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新たに建造される寺院(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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3日目も引き続き普陀山見学です。
まずは普済寺最高峰の仏頂山をロープウェーで登るのですが、その途中にいくつかの建造中の寺院をみました。
現在、普陀山は寺院の建設ラッシュとなっています。中華人民共和国成立後(中国では「解放後」というのですが)、仏教は弾圧されました。
さらに普陀山は軍事拠点となったため、大寺院は駐屯地に、中規模の寺院は漁師の宿所や官公庁となり、さらに小規模な寺院は廃寺に追い込まれました。さらに文化大革命では仏像を破壊されるなど、仏教の聖地普陀山にとって受難の時代でした。
中国が近年資本主義化すると、まず海外の華僑達の支援によって普陀山は復興の途につき、さらに中国人の間で途絶えていた仏教信仰が蘇って普陀山のさらなる復興につながりました。
…もっとも、中国人の見栄っ張りという性格が、「他よりもより多くの寄付」という形となって寺院に注ぎ込まれた一面もあり、そのため普陀山では多くの寺院が林立することになりました。
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普済寺におけるお布施回収の風景(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)。このような賽銭箱が普済寺で見ただけで少なくとも6つある。賽銭回収は僧侶と檀家の二人で行なわれ、回収された賽銭は僧侶の頭陀袋に入れる。
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上の写真は前日の普済寺の例ですが、このように賽銭箱には大量のお布施が入っています。このような賽銭箱が普済寺には数えただけで、少なくとも6つはあり、しかもしょっちゅう回収しているようなので、現在の中国人が信仰に使う金額の多さに仰天しました。
このように中国人の間で仏教信仰が篤くなっていく上に、僧侶も経営に優れた人が何人もいて、ある僧侶が寺院建立を呼びかけると、2・3年以内に普陀山に一つ寺院が出来上がるそうです。
ここでは最近復興した寺院の例として紫竹林庵をみてみましょう。
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紫竹林庵天王殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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紫竹林庵は潮音堂の西にあり、旧名は聴潮庵ともいいました。明の万暦年間(1573〜1620)に照寧によって建立されました。
康熙38年(1699)に康煕帝(位1662〜1722)より「潮音洞」の勅額を賜り、雍正9年(1731)には第6世住持の広記によって再建されました。さらに道光2年(1822)には仁亮・聖覚によって修理が実施され、光緒10年(1884)には浄守・広学・広権によって再度修理されています。
民国8年(1919)には康有為(1858〜1927)が揮毫した「紫竹林」の三字の扁額を門に掲げています(『普陀洛迦新志』巻5、梵刹門第5、精藍、紫竹林庵)。
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紫竹林庵円通宝殿(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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解放後、紫竹林庵には開瑜・智生の二名の僧侶が住んでいましたが、1960年に中国政府によって普陀山一帯は軍事拠点となり、外国人の立ち入りが出来なくなりました。さらに紫竹林庵に居住していた僧侶は追放されて余姚に移されてしまいました。
その後紫竹林庵は漁師に占拠されてその住居となっていましたが、1970年11月に文化大革命の惨禍が紫竹林庵にも押し寄せ、円通宝殿は破壊されてしまいました。
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紫竹林庵円通宝殿の屋根(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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1979年に普陀山は軍事拠点としての地位を緩和され、一定の条件下ながらも外国人の立ち入りが許可されるようになりました。同時に普陀山の寺院は普陀山仏教協会に返還され、紫竹林庵もまた尼僧数人が居住をはじめました。また1980年に建立された不肯去観音院は紫竹林庵の管理下に置かれることになりました。
紫竹林庵の再建は1990年に着手され、1992年に完成しました。
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紫竹林庵回廊(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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紫竹林庵は天王殿から首尾線上に高くなるように建設され、第一重は天王殿で、その奥に第二重の円通宝殿(観音堂)があります。
円通宝殿は桁行5間の建造物で、中国の伝統的仏教寺院に則った華麗な彫刻が施されています。円通宝殿の内部には白玉の紫竹観音坐像が安置されています。この観音像は高さが2.8mあります。
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紫竹林庵の大悲楼前の回廊(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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円通宝殿の奥には第三重の大悲楼があります。この大悲楼の内部には、白玉の仏涅槃像が安置されています。重さは4.5tあり、1991年にミャンマーから請来されたものです。
大悲楼の左側には念仏堂が、上には三聖殿があります。さらに1997年には薬師殿を建立しています。
このように禅寺としての規模を備えた立派な寺院となって再建されましたが、もとは小さな寺庵にすぎず、民国3年(1914)に撮影された紫竹林庵の様子は、1間の切妻造の小門があり、低い塀があるだけの小庵にすぎず、現在では日本のど田舎でも見ることが難しいようなみずほらしい寺庵でした。
このように立派な寺院として再建されたのも、近年の中国人の仏教信仰の賜物なのです。
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紫竹林庵大悲楼(平成22年(2010)8月16日、管理人撮影)
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さて目的地の慧済寺に向かいます。慧済寺は標高288mの仏頂山の山頂に位置するため、ロープウェー(というよりは、スキー場によくあるゴンドラ)で登ります。
普陀山は南北8.6km、東西3.5kmの小さな島ですが、山がちな地形で、山は23を数えます。
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普陀山ロープウェー(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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ロープウェーから降りると間もなく「入三摩地」の石碑に到着します。字は明末の大文人・董其昌(1555〜1636)の筆になるそうです。ここから300mほどで慧済寺に到着します。
この途中の道は「香雲路」といい、光緒30年(1904)に慧済寺の第9代住持の文正によって石畳に整備されました。ちなみに香雲路は麓の法雨寺まで繋がっています。
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「入三摩地」の石碑(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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慧済寺への登山路の香雲路(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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香雲路を歩いて慧済寺にむかう(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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香雲路を歩くと慧済寺に到着します。慧済寺は「普陀三大寺」の一つに数えられる寺院ですが、山頂の狭い地に建てられたため、「普陀三大寺」の中では最も規模が小さい寺院です。
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慧済寺の山門(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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慧済寺見学後は、再度ロープウェーに乗って麓まで降り、バスで法雨寺に向かいました。
法雨寺は「普陀三大寺」の一つに数えられる寺院で、「普陀三大寺」の中では普済寺についで二番目に大きな寺院です。しかし実際には首尾線上を背負式に建物が林立する伽藍配置となっているため、普済寺よりもかなり大きく感じます。実際、普陀山を訪れた人々に最も印象深い寺院を聞くと、大抵の人が法雨寺をあげるそうです。
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法雨寺の天王殿(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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普済寺見学が終わると、高速艇で対岸まで向かいます。帰路、舟山出身のガイドさんが「普陀山にまた来ようと思う人、手を挙げて」といいましたが、日本人一行は皆「二度と来られないだろう」と思ったのか、誰も手を挙げませんでした。
ガイドさんはものすごく悲しそうな顔をしていました。ゴメンなさい。・゚・(ノД`)
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普陀山から出る高速艇(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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高速艇より普陀山方向を見る(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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ここから普陀山にかかる橋を渡り、杭州に向かいます。杭州までは自動車で約3時間ほどです。
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舟山連島大橋の上(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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途中、激しい雷雨がありましたが、夕立だったようで、すぐに止みました。
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橋の上からみた銭塘江(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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夕食後、西湖見物に出かけました。西湖北岸の白堤を通って、孤山を通過、西冷橋を渡るルートです。昼よりは暑さが大分和らぎましたが、それでも蒸し暑いです。
白堤は、西湖十景の一つ「断橋残雪」の地です。唐代の詩人・白楽天(772〜846)が築いたとされる堤防で、白楽天造堤伝説は宋代にはすでに知られていました。
実際に白堤を白楽天が築いたという証拠はなく、白楽天が「銭唐湖春行」の中で、「最愛たる湖東 行きて足らず、緑楊の陰裏 白沙堤。」と歌っているため、後世の人が白沙堤(現存せず)と白堤のイメージをダブらせたものと考えられています。
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夜の西湖(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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白堤を渡っていくと西湖上に浮かぶ島・孤山につきます。孤山にはかつて慈寧太后(1080〜1159)が建立した四聖延祥観がありました。
慈寧太后は南宋初代皇帝高宗の実母で、靖康元年(1126)に徽宗・欽宗ら北宋皇族とともに金軍によって北方に拉致されています。高宗は北方にいる母の救出を念願としており、ねばり強い交渉の末に送還されました。
『宋史』によると、慈寧太后は質素倹約な性格でしたが、仏教・道教への信仰が篤いため、高宗が帝位につく以前に金へ使者として赴くとき、4人の金甲をつけた人が刀剣を持って侍っていたのを見て、「わたしは四聖(道教の四神)をあつく祀っています。必ずやその報いがあるでしょう」といい、金軍によって北方に拉致された後も祀っていたそうです。送還後に西湖の上に四聖を祀る祠である四聖延祥観を建立したのです。
孤山には四聖延祥観の他にも西太乙宮という道観がありましたが、いずれも廃寺(廃観?)となり、現在では浙江省博物館・西冷印社などがあります。
明日はいよいよ西湖遊覧です。
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夜の西湖に映し出された雷峰塔(平成22年(2010)8月17日、管理人撮影)
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