興廟



興廟の廟門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 興廟は皇城(阮朝王宮)内に世廟の塀の北側、奉先殿の南側に南向で位置している。明命2年(1821)に建立されたが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、興廟)、その前身は皇考廟である。皇考廟は嘉隆3年(1804)3月に太廟・肇祖廟ととも建立に着手され(『大南寔録正編』第1紀、巻之23、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年3月庚辰条)、同年9月に完成した(『大南寔録正編』第1紀、巻之25、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年9月条)。嘉隆11年(1812)5月に修復されている(『大南寔録正編』第1紀、巻之44、世祖高皇帝寔録、嘉隆11年5月丁丑条)

 正楹(正殿)は桁行3間で四面庇・孫庇付、前楹(前殿)は桁行5間で三面裳階付となっており(『大南一統志』巻之1、京師、城池、興廟)、ヴェトナム建築の一特徴である二棟連棟形式(前殿と正殿を回廊で繋ぐ方式)となっており、中央の回廊部分は部屋となっている。興祖孝康皇帝・皇后の神龕(位牌)を安置する(『大南一統志』巻之1、京師、城池、興廟)

 興廟に祀られる興祖(1733〜65)は阮朝初代皇帝である嘉隆帝の父である。広南阮氏第8代の武王(位1738〜65)の子である。武王は少なくとも男子が18人あり、当初九男の阮昊(1739〜60)が世子となったが早世し、その子阮暘(?〜1777、後の孝定王)も幼かったから、長子の阮ワ(1732〜63)が世子となるも、また早世した。武王は興祖が幼くして英明であるため、張文幸を教育係として後継者とすることを考え、朝政には興祖を常に参加させていた。武王が景興26年(1765)5月に薨去すると、権臣の張福巒(?〜1776)が宦官とともに武王の遺命を捏造し、興祖を冷室に幽閉し、傅育係の張文幸・黎高紀らを殺害した。結局広南阮氏の王位は16男の睿宗(位1765〜75)が継いだ。興祖は憂欝となって重病になり自邸に戻って薨去した。33歳。寧陵に葬られた(『大南寔録前編』巻11、睿宗孝定皇帝寔録上、前紀、興祖孝康皇帝)

 興祖の子は後に嘉隆帝となる阮福暎であるが、父興祖に「慈祥澹泊寛裕温和孝康王」の諡を追尊し、嘉隆5年(1806)にはさらに「仁明謹厚寛裕温和孝康皇帝」の諡号を贈っている。また嘉隆7年(1808)には興祖の山陵を修造し、基聖陵の号を奉り、さらに明命2年(1821)に山陵を興業山の上に移した(『大南寔録前編』巻11、睿宗孝定皇帝寔録上、前紀、興祖孝康皇帝)


興廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



皇城図・『大南一統志』巻1より興廟部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



興祖と夫人(嘉隆帝の母)の神龕(位牌)(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 興廟の前面・左右の3面に磚墻(レンガ製の楼門)を築いている。また祭祀の補助施設として廟の東側に神庫、西側に神厨がある。正面を廟門といい、左を章慶門、右を毓慶門という。興廟は世廟の塀を夾んだ裏側に位置しており、世廟より興廟へは東西の門によって通行が可能になっている。よって世廟の顕祐門の裏側は興廟の致祥門となっており、世廟の応祐門の裏側は興廟の応祥門となるのである(『大南一統志』巻之1、京師、城池、興廟)


毓慶門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



章慶門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



神厨(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 興廟は嘉隆年間(1802〜19)の段階では皇考廟と呼ばれており、現在地のやや南、すなわち世廟の地に位置していた。嘉隆年間(1802〜19)初頭に皇考廟のために典護列廟設司が設けられた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、興廟)

 興廟が建立されたのは明命2年(1821)2月のことであるが(『大南寔録正編』第2紀、巻之7、聖祖仁皇帝寔録、明命2年2月辛丑条)、これは皇考廟の地に世廟が建立されることとなったためで、皇考廟は移建されることになり、興廟と改められた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、興廟)。同年3月に興廟は完成している(『大南寔録正編』第2紀、巻之8、聖祖仁皇帝寔録、明命2年3月甲寅条)

 典護列廟設司は明命3年(1822)には左右祀祭司と改称され、祀祭使が設置された。これらは右司の管理下に置かれ、また廟郎・廟丞がその麾下にあった。明命17年(1836)には正使・副使がそれぞれ増設された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、興廟)

 1947年にフランス軍との交戦により焼失したが、1951年に瑞輝皇太后によって再建された。

[参考文献]
・富樫洋之・中川武・西本真一・中沢信一郎・白井裕泰・高野恵子・土屋武・石原彩子・佐々木太清・柳下敦彦「興廟の構造形式と平面計画における単位長」(『学術講演梗概集F-2建築歴史・意匠』
1997年7月)


致祥門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



応祥門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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