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比叡山(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(きららざか)は京都の修学院から比叡山延暦寺東塔へ抜ける道で、京都側からの主要道として利用されてきました。
修学院駅付近から、高野川と音羽川の合流地点まで行き、そこから音羽川の上流(東)に向かって700mほど歩きます。後安堂端に到ると砂利道をさらに500mほど歩くと砂防ダム公園に着き、そこを左に行くと音羽橋に着きます。ここが雲母坂の入口です。
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雲母坂の入口。左に音羽川が流れる(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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音羽橋(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母橋を渡ると、「親鸞上人旧跡」の石碑があり、舗装された道を登っていくと、雲母坂の入口があります。
ここに「雲母寺跡」の石碑があります。雲母寺は平安時代に建立された寺院で、「雲母不動堂」とも呼ばれており、そのため雲母坂の別名として「不動坂」というのがありました。不動明王を本尊としていました。文化8年(1811)に修復が行われていますが(『天台座主記』巻7、218世二品承真法親王、文化8年4月19日条)、現在は赤山禅院境内に移築されています。
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音羽橋(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂入口(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母寺跡(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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(参考)赤山禅院の不動堂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)。雲母寺を移築したもの。
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雲母坂は長年の浸食によって、深いV字形になっており、そのため谷底を歩いているような気分になります。左側は修学院の敷地と接しているため、鉄条網が張られています。
急坂で道の状態が悪く、また周囲への見通がきかないのですが、周辺は自然林となっています。
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂からみた京都市内(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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急坂を約400〜500mほど進むと、ややなだらかな屋根道となります。
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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屋根道をしばらく進むと水飲に到着します。ここから雲母坂と京都一周トレイルの道は重なっています。
水飲の名称は、道の南下に音羽川のせせらぎが流れ、参拝者の疲れや渇きをいやしたことからつけられたと推測されており、赤山禅院の北にある「下ノ水飲」に対して、ここは「上ノ水飲」と呼ばれています(武2008)。この名称から雲母坂の別名として「水飲坂」というものがあります。また後世にはここに建物があり、上り下りする者に薬湯を提供したともいいますが(『元亨釈書』巻第5、慧解2之4、睿山皇慶伝)、詳細はわかりません。
この水飲の地は、比叡山の西側の境の地であり、天禄元年(970)の天台座主良源(912〜85)の「二十六ヶ条起請」の規定があり、これによると籠山僧の結界として、東は悲田、南は般若寺、西は水飲、北は楞厳院が指定されており、ここから外に出ることが禁止されていました(「天台座主良源起請(二十六ヶ条起請)」廬山寺文書〈平安遺文303〉)。
この雲母坂は、京都から比叡山に登る主要道路であり、若き日の皇慶(977〜1049)が出家の時に水飲を通りかかって、「どうして湯を飲むのか」と言って鋭才を示した説話が知られています(『谷阿闍梨伝』)。また雲母坂は宣命使が京都から登る主要道路して用いられていました。天台座主補任に際して、天皇の勅使が比叡山上に登って宣命を読み上げることが原則となっており、歴代天台座主が就任するごとに勅使が雲母坂から比叡山上へと登っていました。
永祚元年(989)に比叡山上における慈覚・智証両門徒は争いはエスカレートし、智証門徒の余慶(919〜91)が天台座主に補任されると慈覚門徒が猛反発し、同年10月1日に余慶補任を宣命すべき勅使源能遠が慈覚門徒数百人に水飲で追い立てられ、宣命が破り捨てられるという事件がおこっています(『小右記』永祚元年10月1日条)。
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「水飲対陣之跡」石碑(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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梅谷道
雲母坂の「水飲対陣之跡」石碑までは、もう一つ別のルートから登ることができます。
赤山禅院のさらに北側、桧峠児童公園付近より登るものです。ここから水飲対陣跡までは1.3kmの行程です。
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雲母坂梅谷登り口(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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この付近はかつて「下水飲」といわれた場所です。
中世の延暦寺の寺誌によると、弘仁9年(818)3月18日に延暦寺の四至(東西南北の境)が決められたとし、西は親林寺がその境界であり、この親林寺は「下水飲」と号したとされ(『叡岳要記』上、山門結界仏閣建立)、また仁和元年(885)10月15日に下された官符によって延暦寺外の境の西限はやはり下水飲であったとされていますが(『叡岳要記』上、山門結界仏閣建立)、詳細は定かではありません。
寛仁3年(1019)に上下両賀茂社の社領外地の設定の上で、八瀬・横尾両村を比叡山領として確定するよう天台座主の院源(951〜1028)が求めていますが、横尾村は赤山禅院が建つ地であり、村の字は下水飲であったとされ(『小右記』寛仁3年8月23日条)、また比叡山の四至は古官符の文に「西は下水飲に限る」とあったとあります(『小右記』寛仁3年5月16日条)。
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雲母坂梅谷道(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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雲母坂梅谷道(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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やがて前述した「水飲対陣之跡」碑の地点に合流します。
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雲母坂梅谷道の水飲対陣跡碑付近(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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浄刹結界趾と「千種忠顕戦死之地」
ここから話は雲母坂の本道に戻ります。「千種忠顕戦死之地」の石碑までは約1kmほどです。
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂からみた京都市内(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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水飲から200mほど進むと右手に石仏があり、その奥には「浄刹結界趾碑」があります。この浄刹結界は、比叡山の境界線で、かつてはここから先には女人が入ることが禁じられていました。この浄刹結界趾の石碑は、裏面の碑銘によると、大正10年(1921)3月に建てられたものです。
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石仏と浄刹結界趾碑(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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やがて三叉路(京都一周トレイル71)につきますが、ここを右折します。
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雲母坂(京都一周トレイル71)(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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水飲から進むこと1km、京都一周トレイル73-1の標識があり、十字路となっています。ここを西側に振り返ってみると「千種忠顕戦死之地」の石碑があります。
この石碑は大正10年(1921)に建立されたもので、『太平記』によると延元元年(1336)6月、湊川の戦いで敗れた官軍は、足利尊氏の攻撃を防ぐため京を捨てて比叡山に立て篭もり、比叡山を西坂(雲母坂)より攻め上った尊氏軍は、官軍と対峙、6月5日に水飲にて堀切(空掘)・掻楯(垣根のように楯を立て並べること)によって陣を築きましたが、6日早朝に尊氏軍は三石岳・松尾坂・水飲より三手に分れて攻撃を開始、千種忠顕・坊門正忠が三百余騎にて防戦しましたが、松尾坂より攻撃してきた尊氏軍に背後を突かれたため、一人も残さず戦死、全滅したとされています(『太平記』巻第17、山攻事付日吉神託事)。
碑文は千種家の子孫によって大正10年(1921)に建立したもので、石碑にはめ込まれている銅板は三浦周行(1871〜1931)によって撰文されたものです。以下に掲げてみましょう。
「卿ハ六条有忠ノ子ニシテ、夙ニ後醍醐天皇ニ奉仕ス。資性快活ニシテ武技ヲ好ミ、頗ル御信任ヲ蒙レリ。元弘元年、討幕ノ謀露レ、天皇笠置ニ潜幸シ給フニ当リ、卿之ニ扈従シ、城陥リテ天皇六波羅ニ移サレ給フニ及ビ、卿亦敵ニ捉ヘラレンモ、特ニ左右ニ近侍スルヲ許サル後、天皇ニ供奉シテ隠岐ニ赴キ、密ニ恢復ヲ図リ、元弘三年、天皇ヲ伯耆ニ遷シ奉リ綸旨ヲ四方ニ伝ヘテ義兵ヲ起サシメ、又自ラ兵ニ将トシテ六波羅ヲ攻メテ、之ヲ陥レ、神鏡ヲ宮中ニ奉安セリ。尋デ北条氏亡ビ、車駕京都ニ還幸アラセラルルヤ、卿之ガ先駆タリ。天皇厚ク其首勲ヲ賞シ給ヒ、従三位ニ叙シ、参議ニ任ゼラル。中興ノ政治参著スル所亦多シ。既ニシテ足利尊氏、大挙シテ京都ヲ攻メ、天皇延暦寺ニ幸シ給フ。尊氏弟直義ヲシテ兵ヲ進メテ、行在ヲ侵サシム。卿之ヲ西坂本ニ拒ギシモ、利アラズ、終ニ此地ニ戦死ス。時ニ延元元年六月七日ナリ。大正八年、其功ヲ追賞シテ、従二位ヲ贈ラル。
大正十年五月
文学博士 三浦周行撰並書 」
ところでこの十字路を南西に行く道があり、そこを200mほど下ってみると、今度は「千種塚旧址」という石碑があります。この碑裏には以下のような文章が記されています。
「千種忠顕卿殉難ノ地、湮没セル久焉。偶表彰会ヲ起スニ当ツテ、樵者ノ口碑ニ因、此地ナル事ヲ知ル。鐫シテ後ニ伝フ、云爾。
大正十年五月 千種顕男識」
つまり、同じ時に別の場所に戦死の地と塚の二ヶ所に碑が建立されたことになるのですが、片方は「樵者ノ口碑」というのが面白いところです。ちなみに「千種塚旧址」のすぐ手前には「脱俗院跡」の小さな碑もあります。
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「千種忠顕卿戦死之地」石碑(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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旧ルート
旧ルートは「千種忠顕戦死之地」の石碑付近、京都一周トレイル73-1を北に向かうルートです。
ここを進むと叡山ケーブル(京福前鉄鋼索線)のケーブル比叡駅に着きます。
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雲母坂旧ルート(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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雲母坂旧ルート(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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雲母坂旧ルート(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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雲母坂旧ルートよりみた京都市(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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叡山ケーブル(京福前鉄鋼索線)のケーブル比叡駅です。ここは京都一周トレイル74となっています。
さらに500mほど進むと比叡山人口スキー場(廃止)がみえます。このスキー場はかつての蛇ヶ池の地です。蛇ヶ池は伝説によると、もとはここに蛇の形をした石があり、人々がここを通過するたびに恐れによって死ぬ者が多かったため、最澄が仏法で石に祈ると雷が石を打ち砕き、その地が池になったといいます。またこの池に住んでいた毒蛇を最澄が祈ると比良山に移ったともいいます(『山門堂舎由緒記』巻第1、西谷、蛇池)。
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叡山ケーブル(京福前鉄鋼索線)ケーブル比叡駅(平成23年(2011)11月14日、管理人撮影)
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蛇ヶ池の付近には楊枝杉・箸塚の旧跡があったといいます。
さらに進むと斧堂跡があります。斧堂はかつて和労堂と称されており、字の通り、休憩所でした。雲母坂にはかつて二ヶ所和労堂がありましたが、現在は残っておらず、ただ跡地のみが一ヶ所あるのみです。
ここをさらに進むとベンチのある展望台となり、しばらく歩くと尸羅谷につきます。比叡山に登る者は自ら身口の七支罪を防止し、菩薩三種の浄戒を具すからその名があるといいますが、名称は師弟相承のみによって得られる深秘といいます。またの名を尸羅奇岳とも四郎谷ともいうそうです(『山門堂舎由緒記』巻第1、西谷、蛇池)。
斧堂跡より歩くこと700mで山王院に到着します。
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斧堂跡(平成23年(2011)12月29日、管理人撮影)
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新ルート
京都一周トレイル73-1の十字路をさらに進みますが、新ルートと旧ルートに分かれています。旧ルートを進むと叡山ケーブルに到着し、新ルートを進むとスキー場跡に到着します。新ルートは行者道だそうです。
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雲母坂の石仏(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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スキー場跡に到着すると、スキー場の上の方へと向かう舗装された道路と、スキー場跡を横切って進むルートに分かれます。スキー場跡を横切っていくと梵字の石碑があり、そこからは京都一周トレイル2から7へと到るルートに重なっており、山王院への道となっています。
一方、舗装された道路を登っていくと、叡山ロープウェイの比叡山頂駅周辺、四明岳頂上付近に到り、さらに進むと比叡山ドライブウェイの「比叡山頂」に到着します。ここからさらに進むと智証大師廟をへて無動寺へと向かいます。
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スキー場跡地(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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梵字の石碑(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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もともと比叡山には鹿が多いのですが、スキー場跡から叡山ロープウェイ比叡山頂駅にかけて、多くの鹿をみました。
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雲母坂の鹿(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂からみた比叡山ロープウェー(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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雲母坂からの展望(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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スキー場跡から歩くこと400〜500mで比叡山ドライブウェイの「比叡山頂」に到着します。ここから歩道をさらに進みます。
さらに500m進むとNTTコミュニケーション無線中継所があり、その左脇を進みます。
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比叡山ドライブウェイ「比叡山頂」付近の歩道(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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NTTコミュニケーション無線中継所を通過すると下り坂となり、智証大師廟へと到ります。
智証大師廟をさらに500mほど進むと坂本ケーブル(比叡山鉄道)のケーブル比叡山駅に到着します。
[参考文献]
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)
・『京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 北山東部』(京都一周トレイル会、2009年7月)
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雲母坂(平成23年(2011)10月18日、管理人撮影)
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