慈覚大師廟



比叡山延暦寺東堂慈覚大師廟参道(平成16年11月13日、管理人撮影) 

 今回の延暦寺東塔の旅で一番最初に向ったのは、慈覚大師廟です。

 かなり歩いたと思いますし、道には何度か迷いました。『近江の古寺 延暦寺』についている名所図絵風のものを地図としたので迷わないわけがありません(?)

 ともあれ、なんとなく墓が江戸時代の墓が両脇に林立している、見た目はかなり不気味な場所にたどりつき(写真上)、たぶんここを真っ直ぐ行ったらつくだろうと、漠然と思いながら進みました。この年の夏には台風が猛威を振るい、訪れたときは11月であったにもかかわらず、いまだに木々が倒れっぱなしでした。その木々に直撃され倒れっぱなしのお墓もあり、無惨でした。

 その奥をしばらく行くと、ようやく慈覚大師廟につきました。 


比叡山延暦寺東堂慈覚大師廟鳥居(平成16年11月13日、管理人撮影) 



比叡山延暦寺東堂慈覚大師廟(平成16年11月13日、管理人撮影)

 これだけ見ると、宮内庁が治定かなんかした陵墓のように立派です。



 前の写真を横からみると…。 


比叡山延暦寺東堂慈覚大師廟(平成16年11月13日、管理人撮影) 

 横から見ると、参道に林立していたお墓の形(卵塔)と、あまり変わらないようです。

 「慈覚大師塔」と陰刻されていることが確認できます。


慈覚大師廟

 慈覚大師廟は、慈覚大師円仁が示寂する1日前の貞観6年(864)正月13日、遺誡を残しており、その中に、「この山上に諸人の廟を造ることなかれ。ただ大師の廟を留めるのみ。我没して後、樹を植えそのところをしめせ。」とある。翌14日に円仁は示寂し、16日に寺北の天梯尾の中岳に葬られた。この地は華芳と名付けられ、ここは円仁が平生より葬られる地として選んでいた地であった(通行本『慈覚大師伝』)。2月16日には勅使少納言良峰経世が慈覚大師廟前にて円仁に法印大和尚位を追贈した(通行本『慈覚大師伝』)。この法印大和尚位はこの日僧綱の位階を制定した際に新たに設けられたもので、法印大和尚位は僧正の階とされた(『日本三代実録』巻8、貞観6年2月16日癸酉条)ため、当時の天台宗は僧綱と一定の距離を保っていたので、僧綱位を追贈されたのと等しかった。

 寛平元年(889)、天台座主相応は慈覚大師円仁の遺命を守るために、華芳御廟(慈覚大師廟)の前に率部婆一基を造立して法華経一部を奉納している(『天台南山無動寺建立和尚伝』)

 現在の慈覚大師廟は大正13年(1924)の遠忌記念に改修されたものである。


[参考文献]
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年8月)
・佐伯有清『慈覚大師伝の研究』吉川弘文館、1986年5月)


比叡山延暦寺東堂法然上人得度御旧跡碑(平成16年11月13日、管理人撮影) 

 ところで、慈覚大師病より根本中堂に向う途中、「法然上人得度御旧院」という石碑をみました。

 なかに入ると僧侶の談笑の声が聞こえてきました。





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