アユタヤ王宮跡



アユタヤ王宮跡(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)

 文字通り、アユタヤ王朝の歴代国王の宮殿跡です。

 ボーロマトゥライローカナート王(位1448〜88)は新王宮を王宮の北側に建設し、もとの王宮の敷地を用いてワット・プラ・シー・サンペットを建立したといいます。

 オランダ東インド会社のファン・フリート Jeremias van Vliet(1602〜63)は自身の著作『シアム王国記』の中で、アユタヤの王宮について以下のように記しています。

 「国王の宮殿などを建設する際の残酷な供犠 国王はこのような権威をわがものとしており、またシアム(タイの古名)の宮廷は阿諛と追従に満ち満ちているので、これまでの歴代の国王の尊大さも非常なものであった。従って国王は社会のためのものではなく、国土と社会全体が国王のためのものであるかのようになった。このため国王はその臣下をあらゆる点においてほとんど無視し、しかもその度合いが甚だしいために、国王のために宮殿や建物や、住宅や休息のための場所をたてる際には、地面に立てる柱の一本一本ごとに、その下に妊婦を一人ずつ埋める。その場合、彼女が臨月に近ければ近いほどよいのである。このため国王の宮殿、もしくは住宅が建設されたり、あるいは修理されたりする場合、しばしば非常に大きな悲しみが、とくにユディア(アユタヤ)市のいたるところで見られる。というのは、シアムではあらゆる家屋は地面に柱を立てて、その上につくるので、多くの女性がこの苦しみをなめるからである。
 犠牲に関するこの記述は空想であるかのように思われるかもしれないが、これは真実のことであって、しかもかれらが非常に迷信深いために、しばしば行なわれるのである。その原因となっているのは一つの幻想である。つまり前記の女性たちはその死後おそろしい怪物、もしくはおそるべき悪魔に変身するので、彼女たちが柱の下に埋められると、その柱ばかりでなく、建物全体を不幸からまもると信じられているのである。
 国王がなにか建築工事を行なおうとする時には、彼は数名の半奴隷を派遣して街路を歩かせ、妊婦をみな手当たり次第に捕えさせる。そして路上でみつけることができなかった場合に限って、家の中から妊婦を引き立てることがゆるされる。捕えられた妊婦は宮廷の王妃のところに連行され、監視され、あたかも身分の高い女性であるかのように、鄭重な待遇を受ける。彼女たちはそこで数日を過ごしたのちに、(ひどい言いかただが)腹を上にして生きながら穴に投げこまれ、直ちにそこに柱が立てられ、その身体を貫通する。」(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』〈岩波書店、1988年7月〉112-113頁より一部抜粋)。

 1767年にアユタヤが陥落すると、アユタヤはビルマ軍によって破壊・略奪され、王宮もまたその憂き目にあいました。ビルマ軍を撃退して新王朝を築いたタークシン王(位1767〜82)やラーマ1世(位1782〜1809)はアユタヤを復興することはなく、ついに都としてのアユタヤは放棄されました。ラーマ1世は新都バンコク建設のため、荒廃した王宮の資材をチャオプラヤー川から船でバンコクに運んだため、王宮跡は地表にわずか数pみえるだけであったといいます。1975年から1981年にかけて王宮、ワット・プラ・シー・サンペット、ワット・マハータートワット・ラーチャブラワット・プラ・ラームなどに一貫性のある保存措置がとられました。






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