屯寺・五台山中台(上院寺)・鳳頂庵・法興寺・浄厳寺が増減されて現在の五大寂滅宝宮となったという。五大寂滅宝宮は韓国における仏舎利信仰の拠点であるが、中国五台山文殊信仰が釈迦舎利信仰として韓国仏教化したものとされている。


文禄・慶長の役における通度寺回禄と松雲大師の復興

 豊臣秀吉の文禄・慶長の役は朝鮮半島の寺院の大半を湮滅に追いやった。通度寺もまた例外ではなく、いつ頃か焼失してしまった。焼失の時期については諸史料とも万暦20年壬辰(1592)とするが、これは文禄・慶長の役の始年であって、必ずしも通度寺焼失の年月が反映しているわけではない。

 この時の通度寺金剛戒壇の仏舎利の行方について、2説がある。
 一つは『娑婆教重釈迦如来霊骨舎利浄図碑并序』の説で、要約すると、「泗溟大師(松雲大師)惟政は義僧将であったことから、仏舎利は完うすることができた。しかし後には危険が及ぶかもしれないと仏舎利を密かに大小の2函に入れて、これを金剛山の休静(清虚禅師)に送った。休静は手紙で“金剛山は南に賊がせまっていて、東にも海があるため万全の所ではない。(仏舎利は)通度寺が勝地であることから文殊が(安置するよう)命じた場所である。(中略)もとのように通度寺の戒壇に戻すべきである。”といって、2函のうち1函を惟政に返却してきた。」というものである。
 もう一つは『通度寺創剏由緒』の説で、要約すると、「通度寺金剛戒壇が焼失した際、東莱玉白居士は日本軍の被虜となったが、刷還されたのか通度寺の仏舎利とともに戻ったが、通度寺は焼失した後であったため、仏舎利を安置することができなかった。万暦31年(1603)に惟政が門人敬岑・泰然・道淳等に命じて、通度寺を再建させた。」という。

 双方の説話とも、松雲大師惟政(1544〜1610)が関連するのである。惟政に仏舎利の入った函を送られたとされる休静(1520〜1604)は、日本軍の侵攻のあった万暦20年(1592)7月に朝鮮国王によって八道一六宗都総摂に任命され、僧軍を編成させた際、弟子の惟政は副総摂に任命されたという関係にある。惟政自身は義僧将として多い時には2〜3,000人を率いて各地を転戦した。慶長の役の時の惟政の義将僧としての主な活動先は、日本軍の加藤清正の行動地域であった。いわゆる義兵の攻撃に業を煮やした日本軍は焦土作戦を採り、寺院はもちろん民屋にも放火した。通度寺がどの段階で焼失したかは不明であるが、おそらくは慶長の役の時であろうかと思われる。惟政は戦地にて加藤清正と4度にわたる会談を行っており、その剛胆さは加藤清正によって大いに賞賛された。戦役終了後、日本に赴き、李朝と徳川幕府の間に国交回復の交渉を行い、被虜1,391人を刷還した。こうした一連の惟政の活動は、その没後には胆力と神通力を持ち合わせた希有な僧侶である松雲大師像として形成され、李朝において小説『壬辰録』のなかに伝説的英雄となり誇張されて記述されることとなった。通度寺の仏舎利や復興に関する記述に惟政が登場するのは、こうした英雄としての仮託説話ではないとはいいきれない。被虜人が刷還されるとともに仏舎利が戻るという『通度寺創剏由緒』の説話は、惟政がはじめて被虜人を大規模に刷還させたこととも関連しそうである。
 『娑婆教重釈迦如来霊骨舎利浄図碑并序』の年紀には「崇禎甲申後六十三年丙戌」とあり、これは明が滅亡した崇禎17年(1644)の63年後の1706年という意味である。李朝が清の冊封体制下にあったのであるから本来は康熙45年の表記となるはずであるが、日本軍の朝鮮出兵によって李朝は明に対して、援軍が王朝を滅亡より救った恩義が理念的に強調され(再造の恩)、崇明意識高まり、またそれは明が漢民族ではない清に変わられた後、夷狄の支配によって汚れた中国には中華の文明が消滅し、中華文明の正統な体現者であった明の正統な後継者は朝鮮であるという、小中華意識が台頭したことによるものである。『通度寺創剏由緒』は、朝鮮併合後の明治43年(1910)であるが、惟政関係の説話は崇徳7年(1642)9月に開刊した『通度寺事蹟略録』跋の影響を受けている。それによると、仏舎利は通度寺金剛戒壇より失われたが、何らかの形で戻り、惟政が門下に通度寺を復興させたというものである。これを見る限りでは、惟政は何らかの形で通度寺再興に関わったということは間違いなさそうである。

 金剛戒壇の手前に位置する大雄殿は順治元年(1644)か順治2年(1645)に再建されたものである。合閤の墨書に「順治二年甲申十一日立柱、同年八月初十日上梁、同年八月十八日椽、匠工二十余名上梁後十四名造練者」とあるように「順治二年甲申」とみえる。「甲申」は順治元年(1644)にあたるから、年号か干支のいずれかが誤記入である。大雄殿の丹青(塗装工事)は2年後の丙戌年(1646)に完了したことが墨書にしめされている。大雄殿は南面しており、桁行3間、梁間5間で、屋根は丁字形の特異なものとなっている。後壁は金剛戒壇を拝めるよう壁でふさがずに戸を設けて開閉できるようにした。

 朝鮮半島の寺院は塔・金堂・講堂を南北一直線に配置し、その周囲を廻廊が囲むのが普通であるが、通度寺は金剛戒壇が本堂(大雄殿)の裏に配置され、大雄殿・大光明殿・霊山殿といった主要堂宇以外は乱立するといった特異な伽藍配置を有している。


[参考文献]
・高楠順次郎「梵僧指空禅師伝考」(『大日本仏教全書』116)
・忽消谷快夫『朝鮮禅教史』(春秋社、1930年09月)
・横超慧日「戒壇について(上)」(『支那仏教史学』5-1、1941年6月)
・横超慧日「戒壇について(中)」(『支那仏教史学』5-2、1941年8月)
・旗田巍「通度寺の『事蹟記』について」(『朝鮮学報』61、1971年10月)
・武田幸男「高麗時代における通度寺の寺領支配」(『東洋史研究』25(1)、1966年07月)
・申栄勲編『「国宝」ー韓国7000年美術大系H寺院建築』(竹書房、1984年10月)
・林英正「高麗時代「随院僧徒」に関する金石文資料の検討」(『鷹陵史学』16、1990年7月)
・韓国文化財保護協会編『韓国文化財大観3 宝物1 木造建築(一般建築・寺院建築)』(大学堂〈丸善発売〉、1991年2月)
・北村高「共同研究 インド仏教伝播史の研究(1)―インド僧指空とその事蹟」(『龍谷大学仏教文化研究所紀要』33、1994年11月)
・仲尾宏・曹永禄編『朝鮮義僧将・松雲大師と徳川家康』(明石書店、2002年7月)
・尹張燮著/西垣安比古訳『韓国の建築』(中央公論美術出版、2003年12月)
・崔福姫「慈蔵と仏舎利-五大寂滅宝宮の成立を中心に-」(『仏教大学大学院紀要』32、2004年3月)


通度寺金剛戒壇(平成16年08月26日、管理人撮影) 



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