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保定宮跡付近(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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京城(フエ旧市街)内の御河(グーハー)の北東に位置する。西側には慶寧宮がある。紹治帝(位1841〜47)が農耕儀礼を行なった場所で、親しんで詩歌を詠んだ地でもある。紹治帝が崩ずると廟所の一つに位置づけられた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。
正殿を隆安殿といい、さらに桁行5間東西両庇付の正楹(正殿)、桁行7間の前楹(前殿)で構成される。さらに隆安殿の北階段の前を廻廊とし、これを攬勝廊という。攬勝廊の北には交泰池があり、池に面して澄芳シャ(きへん+射。UNI34D4。&M015272;)が、北側に明徴閣がある。さらに明徴閣の北を道心軒とする(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。
保定宮の庭内の左(東側)を霑恩院といい、右(西側)を潤徳院という。東西にそれぞれ東明廡・西成廡があり、南には保定門が、北に美成門が、左(東側)に左安門・道隆門・保安門・久安門・保成門・左泰門・保徳門・化成門・保茂門が、右(西側)に右安門・熙隆門・右泰門・隆定門・嘉安門・清定門・成定門・善美門・常定門がある(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。
保定宮の範囲は隆安殿のみならず、宮門の外にも広がっていた。その東西を左右直房といい、周囲を城壁で取り囲んでおり、坊門は御河に隣接していた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。すなわち保定宮は単に宮殿区画のみならず、2坊(坊は条坊制において碁盤の目状の街路に囲まれた区画単位)を有し、坊(門が門扉があるものをいうのに対して、坊は門扉がないものを指す)を併設した、京城(フエ旧市街)の中でも有数の巨大施設であった。さらに範囲は御河(グーハー)を夾んで南側の対岸に及び、南岸の潤沢坊もその領域に含んだ(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。
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保定宮跡前面の御河(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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保定宮の前方に方形の湖があり、ここを豊沢園といった。もとは紹治帝の「演耕」の地であった。「演耕」については不明であるが、皇帝自ら耕作することで豊饒を願う儀式であったらしい。実際に保定宮の北側に帝室の料所である籍田があった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。
保定宮は紹治5年(1845)に建立された。前述の通り、農耕関係の儀礼を行なう地であり、紹治年間(1841〜47)に紹治帝はここを舞台として「保定宮十二景」を詠んでおり、それは「宮開藩宴」「殿会詞臣」「閣賞湖山」「シャ(きへん+射。UNI34D4。&M015272;)臨天水」「軒談経史」「廊納烟霞」「南依宮闕」「北接園池」「東観万井」「西攬千峰」「檻静看花」「窓清坐月」である。紹治帝が崩じた紹治7年(1847)に、保定宮の隆安殿は紹治帝の帝の梓宮、すなわち遺体安置所となり、嗣徳元年(1848)に紹治帝の神龕(位牌)が安置された。祭祀は朔望(1日と15日)・慶節(祝日)に実施されたが、実際の祭祀は別の廟(世廟)にて施行された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。
諸廊・院・亭・門閣は解体されたが、主要の建物のみ残し、兵士を交替で守らせていた。成泰元年(1889)に隆安殿を移建し、その代用として樹花を植えたが、やがてそれも撤去されて、ただ旧跡だけが残る有様となった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、保定宮)。現在隆安殿はフエ宮殿美術館の建物として皇城の東側に残存する。
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フエ宮殿美術館(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。保定宮の隆安殿の建物を移築したもの。
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