韓国 大邱・釜山の寺院参詣2 海印寺



海印寺一柱門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 海印寺は802年創建の寺院で、韓国三宝寺刹に数えられています。

 三宝寺刹とは、金剛戒壇がある仏宝の通度寺、八万大蔵経がある法宝の海印寺、大規模な僧坊がある僧宝の松広寺のことで、それぞれ金剛戒壇・八万大蔵経・僧坊は大雄殿後方に位置しています。


海印寺鳳凰門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 海印寺は一柱門から入り、鳳凰門(天王殿)、解脱門を通過すると九光楼がみえます。一柱門から鳳凰門までは直線となっていますが、鳳凰門から解脱門までは10度ほど斜めに配置されます。解脱門と九光楼は度数は同じであるものの、主軸はやや北西にずれており、九光楼からその奥に位置する大寂光殿もやや主軸が北西にずれています。これは地形にあわせて建物を配置したためで、建立当初の海印寺の規模が現在よりも小さかったことを意味しています。


海印寺解脱門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺九光楼(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺九光楼・鍾楼(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 海印寺は火災に遭うことが多かったらしく、建物は修多羅蔵・法宝殿を除いて、大半が李朝後期のものです。また大寂光殿前の三層石塔と石燈は新羅時代の建立です。


海印寺大寂光殿と三層石塔(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 海印寺八万大蔵経は、日本では高麗板大蔵経として知られています。高宗23年(1236)から16年かけて完成しました。蒙古による高麗侵攻で江華島に遷都する中での大事業で、高宗38年(1251)9月に江華島の城西の門外の大蔵経板堂で法会が営まれました。高麗板大蔵経は校合が厳密で、これにあたった守其『高麗国新雕大蔵校正別録』は、失われた宋版・契丹版などの内容や相互関係を知る上でも重要な記録です。そのため学術的価値を認められ、大正新修大蔵経の底本になっています。

 高麗板大蔵経で刷られた大蔵経は、中世にたびたび日本に渡来しています。


海印寺修多羅蔵門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 修多羅蔵は1488年に建立されました。中央に通用口である月門が開いており、板庫を内部に二等分して配架しています。

 床は土間となっており、塩・炭・土を多層状にしています。


海印寺修多羅蔵月門(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 修多羅殿と法宝殿は並列して前後に配置され、連子窓が上下に空いています。湿気の少ない韓国では通風・換気に効果的だそうです。


海印寺法宝殿(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺石塔・九光楼(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺九光楼前の迷路(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺窮玄堂(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺九光楼・三層石塔・窮玄堂(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 海印寺の参詣を終わって参道を戻ります。


海印寺の枯木(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺の参道(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



海印寺参道の自然石の石塔(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 途中、海印寺聖宝博物館に立ち寄りました。

 展示内容は意外と充実しているのですが、図録等は発行されていませんでした。


海印寺聖宝博物館(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)

 海印寺バスターミナルから大邱に戻ります。海印寺からバスは30分ごとに出ています。韓国ではバスの運転手の好みでラジオが流せるらしく、現地の歌謡曲が流れていました。TUBEのガラスのメモリーズが韓国語でカバーされた曲が流れていました。

 大邱の西部市外バスターミナルは終点なので、終点までひたすらに乗って待つだけです。


洛東江(平成25年(2013)3月15日、管理人撮影)



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