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椿堂(平成22年(2010)10月18日、管理人撮影)
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椿堂(つばきどう)は比叡山延暦寺西塔南谷に位置する堂坊で、聖徳太子の開基になるとされています。
椿堂建立説話
椿堂の建立時期は明確な史料がないため不明であるが、承澄(1205〜82)が建治元年(1275)に編纂した図像集である『阿娑縛抄』に西塔の一堂としてみえ(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺、三塔諸堂、西塔)、また鎌倉時代の延暦寺の寺誌『叡岳要記』において、「南谷 椿堂。(本仏は観音十一面如意輪、聖徳太子御本尊を腹心に奉納す)」とあることから(『叡岳要記』巻下、西塔)、少なくとも鎌倉時代には存在していた。
また中世の説話によると、聖徳太子が建立したものといい、六角堂の金六臂の如意輪観音・椿堂の銀四臂の如意輪観音・石山寺の白檀二臂の如意輪観音とともに、聖徳太子ゆかりの三尊であり、いずれも三寸(9cm)ほど大きさであったという。また椿堂はもとは安養堂といい、聖徳太子が登山の時の杖をこの地に建てると、それが大きくなって大地に生えたため、椿堂といったのだという(『渓嵐拾葉集』第2、仏像安置事、聖徳太子七生本尊三礼事記)。
近世の説話では、聖徳太子の本尊説話を踏襲しているが、聖徳太子が奈良から祥瑞をみて光を追ったところ、この地にたどり着いたという。また如意輪観音像を千手観音造をつくってその中に納めたという(『山門堂舎由緒記』巻第1、西塔、南谷、椿堂)。
むろん聖徳太子が実際に比叡山に登ったというものは平安時代までに溯る聖徳太子伝各種にはみえず、ただの説話にすぎないものの、当時からみて古様の如意輪観音像があったこと、あるいは如意輪観音像といいつつも、像容不明の半跏像は如意輪観音に比定されることが多かったから、古像を安置する小堂が古来より比叡山にあった可能性があろう。
椿堂では後深草法皇が臨幸した際に修正会を実施し、以後恒例になったといい、また竪義も実施されたという(『山門堂舎由緒記』巻第1、西塔、南谷、椿堂)。
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椿堂(平成22年(2010)10月18日、管理人撮影)
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元亀2年(1571)信長の比叡山焼討ちに際して椿堂は焼失したが、大泉坊乗慶は本尊を守って山を降り、三井寺に隠した。天正年間(1573〜96)に同じ場所に再興され、闕所となった三井寺の廃材で再建された(『西塔堂舎並各坊世譜』南谷、椿堂)。
その後老朽化したため、元禄17年(1704)に新たに再建された。堂内に開基とされた聖徳太子の像を安置している(『西塔堂舎並各坊世譜』南谷、椿堂)。
椿堂は現在四種三昧(ししゅざんまい)の一つ、常坐三昧を実施するための堂となっている。
四種三昧は常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧のことで、うち常坐三昧とは、『文殊師利所説般若波羅蜜経』・『文殊師利問経』を所拠経典としたもので、智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)の著作『摩訶止観』によると、常坐三昧は一行三昧ともいい、まず起居動作において許されることと許されないことを論じ、口業の上の言説と沈黙を論じて止観し、身は常に坐って歩いたり伏せたりしなかった。この常坐三昧を実施のは集団より一人の方がよく、一静室や空閑地にて諸々の喧騒を離れ、一つの縄床に座って他に移動することなく、90日間を一期として結跏正坐して、頭や背中は直立し、動かず揺れず、坐をもって自誓した。食事は排便を除いてただ専らに仏に向かって端坐正向したという(『摩訶止観』巻第2、二勧進四種三昧入菩薩位)、大変な苦行であった。
最澄は弘仁9年(818)に常坐三昧一行院建立の構想を立ち上げ(「弘仁九年比叡山寺僧院等之記」)、円仁に命じて常坐三昧堂を建立させ、同年9月に完成したというが(『叡岳要記』巻上、常行三昧堂)、その実態は不明である。「八条式」において、天台学生の修学規定として、四種三昧を行なうことを示していたが(『勧奨天台年分学生式』)、最澄在世中は常坐三昧は行なわれず、円仁が入唐帰朝後に文殊楼を常坐三昧一行院にあてたとみる方が自然かもしれない(『叡岳要記』巻上、文殊楼院)。
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椿堂(平成22年(2010)10月18日、管理人撮影)
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