根本中堂



比叡山延暦寺東塔根本中堂(平成16年(2004)11月13日、文殊楼付近より管理人撮影)

 根本中堂(こんぽんちゅうどう)は、比叡山延暦寺東塔の中心的建造物で、延暦寺の総本堂です。文殊楼の西、大講堂の東の窪んだ場所に位置(外部リンク)しています。現在の建造物は寛永19年(1642)の再建で、国宝に指定されています。


根本中堂の形成

 延暦4年(785)7月中旬、最澄は山林静寂の地をもとめて叡山に登り草庵に居住した(『叡山大師伝』)。この草庵は「根本一乗止観院」と称され、薬師像を安置したという(『叡岳要記』巻上、根本一乗止観院)。これがのちの根本中堂となる建造物の原型なのであるが、創建された当時、根本中堂は現在見るような巨大な建造物であったわけではない。根本中堂は先にのべたように一乗止観院と称され、薬師堂・文殊堂・経蔵の3宇によって構成されていた。その規模は貞観元年(858)9月25日に円珍が作成したとする「勘定資財帳」(『山門堂舎記』・『九院仏閣抄』に引用される)によると、桧皮葺の根本薬師堂1宇が長3丈(9m)、広さ1丈5尺5寸(4m69cm)、高さ1丈2尺(3m63cm)であり、桧皮葺の文殊堂1宇が長さ3丈3尺(10m)、広さ1丈6尺(4m84cm)、高さ1丈2尺(3m63cm)、桧皮葺の5間の経蔵1宇が長さ3丈3尺(10m)、広さ1丈6尺(4m84cm)、高さ1丈2尺(3m63cm)とされ、薬師堂・文殊堂・経蔵はそれぞれ長さが3丈(9m)ほどのほぼ同じ寸法であったことが知られる。

 経蔵とは文字通り経典を収める蔵のことであるが、最澄は一切経書写事業を企画し、弟子の経珍(生没年不明)に告げた。そこで師弟は一切経を書写していったが、この事業には叡勝・光仁・経豊などが助写し、最澄は書写したものを片っ端から読んでいった。この事業は昼夜を問わず行なわれたが、「山家」(のちの延暦寺)には蓄えがなかったため、五千巻ともいわれる一切経をすべて書写することができなかった。そこで最澄は願文をつくり、南都諸大寺に回覧させた。この事業に賛同して大安寺の聞寂が助力したほか、「東国の化主」と称された道忠は二千巻も書写した。今(9世紀前半)、叡山蔵に安置される経典は、この経典のことである(『叡山大師伝』)。このように最澄在世中に発願された一切経を納めるため経蔵がつくられたのだが、経蔵と薬師堂・文殊堂の三堂がのちに根本中堂を形成することとなる。

 『九院仏閣抄』に引用される『元慶年中記』によると、「(根本中堂は)昔、伝教大師が造営したものであり、始めは薬師堂・文殊堂・経蔵があった。年月がへるにつれ、壊れ始めてきた。そこで座主の智証大師(円珍)は、止観院を修造し、旧規を改め新たに9間(16.2m)の堂1宇を建立した。〔東には孫庇がある。〕始めたのは元慶6年(882)6月7日で、仁和3年(887)11月7日に至って、造営は終了した。(中堂のうち)中央の5間分は薬師堂とし、南の2間分は経蔵に、北の2間分は文殊堂として、2堂(経蔵・文殊堂)は中堂に付属させた。」とあり、元慶6年(882)より仁和3年(887)まで6年におよぶ大工事によって、3堂は9間4面の堂(根本中堂)に集合されたことが知られる。
 しかし、承平5年(935)3月6日に中堂・前唐院、および官舎・私房のすべての41箇所が焼失した。尊像はすべて取り出している。同月17日には宣旨を蒙り、中堂の造営を開始し、3年後には完成している(『天台座主記』巻1、13世大僧都尊意和尚、承平5年3月条)。なお焼失した年は、『天台座主記』・『扶桑略記』裡書では承平5年としているが、『扶桑略記』本文・『天元三年中堂供養願文』では翌6年(936)としている。

 その後、天元元年(978)、天台座主良源は根本中堂の大規模な修造を開始し、天元3年(980)9月3日、落成し、斎会を設けて供養した(『九院仏閣抄』)。この時の願文である『天元三年中堂供養願文』によると、修造の理由として、狭い廂があるのみで、廻廊がないため、法会において僧等が風雨にさらされることをあげている。

 さらに『天台座主記』によると、根本中堂が11間4面の大堂へと巨大化したことによって根本中堂のある窪地状の狭い平地では対応できないため、南岸の土をとって北谷にうずめたが、それでも経蔵を設ける場所がないため、根本中堂より経蔵を分離して、虚空蔵堂の南隣に5間4面の規模で経蔵を建立したとある(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、天元3年9月晦日条)。根本中堂を11間4面としたのはこの時であるかと思われる。11間4面は、現在の根本中堂と同じ間数である。その後天治元年(1124)には修復が行なわれている(『天台座主記』巻2、45世僧正法印仁実、天治元年9月条)。なお現在の根本中堂の規模は桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、棟24.46mとなっている。

 根本中堂はこの再建によって巨大化したが、内陣は土間となっていた。現在の根本中堂も内陣は土間のままであり、外陣よりの一段低い構成となっている。一般的に仏堂の床は、奈良時代までは現在みるものとは異なって板張ではなく、土間であった。また内側はあくまで仏のための空間であって、僧はその外で礼拝するものであった。それが内陣・外陣の区別のはじまりであるが、のち平安時代前期になると礼拝のため参詣する者が現われた。そこで堂の前に庇を葺き落して礼堂とした。これが孫庇であるが、やがて参詣者の中には仏堂に泊まり込んで何日も参詣する者が現われた。これを参篭というが、この参篭のため、土間であった仏堂はやがて板張りとなるようになった。ところが根本中堂をはじめとして、天台系の本堂(延暦寺東塔根本中堂・延暦寺西塔釈迦堂・園城寺金堂・円教寺講堂)の内陣は土間のままとなっており、外陣は板張りで内陣よりも一段高くなっている。これら天台系の本堂の基本形は根本中堂とみることができるが、根本中堂が3堂から9間堂への集合、11間の大堂へと拡大発展する中、最澄以来の伝統が内陣において一貫として守られ続けていたと評する意見がある。


比叡山延暦寺東塔根本中堂(平成16年(2004)11月13日、前唐院付近より管理人撮影) 



根本中堂縦断面図(『国宝延暦寺根本中堂及重要文化財根本中堂廻廊修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉図面5より一部転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。 内陣が一段低い土間となっていることがわかる。

中堂薬師

 さて、根本中堂といえば現在、観光案内や延暦寺に参詣した人のサイトやブログをみると最澄自刻の薬師如来像と「不滅の法灯」が著名である。「不滅の法灯」つまり常灯明については後述することとして、薬師如来像について述べたい。
 この薬師如来像は『山門堂舎記』根本中堂条によると、延暦7年(788)に薬師堂を建立した際、虚空蔵尾に倒れていた木を伐採し、手づから薬師仏像1体を彫刻して安置したという。薬師堂は文殊堂と経蔵の間にあったため中堂といったのだが、『山門堂舎記』の成立は鎌倉時代まで下るため、この記事に関して信憑性が問われる。
 確実な史料の初見は光定の『伝述一心戒文』に中堂薬師に関する記述があり、また弘仁14年(823)4月14日に始めて大乗戒を授けた際、中堂の薬師仏像の前にて授戒を行っている(通行本『慈覚大師伝』)ことが知られる。

 この薬師仏像はどのようなものであったのであろうか。『阿婆縛抄』巻46薬師本によると、「施願無畏〔通仏の相なり〕これ苦しみを抜き楽を与えるの義なり。秘説にいわく、中堂薬師は施願・無畏なり。忠師みずからこれを見ゆ。(中略) 東寺金堂ならびに南京の薬師寺像、右手をあげて左手を垂らす。左足をもって右膝を押す、云々。あるいはいわく、和州室生寺薬師仏これに同じくするなり、云々。」とあることがわかる。すなわち『阿婆縛抄』の編者・承澄(1205〜82)の師である忠快(1162〜1227)は秘仏である中堂薬師をなんらかのきっかけがあって見たところ、印相は施願・無畏、つまり右手をあげて左手を垂らすというものであったという。つまり中堂薬師は一般的な薬師如来像の印相である右手をあげて左手に宝珠を載せるという姿ではなく、「通仏の相」というように釈迦如来・弥勒如来・盧舎那仏といった普通の仏像との区別が困難な様相であり、東寺金堂の薬師如来像(現存せず、現在金堂には桃山時代康正作の薬師如来像が安置されている)、薬師寺金堂蔵の薬師三尊像中尊(銅像鍍金、8世紀前半、像高254.7cm)、室生寺金堂蔵の伝釈迦如来立像(薬師如来立像、木造彩色、9世紀後半、像高234.8cm)がこれと同様の形像であった。

 先の引用部分に「(中略)」とした部分は「実相院は後朱雀院の御願なり。梨下座主明快〔時に護持僧なり〕沙汰して、中堂の本仏を写し奉る。師は円融房の行事なり。件の仏、もと宝珠を持たず、人々謗難するの間、後にこれを持たしむ、云々。」という文があるのだが、この文にあるように康平6年(1063)に後朱雀天皇の御願により実相院が建立された際に、天台座主明快(985〜1070)は中堂薬師を模刻したのだが、人々が違和感を覚えたのか非難したため、垂らしてあった左手を宝珠を持つ手にかえたという。この記事によって、すでに康平6年(1063)の段階で施願・無畏の印相は違和感を覚えるほどの古様となっていたことが知られる。
 『叡岳要記』に「同(中堂)薬師仏像一躯。〔高さ五尺、身は金色、衣文は綵色。〕」(『叡岳要記』巻上、根本一乗止観院)とあるように、中堂薬師の像高は5尺(150cmほど)であり、東寺金堂・薬師寺金堂の薬師如来が丈六座像であるのと対比を示している。また肉身を金、衣部分を朱とする「朱衣金体」である。この「朱衣金体」と、印相が施無畏・与願であること、地髪部と肉髻部があいまいでなだらかに続いている、いわゆる「スキー帽形」であること、股間の衣文がY字となっていることが天台宗系の薬師如来立像の典型であり、中堂薬師の模刻であると考えられている。これらは総称して「天台薬師」といわれている。

 根本中堂の薬師如来像は、永享7年(1435)2月5日の根本中堂自焼の際に焼失してしまい、宝徳2年(1450)仏師に命じて焼け材を利用して造立させた(『康富記』宝徳2年5月16日条)。これも信長の比叡山焼討ちで再度焼失してしまった。現在の根本中堂の薬師如来立像は、江戸時代の延暦寺再興の時に横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)より移座したものである。それは横蔵寺の薬師が最澄自刻のものであるという記録が横蔵寺にあったことによるものである(「豪盛書状(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉246頁)。移座するに際して像内より金銅仏が取り出されている。これが現在横蔵寺蔵の薬師如来立像(銅造、像高36.6cm、平安時代)である。この横蔵寺蔵の薬師如来立像は中堂薬師像とは異なり、下に垂らした右手は衣の先を握り、左手に薬壷を持っている。裳裾に「邃授澄貞元廿一四」という銘文があり、「道邃が最澄に授ける。貞元21年(805)4月」と解釈できる。この胎内薬師如来像は最澄が唐より請来したとされている(「豪盛書状(『立石寺文書』)」)。ただしこの銘文は中世の後補と考えられている。

 根本中堂の薬師如来像は寛永17年(1640)12月に翌々年の中堂供養に先んじて七条仏師康音(1600〜83)によって修復された(『本朝仏師正統系図并末流』康音尻付)。宝永3年(1706)12月にも中堂・講堂・文殊楼の諸仏像が残らず修飾されているが、この時の「薬師之ホソ寸法」の調べによると、薬師如来像のほぞ穴は縦2寸5分(7.5cm)、横1寸9分(6cm弱)であった(『本朝仏師正統系図并末流』康伝尻付)

 ところで、秘仏であった根本中堂薬師如来立像が天台宗開宗1200年記念事業の一環として、一般公開された。『別冊太陽 比叡山』(平凡社、2006年4月)12頁に根本中堂薬師如来立像の写真が掲載されているが、この写真をみる限りでは、印相は薬壷を持つ一般的な薬師如来像の様相であり、天台薬師の様式とは異なっている。


『覚禅鈔』巻第3、薬師法(『大正新修大蔵経 図像部4』〈大正新修大蔵経刊行会、1933年1月〉50頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている) 



根本中堂中央厨子全景 (『国宝延暦寺根本中堂及重要文化財根本中堂廻廊修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉写真24より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。根本中堂の内陣の中央に鎮座するこの厨子の内部に、本尊薬師如来が安置される。

鳩が新常灯明を消す

 後醍醐天皇は、元徳2年(1330)3月27日に山門に行幸し、根本中堂の北の礼堂を御所とし、大講堂供養を行い、根本中堂にて新常灯明を挑げた。28日に無動寺に行幸するまで滞在したが、この時の座主は後醍醐天皇の皇子尊雲(大塔宮)で、のち還俗して護良親王と名乗った。尊雲親王は修行・学問を行わず、武芸を嗜んでいたという。これは後醍醐天皇による倒幕計画の一環であったが、尊雲親王の行動は関東につつぬけであったという。

 常灯明は、無尽灯・常夜灯とも称される。これは『維摩経』菩薩品に、一人の者が、法をもって多数の衆生を開導すれば、また多数の衆生が多数の者を開導し、展転して尽きないことから、あたかも一個の灯が次々に移されて無数の灯となることに譬えていうもので、菩薩の化導の義として説かれる。これが実際に常灯明として行われるようになった時期は不明であるが、中国・唐の華厳宗第三祖の法蔵(643〜712)は武周の則天武后のために、十鏡を八隅に置き、その中に仏像を安置して火を灯し「刹海重重無尽之意」を表わしている(『仏祖統紀』巻第33、法門光顕志第16)

 日本では常灯明がいつ頃から行われていたかは不明であるが、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「常灯分壱仟束」とあることから、奈良時代より存在したようである。最澄の常明灯に関しては、その濫觴の詳細は不明だが、中国・天台三祖の智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)が『維摩経』の注釈書である『維摩経略疏』を記していることからもわかるように、無尽灯に対する関心は深かったようである。
 『伝述一心戒文』によると、天長年中(824〜34)、延暦寺俗別当であった権中納言藤原三守(785〜840)が淳和天皇に奏上して、延暦寺灯分宣旨が太政官に下された。この延暦寺灯分宣旨については詳しいことは不明だが、内容は灯分を2分し、そのうち1分は根本中堂の薬師仏の灯明料に、1分は三昧堂での法華経を読むための灯明料とするというものである。この延暦寺灯分宣旨が下った時、同じく延暦寺俗別当であった伴国道(768〜828)は、光定に、いかなる理由によって灯分が2分されたか光定に質問した。光定は、「三昧堂衆が“1合の油で法華経を照らして読んでいたが暗かったため、数日後、5撮の油を加えてみたところ明るかった”といっていたため、三昧堂に1合5撮の油を供すべきである。中堂の薬師仏は、年分を2人を寄し、永代の基となすべきである。そのため1合5撮の油を供すべきなのである。これ合わせれば、灯分は3合である。(これによって)淳和天皇は延暦寺に灯分を施入し、また大納言藤原冬嗣(775〜826)はこれを計り、永代の灯分を2堂に供し宛てた」と答えている。これによって伴国道は官符の文を作成している(『伝述一心戒文』巻中、灯分達天長皇帝分為於二分一分供中堂薬師仏一分供三昧堂講法華経文13)。この灯分3合は、1年360日にて計算すると、1080合、つまり1斛8升となり、『延喜式』巻26主税上に「およそ延暦寺の灯分油は1斛8升。(後略)」と規定されているのもに符合する。

 天禄3年(972)、廬山寺文書の「天台座主良源遺告」(『平安遺文』305)に、根本中堂ではないが常灯料のことがみえている。『宇津保物語』藤原の君に「比叡の山に、惣持院の十禅師なる大徳のいふやう、かタきを得んずるやうは、比叡の中堂に、常灯を奉り給へ。」とあることからもわかるように、著名な最澄常灯のみならず、他者も発願による常灯を挑げることができた。また常灯明は天台宗では叡山各末寺にもあり、四天王寺・三千院・北野社などが著名であり、高野山の灯篭堂の常夜灯がよく知られるところである。

 ここであげる新常灯明とは、後醍醐天皇が桓武天皇が自ら挑げたとされる常灯になぞらえて、手づから120筋の灯心をたばね、銀の油錠(油皿に足がある祭具)に油を入れた灯明であり、皇統の無窮をかがやかせることを願ったものであった。『太平記』巻5中堂新常灯消事によると、山門の根本中堂の内陣に山鳩1つがいが飛んで来て、新常灯の油錠の中に飛び入り、暴れたため、灯明がたちまち消えてしまった。この山鳩は、堂中の暗がりのため行方不明となっていたが、仏壇の上に翼を低くしているところ、イタチ1匹が走り出で、この鳩2羽を食い殺した去ったという。この事件の真偽は不明で、年月日も未詳であるが、『太平記』では、元弘2年(1332)の付近にかけている。ただし、元弘3年(1333)の閏2月24日付の「花園天皇宸翰消息」(京都国立博物館蔵)に、「兼ねてまた常灯の事、鳩これを消すの後、断絶するかの旨、(後略)」とあることから、少なくとも鳩が常灯を消したことが確認できる。

 なお、根本中堂の後醍醐天皇新常灯明は、再び灯されたようであるが、貞和2年(1346)2月13日夜の亥刻(9時)に、初夜の行法の鐘木にて誤って消されてしまっている(『園太暦』貞和2年2月13日条)。常灯明は、「常灯」という位であるから、消えさせないことが原則ではあるが、不意のことで消えることも多かったようである。新常灯明以前にも、元暦2年(1185)7月9日に京都を襲った地震では、根本中堂の常灯は、承仕法師(堂舎・仏具などを掌り、法事等の雑役に従事する者)がこれを取り出して、消させなかったが(『玉葉』元暦2年7月9日条)、同12日に再度地震があったときには、根本中堂にあった4灯あった常灯明のうち、3灯は消えてしまい、最澄の常灯明のみが消えなかったという(『源平盛衰記』巻第45、内大臣関東下向附池田宿游君事)。ただし桓武天皇の常灯の詳細は不明である。『天台座主記』によると、天禄3年(972)に3灯を統一して1灯としたとあるが(『天台座主記』巻1、宗祖伝教大師、延暦7年条、付天禄3年項)、桓武天皇の常灯はこの時に最澄の常灯明と併せられたのかもしれない。

 常灯明は天台系の諸寺に多くあり、天台系の諸寺には根本中堂の常灯明が伝えられる事が多かった。山形県の立石寺もその一つである。立石寺は慈覚大師円仁の創建にかかるとされているが疑わしい。この立石寺は創建当時に根本中堂の常灯明を運んでいたとされていた(「天台座主二品法親王尊鎮置文写」『立石寺文書』(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉245頁)が、天童頼長・成生十郎らの攻撃により立石寺が廃滅した。立石寺の復興にあたって住僧一相坊円海が天文12年(1543)4月13日に叡山に登り、東塔仏頂台教王院を宿房として滞在し、根本中堂の最澄の常灯明より灯明を申し受けて立石寺に戻り、8月15日に立石寺の常灯明を復活させた(「一相坊円海置文写」(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉245頁)。

 最澄の常灯明は永享の乱(1435年)に際しては無事であったものの、元亀の織田信長の比叡山焼打ちに際して根本中堂ともども常灯明も失われた。のちに比叡山が再興され、天正13年(1585)に根本中堂が再建されるあたって、最澄の常灯明も復興されることとなった。その42年前に立石寺が根本中堂の常灯明を受けたことにより、立石寺の常灯明の灯明は根本中堂に移され、天正17年(1589)10月25日、立石寺に常灯明を移した立石寺の住僧一相坊円海が今度は根本中堂に灯明を運び、復興された(「豪盛置文写」(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉253〜254頁)


比叡山延暦寺東塔文殊楼(平成16年(2004)11月13日、管理人撮影) 

永享の乱と根本中堂の焼失

 天元3年(980)に再建された根本中堂は、以降455年にわたって焼失することもなく、偉容を東堂にはなち続けていたが、永享7年(1435)に永享の閉篭事件によって焼失した。

 ことの発端は永享6年(1434)7月、山門(叡山)は幕府に対して12ヶ条の要求をつきつけた(『満済准后日記』永享6年7月11日条)のがはじまりである。当時の将軍は足利義教(1394〜1441)である。足利義教は将軍となる前は出家して義円と名乗り、第153世天台座主であった。将軍に選出されたため還俗して天台座主職は辞任したという特異な経歴をもっていた。
 同月23日、幕府は六角・京極両氏に対して、山門領の押収のため、近江国(滋賀県)に下向させた(『満済准后日記』永享6年7月23日条)。27日には山僧らは日吉神輿六社を根本中堂内に引き入れ閉篭(立てこもり)した(『満済准后日記』永享6年7月29日条)。8月幕府は山徒が上意(将軍の命令)に背いたとして、山門(叡山)領をことごとく差し押さえさせ、さらに近江の六角・京極両氏に対して近江国(滋賀県)に下向させ、悪党を鎮圧すべし、という命令が出していたが、これに対して山門(叡山)も将軍を呪詛し、さらに幕府と微妙な関係にあった鎌倉公方に対しても上洛すべきであると勧めるほどであった。それにもかかわらず諸大名は将軍の強行意見に難色を示し、三管領の一つ畠山氏の家人遊佐氏にいたっては将軍の命に背いて河内国(大阪府)に戻るありさまであった(『看聞御記』永享6年8月18日条)。8月22日には京極持光の軍勢が近江国に下向したが、勢多橋において山徒と合戦となった。京極勢は山法師を撃破した(『看聞御記』永享6年8月22日条)ものの、京極勢は名のある武将が討ち取られるなど、犠牲が多かった。そのため土岐氏が加勢のため派兵された(『看聞御記』永享6年9月5日条)。この加勢が功を奏したのか、9月末までには山徒側にとって戦況は絶望的となり(『看聞御記』永享6年9月27日条)、11月6日夜、山徒らは坂本金輪院を自焼して根本中堂に閉篭した。このため幕府は畠山・赤松両氏を山門へ向わせた(『看聞御記』永享6年11月6日条)

 永享7年(1435)2月4日、延暦寺からの使節4人が交渉のため京都に来たが、義教はこの4人を悲田院にて斬首してしまった(『看聞御記』永享7年2月4日条)。この報を聞いた山徒らは同月5日、根本中堂に放火してしまった(『看聞御記』永享7年2月6日条)。根本中堂に立て篭もって自焼・腹切した者は24人におよび、根本中堂安置の薬師如来像も焼失してしまった。またある煎物商人が路頭でこの事について噂したところ、逮捕・斬首されてしまった(『看聞御記』永享7年2月8日条)。これについて『看聞御記』の記録者である伏見宮貞成親王(1372〜1456)は「万人恐怖」と評した。

 根本中堂の再建は焼失してわずか6ヶ月後の8月3日に開始され(『看聞御記』永享7年8月3日条)、嘉吉3年(1443)頃までには落成していたらしい。この時再建された根本中堂は明応8年(1499)7月20日に細川政元(1466〜1507)被官の赤沢朝経・波々伯部宗量らが軍勢を率いて延暦寺を攻撃した際に、根本中堂・大講堂などを焼き払ったため(『後法興院記』明応8年7月20日条・『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12日条)、再度再建工事が着手され、永正15年(1518年)4月4日に落慶供養が行なわれた(『天台座主記』巻5、161世尭胤親王、永正15年4月4日条)


比叡山根本中堂指図(『国宝延暦寺根本中堂及重要文化財根本中堂廻廊修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉27頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。同図は明応2年(1493)4月2日に権僧正祐済によって書写されたもの。永享7年(1435)焼失以前のものか、その後のものかどうかは不明である。 



根本中堂および附廻廊平面図(『国宝延暦寺根本中堂及重要文化財根本中堂廻廊修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉第1図面より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

近世の再建

 延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、根本中堂もまた焼失した。延暦寺は信長の横死後に漸次再建に着手されているが、根本中堂も天正13年(1585)に再建工事が着手され、天正17年(1589)10月までには完成したらしい(「豪盛置文写」(『立石寺文書』)」(『山形県史 資料篇15上 古代中世史料1』〈1977年3月〉253〜254頁)。しかしこの堂も寛永7年(1630)9月18日の大風によって大講堂・文殊楼・法華堂・常行堂もろとも顛倒している(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永7年9月18日条)

 寛永11年(1634)、徳川家光(1604〜51)は根本中堂・大講堂・文殊楼の造営を分部光信(1591〜1643)・朽木稙綱(1605〜61)らを奉行として造営にあたらせた。これは南光坊天海(1536〜1643)の口添えによるもので、家光は天海に深い信頼をよせていたため実現することができたのである(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。寛永19年(1642)12月19日に根本中堂の造営が完了し、この日の夜に供養が行なわれた。ただし大儀を用いず、略式の供養とされた。供養の導師は天台座主の尭然が行なった(『天台座主記』巻6、171世入道二品尭然親王、寛永19年12月19日条)。この時完成した堂が、現存する根本中堂である。

 再建された根本中堂はこれまで6度の修理工事が行なわれている。最初は寛文8年(1668)に実施され(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文8年同年条)、柱根継・屋根くぬぎ葺替えが実施された。第2回は元禄16年(1703)に開始されている(『天台座主記』巻6、189世入道無品尭延親王、元禄16年条)。宝暦元年(1751)12月23日に根本中堂の屋根が大雪のため崩落したため(『天台座主記』巻5、207世入道二品尭恭親王、宝暦元年12月23日条)、宝暦3年(1753)3月15日より第3回の修復工事が開始されている(『天台座主記』巻6、207世入道二品尭恭親王、宝暦3年3月15日条)。第4回は寛政10年(1798)春から秋にかけて行なわれ、9月に修復工事が完成している。この時屋根をくぬぎから銅板に改められたが、廻廊の屋根はくぬぎのままであった(『天台座主記』巻7、215世一品尊真親王、寛政10年従春至秋条)。第5回は明治23年(1890)、第6回は昭和30年(1955)に行なわれた。



[参考文献]
・佐藤哲英「初期叡山の経蔵について-新出の『御経蔵目録』『御経櫃目録』を中心として-」(『仏教学研究』8・9、1953年)
・『国宝延暦寺根本中堂及重要文化財根本中堂廻廊修理工事報告書』(国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月)
・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』(同朋舎、1978年5月)
・佐伯有清『伝教大師伝の研究』(吉川弘文館、1992年10月)
・奈良国立博物館編『東アジアの仏たち』(奈良国立博物館、1996年4月)
・京都国立博物館編『京都国立博物館蔵 宸翰-文字に込めた想い-』(京都国立博物館、2005年3月)
・『別冊太陽 比叡山』(平凡社、2006年4月)


比叡山根本中堂彩色図面(『国宝延暦寺根本中堂及重要文化財根本中堂廻廊修理工事報告書』〈国宝延暦寺根本中堂修理事務所、1955年10月〉巻頭より一部転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。 



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