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寧波を流れる運河(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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2日目は寧波から普陀山へという日程でした。この日は午前中は天童寺と阿育王寺に行くのですが、今回の旅行はこれが目当てで参加したようなものです。
まずは寧波郊外の天童寺へと向かいます。途中の道は舗装されているにもかかわらず、かなりでこぼこです。これは寧波がもともとは湖であったため、地盤沈下がよく起こっていることによるそうです。
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天童寺付近の村落(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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天童寺は中国五山の第3位の寺格を誇る大寺院で、道元禅師がここで修行に励んだ地です。非常に厳粛な雰囲気があり、山と山に夾まれた谷間に天王殿から仏殿・法堂と一直線に配置される伽藍は壮麗そのものです。
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天童寺(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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天童寺で紙銭を燃やす地元のおばあちゃん(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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天童寺の後は阿育王寺に行きました。阿育王寺は中国五山の第5位の寺格を誇る大寺院です。
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阿育王寺(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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阿育王寺を見学した後は、寧波市内を突っ切って、一路舟山列島に向かいます。
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舟山列島のどこか(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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あんかけの魚。うまい(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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普陀山へは高速艇で向かいます。ものの15分くらいで到着します。
普陀山は日本僧恵萼がもたらした観音によって観音霊場となった小島です。かなり多くの参拝客がいて、同乗する船も満席でした。
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普陀山へ向かう船(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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普陀山観音霊場は日本僧の恵萼によって創始されたといいます。観音菩薩は法華経普門品の中に、海上に浮かぶ船中で、たとえ暴風雨のため羅刹鬼国に漂ったとしても、もし一人が観世音菩薩の名を称えれば、みな難を逃れると説いているため、船乗りに篤く信仰されました。
さらに観音が実際に居住する地として、『八十華厳経(大方広仏華厳経)』入法界品に「南方に山あり。補怛洛迦と名づく。彼に菩薩あり。観自在と名づく。」とあるように、観音の住処は補怛洛迦(補陀落)なる場所であることが説かれました。
そのためかつて梅岑山と呼ばれた島は、観音の住処である「普陀山」と名付けられました。「普陀」とは「補陀落」のことで、梵音のポタラカ(Potalaka)の音写です。これは観音の住処を意味します。
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舟山列島(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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今でこそ高速艇での快適な(真夏だったので蒸し暑かったですが)航海ですが、かつては普陀山への航海は現世の地獄と表現されるほど凄まじいものだったようです。
普陀山への渡海は香船と名付けられた船で行なわれましたが、隙間が無いため風通しが悪く、中に入って手を洗う事も口をすすぐこともできず、失禁する者は数百にも及んだといいいます。言語・飲食・用便は香頭と呼ばれる某寺の和尚が行ないましたが、現世の地獄と表現されるほどの劣悪な環境だったといいます。それでも多くの民衆が普陀山へと参詣したのです。
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普陀山(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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まず普陀山に入ると「入山料」を払わなければならないのですが、私はツアーで来たので、自分の財布からは払っていません(旅行代金からは引かれていますが…)。一応形式的には入山料金を払っているので、入山チケットを貰いました。
この入山チケットは絵葉書になっていて、中国ならどこでも届くとガイドさんが言っていました。なら「日本に届くか」どうかを聞いてみると、
「どうだったかな」( ゚ ∀ ゚ ;)ノ
と何ともはやな答えが返ってきました。普通に考えて届かないでしょう…。
さてこの絵葉書の左下に船が浮かんでいるあたりの場所の沖合が港になるのですが、中央の大きな寺院が普済寺。その右下に突き出た半島がありますが、ここに不肯去観音院と紫竹林禅庵があります。さらに山の影になってみえないのですが、半島の向こう側に潮音洞があります。この半島の一番南側に巨大な南海観音銅像が鎮座します。
右上の大きな山の麓にある寺院が法雨寺、その山の上にある寺院が慧済寺となります。
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普陀山でもらった絵葉書(というよりは入山チケット)
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普陀山に到着するとバスでホテルまで移動、ホテルにチェックインして、その後すぐ普済寺を見学しました。
この一週間前、普済寺に新たな住持として道慈和尚が晋山(しんざん。住持となること)したのですが、普済寺の住持は普陀山仏教会の会長を兼任する通例となっており、さらに普陀山の全島を代表する人物となるため、島中がお祭り騒ぎだったそうです。
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普済寺山門(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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普済寺の後は不肯去観音院と紫竹林院を見学しました。両寺とも新しい寺院です。不肯去観音院はここでみていきますが、紫竹林院はページが重くなるので、3日目でみてみることにしましょう。
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紫竹林院回廊(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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紫竹林庵天王殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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不肯去観音院は1980年に建てられた新しい寺院です。
もとは恵萼が観音を普陀山に安置した後、観音を安置した場所が不肯去観音院となったのですが、観音像は寧波の開元寺に移され、普陀山にはその模刻像が安置されました(…普陀山では一度もそのことを聞きませんでした。普陀山では黒歴史なのかっ!!)。
その模刻像が安置されたのが宝陀寺ですが、洪武20年(1387)に普陀山は倭寇対策のため全寺院が焼き払われ、住民はすべて強制退去させられ、寧波の棲心寺に仏像は移されました。その棲心寺の空地に宝陀寺は補陀寺として再建されました。
さらに普陀山に密航者が渡って宝陀寺を再建してしまい、それも嘉靖32年(1553)に破壊。その宝陀寺は寧波の招宝山に仏像とともに移転してしまったため、宝陀寺は寧波に2つ存在し、普陀山からは消えてしまいました。
ところが人々の普陀山への信仰はやむことなく、当局が把握できないうちに普陀山に多くの信者が集まり、いつしか宝陀寺が普陀山に再建されてしまいました。この時は万暦帝の母の慈聖皇太后(?〜1614)の力によって再建が容認されるばかりではなく、巨大寺院として再建計画され、現地当局の反対は虚しく普陀寺として再建。清代に普陀寺は普済寺と改められたので、不肯去観音院の後裔は普済寺ということがいえるのですが、このようにかなりややこしい系譜をたどっているので、普陀山が文化大革命の惨禍から復興した時、新たに不肯去観音院が建立されたのです。
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不肯去観音院西楼(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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不肯去観音院は1980年に唐代に普陀山に観音をもたらした日本僧恵萼の事績を記念して建立されました。そのためか不肯去観音院の本堂は中国最古の木造建築(唐代)である五台山南禅寺に似ているような気がします。
不肯去観音院は1998年に修理されています。この不肯去観音院は付近の紫竹林禅庵の管理下にあります。
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不肯去観音院天王殿と円通宝殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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普陀山では観音信仰は高まりのあまり、自分の命を捨てたり、あるいは指を燃やして誓いを立てる者が続出しました。日本でも観音信仰の高まりの中、補陀落渡海など捨身の行が行なわれています。
そこで明の万暦年間(1573〜1620)に李分・陳九思によって「禁止捨身燃指」の碑が立てられました。高2.3mのこの石碑は文化大革命の時に破壊されましたが、1980年代に修復されました。現在でも修復の跡が痛々しく残っています。
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禁止捨身燃指碑(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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潮音亭は潮音洞の真上にある四阿(あずまや)です。
潮音洞は恵萼が最初に観音像を安置した場所だとされ、深い信仰を集めました。信仰に熱心なあまり、宗教的投身自殺が行なわれたこともあります。
明代に倭寇が中国沿岸を襲撃すると、普陀山は浙江省当局によって無人の地に定められ、そのため寺院はすべて廃寺となり、寺院の廃材や、仏像以外の仏具のすべて、古文書や石碑のことごとくが当局によって潮音洞に投げ込まれたといいます。
現在潮音洞には「潮音洞」の扁額が掲げられています。これは康煕帝揮毫のものです。
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潮音亭(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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潮音亭付近より跳毛半島を見る(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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潮音亭の付近からは洛伽山が遠望できます。この島は観音が横たわった形をしているといわれ、写真の左側が頭、中央が胴体、右側がつま先になるそうです。潮音亭からみると細長い島であるかのようにみえますが、実際には楕円形の島(中央)の東北に細長い半島が付属し、そのすぐ北に小さな丸い島(左側)、南にも小さな丸い島(右側)というような、あまり変哲のないただの島です。実際、慧済寺に向かうロープウェーからは、全く違う姿でみえます。
頭側に白い建物がみえますが、これは洛迦山灯塔という灯台です。明代にはすでに灯台のようなものがありましたが、これは光緒16年(1890)に建てられたものです(といっても古い灯台には変りありませんが…)。
この島も仏教信仰が盛んで、妙湛塔・円通塔・自在塔・観覚塔の古塔がありましたが、この小島にも文化大革命の嵐が吹き荒れ、すべて破壊されてしまいました。現在は円通塔・妙湛塔が残っています。
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洛伽山遠景(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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南海観音銅像よりみた金沙湾(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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南海観音銅像は1997年10月30日に完成した高さ19.4mの観音像です。約54万元を費やして建立されたそうですが、台湾の一個人の寄付によってその大半を賄ったそうです。
上記の経緯からもおわかりのように、かなり新しい観音像ですが、下の写真のように、老若男女の信仰を集めています。
現在の中国人の仏教信仰は大量作善主義みたいなところがあって、より多くの寺院をいかに沢山回ると御利益があるかということが最大の関心だそうです。ですから普陀山のような仏教聖地では多くの寺院が建立されますし、沢山の人がより多く回ろうとするので、人が誰も参詣しない寺院は存在しないといってもよいそうです。
そのことについて、ガイドさん(浙江省出身)は「日本人のように美術品や歴史の方に関心が向かない」といって嘆いていましたが、逆に日本の某寺院の和尚さんが「仏像が美術品としての関心が主で、信仰の対象としての関心がない」と嘆いていたので、どちらがいいのか判断がつきかねます。
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南海観音銅像(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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南海観音銅像よりみた月(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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夕食の後、普済寺の東側にある香華街を散策してみました。
香華街は普済寺の三門の正面の道を東に行ったところにある街並で、長さ300mあり、石畳の道がT字となって続いています。成立は清時代中期ですが古代風の街並があり、商店・祠・寺院が建ち並んでいます。
とはいっても主にお土産屋さんばかりで、京都清水寺の三年坂のように延々と同じような店に同じ商品が売っているようなところです。
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香華街(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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小さな関帝廟(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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お坊さん作務衣ご購入(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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