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大阪経済大学南側の敷地(平成22年(2010)11月21日、管理人撮影)。この付近が三宝寺の跡地であった。
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三宝寺はかつて大阪市東淀川区大桐3丁目の大阪経済大学の敷地の南側に位置(外部リンク)した寺院で、能忍(?〜1195頃)が文治5年(1189)頃に建立した、檀林寺につぐ日本で2番目に建立された禅寺です。達磨宗の根拠地でしたが、室町時代末期に廃寺となって見る影もありません。現在は「さんぽうじ会館」などの地名にのみ痕跡をとどめています。
栄西以前の日本における禅宗
日本における禅宗の初伝は一般的に明庵栄西(1141〜1215)と理解されている。確かに栄西は入宋して天童寺虚庵懐敞(生没年不明)より法を嗣ぎ、帰朝後に建仁寺・寿福寺・聖福寺の開山となり、現在までの禅宗の基礎を築いている。
ところが、それ以前より禅宗は日本に流入している。例えば道昭(629〜700)が最初に禅を持ち込んだと伝えられており(『続日本紀』巻1、文武天皇4年3月己未条、道照卒伝)、さらに後に虎関師錬(1278〜1346)撰『元亨釈書』では、禅宗第二祖慧可の孫弟子の慧満より禅を修学したとした(『元亨釈書』巻第1、伝智1之1、元興寺道昭伝)。
奈良時代の天平13年(741)に来日した道セン(王へん+睿。UNI74BF。&M021311;)(703〜60)は北宗禅の法を伝播した。さらに最澄(767〜822)は師行表(722〜97)より道センの法を嗣ぐとともに入唐中の貞元20年(804)10月13日に台州唐興県の天台山禅林寺の僧シュク(修−彡+羽。UNI7FDB。&M028709;)然より牛頭宗の付法と関連文献を授与されている(『内証仏法相承血脈譜并序』達磨大師付法相承師師血脈譜)。
平安時代前期には唐の禅僧義空(生没年不明)が一時期日本に渡って京都の檀林寺に住したが、やがて帰国した(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、唐国義空伝)。逆に日本から唐に渡った僧が禅宗を学んだケースもあり、瓦屋能光(?〜933頃)は曹洞宗の派祖のひとり洞山良价(807〜69)の法嗣となり、ついに帰国しなかった(『茅亭客話』巻3、勾居士)。宋代にはチョウ(大+周。UNI595D。&M059369;)然(938〜1016)が宋からの帰国後、三学宗を打ち立てようとしたが、諸宗の反対により成功しなかったという(『興禅護国論』巻中、第三門之余)。
そのような中で最も禅宗の確立に影響を与えたのが天台宗であった。天台宗には四種三昧のひとつ常坐三昧が最澄の時代より延暦寺にて勤修されていた。これは『文殊師利所説般若波羅蜜経』・『文殊師利問経』を所拠経典としたもので、智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)の著作『摩訶止観』によると、一人で常に坐って90日間結跏正坐するというものであった(『摩訶止観』巻第2、二勧進四種三昧入菩薩位)。しかも最澄は北宗禅を伝播した道センの孫弟子にあたり、禅籍も徐々に日本に請来されるようになる。このような条件下にあったため比叡山では禅宗が早くから関心を持たれたのである。ちなみに栄西もまた、もと天台僧であった。
その嚆矢となったのが覚阿(1143〜82)である。覚阿は幼くして比叡山に登り、多くの典籍を修学したが、商人より宋の地で禅宗が盛んであることを聞くと、留学を志し、承安元年(1171)に弟子金慶とともに都杭州に到り、霊隠寺の瞎堂慧遠(1103〜76)の法嗣となり、帰国後高倉天皇の問法に際しては笛を一回吹くのみで答えたという。乾道8年(1172)秋に長蘆山洪済寺にて忽然として悟り、遂に印可を得た。帰国後、安元年間(1175〜76)に瞎堂慧遠へ水晶の数珠や扇などを書簡とともに贈り、瞎堂慧遠は喜んだが、寿永元年(1182)に再度書簡を送ったところ、すでに瞎堂慧遠は示寂した後だったという。また高倉天皇が覚阿に対して禅の宗要を質問したところ、覚阿はただ横笛を一回吹いただけで答えたという(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、睿山覚阿伝)。
その次に禅宗を宣揚したのが能忍(?〜1195頃)であった。能忍は拙庵徳光の法を嗣ぎ、摂津三宝寺にて達磨宗を開創したが、達磨宗が滅亡したため史料が少なく、詳しいことはわかっていないが、達磨宗の一派が道元(1200〜53)会下に合流した。その中には孤雲懐奘(1198〜1280)・徹通義介(1219〜1309)といった大立者がいたため、達磨宗の研究は近現代の曹洞宗にて盛んとなっている。また正法寺より達磨宗関係の文書が発見されたため、曹洞宗史の枠組みを超えた議論がなされるようになっている。なおこの三宝寺跡の史料について、達磨宗関係は高橋秀栄「大日房能忍と達磨宗に関する史料2」(『金沢文庫研究』22-7、1977年1月)に、正法寺文書については中尾良信「摂津三宝寺関係史料」(『曹洞宗研究員研究生研究紀要』18、1986年11月)によるところが多かった。
大日房能忍
能忍の生年はわかっておらず、平景清(?〜1198)の叔父と伝えられるが、その半生についても顕かとなるところは少ない。後に徹通義介が嘉元4年(1306)に瑩山紹瑾(1268〜1325)に与えた「伝衣付属状」(広福寺蔵)によると、達磨宗を里居において開いたというから、三宝寺があった摂津国の出身であったのかもしれない。
能忍は天台密教(台密)の口伝・秘事の法門を研鑚していたらしく、他の人が知らない公胤の第五三昧耶が仏説であるという説を知っていたり(『了因決』巻32、潅頂、五種三昧耶)、あるいは能忍が開創した三宝寺には台密における祖安然の著作で、東寺の秘書であった『蓮花観』『フノリ抄』が三宝寺に所蔵されていたという(『渓嵐拾葉集』巻57、五大院御釈名誉事)。
摂津国に三宝寺を建立しているが(『渓嵐拾葉集』巻57、五大院御釈名誉事)、その時期について詳しいことはわかっていないが、『成等正覚論』の敬白文が三宝からはじまることによって、拙庵徳光の法を嗣いだ文治5年(1189)以降とする説がある(石井2002)。現在の大阪市東淀川区大桐3丁目の大阪経済大学の敷地の南側がその地に推定される(原田1998)。
能忍が禅宗に関心を持った経緯、その活動の詳細についてはわかっていないが、前述の通り、天台宗と禅はもともと密接な関係があり、しかも禅籍の『宗鏡論』は宋版大蔵経に入ったため日本への請来は比較的早い時期になされており、寛治8年(1094)撰述の『東域伝燈目録』に著録されるから、少なくとも平安時代中期には禅籍が請来されるようになっていた。しかも三宝寺に安然の著作が秘蔵されていたように、能忍周辺では安然などの台密の研究が盛んであったと見られるが、その安然の著作『教時諍論』において仏心宗、すなわち禅を高く評価しており、能忍同様、天台宗より禅宗に転じた栄西もまた『興禅護国論』において『教時諍論』を閲覧したことを述べている(中尾1984)。
能忍は文治5年(1189)夏に使を宋に遣わし、法を拙庵徳光に請い、印可を得たという(『聖光上人伝』)。さらに拙庵徳光より「朱衣達磨像」と「拙庵徳光頂相」を得ており、そのうち「朱衣達磨像」は現在神戸市の古美術商が所有しており、「拙庵徳光頂相」も大正5年(1916)に下条正雄(1843〜1920)の売立が東京美術倶楽部で実施された際、鷲尾順敬(1868〜1941)と辻善之助(1877〜1955)が賛文を記録している。それらによると、日本国の能忍が弟子の練中・勝弁を遣わして達磨祖師遺像を求めたといい(「朱衣達磨像」)、また山(阿育王寺)に到って道を問い、さらに拙庵徳光の肖像を描いて賛文を求めたため、「この僧無面目、天関を撥転して地軸を掀翻す。忍師、脱体見得して親し外道天魔ともに竄伏す」と賛したとある(「拙庵徳光頂相」)。いずれも淳熙16年(1189)6月3日に阿育王寺にて拙庵徳光が書いた旨の紀年名がある。
能忍が弟子を派遣した理由について、江戸時代に卍元師蛮(1627〜1710)が撰述した『本朝高僧伝』には、能忍が大悟したことを認める師がいないと批判されたからであるとしているが(『本朝高僧伝』巻第19、摂州三宝寺沙門能忍伝)、当時能忍が嗣法の問題で批判された形跡はなく、栄西が能忍と達磨宗を批判した際、嗣法ではなく無行無修と戒律を用いないことを批判していた(『興禅護国論』巻中、世人決疑門)。
禅宗において嗣法して印可を受けるには、本来ならば師の面前に参じて偈を呈する必要があるが、能忍は弟子を代理として派遣して印可を得ている。このような嗣法はほとんど例がなく、極めて特異な例であった。それでも能忍の印可が日本において大々的に喧伝されたのは、覚阿が示寂していたから、そもそも日本において中国の禅僧の印可を受けた者が生存していなかったこと、そして印可を与えた拙庵徳光は大慧宗杲の法嗣であり、かつ孝宗のあつい帰依を受けており、大寺・阿育王寺の住持であるなど、当時南宋を代表する高僧であったことも考慮に入れる必要があろう。
二人の弟子は文治5年(1189)8月15日に帰国したらしく、達磨宗ではこの日をもって禅がはじめて日本に渡った日とみなしている(『成等正覚論』)。また能忍がその後宋に渡って拙庵徳光より六代の祖師の舎利と大慧宗杲の袈裟を付属されたという説話が後代にあらわれたが(「摂州中島三宝寺六祖舎利大慧袈裟伝来記」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸14〉)、能忍が渡宋したということに関しては、嗣法問題が他宗の批判を浴びて以降につくられた説話とみられている。ただし六代の祖師の舎利と大慧宗杲の袈裟とするものはその後正法寺に渡って現存しており、大慧宗杲の袈裟とされてきたものは、実際には拙庵徳光の袈裟と考えられている(京都国立博物館2010)。
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教照寺(平成22年(2010)11月21日、管理人撮影)。大阪市東淀川区大桐5-15-36に位置する同寺は『西成郡史』によると、もと三宝寺の一堂であったと伝えられる。
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達磨宗
弟子達が帰朝して以降、能忍は三宝寺において達磨宗を打ち立てた。能忍らは「達磨正宗」としていたようで、達磨大師の所伝の法であるから、達磨宗と名づけたという(『成等正覚論』)。能忍は生前、朝廷より深法禅師の勅諡号を受けていたという(「伝衣付属状」広福寺文書)。能忍は拙庵徳光より『イ(さんずい+爲。UNI6F59。&M018238;)山誓策』を与えられており、帰国後、尼無求の寄進により版行している(『イ山誓策』刊記)。
達磨宗の宗勢は急激に拡大していったらしく、他宗派から脅威とみられていたらしい。弁長(1162〜1238)が三宝寺の能忍のもとを訪れて、『宗鏡録』について問答を行なったところ、能忍は口を閉ざして答えず、讃えて「あなたは文殊菩薩であって、私を教えるために来たのでしょうか」といったという(『聖光上人伝』)。これは『聖光上人伝』に記された説話であり、もちろん弁長側の視点で記されたものであるから、あくまで史実ではない可能性があるものの、能忍が黙ったのは、答えられなかったのではなく、弁長を文殊菩薩になぞられることによって、禅者として『維摩経』の「維摩の一黙」を実践したものとみなす説がある(石井2002)。
天台宗の碩学である証真(?〜1214頃)は、その著『天台真言二乗同異章』の中で、達磨宗と真言宗について、天台四種三昧のひとつ常坐三昧と非行非坐三昧と捉え、天台の論理の中に包摂しようとし、二宗が天台の行法の一つに過ぎないとみなしている。しかしそれらが「宗」として自立化しつつある現実をも無視できなかったと考えられているように(船岡1984)、達磨宗が急速に宗勢を拡大しつつある状況が知られる。
このように達磨宗の勢力は無視できないほどに拡大したが、それは宋で流行した禅宗を達磨宗が寡占していたことにもよる。達磨宗による日本における禅宗の寡占状態は建久2年(1191)栄西が帰国したことによって終りを告げる。栄西は虚庵懐敞の法嗣となり、正統なる禅僧として活動を開始するが、達磨宗の勢力拡大と栄西の活動開始は他宗派、とくに天台宗の大きな反感を買うことになる。
建久5年(1194)7月5日、「入唐上人」栄西と「在京上人」能忍らが達磨宗を打ち立てようとする風聞により、両者の活動を停止するよう天台宗の僧徒が奏聞したため、栄西と能忍が禅宗を広めることを停止させる宣旨が下されている(『百錬抄』巻10、建久5年7月5日甲子条)。このように天台宗が栄西・能忍の禅宗が勢力を強めることに危機感をいだいて圧力をかけたことが窺える。禅宗を停止しようとする勢力は天台宗であったから、栄西はその後禅宗が天台宗と対立するものではないことを説き、後に開創した建仁寺が当初比叡山の別院として天台・真言・禅の三宗兼学の場としているように、旧来の仏教との和合に務めた。
一方で、栄西は禅宗宣揚のため、まとめて禁令を受けた能忍の達磨宗に対しては厳しく批判しており、その著『興禅護国論』において、達磨宗が「この宗は仏行をなすことも学修をなすこともせずに、もとより煩悩はなく、もともと菩提を得ているものである、であるから行動をいましめる制戒を用いることがなく、なさなくてはならぬ行為をなすことがなく、ただ身を横たえて眠っていればよい。どうして念仏を修したり、仏舎利の供養をしたり、長く持斎をし、食量を節することをつとめたりしようか」と述べたとし、その上で「その人は悪として造らざることのない類のものである」「このようなことをいうものと共に語り、共に座すべきではない。」と激しく罵っている(『興禅護国論』巻中、世人決疑門〈古田1981、189頁〉)。もっとも栄西は達磨宗が念仏や仏舎利の供養を否定していたとするが、実際には後述するが達磨宗は舎利信仰を基調としており、また弟子に蓮阿弥陀仏観真なる人物がみえるように、阿弥陀仏号を称する門弟がいたことから念仏を否定していたとは考えにくく、栄西の非難は必ずしも達磨宗の実態を正確に捉えたものではなかったらしい。
後世、栄西と能忍は論争を行ない、能忍は口を閉ざして退いたという(『元亨釈書』巻第2、伝智1之2、建仁寺栄西伝)、栄西側の立場で記された説話があることからも知られるように、同じく禅宗を宣揚しながらも、両者の立場は異なっていた。
達磨宗が唱えた「無行無修」については真言宗の頼瑜も批判を行なっており(『真俗雑記問答鈔』真言雖談本具用修行事)、また明恵(1173〜1232)は達磨宗を「又達磨宗ナンドイフ事、在家人等ノタメニ、コトニカナフマジキ事也。」と批判した(『却癈忘記』巻上)。また後世のことではあるが、日蓮が『開目鈔』『教機時国鈔』『安国論御勘由来』において能忍の達磨宗を批判しているが、ここでは法然の念仏宗、大日(能忍)の禅宗と対比されており、当時禅宗を隆盛させた人物が、栄西ではなく能忍であったとみなされていたことが知られる。達磨宗の影響は当時の諷刺にも現われており、藤原定家(1162〜1241)の歌風を新奇なものとみた当時の人々は、それを達磨宗に喩えている(『無名抄』近代歌体事)。彼ら敵対側の批判は、当時の達磨宗の毀誉褒貶・影響力を知る上で、重要である。
達磨宗の思想を彼らの視点から伝える史料は少ないが、金沢文庫に保管される『成等正覚論』は達磨宗側の手によるもので、能忍が法を嗣いだ拙庵徳光の看話禅よりも、『宗鏡録』を介して唐代の禅宗の影響を強く受けていた(石井1974)。
このように達磨宗は強い影響力をもったが、後に禅宗が本格的に流入すると衰退をはじめる。衰退には能忍の悲劇的最期も関わったのかもしれない。
能忍は『本朝高僧伝』によると、ある夜に甥の平景清が能忍を訪問して来たため、喜んで弟子に酒を買いに走らせた。しかし景清は自分の事を官府に密告に行ったと疑ったため、能忍を刺殺して逃走したという(『本朝高僧伝』巻第19、摂州三宝寺沙門能忍伝)。景清は建久6年(1195)に源氏側に捕えられ、翌年断食して死んだと伝えられる。
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瑞光寺(平成22年(2010)11月21日、管理人撮影)。瑞光寺本堂後ろには能忍の墓があったが、大阪大空襲のため現存していない。
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達磨宗と舎利信仰
能忍の横死後の三宝寺は各流派に分かれながらも命脈を保っていた。
達磨宗は禅宗として活動していたが、いつ頃か禅宗としての側面よりも舎利信仰としての側面が強くなっていった。それは能忍が直接面授による嗣法を行なわず、無師独悟して直接面授せずに嗣法したことにもよる。能忍が拙庵徳光より弟子を介しての嗣法したことは、禅宗史上に他にほとんど例はなく、そのため虎関師錬(1278〜1346)が元亨2年(1322)に撰上した『元亨釈書』には、「みだりに禅宗を唱えたが、すでに師承が乏しく、また戒検が無かったため、都下はこれをいやしんだ」(『元亨釈書』巻第2、伝智1之2、建仁寺栄西伝)と記述する。実際に能忍の時代には禅宗への理解が日本において乏しかったから、虎関師錬が指摘するような事例は存在しなかったらしく、実際栄西も達磨宗を批判しながら、面授嗣法でなかったことについては触れていない。しかし禅宗が日本へ本格的に伝わるようになると、能忍の達磨宗の嗣法の危うさが指摘されるようになったらしく、14世紀の段階では問題視されていたことが知られる。そのため達磨宗側は後に、拙庵徳光が弟子を通じて嗣法した後、能忍も宋に渡って拙庵徳光に面会したという説話(「摂州中島三宝寺六祖舎利大慧袈裟伝来記」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸14〉)を作り出すことになる。
達磨宗が舎利信仰を強く前面に打ち出したのは、能忍が嗣法した拙庵徳光が、阿育王の舎利信仰で有名な阿育王寺の住持であったことによる(石井1993)。
建仁元年(1201)正月3日申刻に蓮阿弥陀仏観真なる僧が同法の定観の勧めにより、六祖の舎利を拝見したところ、第六祖(慧能)の舎利が一粒突如として出現し、合計で二粒となったという(「慧能舎利出現記」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸13〉)。ここにみえる「六祖の舎利」とは、禅宗の六人の祖師である達磨・恵可・僧サン(王+粲。UNI7CB2。&M021270;)・道信・弘忍・慧能のことであり、禅宗で一般に「六祖」といえば慧能を指すが、達磨宗では達磨から六人の祖師のことを指した。この六祖舎利は舎利容器とともに正法寺に現存する。
この「六祖の舎利」は能忍の時代に宋より請来されたもので(「三宝寺御舎利安置状案」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸6〉)、建保6年(1218)5月15日に定観が記したところによると、普賢の舎利が37粒あり、これも能忍が宋から伝来したものであるという(「定観置文案」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸7〉)。寛喜2年(1230)2月15日の段階で、普賢舎利と達磨の舎利、慧能の舎利があったといい、これらは別に分置されている(「三宝寺御舎利安置状案」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸6〉)。
この頃から三宝寺において舎利は信仰の基層をなしていたようであり、寛喜2年(1230)10月7日には範永なる僧が一蓮房より普賢舎利を1粒授かっていたが、舎利はもとは心蓮御房が所持していた37粒のうちの一粒であったから、三宝院の院主円聖房が懇切に所望したため、範永が臨終の際に三宝寺に返却すると誓っている(「範永書状」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸4〉)。
また舎利は能忍の門弟らにも分けられ、東山の覚晏に与えられた普賢舎利・六祖舎利は越前国(福井県)波著寺の覚禅のもとに伝えられ、徹通義介に与えられた後、嘉元4年(1306)2月3日に瑩山紹瑾に伝えられた(「伝衣付属状」広福寺文書)。元亨3年(1323)9月13日、瑩山紹瑾は普賢・六祖の舎利などを五老峰(永光寺境内にある曹洞宗祖師の遺物を納めた墳丘)に埋納している(『洞谷記』洞谷山伝燈五老悟則并行業略記)。
このように舎利は粒状のものであるという特質のため、寺外に流出することが多かったらしい。そのためか嘉禎4年(1238)8月10日には観照によって三宝寺に舎利殿が建立されている(「舎利殿棟札写」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸9-b〉)。
その後三宝寺は幾度も舎利の数を確認する作業を行なっているが、増減が激しいため沿革を述べることは難しい。文安元年(1444)9月10日には分散した弘忍の舎利一粒、慧能の分散舎利二粒、成就坊実言が寄進した金色舎利を塔中に奉納している(「舎利塔中奉納状案」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸12〉)。
応仁3年(1469)摂津中島が幕府軍の攻撃を受け、中島の諸勢は敗北すると、三宝寺付近は戦場となったため、三宝寺の僧は普賢・六祖の舎利と大慧の法衣を寺外に運び出し、堺の草庵に安置したが、草庵を比丘尼が相続すると、正法寺聖賢院の開基安正軒宗賢居士(宇治大路安勝)が比丘尼の叔母であったこともあり(「摂州中島三宝寺六祖舎利大慧袈裟伝来記」〈摂津三宝寺関係史料A軸14〉)、正法寺聖賢院の什物となっている。その後聖賢院が闕所となると正法寺の所蔵に帰した。現在大慧の法衣(拙庵徳光料九条袈裟)・摂津三宝寺関係史料とともに、達磨宗の活動を示す数少ない史料として正法寺に伝えられる。
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京都府八幡市の正法寺(平成22年(2010)11月28日、管理人撮影)
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達磨宗の滅亡と三宝寺の廃寺
能忍が悲劇的な最期を遂げたが、達磨宗は門弟らによって運営されていった。能忍の門弟として最も名前が知られた人物は覚晏(生没年不明)である。
覚晏は京都東山の人であるといい、大和国(奈良県)多武峰にて達磨宗の活動を行なっていた(『本朝高僧伝』巻第19、摂州三宝寺沙門能忍伝)。多武峰は大和国における天台宗の拠点であり、達磨宗が活動する以前より禅宗の研究が盛んであったらしく、経暹(1013〜93)は律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗と並んで禅宗も研鑚していたという(『多武峰略記』)。その門弟には孤雲懐奘(1198〜1280)・越前(福井県)波著寺の懐鑑・覚禅がいた。孤雲懐奘は後に道元会下に入り、懐鑑ら達磨宗の一部も道元会下に入ったが、懐鑑は後に道元のもとより離脱している。
覚禅の門弟には徹通義介がおり、覚晏・覚禅・徹通義介の3人の間で普賢・六祖の舎利が相伝され、さらに嘉元4年(1306)2月3日に瑩山紹瑾に伝えられた(「伝衣付属状」広福寺文書)。元亨3年(1323)9月13日、瑩山紹瑾は普賢・六祖の舎利などを五老峰(永光寺境内にある曹洞宗祖師の遺物を納めた墳丘)に埋納している(『洞谷記』洞谷山伝燈五老悟則并行業略記)。結局覚晏の門下は道元会下に吸収されて曹洞宗の一部となり、伝えられた舎利も元亨3年(1323)に埋納されて地上から姿を消し、達磨宗の覚晏派は14世紀の段階で完全に痕跡を隠した。
一方の三宝寺では、能忍が悲劇的最期を遂げた後、心蓮が三宝寺の達磨宗を率いていたらしい。心蓮は能忍が弁長と問答した際、能忍の側にいた弟子の一人で、「心蓮得業」と呼ばれていたらしい(『聖光上人伝』)。この問答の際に近似していたもう一人の弟子が「三位闍梨」であるが(『聖光上人伝』)、この人物について詳しいことはわかっていない。
心蓮は後に「御房」と呼ばれており、心蓮は舎利を所持していたが、後に一蓮房が範永に舎利を与えている。さらに心蓮の後に三宝寺の達磨宗を統轄する立場にあったのが院主円聖房であったとみられる(「範永書状」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸4〉)。
三宝寺は「吹田三宝寺」(『拾遺性霊集』奥書)と称され、また「草苅三宝寺」(「摂州中島三宝寺地蔵院弟子松鶴丸買得相伝所々知行分田島目録」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料B軸1〉)とも称されていた。ここでみえる「吹田」とは現在の吹田市のことではなく、古代の行政区画である島下郡が中世には吹田となったための転訛である。また「中島三宝寺」と呼ばれていたように、中津川・三国川など淀川水域に囲まれた東西に長い川中島の東側に位置していた。
三宝寺があった中島は古代より交通の要所であり、三宝寺の北側には遊女で有名な江口があった。三宝寺の寺地は現在の大阪市東淀川区大桐3丁目の大阪経済大学の敷地の南側がその地に推定され、周囲は埋め立てられており、見る影もない(原田1998)。
三宝寺の子院には妙観院・弥勒院・西光院・千手院・大日院・地蔵堂・遍照堂・薬師堂・吉祥院があり(『中島崇禅寺領目録』)、足利義教の菩提寺として建立された崇禅寺と寺領をめぐって紛争があった。三宝寺の経営は子院に支えられていたようで、三宝寺地蔵院弟子松鶴丸の知行田畠として乳牛牧の一部、草苅国分寺の一部がみえる(「摂州中島三宝寺地蔵院弟子松鶴丸買得相伝所々知行分田島目録」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料B軸1〉)。
応仁3年(1469)摂津中島が幕府軍の攻撃を受け、中島の諸勢は敗北すると、三宝寺付近は戦場となったため、三宝寺の僧は普賢・六祖の舎利と大慧の法衣を寺外に運び出し、堺の草庵に安置したが、草庵を比丘尼が相続すると、正法寺聖賢院の開基安正軒宗賢居士(宇治大路安勝)が比丘尼の叔母であったこともあり(「摂州中島三宝寺六祖舎利大慧袈裟伝来記」正法寺文書〈摂津三宝寺関係史料A軸14〉)、正法寺聖賢院の什物となっている。その後聖賢院が改号の後には正法寺の所蔵に帰した。現在普賢・六祖の舎利・大慧の法衣(拙庵徳光料九条袈裟)・摂津三宝寺関係史料とともに、達磨宗の活動を示す数少ない史料として正法寺に伝えられる。
一方、三宝寺はその後普賢・六祖の舎利を失ったことで衰退したらしく、達磨宗は滅亡した。三宝寺は代って妙心寺派となったが、享禄5年(1532)8月20日に三宝寺付近で細川家と三好家の合戦があり、100人ほどが戦死しており(『細川両家記』)、以降の三宝寺についてはわかっていない。
三宝寺の什物のうち、「朱衣達磨像」「拙庵徳光頂相」は土佐の雪蹊寺に移り、のちに妙心寺大通院の什物となった。「拙庵徳光頂相」は像と賛が切断されて賛のみが残存していたという。その後大通院の廃寺とともに寺外に流出し、そのうち「拙庵徳光頂相(賛のみ)」は大正5年(1916)に下条正雄(1843〜1920)の売立が東京美術倶楽部で実施された際、鷲尾順敬(1868〜1941)と辻善之助(1877〜1955)が賛文を記録しており、一方の「朱衣達磨像」は現在神戸市の古美術商が所有する。
能忍の墓はかつて瑞光寺の本堂後ろにあったが、空襲(昭和20年(1945)6月の第3回大阪大空襲か)によって爆撃四散したという(高橋1984)。
達磨宗の痕跡は、拙庵徳光より伝授された「朱衣達磨像」が古美術商が、普賢・六祖の舎利と大慧の法衣(拙庵徳光料九条袈裟)・関係文書が正法寺に伝えられるほか、文献史料にみえるのみで、地上から完全に姿を消した。三宝寺の痕跡はわずかに地名で一部残存するのみである。
[参考文献]
・『西成郡史』(大阪府西成郡役所、1915年)
・石井修道「仏照徳光と日本達磨宗-金沢文庫保管「成等正覚論」をてがかりとして(上)」(『金沢文庫研究』20-11、1974年11月)
・石井修道「仏照徳光と日本達磨宗-金沢文庫保管「成等正覚論」をてがかりとして(下)」(『金沢文庫研究』20-12、1974年12月)
・高橋秀栄「大日房能忍と達磨宗に関する史料1」(『金沢文庫研究』22-4、1976年6月)
・高橋秀栄「大日房能忍と達磨宗に関する史料2」(『金沢文庫研究』22-7、1977年1月)
・高橋秀栄「大日房能忍の行実」(『日本仏教史学』15、1979年12月)
・古田紹欽『日本の禅語録1 栄西』(講談社、1981年)
・中尾良信「大日房能忍の禅」(『宗学研究』26、1984年3月)
・高橋秀栄「三宝寺の達磨宗門徒と六祖普賢舎利」(『宗学研究』26、1984年3月)
・石川力山「達磨宗の相承物について」(『宗学研究』26、1984年3月)
・船岡誠「日本禅宗史における達磨宗の位置」(『宗学研究』26、1984年3月)
・中尾良信「能忍没後の達磨宗」(『宗学研究』27、1985年3月)
・中尾良信「摂津三宝寺関係史料」(『曹洞宗研究員研究生研究紀要』18、1986年11月)
・京都府立山城郷土資料館編『山城国綴喜郡八幡正法寺古文書目録』(京都府教育委員会、1991年3月)
・石井修道「正法寺文書よりみた日本達磨宗の性格-特に「興禅護国論」の日本達磨宗批判と関連して」(『仏教学』35、1993年12月)
・原田正俊『日本中世の禅宗と社会』(吉川弘文館、1998年12月)
・牧野和夫「十三世紀中後期をめぐる一、二の文学的な"場"について-意教上人頼賢「入宋」の可能性より延慶本『平家物語』と達磨宗の邂逅をめぐる一、二の問題に至る」(『中世文学』46、2001年)
・石井修道「日本達磨宗の性格」(『財団法人松ケ岡文庫研究年報』16、2002年)
・西岡秀爾「摂津中嶋三宝寺とその周辺」(『印度学仏教学研究』55(2)、2007年3月)
・『特別展覧会 高僧と袈裟-ころもを伝えこころを繋ぐ-』(京都国立博物館、2010年10月)
最終更新日:平成22年(2010)11月29日
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黄昏の淀川(平成22年(2010)11月21日、管理人撮影)
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