慶寧宮



慶寧宮跡付近(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 慶寧宮は京城(フエ旧市街)内の御河(グーハー)の北東に位置する(『大南一統志』巻之1、京師、城池、慶寧宮)。西側に保定宮があり、かつ保定宮は御河に坊(門扉の無い門)を面していたことから(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)、御河に面して立地していたようであり、また西南門から正南門にかけての道の途中、御河にかかっていた橋を慶寧橋といい、慶寧宮にちなんで名付けられたというから(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)、おおよその位置が知られる。現在では何もなく、跡地にはそれを偲ぶものは残っていない。ただ慶寧橋が当時の面影を留めるのみである。

 慶寧宮は桁行5間二面の正楹(正殿)と、9間の前楹(前殿)・後楹(後殿)があり、左右の回廊は城壁で囲まれた。門は宮門・左門・右門・半月門・塞門があり、それぞれの門前には御河に面して涼亭が建てられていた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、慶寧宮)

 慶寧宮の城壁の後方には永沢園があり、明命帝の「演耕」の地であった。「演耕」については不明であるが、皇帝自ら耕作することで豊饒を願う儀式であったらしい。実際に慶寧宮の北側に帝室の料所である籍田があった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、慶寧宮)

 慶寧宮の前身は皇仁殿といい、嘉隆年間(1802〜20)初頭に建立された。当初は顕仁門(皇城の東門)の街路の北に位置していた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、慶寧宮)。嘉隆18年(1819)5月には修理が行なわれている(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年5月条)

 慶寧宮は明命7年(1826)に建てられたが、明命帝が崩じた紹治元年(1841)に明命帝(位1820〜41)の梓宮(しきゅう)、すなわち遺体安置所となっており、名称は孝思殿に改められた。結果、皇帝の儀式の場から先帝の祭祀の場と位置づけが変更され、聖祖仁皇帝(明命帝)と皇后の神龕(位牌)が祀られた廟所となった。祭祀は朔望(1日と15日)と慶節(祝日)と忌日に行なわれている。また演耕の場であった永沢園は名称を左右従院に改められている(『大南一統志』巻之1、京師、城池、慶寧宮)


慶寧橋(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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