東坂



坂本日吉馬場(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 東坂(ひがしざか)は近江国坂本(滋賀県大津市)から比叡山延暦寺東塔に登るおよそ3kmの道で、近江側からの主要道であるとともに、事実上比叡山の表参道として利用されてきました。本坂・東塔坂の異名があります。

 東坂はJR比叡山坂本駅から西側の比叡山に向かって日吉馬場を歩いて行くと、中の鳥居に着きます。中の鳥居は生源寺付近にある鳥居で、東坂の出発点と考えられていました。なおこの付近には京阪石山坂本本線の坂本駅があります。


中の鳥居(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 日吉馬場の生源寺について、正確な建立時期は不明ですが、近世期の伝承では最澄の父の百枝の邸宅であり、最澄の誕生地であるとされています(『山門名所旧跡記』巻第2、山門坂本名所名木名水名石旧跡記、上坂本名所等略記、産湯井)

 安元2年(1176)の「中務録行家田地処分状」(雨森善四郎所蔵文書、平安遺文3769)によると、近江国神崎東郡山前本日吉神田を生源寺別当が相伝していましたが、鳥羽法皇の時代に五箇荘が成立した際に日吉神に寄進されたといい、少なくとも平安時代後期までには実在していたことが知られます。

 中世の伝説では、最澄が生源寺にて誕生したといい、これまた宝亀10年(779)に妙楽湛然が来日して生源寺にて最澄と問答したといいます。また最澄は父の十三回忌に際して法花十講を生源寺で行ったといい、本尊十一面観音は最澄の自作であるとされています(『渓嵐拾葉集』)。また弘仁13年(822)6月4日に最澄は中道院にて示寂していますが(『叡山大師伝)、この中道院は鎌倉時代には生源寺であると考えられていました(『山門堂舎記』浄土院)

 生源寺は中世の軍記物にも登場し、養和2年(1182)の平家が衰退に向かう中、比叡山でも蜂起が画策され、大講堂の大鐘や生源寺の鐘が叩かれたといいます(『源平盛衰記』巻第28、顕真一万部法華経事)。また『太平記』によると、延元元年(1336)6月に比叡山に侵攻しようとする足利尊氏の攻撃を防ぐため、西坂(雲母坂)に軍勢が現われたならば本院の鐘、坂本で戦闘がおこったなら生源寺の鐘を鳴す取り決めがなされましたが、生源寺の鐘を猿が乱打したため、比叡山は大混乱となり、西坂から攻撃してきた足利勢に敗れたといいます(『太平記』巻第17、山攻事付日吉神託事)

 生源寺の現在の建物は、文禄4年(1595)に園城寺弥勒堂(本堂)を釈迦堂の再建に転用した際、余材で建立したものです(『天台座主記』巻6、167世二品尊朝法親王、文禄4年条)


生源寺(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 白毫院の穴室です。これは寛永年間(1624〜44)に白毫院主が貧しい人々の飢饉を救うため、多くの飢えた人々を雇って築いたものです。東側から中に入れるといい、南側に出るそうです(『近江国輿地志略』巻之22、志賀郡第17、比叡山、白毫院)


穴太衆積石垣(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



石垣(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 地蔵堂は六角形の堂で、最澄作の六地蔵を安置したといいます(『近江国輿地志略』巻之17、志賀郡第11、上坂本、地蔵堂)。早尾社の前に位置したことから早尾地蔵尊と呼ばれています。


早尾地蔵尊(六角地蔵堂)(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



早尾地蔵尊付近の石仏(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 早尾地蔵尊を過ぎると、東坂の入口に到着します。かつては山王西本宮前の極楽橋を渡る登り口がありましたが、極楽橋が流された後は使われていません。またここから南へ250mほどでケーブル坂本駅に着き、ケーブルカーで無動寺と東塔の間に到着することができます。


東坂入口の石段(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 東坂入口から200mほど登ると大宮渓道との分岐があります。ここを左に行くと、垢坂に到達します。


東坂と大宮渓道の分岐(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 垢坂は赤坂ともいい、52段にもおよぶ石段です。これはもとからの道ではなく、近世期よりさほど溯らない時期に作られた道です。近世以前はこの道の南側を通過していましたようです(『近江国輿地志略』巻之22、志賀郡第17、山門東坂)。現在では垢坂の南側を迂回する道がつけられ、往古の風を保っています。

 垢坂はかつての浄刹結界跡地でもあり、ここから先は女性の通行が禁止されていました。垢坂の石段の北側には江戸時代前期の墓地・石仏が林立しており、また北側には近年、南善坊が創建されています。


垢坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



南善坊(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



南善坊からみた琵琶湖(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 垢坂を過ぎると、椴木館という1間四方の休息所がかつてありました。東坂にはこのような休息所が五ヶ所あり、「和労堂」、ないしは「宿〈館〉(やどり)」と称していました。和労堂は読んで字の如く、「労を和(やわら)ぐ」堂であり、参詣者の疲労を和らげていました。

 ここを過ぎるとさらに登っていきますが、ここは栗坂と呼ばれています。栗坂は別名を「垢離坂」というように、垢坂の52段の石段で穢れを払い、その垢を脱すことから付けられた名称とみられます。


東坂の鹿除けの入口(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



栗坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



栗坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



栗坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 栗坂を登って行くと、左側に分かれ道があります。「山門三塔坂本惣絵図」(内閣文庫蔵)によると、この付近に和労堂がありました。この和労堂は「花懸館(宿)」です。

 この分岐を右に約20mほど降ったところの右側(北)に、大宮渓道に向かう小道の入口があります。

 また分岐を左に急な坂を100mほど登っていくと、花摘堂に到着します。花摘堂は最澄の母を祭る場所ともいい(『近江国輿地志略』巻之22、志賀郡第17、花摘社)、また円珍が母を祀って勧請したともいいます(『比叡山堂舎僧坊記』東塔、東谷仏頂尾)


栗坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)。左側は花摘堂への道の入口



東坂支道の花摘堂への道(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



東坂支道の花摘堂への道の石段跡(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 花摘堂は三宮(そうのみや)ともいい、女性が登ることを禁じられた比叡山において、ここのみが毎年4月8日に女性が参詣することを許されていました。

 花摘堂の付近には「要(かなめ)の宿」という、宿(やどり)がありました。ここから琵琶湖をみると、山間が扇のように見え、この地点が扇の中心であるかのようにみえたことからの名称とされています(『近江国輿地志略』巻之22、志賀郡第17、要館)

 花摘堂跡には昭和54年(1979)に建てられた石碑があります。花摘堂跡は尾根の上にあるため、尾根づたいに東坂に戻ることができます(逆にいえば、栗坂を分岐よりも先に進み、尾根道との合流地点から逆につたえば、花摘堂跡地につきます。支道から行くよりもこちらの方が楽です)


花摘堂跡(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 花摘堂への尾根道との合流地点付近から道は次第に荒れたものとなってきます。雨のたびに道に流れる水が、地面を浸食していくので、道の中央部はV字形になっていきます。やがては雲母坂のように完全なV字形になってしまうかもしれません。


栗坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 さらに登っていくと、左側に2mほどの宝篋印塔がみえます。

 この宝篋印塔は道から少し高い崖状のところにあり、その前方には石段らしき跡が残っています。石の玉垣に囲まれており、塔身には「ア」「アー」「アン」「アク」の種字が彫られています。銘文によると天保10年(1839)6月15日に四十億余辺念仏供養の記念に造立されたものです。

 この宝篋印塔の背後には、近世期に三光院・白毫院・光聚院・華王院・延命院といった東谷東谷の僧坊が建ち並んでいましたが、現在ではわずかに平坦地や石垣が残るのみです。


栗坂の宝篋印塔(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 宝篋印塔からさらに登ると、悲田谷道との分岐に到着します。「山門三塔坂本惣絵図」(内閣文庫蔵)によると、この付近に和労堂がありました。


栗坂、悲田谷道との分岐(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



悲田谷道との分岐の石仏(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 悲田谷道との分岐を過ぎると覚運廟につきます。ここは覚運(953〜1007)の住した檀那院の跡地です。


覚運廟(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 聖尊院はかつて花懸宿を過ぎた左側にありました(『近江国輿地志略』巻之22、志賀郡第17、比叡山、聖尊院)。聖尊院は旧薬寿院跡に再建されています。

 聖尊院を過ぎた付近より、東坂は船橋坂と呼ばれています(『近江国輿地志略』巻之22、志賀郡第17、比叡山、船橋坂)


船橋坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 聖尊院は旧薬寿院跡に再建されています。付近に銅碑があり、信長の比叡山焼討ち後に比叡山の復興に尽力した薬樹院全宗(1526〜1600)の功績を讃えています。

 聖尊院の脇道から慈覚大師廟に到着します。


聖尊院(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 聖尊院を過ぎた付近より、東坂はコンクリート舗装されており、やや登りにくくなります。


船橋坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 途中、「法然上人得度御旧院」の石碑があります。


法然堂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



東坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 東坂を登りきると、延暦寺会館がみえ、右側の石段を登ると文殊楼に到着します。石段を登らず直進すると一隅を照らす会館付近に到着します。


[参考文献]
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年8月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)


東坂(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



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