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涼しくなってきましたので、家で私が持っている唯一の掛軸を曝涼しました。
園部藩の儒者の劉石秋(1796〜1869)の漢詩文です。
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京都市美術館です。帝冠様式と、平安神宮の大鳥居が絶妙な組み合わせです。
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最近、浄福寺関連で西陣の浄土宗寺院を『知恩院史料』所載の『知恩院役者日鑑』から調べています。この史料は知恩院が末寺掌握のため、知恩院の執政を司った役者(塔頭2人と京都の有力寺院6人からなる)による記録なのですが、珍事件や怪奇事件、寺院内の争いも記されており、結構はまっています。
鞍馬口の上善寺が享保16年(1731)に本堂を再建したのですが、その時、小棟造することとして二条の京都所司代に届け出していましたが、実際に10月11日に役人が実検してみると、小棟造ではなく、入母屋造となって完成していました。上善寺側は大工が間違ったと申し立てしましたが(つくっている最中に気づきそうなものですが…)、結局13日に上善寺住持と大工は閉門を申し付けられ、本堂の改築を命じられたのです。
その後どうなったのかわかりませんが、同年11月3日に西陣の真教寺より、大工の庄兵衛が自殺したとの報告があがっており、もし庄兵衛が閉門を申し付けられた大工であったとすると、かなり後味の悪い事件となってしまいました。
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さて、当の真教寺も怪事件がいくつか発生しており、『知恩院役者日鑑』によると、享保5年(1720)5月7日夜には、真教寺内に銅の釣瓶が捨てられており、そこには「六親菩提」と書かれているため、何者かが先祖供養の寄進物として釣瓶を投げ込んだようです(『知恩院史料 日鑑・書簡編八』41頁)。
また同じく日鑑によると、享保18年(1733)4月1日朝には真教寺の門前に小さな女の子が小さな壺に入れられて、捨て子となっています。(『知恩院史料 日鑑・書簡編一二』65頁)
写真は真教寺山門。
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同じく『知恩院役者日鑑』より、親縁寺のこと。
享保13年(1728)に親縁寺より知恩院に報告があり、住職が数日前より行方不明になっているとのこと。
さらに数日たっても戻ってこなかったため、住職の周辺を調査してみると、住職には多額の借金があり、返済不能に陥ったため、行方を眩ませたと推測され、次の住職が任命されることになりました。
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ついでに報土寺です。
山門と本堂は近世初期の浄土宗建築の代表例で、重要文化財です。
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周山街道から出発して裏愛宕道を歩いて、ウジウジ峠・首無地蔵から愛宕山に登りました。
報告はこちら。
写真は首無地蔵付近からの京都への眺望。
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福王子から沢ノ池を通過して上ノ水峠に行きました。
報告はこちら。
写真は沢ノ池。ほとんど湖といっていいほど大きいです。
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妙心寺ではお盆の施餓鬼が行われているようで、夜にもかかわらず燈火がともされています。
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妙心寺の道です。
両側に灯籠がともされ、神秘的です。
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今日は運転免許書更新のため、運転試験場に行きました。
写真は途中の山王神社。
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太子道から五条通にかけてだったと思うのですが、閘門のようなものがあります。
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光福寺です。
この寺は通称「干菜寺」として知られる天台宗の寺院ですが、近世期には浄土宗知恩院の末寺であったようです。
最近浄福寺関連で読んでいる『知恩院役者日鑑』の元禄7年(1694)正月27日条に、「一 六斎念仏、光福寺本寺証文三通、宛所者小堀藤三郎殿相認遣候、」(『知恩院史料 日鑑・書簡編一』162頁)とあります。
すでに17世紀頃には六斎念仏で知られていたのですね。
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長福寺です。
拝観不能寺院ですから、そとから見るだけ。
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またまた船岡温泉の前の眼鏡屋さんのお散歩猫のラッキーちゃんです。
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