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延慶寺跡付近(平成22年(2010)8月15日、管理人撮影)
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延慶寺はかつて中華人民共和国浙江省寧波市に位置した寺院で、天台浄土教の拠点として隆盛した大寺院でした。広順3年(953)に報恩院として建立されたのが始まりで、大中祥符3年(1010)に知礼(960〜1028)によって保恩院を改めて延慶院とし、紹興14年(1144)に延慶寺となりました。中国における天台宗および天台浄土教の中心地として、教院五山の第2位に数えられていました。現在では廃寺となり、旧寺地は現在寧波市仏教協会・観宗寺があります。
四明尊者知礼@ 〜前半生〜
延慶寺の前身は報恩院という寺院であり、後周の広順3年(953)に建立された(『宝慶四明志』巻11、叙祠、寺院、教院4、延慶寺)。この報恩院は後に知礼(960〜1028)によって天台宗最大の拠点の一つ、延慶寺となるのである。
中国において、天台宗は隋・唐代に盛行を迎えたが、五代十国の戦乱時代になると衰えるに到った。後晋の天福年間(934〜44)に義通(927〜88)が高麗よりやって来て、天台山螺渓院の義寂(919〜87)のもとにて学び、天台宗を修学し終わると帰国しようとしたが、明州(現寧波)の判(長官)であった銭惟治(949〜1014)が宝雲寺に引き留めて居住させた。この義通には二人の傑出した弟子がおり、まず一人が知礼であり、もう一人が遵式(960〜1032)であった。知礼は延慶寺にて天台宗の中興の祖となり、当時の人は四明尊者と呼び、また遵式は霊山の法席を担い、当時の人は天竺懺主と呼んだ(『四明尊者教行録』巻第1、序)。
知礼は建隆元年(960)に誕生している(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、建隆元年条)。この年は後周が禅譲により宋にとってかわられた年である。知礼は法諱であって、字は約言、のちに真宗より法智大師の号を特賜されているが、四明尊者の通称で知られていた。俗姓は金氏で、前漢の金日テイ(石へん+單。UNI78FE。&M024495;)(前134〜前86)の後裔であるとされた。父は金経、母は李氏といった(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、建隆元年条)。乾徳4年(966)、知礼7歳の時、母が没したため、知礼は号泣して止むことなく、そのため俗塵を嫌って出家した。父は怪しんだものの、知礼の志を制止することはできなかった。最初は太平興国寺の洪選の弟子となった(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、乾徳4年条所引、塔銘)。
開宝7年(974)、知礼は15歳で具足戒を受戒し、律部を学んだ(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、開宝7年条、塔銘)。太平興国4年(979)、知礼は20歳の時、宝雲寺の義通法師に従い、天台業観を伝えられた。最初の3日目にして首座は知礼に「法界次第をお前は奉持すべきである」といった。知礼は「何を法界というのですか」というと、首座は「大総法相、円融無礙なるものはこれである。」といった。知礼はさらに「すでに円融無礙なのに、何の次第があるというのでしょうか」というと、首座は答えに詰まってしまった。宝雲寺に居住すること1ヶ月、般若心経を講ずるまでになったが、人々はこれを聞いて、ただ驚くばかりであった(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、太平興国4年条、行業記)。
太平興国6年(981)、知礼は宝雲寺にいること3年、若干22歳で常に師の義通に代って講義をするまでになり(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、太平興国6年条、行業記)、端拱元年(988)、宝雲寺にて学ぶこと10年、ついに師義通が示寂した(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、端拱元年条)。淳化2年(991)知礼32歳の時、要請によって乾符寺の住持となった(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、淳化2年条)。
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1920年代の延慶寺大雄宝殿(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉95頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)
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四明尊者知礼A 〜延慶院の改修〜
至道2年(996)7月、保恩院院主の居朗と顕通が保恩院を喜捨し、知礼と異聞に与えて十方住持の寺院とした(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、至道2年条)。同3年(997)にも知礼は保恩院の再建事業に助力している。保恩院は建立から年月がたち、日に壊れていった。そこで知礼と異聞が力をつくして造立事業を行なった。たまたま覚円という僧が援助した。3年後に完成した。仏殿の後ろに僧堂を設け、右には経蔵を、左には方丈を造立した(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、至道3年条)。この保恩院こそが延慶寺となるのである。
咸平3年(1000)には日照りとなったため、知礼と遵式は光明懺を修した。祈雨は3日に及んだが降らなかったため、知礼が腕一本を燃やして仏に供えようと言うと、仏事が終わる前に大雨が降った(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、咸平3年条)。
咸平6年(1003)、日本国の僧寂照(962頃〜1034)が源信(942〜1017)の「天台教門致相違問目二十七条」を知礼のもとに遣わしており、知礼はこれに返答している(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、咸平6年条)。
寂照は俗名を大江定基といい、大江斉光(934〜87)の第3子で、早くから家業である官吏を務め、栄爵の後、三河守に任じられた。文章に長じており、彼の良句は人口に膾炙した。その後任国にて愛妻を失い、恋慕に耐えず葬送を遅らせてしまったがため、九想(死の変相)をみることになり、深く道心をおこしてついに出家し、法名を寂照とした。長年にわたって仏法を修行し、あるいは乞食の業を行ない、今生の事を物の数としなかった。如意輪寺に住んで、寂心(慶滋保胤、931頃〜1002)を師とした。師の示寂後、宋の清涼山(五台山)への渡海を申請し、許可された(『続本朝往生伝』大江定基伝)。景徳元年(1004)に真宗皇帝に謁見し、筆談によって会話した。真宗より「円通大師」の号と紫方袍を賜っている(『宋史』巻491、列伝第250、外国伝7、日本国)。寂照の入宋の目的は五台山の巡礼であったが(『百練抄』長保4年3月15日条)、それと同時に源信より「天台宗疑問二十七条」を有識の者に渡して回答を得るよう依頼されており、のちに寂照が源信に送った書状によると、「義目一巻」については天台宗の有識の者に会って回答を得ているから、おって送付する、と述べている(『楞厳院二十五三昧過去帳』寂照上人従宋朝送書)。その後丁謂(966〜1037)により帰国を引き留められて呉門寺に留まり(『参天台五台山記』巻第5、熙寧5年12月29日条)、長元7年(1034)杭州にて示寂した(『続本朝往生伝』大江定基伝)。寂照の影堂は蘇州報恩寺の普門院にあった(『参天台五台山記』巻第3、熙寧5年9月5日条)。
寂照はこのように知礼の返答を得ているため、知礼のもと、すなわち保恩院(延慶寺)に赴いた可能性がある。
景徳元年(1004)には『十不二門指要鈔』を撰述(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、景徳元年条)、同3年(1006)には錢塘の慶昭(930〜1017)に『十義書』を贈呈し(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、景徳3年条)、同4年(1007)にも慶昭に『観心二百問書』を贈呈した(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、景徳4年条)。
大中祥符2年(1009)保恩院の修造が終了した(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、大中祥符2年条)。大中祥符3年(1010)には保恩院を改めて延慶院とした。知礼は延慶寺を十方住持制の天台寺院とするよう明州府に申請書を提出している(『四明尊者教行録』巻第6、使帖延慶寺)。
宋代の寺院は基本的に全寺院が勅額を下されて官寺化しており、それ以外の寺院は管理対象から除外して廃寺としていった。そのため寺院という寺院はすべて勅額寺ということになり、勅額寺であるからといって特に大きな見返りや檀信徒を集めるのに有利であるというようなことはなく、勅額寺の価値は相対的に下落した。そのため新たな寺格として設定されたのが、十方住持制度である。この十方住持制度は、住持の選定を、前住持の弟子などの中から決めるのではなく、方々より名僧を選抜して一定期間住持させる制度である。この制度は前住持の門弟の中から決定する徒弟院制度よりも、より一層格式が高いとされていたため、知礼もまた延慶院を十方住持の寺院とするよう申請したのである。
明州府は同年7月に中央政府の中書省に知礼の申請書を上申したが、中書省からの返答が来る前に、知礼は弟子達の名義で8月11日に再度申請書を提出した。同年10月、真宗皇帝からの聖旨とともに中書省の箚子が下され、明州府はこれによって使帖を作成、延慶寺に伝達した(『四明尊者教行録』巻第6、使帖延慶寺)。
使帖の内容は、既存の他の十方住持制の寺院の様式に従うべきであるとするものであったが、知礼はその中に天台寺院としての十方住持制ではなかったことに不満を持ち、大中祥符4年(1011)4月に三度目の上申書を提出し、十方住持制の天台寺院であることを公文書に明記するよう明州府に求めた(『四明尊者教行録』巻第6、使帖延慶寺)。知礼は十方住持制度の寺格は求めながらも、十方住持制度がもつ他派からの名僧を招くということについては、天台宗の根幹に関わるものとみなしたのである。すでに知礼は他派の者が住持をした場合、講義・儀礼などが誤った方向になることを懸念しており(『四明尊者教行録』巻第6、使帖延慶寺)、いわば十方住持制度内に徒弟院制度を内包させることを求めたのである。
この前例のない申請に対して、明州府は僧官に問い合わせし、真宗皇帝からの聖旨・中書省の箚子はともに、知礼の要望と一致するとの返答を受けたため、同年7月17日に明州府より天台教法の十方住持寺院とする公文書である使帖が発給された。この時の使帖によって、延慶院の住持は、延慶院の学衆の中から僧衆・檀越らによって選出され、人がいない場合に限って他寺の者を住持とすることになったのである。知礼はこの公文書を石碑に刻んで後世に残した(『四明尊者教行録』巻第6、使帖延慶寺)。さらに大中祥符5年(1012)に知礼と異聞は「十方伝教住持戒誓辞」を撰述して碑文と、十方住持制をとる基本した(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、大中祥符5年条)。
大中祥符6年(1013)2月15日、念仏施戒会を始めた。知礼は前年10月に自ら疏文を撰しており、後代にも念仏施戒会において化導を薦める際に用いられたという。またその後念仏施戒会は少なくとも190年後にも継続して続けられていた(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、大中祥符6年条)。知礼による念仏結社については後述する。
大中祥符9年(1016)、法華懺法の修法を誓願し、3年後を法華懺法の満行とし、自身の身を焚いて法華経の供養とし、浄土に生まれることを誓った。このように知礼が焼身供養をしようしたことは世間の注目を集めたが、知礼に帰依していた官僚楊億(974〜1020)・李遵勗(?〜1038)の猛反対を受け、知礼との間で書簡による激論となった。楊億らは知礼の意志が固いとみるや、宰相寇準(961〜1023)に働きかけ、真宗より慰撫の詔書と紫袈裟を知礼に下賜させることによって、焼身供養を断念させた(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、大中祥符9年・天禧元年条)。さらに天禧4年(1020)に李遵勗は上奏して、知礼に法智大師の号を特賜させた(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、天禧4年条)。
天禧5年(1021)、真宗は知礼の名声を知り、兪源清を遣わして延慶寺に向わせ、法華懺法を修することを命じ、手厚い賜物があった。兪源清が法華懺法の趣旨を知りたがったため、知礼は『修懺要旨』を撰した(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、天禧5年条)。天聖元年(1023)4月、『光明拾遺記』を撰述した。天禧年間(1017〜21)の初め、真宗皇帝は天下に詔して放生池を設置した。知礼は真宗皇帝の意を広めるため、仏生期となるたびに衆を募って放生会を行った(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、天聖元年条)。
この年、知礼はある夜に夢で高貴な人が延慶院にやって来るのを見た。翌日、たまたま明州太守の曾会(生没年不明)の子がやってきた。はたして夢とおりであった。魯国宣靖公である。これによって楚国黄夫人(曾会の夫人)は荘園を設置して僧衆に供えた。また知礼は曾会に書簡を送って、延慶院の後園地の地を荘園にすることを許されるよう申請した(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、天聖元年条)。
このように延慶院の経営に関して、天聖4年(1026)には弟子僧を興国寺の請主とする辞令を発しており、延慶院と本末関係に近い寺院間の上下間が、知礼と弟子僧の間で存在していたことが知られる(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、天聖4年条)。天聖5年(1027)には『金光明文句記』を撰述している。これは智ギの『金光明文句』の注釈書であった(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、天聖5年条)。
天聖6年(1028)正月5日戌時(午後1時)、知礼は身をただして結跏趺坐し、大衆を集めて説法した。阿弥陀仏の名号を数百回唱え、にわかに示寂した。69歳。亡骸を龕(棺桶)に入れ二七日(14日)をへたが、爪や髮は伸びており、容貌は生きているかのようであった。さらに7日を過ぎてから南門の外に移して荼毘に付したが、異香がして、火が消えてからも舌の根は崩れず、舎利(骨)は五色に輝き数え切れないほどであった(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、天聖6年条)。舎利は琉璃の瓶に納めて大悲閣の上に安置した。5年後の明道2年(1033)7月29日、弟子達は知礼の骨を崇法院の左に埋めた(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、明道2年条)。
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天封塔(平成22年(2010)8月15日、管理人撮影)。天封塔は寧波市内の東南に位置し、延慶寺跡の北に面する。唐の万歳通天・万歳登封年間(697)に建立され、現在のものは順治16年(1659)再建のものを近代に改修したもの。
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知礼の浄土結社
中国において仏教は「縉紳の宗教」と称されている。それは魏晋南北朝以来、貴族階級の間で神仙的なものが流行したが、仏教はそれに難解・高遠な教義が付加されていたため、教養の一種として捉えられ、以後隋・唐代においても貴族階級は仏教の擁護者であり続けた。
ところが五代十国の戦乱をへて宋代にいたると旧来の貴族階級は崩壊し、貴族の代わりに科挙によって選定された官僚が政治・文化を主導した。これらの官僚は民間から試験によって登用されたものであり、自然、民間の気風を社会全体に浸透させた。
また個人個性を尊重する気風が発達し、文化・社会において大きな役割を果たした。これが否定されようとすると個人は団結を堅くして相互扶助し、集団的な動きが発生した。庶民社会における自治組織の発達はその例とされる。
庶民社会における個々の尊重は、仏教側の教化に大きな影響を及ぼした。高遠な教学は、唐代などの貴族社会の縉紳らに教養やスタイルとして受け入れられてきたが、貴族社会が崩壊して宋代の個々を尊重する社会になると、高遠な教学が一方的に受け入れるようなことはなくなってしまったため、仏教教化の新たな方法が模索された。僧侶自身の工夫や教化方法が宋代には非常に重要なものになったのである。
教学の受容層が庶民社会となった以上は、高遠な教学であることはもちろんではあるが、同時に個々人に受け入れられやすいスタイルである必要があった。そのため思惟以上に実践をともなうものが受け入れられやすい傾向にあったのである。
例えば宋代における禅宗の躍進はその一例である。禅宗は以心伝心を実践とする実践仏教であり、それに到る過程は個々の内面における修養であったから、禅宗は唐代にある程度基礎が築かれていたとはいえ、宋代における個人尊重の気風と合致したため盛行した。さらに禅の修養は個々のものであると同時に、個々が集まって禅院生活を営む叢林が発展した。これは個々の尊重以上に、彼らの修養を阻害する外部環境とのシャットアウトすることを目的としており、いわば個々の尊重が集団生活を生み出したことになる。このような個々の尊重と集団の関係は知礼の天台浄土教においてもかいま見ることができる。
大中祥符6年(1013)2月15日、知礼は延慶院にて念仏施戒会を始めた(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、大中祥符6年条)。この念仏施戒会は「延慶院念仏浄社」とも呼ばれており(『四明尊者教行録』巻第1、結念仏会疏)、いわば念仏結社である。念仏結社自体は知礼以前にも結成されており、天台系念仏結社としてはまず淳化年間(990〜94)に杭州の昭慶寺にて省常によって浄行社という念仏結社が結成され(『廬山蓮宗宝鑑』巻第4、省常大師伝)、大中祥符8年(1015)には知礼の同門である遵式(960〜1032)が念仏会を行なっているが(『往生浄土懺願儀』)、知礼の念仏施戒会が他と異なるのは規模が極めて大きかったことである。
知礼の念仏結社の構成員は僧俗の男女10,000人を数える極めて規模が大きいものであり、構成員は阿弥陀仏への念仏を唱え、浄土に生まれ変わることを願った。その集会として毎年2月15日に延慶院にて道場を開いて三宝(仏法僧)を供養し、僧の斎(おとき)を設け、皇帝の長寿と軍民の幸福を祈った(『四明尊者教行録』巻第1、結念仏会疏)。
10,000人の結社である以上、構成員を統率する方法が編み出された。会首として210人を勧請し、それぞれが48人を募った。人には念仏懺願暦子を一枚与え、毎日1000回念仏して道に障りがある重い罪を懺悔し、菩提願をおこした(『四明尊者教行録』巻第1、結念仏会疏)。このように知礼の念仏結社は二重組織となっており、知礼が直接率いるのは第一重の210人ほどで、この第一重に属するものは「会主」と呼ばれていた。この第一重の会主が48人を率いて第二重を形成するのである。また結社の構成員で死没した者がいた場合は姓名とその人の念仏懺願暦子を持って延慶院に報告することになっていた(『四明尊者教行録』巻第1、結念仏会疏)。
念仏においては、称名の数が多いほど功徳もまた多いとされたから、多く唱えられることが必要であった。そのため念仏の回数を数える方法として、豆などの穀物を使う方法、数珠を指で手繰る方法のほかに、念仏図に回数を記入させる方法があった。知礼の念仏結社では念仏懺願暦子という一種の仏画カレンダーを用いており、この上に念仏の回数を書き入れ、2月15日の集会日に会主に念仏懺願暦子と浄財1文づつ(合計48文)を預けたという(『四明尊者教行録』巻第1、結念仏会疏)。
その後、知礼の念仏結社は少なくとも190年間継続して続けられていた(『四明尊者教行録』巻第1、尊者年譜、大中祥符6年条)。念仏結社には信仰はもちろん、社交機関の側面を持ち合わせていたという指摘があり(高雄1975)、念仏結社がその後も発展する要因の一つとなった。知礼の念仏結社とは連続的関係はないが、念仏結社でとくに有名となったのが白蓮教であり、マニ経の影響を受けて破壊の後あらたな秩序が形成されるという信仰のため、各地で叛乱を起した。元末の白蓮教は各地で信徒グループが摘発されたものの、知礼が考案した二重組織制のため、たとえ信徒グループが一箇所で摘発されたとしても、他の地域が生き残ったため、最終的には元を滅亡に追いやる白蓮教徒の乱へと拡大していった。
延慶寺は知礼や、知礼の念仏結社によって浄土教隆盛の中心地となった。また元符2年(1099)には延慶寺に十六観堂が建立され、浄土教の主要修行地の一つとなった。十六観堂とは浄土教専門の道場として建立されたものであり、知礼の同門である遵式が止観の行法よりも観経中心の行法を重視したことを受けて、その行法を実践する殿堂として建立された。中心に阿弥陀三尊を安置する宝閣を建て、蓮池を前とし、周囲に十六観のための部屋が設けられ、ここに一人づつ籠って3年間の修行が求められた。
元豊年間(1078〜85)に介然(生没年不明)なる僧が西方浄土の法を修し、坐して横にならず、3年を満期として修していたが、満期となると同行の恵観・仲章・宗悦に対して「我々はそれぞれ一室によってこの勝縁を達成したが、後に来る者が多くなっても部屋は多くはない。今、延慶寺の西隅に空き地がある。もし二千余万の銭が得られるなら、60余間の屋を構えて中に宝閣を建て、丈六の阿弥陀如来像を立て、観音菩薩・勢至菩薩を脇侍とし、とりまくようにして16室を設け、室はそれぞれ2間、外に三聖(老子・孔子・釈迦)の像を並べ、内は禅観の所とした。殿は池水に臨み、水には蓮華を植えたい。」と希望を述べると、恵観らは「四明(寧波)には檀信徒が多いから、何の患いがあろうか」といったため、建立されることとなった。介然は建立のための誓いとして、自身の指2本を燃やした。元符2年(1099)3月に落成し、介然は再度指を3本燃す燃指供養を行なった(『楽邦文類』巻第3、記碑、延慶寺浄土院記)。
建炎4年(1130)正月7日、金軍が明州(寧波)を攻略すると、延慶寺の寺衆は逃げ去ったが、介然は一人延慶寺に留まった。そのため捕虜となって尋問されたが、「死をおそれないのか」という質問に対して、「貧道(僧の自称)は一生願力してこの観堂を建立しました。今は老いました。ここを去るのに忍びないのです」というと、金の将軍は「我らのため北の地に行き、観堂を造ってこの規制に似せよ」といい、ついに介然を金の地に連行していった。延慶寺では連れ去られた日を忌日とし、介然を貴んで定慧尊者とし、像を観堂の隅に造立した(『仏祖統紀』巻第15、諸師列伝第6之5、定慧介然法師伝)。
乾道3年(1167)2月に若訥(1111〜91)が杭州の上天竺寺に延慶寺の十六観堂を模した十六観堂と建立し、禁中にも同じものを建立している(『杭州上天竺講寺志』巻之9、碑記、建上天竺天台教寺十六観堂碑)、後に俊ジョウ(くさかんむり+仍。UNI82BF。&M030749;)(1166〜1227)も日本に帰国後、泉涌寺に十六観院を建立している(『泉涌寺殿堂房寮色目』十六観堂)。俊ジョウは嘉定年間(1208〜24)の初頭に杭州を訪れ、下天竺寺に居住しているが(『泉涌寺不可棄法師伝』)、上天竺寺の十六観堂は開禧2年(1206)7月26日に焼失しており、その後再建されていることから(『杭州上天竺講寺志』巻之7、建置、十六観堂)、俊ジョウの十六観堂は上天竺寺の再建に際して見聞した制を、泉涌寺に移したものとみられる。よって泉涌寺にあった十六観堂は延慶寺の制にならったものであったことが知られる。
建立当初の泉涌寺の伽藍を示す「東山泉涌律寺図」(泉涌寺蔵)によると、十六観堂の中央に、寄棟造の3間四面の堂が中央にあり、左右から伸びた廻廊を通じて、周囲を廻廊のように白壁で柱が丹塗の建物が囲む。これは十六観のための部屋であり、外部からみると正面に門がある他は瓦葺の切妻造の飾り気のない建築物であるが、内部は荘厳されていた。その後延慶寺の十六観堂は火災によって失われ、延慶寺十六観堂の系譜を引く泉涌寺の十六観堂もまた応仁の乱で焼失して以来、再建されていない。
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1920年代の延慶寺天王殿(常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』〈法蔵館、1939年10月〉96頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)
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延慶寺その後
延慶院は紹興14年(1144)に勅旨によって寺額を賜り、延慶寺となった。延慶寺の大悲閣には辟支仏(びゃくしぶつ。仏の教えによらず十二因縁を観じて理法を悟った者)の舌舎利(舌)と普賢菩薩の像が安置され、みな礼拝した(『宝慶四明志』巻11、叙祠、寺院、禅院3、延慶寺)。このように延慶寺は勅額を賜ることによって官寺の扱いを受け、さらに延慶寺は「天下講宗五山の第二」とされ(『道光寧波府志』巻第18、ギン県、寺、延慶講寺)、常住田は南宋前期の宝慶年間(1226〜27)には2,210畝を数えた(『宝慶四明志』巻11、叙祠、寺院、禅院3、延慶寺)。また延慶寺は知礼門下によって500年もの間護持され続けていた(林2009)。
嘉定13年(1220)、ある僧が仏像に小規模な修理を行なおうと、像を解体したが、その胎内にあった書には「これを動かさば水火災いとなす」とあり、しばらくもしないうちに延慶寺は火災となり、像も焼失した。延慶寺は丞相の史弥遠(1164〜1233)により再建され(『宝慶四明志』巻11、叙祠、寺院、禅院3、延慶寺)、再建の際に史弥遠より「南湖福地」の扁額を受けた(『延祐四明志』巻第16、釈道攷上、城内寺院、教化十方、延慶寺)。
この頃が延慶寺の絶頂期であったらしい。四明(寧波)周辺の僧侶なら一度は学ぶ場所であったらしく、後に日本に渡った一山一寧(1247〜1317)も若き日は延慶寺で天台教学を修学していた(『一山国師妙慈弘済大師語録』巻下、行記)。
延慶寺は至元26年(1289)にも焼失しており、僧善良によって再建された(『延祐四明志』巻第16、釈道攷上、城内寺院、教化十方、延慶寺)。延慶寺の衰退はこの時期が最もすざましく、その故地に瓦礫があるだけの状態が50年も続いたという。
泰定元年(1324)にも焼失したが(『至正四明続志』巻第10、釈道、延慶寺)、住持普洽によって方丈が再建された(『敬止録』巻之26、寺観考1、城中、延慶寺)。至順3年(1332)に本無(1285〜1342)が勅によって住持に就任し、郡人の王元明の支援によって再建に着手。3年後の元統2年(1334)8月に再建工事が完了した。とくに起信閣は百年ぶりに再建され、起信閣には「元統起信宝閣」の額が掲げられた(『至正四明続志』巻第10、釈道、延慶寺、起信閣記)。至正6年(1346)には思重によって大殿が建立され「大雄最吉祥殿」の額が掲げられた(『敬止録』巻之26、寺観考1、城中、延慶寺)。なお延慶寺住持の子思(?〜1361)が示寂した後、浙江に拠って元に叛乱を起した方国珍(1319〜74)の命によって、延慶寺は一時期禅寺となっていた(『続仏祖統紀』巻2、法師自朋伝)。
洪武4年(1371)に起信閣と山門は焼失したが、洪武12年(1379)に原旻によって山門が再建され、洪武20年(1387)には羅雲堂が、永楽6年(1408)には有言によって浄土殿が再建され、塑像の湧岩観音像が造立された。宣徳3年(1428)には湧岩前殿と禅悦殿と18間の東廊が再建され、翌宣徳4年(1429)には大雄殿の東に塔院を建立し、ながく子孫に香灯を供奉させることとした。さらに正統8年(1443)には李存誠によって鐘楼・経閣が建立され、景泰3年(1452)には大悲殿が、成化3年(1467)には羅雲堂の西南に能仁堂を建立した。崇禎7年(1634)に十六観堂が焼失し、建立した介然以来の歴代の宝物はすべて失われてしまった(『敬止録』巻之26、寺観考1、城中、延慶寺)。
延慶寺の建物としてかつて天王殿・大雄宝殿・法堂があった。1920年代の調査によると、天王殿は桁行5間、梁間4間、重層の建築物で、上層に「天王殿」の額を、下層に「宋勅建延慶講堂」の額があった。中国全土における天王殿同様、内部中央に弥勒、後に韋駄天、左右に四天王像を安置されていた。天王殿の右方には呂祖殿が、左方には関帝廟が位置していた。
天王殿の後方100尺(30m)のところに桁行7間、梁間5間で重層入母屋造の大雄宝殿(仏殿)があった。上層に「大雄最吉祥殿」の額を掲げている。内部中央の石造仏壇上に釈迦・薬師・阿弥陀の三尊を安置していた。殿内に咸豊3年(1853)の額を掲げており、殿はこの頃の再建とみられている。
大雄宝殿の後方8間(14m)のところに桁行5間、梁間6間で重層切妻造、1間向拝付の法堂があった。その前庭の東には桁行5間、重層切妻造の客堂があり、西には桁行5間、重層切妻造の応供堂があった(関野1939)。
咸豊11年(1861)に太平天国軍が寧波を占領し、延慶寺は廃寺となった。その後民国元年(1912)に諦閑(1858〜1932)が荒廃した延慶寺を再興、観宗講寺と改めた(林2009)。
延慶寺は1960年代からの文化大革命で廃寺となり、その跡地は観宗寺およびその敷地内にある寧波市仏教協会の敷地となっている。一部の建物はそれらの倉庫に転用されている。その後延慶寺の旧建物の天王殿・吉祥殿(大雄宝殿)・方丈殿・蔵経楼は「市重点文物保護単位」に指定され、仏教寺院としての機能を取り戻しつつあるが、現在も修復中で、回復のめどはたっていない。
[参考文献]
・常盤大定・関野貞『支那文化史蹟 第4輯』(法蔵館、1939年10月)
・小笠原宣秀『中国近世浄土教史の研究』(百華苑、1963年4月)
・高雄義堅『宋代仏教史の研究』(百華苑、1975年5月)
・池田魯参「四明知礼の生涯と著述」(『東洋文化研究所紀要』100、1986年3月)
・井手誠之輔『日本の美術419 日本の宋元仏画』(至文堂、2001年)
・林鳴宇「新出資料 延慶寺歴代住持譜の意義」(『禅学研究』87、2009年3月)
・林鳴宇「宋初天台における使帖の意義」(『印度学仏教学研究』58(1)、2009年12月)
[参考サイト]
「なべさんの中国情報 上海〜寧波へ 2004.02.06」
(倉庫となった延慶寺大雄宝殿の現状が示される)
http://blogs.yahoo.co.jp/nabesan88com/47663666.html
☆追記☆
訪れたのが深夜であったため、現状については近くの木瓜書店のおばちゃんから聞き取りしただけでしたが、延慶寺跡は現在寧波市仏教協会の敷地となっており、敷地自体は観宗寺が管理しているとのことです。延慶寺はいまだ復興途上にあるため、再興がなった時、再び訪れてみたいものです。
最終更新日:平成22年(2010)10月19日
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寧波市仏教協会の敷地内の延慶寺跡(平成22年(2010)8月15日、管理人撮影)
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