ウィーン07 赤いはりねずみ跡



093ホテルアマデウス(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 このホテルアマデウスは今では宿泊施設ですが、ブラームス第三の「聖地」といえる場所なのです。

 ここには19世紀に「赤いはりねずみ」という食堂があり、ブラームスはここの常連、というよりほとんど毎日通って食事をしていました。後に取り壊されてしまい、ホテルアマデウスが建っているのです。

 かつて、この通りを挟んだ裏側には楽友会館があり、ブラームスは楽友会館に通っては裏側の「赤いはりねずみ」で食事をし、自宅のあるカールスガッセに帰るという生活をしていたようですが、1870年に楽友会館が自宅のすぐ傍に移転してきたにも関わらず、「赤いはりねずみ」に通う習慣がそのまま続いたようです。

 彼の弟子グスタフ・イェンナー Gustav Uwa Jennner(1865〜1920)は以下のように回想しています。
 「夜、コンサートやオペラの後では、仲間たちが申しあわせたように「はりねずみ」にやってきた。ロッテンベルクは常連。カルベック、ドール、ブリュル、その他ウィーンの音楽家たちも合流した。ブラームスは新人を連れてきては「はりねずみ」の良さを上機嫌で講釈。大人数になると無口になりがちなブラームスも、ここでは罪のないジョークを飛ばしたり、愉快な話をしていた。ブラームスはつねづね「はりねずみ」はウィーンで最も格安なレストランと主張していた。おいしくて安いものを注文するコツを知っていたのだからそう言うのも当然だ。」(天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集3 ブラームスと私』〈音楽之友社、2004年10月〉225頁)


 ブラームスと親しかった音楽家にして評論家ホイベルガー Richard Heuberger(1850〜1914)も以下のように語っています。
 「これはその昔、カルベックがブラームスと一緒に「はりねずみ」に行った時の話。カルベックが、出てきた料理がぱっとせず、メニューも少なすぎると怒った。ブラームスは、それなら今度は高級レストランで食事しようと提案する。そしてある日、二人は別のレストランで会った。カルベックは自分の前に置かれた献立表を手にとり、メニューが多いと感心していた。ブラームスは大笑い。彼は「はりねずみ」の献立表を、前の日にこっそり持ってきてテーブルの上に乗せておいたのだ」(天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集2 ブラームスは語る』〈音楽之友社、2004年6月〉216頁)


094ホテルアマデウス(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 ホテルアマデウスを南に歩くとペーター教会に到着します。


095ペーター教会(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 792年頃にカール大帝によって建立されたという伝説があるこの教会は、少なくとも12世紀には確実に存在していたようで、現在の建物は1661年に焼失した後に再建されたものの、ヒルデブラント Johann Lukas von Hildebrandt(1668〜1745)の設計によりバロック様式に改造されて1722年に完成しています。


096ペーター教会(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)



097ペーター教会内部(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 天井には1714年にロットマイヤー Johann Michael Rottmayr(1656〜1730)によって描かれたフレスコ画があります。


098ペーター教会天井(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 ペーター教会を南に行くと、ウィーン市内でも最も広い通りであるグラーベンにあたります。ここにはペスト記念柱があります。


099グラーベンのペスト記念柱(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)



100ペスト記念柱(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 グラーベンからドロテーアーガッセを南に行くと、シュタルブルクガッセと交差するところで、ブラームス第四の「聖地」であるエヴァンゲリスト教会が見えます。


101エヴァンゲリスト教会(黄色の建物)(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 1897年4月3日に亡くなったブラームスは、4月6日に葬儀が行われ、葬列は自宅があるカールスガッセからエヴァンゲリスト教会まで進み、合唱礼拝が行われた後、遺体は墓所まで運ばれています。

 ブラームスの葬儀が、自宅の近所にあるカールス教会ではなく、エヴァンゲリスト教会で行われた理由は、ブラームスはプロテスタントであったからで、カトリックが大半を占めるウィーン市民の中では異色(といってもブラームスは元は北ドイツのハンブルク出身)でした。そのため最も近くにあるプロテスタント教会であるエヴァンゲリスト教会にて葬儀が行われたのです。

 再度ホイベルガーの言。
「葬列はブラームスの家から楽友協会を経由し、プロテスタント教会まで進んだ。われわれはドヴォルジャーク、ミュールフェルトその他の人々と前後しながら歩いた。」(天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集2 ブラームスは語る』〈音楽之友社、2004年6月〉214頁)


102エヴァンゲリスト教会(左の黄色の建物)(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 エヴァンゲリスト教会は1783年に建立された、ウィーンでは比較的新しい教会です。

 ウィーンを首都としたオーストリア帝国、およびその前身の神聖ローマ帝国はカトリック教国であり、「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉に示されるように、カトリックは不可分の国是でした。そのことは三十年戦争でカトリック側の宗主国として、プロテスタントの国々と死闘を繰り広げたことでもうかがえます。しかしヨーゼフ2世(位1765〜90)が1781年10月に寛容令を公布してカトリック以外の信教の自由が認められたため、ようやくウィーンにもプロテスタント教会が建立できるようになったのです。


103エヴァンゲリスト教会(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)

 ドロテーアーガッセからドゥルヒガングに向かいます。

 この通りは骨董店が並んでおり、抜けるとミヒャエル広場に出ます。広場の向こう側には壮大なミヒャエル門がみえます。


104ドゥルヒガング入口(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)



105ドゥルヒガング(平成25年(2013)12月27日、管理人撮影)



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