前唐院



比叡山延暦寺東堂前唐院(平成16年11月13日、管理人撮影) 

 根本中堂の裏手に行くと、前唐院に着きます。
 根本中堂が一段低い場所にあるため、前唐院の付近より根本中堂をみおろすことができます。


慈覚大師円仁の示寂と前唐院

 唐院というのは、入唐僧の住房の通称である。南都大安寺道セン(王へん+睿。UNI74BF。&M021311;)の唐院、薬師寺戒明の唐院が著名で、他に東大寺・興福寺等にも唐院がある。今回の前唐院は慈覚大師円仁(794〜864)ゆかりの施設であり、円珍(814〜91)の唐院と区別するため、「前唐院」と称されたのであって、円珍の唐院、すなわち「後唐院」が園城寺に遷った後も、そのまま「前唐院」と称されたものである。

 前唐院は、『扶桑略記』に、「同年。延暦寺において禅唐院を建つ。」(『扶桑略記』第21、宇多天皇上、仁和4年同年条)とあり、『天台座主記』にも、「仁和四年〔戊申〕前唐院を建つ。」(『天台座主記』巻1、5世少僧都円珍和尚、仁和4年戊申条)とあるように、仁和4年(888)に天台座主円珍によって建立されたとあるが、『叡岳要記』には、「右の院は大師(円仁)平生の禅房なり。」(『叡岳要記』巻上、前唐院項)とあって、円仁生前のものなのか没後に建立されたのか詳細ははっきりとしない。ただし通行本『慈覚大師伝』では円仁の遺誡として、「(楞厳院の)中に我が房舎あり。もし留住の人あらば、親疎を論ずるなかれ。」とあるように、横川谷の首楞厳院に円仁の住房があったようである。ただし円仁が天台座主となって以降、東塔にて一山の経営を行ったようで、通行本『慈覚大師伝』では貞観6年(864)正月14日、円仁が死の床に臥せっている時、弟子一道(生没年不明)が戒壇院の前に到ると突然音楽が聞こえてきたため、その音がする場所を探って中堂と常行堂の間を行き来すると、「大師房」から音楽が発せられていることがわかり、驚いて中に入ってみると音楽が聞こえなくなったとある。この「音楽」というのは、往生者が没する直前には周囲の人々に音楽が聞こえてくるという往生伝の一典型であるが、「音楽」云々の説話はともかくとしても、この説話より「大師房」の位置関係をみてみると、「大師房」は中堂から常行堂の途中に位置していたことが知られる。中堂と常行堂の間とはかなりの距離があるため「大師房」の場所を具体的に比定することは困難であるものの、現在前唐院のある場所は中堂の裏手であるため、前唐院が「大師房」の位置に建てられた可能性がある。

 円仁は貞観6年(864)正月13日、自身が請来した真言経典・道具類を、最澄が同じく請来した真言経典・道具類とともに惣持院に納めて、惣持院を円仁の門徒に検校させること奏上し、15日に左弁官下文によって円仁の弟子の安慧(795〜868)に惣持院のこと執当させている(『天台座主記』巻1、3世内供奉円仁和尚、貞観6年正月13日条)。円仁はその前日の14日、円仁は示寂する1時間ほど前に清浄霊験の仏堂の側で滅するのはよろしくないとして「大師房」より弟子慈叡(生没年不明)の住房に移り、そこで示寂した(通行本『慈覚大師伝』)

 前述の通り、円珍は仁和4年(888)に惣持院に納められていた円仁請来の真言経典・道具類を前唐院に移しているが、何故惣持院に納められていたものを前唐院に移したのか不明である。円珍が経典の校合に熱心であったことから、最澄請来本と円仁請来本の系統を明らかにするために分離したのかもしれない。このことからみると、「大師房」が円仁示寂後に僧房なり別の用途に用いられていたのを、円珍が、円仁の入唐請来の真言経典・道具類を収めるため「前唐院」として改めて創設したとみるのが自然かもしれない。それ以降、円仁の入唐請来の真言経典・道具類は前唐院に安置されるようになり、再び惣持院には戻らなくなった。『叡岳要記』には桧皮葺の5間3面屋が1宇としており、円仁の入唐請来の真言経典・道具類の他に、天台教籍、伝教大師の影像があったほか、慈覚大師の真影坐像が安置されていたという(『叡岳要記』巻上、前唐院項)。天台座主が就任する際、前唐院の第1櫃を開けるという儀式があり、前唐院は天台座主就任儀礼のうちで最重要位置をしめることとなったのである。

 天暦3年(949)3月22日に天台座主延昌(879〜964)は朝廷より慈覚大師(円仁)真言法文の検封の宣旨を蒙っている(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦3年己酉3月22日条)

 貞元3年(978)9月晦日、根本中堂の再建工事が終了して落成の法会である「中堂会」が実施されたが、天台座主良源(912〜85)は根本中堂の落成に先立って前唐院を再建している(『天台座主記』巻1、18世権律師良源、貞元3年庚辰九月晦日条)


慈覚大師像(「高僧像(甲)」)『大正新修大蔵経 図像部11』(大正新修大蔵経刊行会、昭和9年5月)より転載。同書はパブリックドメインとなっている。 

 永祚元年(989)、智証派の余慶(919〜91)が天台座主宣命を受けたことに端を発して、慈覚派門徒が騒動した。10月29日には藤原有国(944〜1011)が告文をつくり、前唐院の慈覚大師の塔に登り、慈覚派門徒の暴戻を訴えた。この告文の中には「師子身中の虫」の句があることで有名になった(『元亨釈書』巻第30、志4、黜争志9、永祚元年10月29日条)。「塔」とはこの場合は墓所を表わす語であるが、実際の廟ではなく、慈覚大師像のことであると思われる。前唐院は御影堂のごとくなっていたとの指摘があり、慈覚大師廟よりも前唐院の方が慈覚大師の墓として機能していたようである。

 天台座主仁覚(1046〜1102)は座主在職中の寛治7年(1073)からに目貝(生没年不明)に前唐院の見在書を勘定せしめた。目貝は前唐院の「蔵師本」(経蔵内に備えつけの目録と考えられている)によって勘定し、嘉保2年(1095)6月に完了した。これが『前唐院見在書目録』である。原本は逸したが、現存している写本は比叡山の南渓蔵本で、嘉吉3年(1443)に帝釈寺本から書写したものを再び天明3年(1783)に実霊が書写したものである。『前唐院見在書目録』は小野勝年「前唐院見在書目録」とその解説」(『大和文化研究』第10巻4号、1965年)に翻刻されている。この『前唐院見在書目録』によると、前唐院には2個の厨子が存在したことが知られる。このうち第1厨子には外典類、密教以外の仏典などが多く安置され、第2厨子は密教経典・讃咒儀軌の類、計289部426巻が安置されたことが知られる。仁覚の前任の天台座主であった良真(1023〜1096)の在任中の永保3年(1083)7月には前唐院の経蔵を土蔵に改めている(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、永保3年癸亥7月条)。これは火災より保護するための処置と思われる。

 また天治元年(1124)9月に前唐院は修理されている(『天台座主記』巻2、45世僧正法印仁実、天和元年9月条)。久安4年(1148)6月19日には、雨の日であったが、白河・鳥羽両院は中堂より前唐院に御幸して、慈覚大師像(木像)に礼拝して、宝物を閲覧している(『台記』久安4年6月19日条)

 無論、元亀の信長の叡山焼打ち(1571)によって、前唐院とその厖大な真言経典・道具類は灰燼に帰した。前唐院は寛永年間(1624〜44)に再興された(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』前唐院)。しかし寛文8年(1668)2月27日に東塔北谷僧房(善学院)の火事が延焼して前唐院と文殊楼が焼失してしまったため(『天台座主記』巻5、181世入道無品尭恕親王、寛文8年2月27日条)、寛文8年(1668)から同10年(1670)にわたって再建され、修復は天保11年(1840)から宝暦3年(1753)、寛保元年(1741)に行なわれている(『山門堂舎由緒記』巻第3、前唐院)

 昭和31年(1956)10月11日の火災で、大講堂が焼失したが、この時、前唐院も全焼している。


[参考文献]
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年8月)
・佐藤哲英「前唐院見在書目録について」(福井康順編『慈覚大師研究』天台学会、1964年4月)
・小野勝年「前唐院見在書目録」とその解説」(『大和文化研究』第10巻4号、1965年)
・石田尚豊「円仁の揚州求法について」(『青山史学』第8号、1984年)
・武覚超「慈覚大師将来典籍の保存について―『前唐院見在書目録』と『前唐院法文新目録』―」(『叡山学院研究紀要』17、1994年12月)


前唐院よりみた根本中堂(平成16年11月13日、管理人撮影) 



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