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3月も半ばのことだったでしょうか…?
勤務先の回覧(メールでないところが前近代的)に以下の文句がありました。
「4月の10日前後からタイに旅行することが決定いたしました。」
というわけで突然ですがタイに行くことになりました。
旅費はツアーなので、実家に帰る片道分の負担で行くことができました。そこでアユタヤの寺院を中心にまわることにしたのですが、さて問題は準備まで一月ほどしかないこと。
いろいろ文献をあたってはみたのですが、準備期間が短いため、ほとんど調査ができず、しかも私はタイ語ができないので、「典拠についてはなるべく出典を明示する」という「本朝寺塔記」の方針から逸脱せざるを得ません。
タイは日本人観光客が年間130万人も訪れる国でありながら、タイに関する文献は偏りがあり、たとえば歴史書に関していえば、『アユタヤ王朝年代記』の諸本には英訳として、Richard D.Cushman and David k.Wyatt eds.,THE ROYAL CHRONICLES OF AYUTTHAYA.Bangkok:The Siam Sosiety,2006がありますが、日本語訳はわずかにファン・フリート本『アユタヤ王朝年代記(『シアム王統記』)』(生田滋訳『オランダ東インド会社と東南アジア(大航海時代叢書U−11』岩波書店、1988年7月)があるにすぎず、他に日本語訳のある歴史書には『ソンクラー国年代記』(黒田景子「ソンクラー国年代記訳注(上)」『南方文化』12、1985年。同「ソンクラー国年代記訳注(下)」『南方文化』13、1986年)がある程度にすぎず、仏教関係の史書に至っては皆無といった状況です。
一方隣国のミャンマーについていえば仏教史書の翻訳は『サーサナヴァンサ』(生野善応『ビルマ上座部仏教史―『サーサナヴァンサ』の研究』山喜房仏書林、1980年)や『タータナー・リンガーヤ・サーダン』(池田正隆『ミャンマー上座仏教史伝― 『タータナー・リンガーヤ・サーダン』を読む』法蔵館、2007年11月)の二書がなされており、日緬両国の交流が必ずしも活発であるとはいえない状況下でかなり善戦しているといえるものです。また未完となってしまいましたが、かつて故荻原弘明氏による『マンナン・ヤーザウィン』の日本語訳が『鹿児島大学文科報告』にて連載されていました。
日本とタイが交流が活発であり、また観光客の多くが仏寺を訪れるという状況下で、石井米雄『タイ仏教入門』(めこん、1991年)や青木保『タイの僧院にて』(中央公論社、1979年)といった優れた概説書がありながら、基本的史書の翻訳がなされずにいては、その国の人々の古典的価値観や事実に対する相対的認識といったことを知ることが難しくなってしまいます。当然、文献学的にいえば、より原典に近いものを読むのが正しい、ということになるのですが、一方でタイ語は日本国内では使用人口が少なく、ましてや古典にいたってはほとんど稀ともいえるでしょう。そのような中でタイに関心をもった日本人は、言語の壁に阻まれ、それ以上の関心を持つことが無く、タイに対して(タイのみならず他の国でも同様ですが)オリエンタリズム的印象のみが残るといった事になる可能性があります。
準備期間の短かさと、日本語文献の過少をいいわけにするわけではありませんが、これまでのような「典拠についてはなるべく出典を明示する」という方針を堅持できないので、この「タイ・アユタヤの寺院」については、「本朝寺塔記」の中の番外編としました。
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アユタヤ市街(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)
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アユタヤは、タイ王国の首都バンコクから北に80km、バスで1時間半ほどのところに位置する街で、チャオプラヤー川河畔に中洲となって浮かんでいます。チャオプラヤー川は東南アジア有数の大河で、この川水によって湿地帯を形成し、農業用運河が掘られ、世界でも有数の稲作地帯に発展しました。チャオプラヤー川下流域に位置するアユタヤは、物資の集積地となり、またここから多数の物資を海より他国に輸出して、莫大な利益を交易によってなしとげました。
アユタヤは1351年にラーマーティボーディー1世がスパンブリーより遷都したのにはじまるとされています。初期のアユタヤは、「アヨードヤ」と呼ばれており、スパンブリーとロップリーのムアン(国家)と呼ばれる地方勢力を基盤としていました。そのため、自然王権は両地の太守らによって脅かされ、あるいは争われ、それが克服されると15世紀には東南アジア大陸部最大の政治勢力であったアンコール帝国を攻撃して崩壊させました。アンコール帝国攻撃によって得た捕虜は、行政官吏・職人など多くの分野にわたり、アユタヤに多大な影響を与えました。また北部のスコータイ王朝を屈服させて内陸部の河川交通と農地生産物などを一手に握り、王室が独占して他国と貿易する体制が現出しました。この時、中国や東南アジア諸国、日本、琉球、ポルトガル、オランダなどと交易していました。
アユタヤは1569年にビルマ軍の攻撃を受けて一旦滅亡します。その後復興しましたが、1767年再度ビルマ軍の攻撃を受けて滅亡。アユタヤは徹底的に破壊され、以後タイの中心となることはありませんでした。
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アユタヤを流れるオールド・ロップリー川(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)
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タイでは上座部仏教が盛んに信仰されています。ドヴァラヴァティ時代には上座部仏教が信仰されていましたが、クメール帝国の支配下にある時代には、大乗仏教やヒンドゥー教などの影響下にありました。その後スコータイ王朝は上座部仏教を取り入れ、アユタヤ王朝もまた上座部仏教を信仰したため、現在に至っています。
1361年にはスリランカから大寺派の教えを国家的宗教として迎え入れ、パーリ語の経典や儀軌を請来しました。国王は「仏教の守護者」であることが王権の正統性を示すものとされ、歴代の国王は多くの寺院を建立したため、アユタヤにおいて仏教は隆盛を極めました。結果1750年には逆にスリランカにタイの仏教が伝来し、スリランカ最大の宗派シャム・ニカーヤ派の始源となったことは、スリランカの年代記『小王統史』などにみえます。
アユタヤは1767年にビルマ軍の攻撃を受け、長期間にわたる包囲戦の後陥落。徹底的に破壊され、廃墟と化しました。その後長らく放棄されて密林の中に埋もれていましたが、1975年から遺跡の保存のため王宮を中心とした寺院群に修復と保護が行なわれました。
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アユタヤの僧たち(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)
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アユタヤの廃墟寺院は著名なワット・プラ・シー・サンペットをはじめとして多くの寺院があります。ワットとは「寺院」の意味です。これらアユタヤの寺院の建立時期は概ね3期に分かれるとされています。
第1期が1351年のアユタヤ建国から1488年までで、クメール様式のプラーン(塔状祀堂)を中央に鎮座し、その前後にヴィハーン(礼拝堂)、ボート(戒壇堂)を配置するものです。この時期の寺院としてはワット・マハータート、ワット・ラーチャブラナ、ワット・プラ・ラームなどがあります。
1488年から1629年までの第2期には、プラーン(塔状祀堂)にかわってスリランカ様式のチェディー(仏塔)が主流となりました。チェディーは釣鐘形の覆鉢を有したもので、アユタヤによるスコータイの併合が移入のきっかけになったとみられています。ワット・プラ・シー・サンペットがその代表格になります。
第3期が1629年からアユタヤ滅亡までの1767年で、チェディー(仏塔)にかわって再びプラーン(塔状祀堂)が中心堂塔となりました。ワット・チャオワッタマーラームがその代表的なものですが、チェディーも細かく几帳を切ったものが好んで建立されました。アユタヤ時代の寺院は、スコータイ時代のものよりも巨大化し、ヴィハーン(礼拝堂)やボート(戒壇堂)もかなり規模が大きくなりました。これらの建築は前後に突出部を設けた妻入の切妻造が中心で、下部は煉瓦造、上部は木造となっています。ヴィハーン(礼拝堂)の例としては、上部構造は再建ですが、ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピットがあり、ボート(戒壇堂)の例としてはワット・ナープラメーンのボート(戒壇堂)(写真下)が古例を継承するものとして貴重です。
今回は自転車でまわったのですが、暑さでばててしまったので、中心部の以下の寺院のみです。
・ワット・プラ・シー・サンペット
・ワット・マハータート
・ワット・ラーチャブラナ
・ワット・プラ・ラーム
・ヴィハーン・プラ・モンコン・ボピット
・アユタヤ王宮跡
[参考文献]
・伊東照司『タイ国美術』(雄山閣、1987年7月)
・石澤良昭・生田滋『世界の歴史13 東南アジアの伝統と発展』(中央公論社、1998年12月)
・石井米雄『タイ近世史研究序説』(岩波書店、1999年11月)
・石井米雄・桜井由躬雄編『新版世界各国史5 東南アジア史1大陸部』(山川出版社、1999年12月)
・肥塚隆編『世界美術大全集 東洋編12・東南アジア』(小学館、2000年12月)
・布野修司編/アジア都市建築研究会執筆『アジア都市建築史』(昭和堂、2003年8月)
・石井米雄責任編集『岩波講座東南アジア史 第3巻 東南アジア近世の成立』(岩波書店、2001年8月)
・石澤良昭責任編集『岩波講座東南アジア史 第2巻 東南アジア古代国家の成立と展開』(2001年7月)
・『週間ユネスコ世界遺産80 アユタヤと周辺の歴史地区』(講談社、2002年6月)
・長谷川由紀夫・後藤幸三『東南アジア建築逍遥』(鹿島出版会、2008年3月)
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ワット・ナープラメーンのボート(戒壇堂)(平成22年(2010)4月13日、管理人撮影)。同寺のボート(戒壇堂)は16世紀のアユタヤ王朝時代の造立例を受け継ぐもので、ビルマ軍の破壊から奇跡的にまぬがれた堂を、19世紀に建て直したもの。
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