樫原廃寺跡



樫原廃寺跡(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)



樫原廃寺跡(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)

 樫原廃寺(かたぎはらはいじ)は京都市西京区樫原内垣外町に位置(外部リンク)する名称不明の飛鳥白鳳時代(7世紀中葉)に建立された古代寺院跡です。日本古代寺院の塔婆としては他に例がない八角仏塔として注目を集め、発掘調査後に塔・門・回廊・築地の基壇跡が復元・整備され、「樫原史跡公園」となっています。

概要

 樫原は京都市西京区の南側に位置し、山陰道が四条街道と西国街道を結ぶ物集女寺戸道が交差する交通の要衝で、物集女近世には樫原宿で栄えた。物集女寺戸道は南北の条里地割線を踏襲しており、そのことはこの地が古代からの要地であったことを意味する。廃寺跡は樫原の中心部よりさらに西南に位置する。周囲には百々池古墳や天皇の杜古墳、一本松塚古墳がある。樫原廃寺跡は西側の丘陵から張り出した高台にあり、北には山陰街道、西には物集女街道を見下ろす。

 樫原廃寺跡は、かつて竹薮と畑のみがあり、この地から奈良時代前期の瓦が出土することは戦前から知られており、上桂中学校の教諭が社会クラブ活動で拾い上げたことが新聞記事となり、軒丸瓦の下面に蓮花文があることが報じられた(杉山・佐藤1967)。遺跡地の中央には東西18m、南北15m、高0.8mの土壇が傾斜地の畑地として残されていた(京都府教育庁文化財保護課1967)

 昭和41年(1966)に京都市住宅供給公社が宅地造成を計画したが、同年10月にこの地域内に瓦窯を発見し、さらに工事資材搬入道路を敷設した際に、ブルドーザーが凝灰岩切石を掘り出し、道路崖面に版築状盛土層を露呈した。京都府教育庁文化財保護課は公社と協議し、遺跡と推定と推定される範囲の工事を延期させ、昭和42年(1967)2月14日より4月20日にかけて緊急発掘が実施された(京都府教育庁文化財保護課1967)

 調査の結果、土壇は八角基壇であることが判明し、道路崖面の版築状盛土層は中門基壇であり、それに回廊にとりつくことが確認された(京都府教育庁文化財保護課1967)


発掘調査地および伽藍推定図(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉36頁より一部転載)



樫原廃寺中門跡、北北西より(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)



昭和42年(1967)の中門発掘状況(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉図版第16より一部転載)



昭和42年(1967)の築地発掘状況(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉図版第16より一部転載)

伽藍

 土壇は東西に長かったため、当初長方形の建物が予想されたが、調査の結果一辺5mの八角形の瓦積基壇を持つ建物であることが判明し、心礎が検出されたことによって塔であることが確認された(京都府教育庁文化財保護課1967)。八角形の建造物は飛鳥白鳳時代には前期難波宮の八角殿と、熊本県鞠智城跡の八角形鼓楼しか知られておらず、八角仏塔の例は古代寺院として唯一のものである。

 中門跡の基壇規模は東西約20m、南北11mあり、その左右には幅5mの築成土壇が延びており、南面回廊遺構である(京都府教育庁文化財保護課1967)

 出土した遺物のうち、軒丸瓦には素縁単弁八弁蓮華文(下図・軒丸瓦1-3)、素縁複弁八弁蓮華文、珠文縁単弁十六弁菊花文(下図・軒丸瓦4)、珠文縁単弁十四弁蓮華文(下図・5)、珠文縁複弁八弁蓮華文、単弁十六弁蓮華文がある。昭和42年(1967)の発掘調査において最も多く発掘されたのが、創建時使用とみられる素縁単弁八弁蓮華文軒丸瓦であり、出土軒丸瓦内80%を占めた(京都府教育庁文化財保護課1967)

 軒平瓦には素文(下図・軒平瓦1-3)・重弧文(下図・軒平瓦4)・珠帯均斉唐草文(下図・軒平瓦5)の各種があり、素文(下図・軒平瓦1・2)のものが60%を占める。段顎がないもの(下図・軒平瓦1)は端部に粘土を貼り足して軒平瓦とし、下面には朱が付着していた。段顎を持つもの(下図・軒平瓦2)は顎下面に平行する2条の線刻がなされており、さらに素縁単弁蓮華文軒丸瓦に用いた笵型を捺したものがある(下図・軒平瓦3)。珠帯均斉唐草文は出土軒平瓦のうち30%を占める(京都府教育庁文化財保護課1967)。素文の軒平瓦は面取されており、顎下面に2条の線刻があることと含めて、秦氏の寺として知られる広隆寺の軒平瓦と共通性をもつ。

 昭和42年(1967)の発掘調査の段階では塔の北方約30m離れた所に金堂跡があると考えられていたが、昭和46年(1971)に国の史跡に指定され、平成9年(1997)に北側の発掘調査が実施された。発掘調査の結果、ここに位置したのは14mほどの基壇をもつ柱間3間ほどの建物であり、中門よりも小規模な建物であった。この建物を仮に金堂跡であるとしても、寺院規模に相当して小規模すぎ、かつその背後にあるはずの講堂跡も検出されておらず、伽藍配置については四天王寺式伽藍配置をとっているようにみえるものの、詳細はわかっていない。

 また幢竿支柱跡とみられる遺構も発掘された。本来、幢竿支柱は伽藍の正面側に設置されるものであるが、樫原廃寺の北側は山陰街道が通じており、周囲から視認されるためにあえて北側に建てられたとみられている(久世2004)


樫原廃寺八角塔基壇跡(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)



昭和42年(1967)の樫原廃寺跡出土軒丸瓦(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉図版第17より一部転載)



昭和42年(1967)の樫原廃寺跡出土軒平瓦(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉図版第18より一部転載)



昭和42年(1967)の樫原廃寺塔発掘図(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉38頁より一部転載)



樫原廃寺八角塔再現瓦積基壇跡(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)



昭和42年(1967)の塔基壇発掘調査(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉図版第14より一部転載)



樫原廃寺八角塔基壇礎石跡(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)



昭和42年(1967)の塔心礎発掘状況(京都府教育庁文化財保護課『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』〈京都府教育委員会、1967年3月〉図版第15より一部転載)

復元された縁起

 樫原廃寺については、いかなる史料上の記録がないため、寺号すらわかっていない状況であるが、発掘調査によって明らかになった樫原廃寺の略歴は以下のようになる。

 樫原廃寺は、山背地方における帰化系氏族である秦氏によって7世紀中葉に建立されたと考えられている。秦氏は京都市西部は彼らの勢力圏にあたる。

 樫原廃寺に用いられた軒平瓦のうち、素文の段顎を有するもの(上図・軒平瓦2・3)について、面取されていること、顎下面に2条の線刻があることが、秦氏の寺として知られる広隆寺の軒平瓦と共通性をもつ。また軒丸瓦も素縁単弁八弁蓮華文(上図・軒丸瓦1)は北野廃寺の軒丸瓦の派生型であり、広隆寺の軒丸瓦は樫原廃寺同様、北野廃寺の軒丸瓦の派生型であることから、やはり秦氏との深い関係が考えられる。

 樫原廃寺は四天王寺式伽藍配置が想定されていたが、実際には金堂の規模が極めて小さく、平面配置のバランスがとれていない。そのため樫原廃寺同様、八角形の塔をもち、かつ一塔三金堂式の寺院が多い高句麗の寺院と比較された。高句麗の土城里廃寺と樫原廃寺は3:2の対比規模であり、土城里廃寺の金堂は樫原廃寺同様に金堂は小規模で、樫原廃寺の塔跡の東西の空閑地にちょうど土城里廃寺の東西の金堂がすっぽりと収まる。このことから、樫原廃寺は高句麗の寺院をモデルとして一塔三金堂式の型式を目指していたが、達成することができなかったと考えられている(久世2004)。あるいは秦氏との関係が深い聖徳太子が法華経の義疏(注釈書)たる『法華義疏』を撰していることから、型式上は一塔三金堂型式のプランニングがなされていたものの、秦氏が一塔三金堂型式の経軌上の不自然さを知って、法華経見宝塔品のように出現する塔に正対する釈迦以外を排除したのかもしれない。そのため樫原廃寺の伽藍配置が本来計画されていた一塔三金堂方式ではなく、部分的に変更されて一塔一小金堂となってしまったとみなすこともできるが、いいすぎであろうか。

 樫原廃寺の幢竿支柱遺構が伽藍の正面(南側)ではなく、周囲から視認されるためにあえて山陰街道に接する北側にあったことからも知られるように(久世2004)、樫原廃寺は街道沿いという立地条件をもとに建立された寺院であった。また淀川〜桂川右岸の交通路に沿って多くの寺院が建立されているが、南から山崎廃寺・友岡廃寺・乙訓寺・宝菩提院廃寺・樫原廃寺がほぼ一直線に位置している。瓦葺で塔を持つ寺院は交通路にとってランドマーク的役割を果たしていた。7世紀後半に建立された地方寺院の多くは常住の僧侶がおらず、中央大寺の僧侶が各地の豪族の招きで法会などを行うために、都鄙間交通を盛んに行っていた。また中央大寺の僧侶の中にも地方豪族出身者が多く現われ、彼らが都鄙間交通を行うことによって、地方に中央の技術や意匠が伝えられた(菱田2002)

 鬼瓦が4個発掘されており、いずれも創建時のものではなく奈良時代末期のものであり、同型式のものは長岡宮跡・平安宮跡・北野廃寺跡からも発掘されている。長岡京遷都にともなって延暦10年(791)4月に山背国の諸寺の浮図(仏塔)を修理する勅命が出されているが(『続日本紀』巻40、延暦10年4月戊申条)、奈良時代末期の鬼瓦はこの時の修理の際のものとみられる。

 出土遺物と焼土の混入から、平安時代中・後期に焼失により廃寺となったとみられている。廃寺となった後の平安時代後期に桁行3間、梁間3間の建物が建てられており、付近から輸入白磁椀・二彩陶器が出土した(京都府教育庁文化財保護課1999)。この建物については荘園関係の遺構であると推測されている。また樫原廃寺跡地は鉄砲水に見舞われ、景観が一変したと考えられている(久世2004)


樫原廃寺跡北側(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)



樫原廃寺跡の案内板(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)

[参考文献]
・京都府教育庁文化財保護課(佐藤興治執筆)『埋蔵文化財発掘調査概報(1967)』(京都府教育委員会、1967年3月)
・杉山信三・佐藤興治「樫原廃寺跡の発掘調査概要」(『仏教芸術』66、1967年)
・京都市文化観光局文化財保護課『史跡 樫原廃寺』(京都市、1972年3月)
・京都市埋蔵文化財研究所(平尾政幸執筆)『樫原廃寺発掘調査概要 昭和55年度』(京都市埋蔵文化財センター、1981年3月)
・京都市埋蔵文化研究所(久世康博・東洋一執筆)『平成9年度 京都市埋蔵文化財調査概要』(京都市埋蔵文化研究所、1999年3月)
・菱田哲郎「平安京以前(京都の歴史)」(『街道の日本史32 京都と京街道』吉川弘文館、2002年10月)
・久世康博「樫原廃寺の再検討(上)」(『研究紀要(京都市埋蔵文化財研究所)』9、2004年3月)
・『飛鳥白鳳の甍〜京都市の古代寺院〜(京都市文化財ブックス24)』(京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課、2010年3月)


樫原廃寺跡の北側に鎮座する三ノ宮神社(平成24年(2012)8月8日、管理人撮影)



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