函館の建築散歩2 元町教会建築群

 二十間坂は冬季にはガスを利用した路面ヒーターが使われており、厳しい寒さから凍結を防いでいます。


二十間坂(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 元町カトリック教会の前に洋風町屋が建っています。これは旧又十藤野社宅で、明治41年(1908)に藤野財閥の社宅として建設され、漁師が住んでいました。一階は和風で、二階は洋風下見板張の外壁、縦長の開き窓の意匠が施されています。


元町カトリック教会聖堂(右)と旧又十藤野社宅(N家住宅店舗)(左)(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 元町カトリック教会聖堂は、函館元町を象徴する建物の一つで、明治10年(1877)に献堂された最初の木造教会堂は明治40年(1907)の大火で焼失し、明治42年(1909)頃に煉瓦造で再建されましたが、大正10年(1921)の大火で煉瓦の外壁のみ残して焼失しました。大正13年(1924)に焼け残った煉瓦の外壁をもとに鉄筋コンクリートで補強され、高さ33mの大鐘楼が増築されました。右側の赤い屋根の建物は司祭館で、大正13年(1924)に鉄筋コンクリート造で建てられました。


元町カトリック教会聖堂(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 真宗大谷派函館別院です。函館では単に「東本願寺」と呼ばれています。日本で始めて鉄筋コンクリートで建造された寺院建築で、京都東本願寺の大師堂を手がけた9世伊藤平左衛門の設計により、10世伊藤平左衛門が完成させました。完成当初は囂々たる非難を浴びましたが、国の重要文化財に指定されています。昭和63年(1988)には11世伊藤平左衛門が修理を行ない、柱の補強、屋根の土を取り除いて耐震補強しています。

 平成16年(2004)に外祖母が亡くなった際に、葬儀(母の実家は真宗大谷派)がここで行われました。その時は冬だったので、ひたすら寒かったという記憶がありましたが、日本最古の鉄筋コンクリート寺院で、重要文化財であったことはその時は知らず、様々な感慨をもって建物を見ていました。


東本願寺函館別院(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 日本聖公会函館聖ヨハネ教会は日本聖公会の教会で、北海道へは明治7年(1874)に英国聖公会海外伝道教会のデニング Waiter Dening (1846〜1913)が函館で伝道を開始し、明治11年(1878)に末広町に聖堂を献堂しましたが、翌年の大火で焼失。その後何度も移転を繰り返し、大正10年(1921)に現在地に移転しました。今の建物は昭和54年(1979)に完成したものです。


日本聖公会函館聖ヨハネ教会(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 函館ハリストス正教会復活聖堂です。このロシア風ビザンチン様式の優美な建物はガンガン寺の愛称で親しまれ、国の重要文化財に指定されています。

 日本ハリストス正教会の発祥地は函館で、安政元年(1854)日露和親条約によってロシア領事とともに初代宣教使が箱館に着任し、木造の聖堂を献堂しました。この聖堂は明治40年(1907)に大火で焼失しましたが、大正3年(1914)3月までに正教会輔祭の河村伊蔵によって設計され、地元の信者とロシアの一老寡婦からの多額の献金によって着工され、大正5年(1916)10月15日に成聖式が行われました。

 煉瓦造の建物は、ハリストス正教会特有の尖塔の鐘塔と、玉ネギ形のキューポラが特徴をなし、漆喰の白壁と、銅板葺の青緑の屋根がコントラストとなって建物の美しさを際だたせています。

 内部は拝観可能で(有料)、白壁と高い天井から差し込むほのかな光、聖所と至聖所がハリストス正教会独特の荘厳さを醸し出しています。


函館ハリストス正教会復活聖堂(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)



函館ハリストス正教会復活聖堂(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)



函館ハリストス正教会復活聖堂(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)



函館ハリストス正教会復活聖堂(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)



幕末期の函館ハリストス正教会復活聖堂(五島軒資料室より)(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 遺愛幼稚園は大正2年(1913)に建てられました。ここはもとはイギリス領事館がありましたが、元治元年(1864)に焼失、その後明治15年(1882)に遺愛女学校が創立しました。明治28年(1895)に幼稚園が併設されましたが、明治40年(1907)の大火で焼失し、公社は杉並町に移転し、幼稚園は一時廃園されました。

 大正2年(1913)に再建された幼稚園は、一階・二階ともに縦長の窓を持ち、一階窓したには×字形に斜め材を入れており、破風やそれを支える幾何学状のブランケットの意匠と相俟って、明治の洋館の雰囲気があります。破風の左右には寒さを防ぐため、二重ドアが後補で増築されています。

 ちなみに杉並町に移転した女学校は国の重要文化財に指定されています。母の母校でもあり、若き日の母が階段手すりの上にお尻を乗せて滑り降りて、同期の女子生徒から歓声を浴びていたそうです。


遺愛幼稚園(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 船魂神社です。保延元年(1135)に観音堂が建立されたことが始まりとされ、北海道で最も古い神社とされています。


船魂神社(平成24年(2012)11月30日、管理人配偶者撮影)

 この付近では和洋折衷の住宅が、違和感なく風景に溶け込んで並んでいます。その中でも大正11年(1922)に建てられたK家住宅は清楚な白い外観がとくに美しさを主張しています。昭和60年(1985)に歴風文化賞を受賞しています。


K家住宅(平成24年(2012)11月30日、管理人配偶者撮影)

 旧函館区公会堂です。明治40年(1907)の大火で焼失した町会所に代わる建物として建造され、総工費5万8千円のうち、地元の豪商相馬哲平が5万円を寄附して建てられました。

 明治43年(1910)に完成し、町会所・商業会議所事務所・ホテルの機能を持つものとして計画されていましたが、ホテルとしては営業されず、明治44年(1911)に皇太子(大正天皇)行啓の際には二階の貴賓室が宿泊所として使用されました。近年まで遺愛幼稚園のようなピンク色で塗られていましたが、昭和57年(1982)の解体修理に際して、現在のような黄色にブルーグレーの当初の色に塗り直され、函館市民を大いに驚かせました。

 国の重要文化財に指定されています。


旧函館公会堂(平成24年(2012)11月30日、管理人配偶者撮影)



旧函館公会堂(平成24年(2012)11月30日、管理人配偶者撮影)



旧函館公会堂(平成24年(2012)11月30日、管理人配偶者撮影)

 旧北海道庁函館支庁庁舎(右)と旧開拓使函館支庁書籍庫(左)です。

 元町公園の中に建っており、旧北海道庁函館支庁庁舎は現在函館市写真歴史館として使われています。明治42年(1909)に建てられた木造洋風建築で、北海道庁の家田於菟之助が設計しました。ペディメント(三角切妻破風)にコリント様式の柱が建っています。北海道指定有形文化財で、平成3年(1991)12月15日に内部火災を起しましたが、幸いにも全焼は免れ、平成6年(1994)に復元工事が完了しました。

 旧開拓使函館支庁書籍庫は北海道開拓使函館支庁によって煉瓦造二階建の建物として設計され、明治13年(1880)に完成した倉庫です。煉瓦は現在上磯町矢不来神社の境内裏にあった茂辺地煉化石製造所で造られた物で、煉瓦工は月給20円で東京から呼び寄せられていました。この建物の煉瓦には製造所と製造年を示す刻印が捺されています。北海道指定有形文化財です。


旧北海道庁函館支庁庁舎(右)と旧開拓使函館支庁書籍庫(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 相馬家住宅は北海道屈指の豪商相馬哲平(1833〜1921)の住宅です。明治40年(1907)の大火で自宅が全焼の後、明治41年(1908)に建てられました。相馬は一代で莫大な財産を築き上げましたが、「郷土報恩」をモットーに函館区役所の土地、函館慈恵院への基金に尽力し、前述した通り、函館区公会堂の建造費の大半は彼の寄附によるもので、かつ相馬家住宅は函館区公会堂の建設を見届けてから着工した、何よりも地元を優先する人物でした。北海道最初の貴族院議員に選出されています。


旧相馬家住宅(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)

 旧イギリス領事館は現在開港記念館となっています。箱館開港の安政6年(1859)に初代領事ホジソンが着任しましたが、当初は和風の建物であったようで、2代領事ワイスの時に領事代理ユースデンから、西洋風の建築を建てるよう求められ、箱館奉行によってイギリス領事館は現在遺愛幼稚園がある地に文久3年(1863)に建てられましたが、元治元年(1864)に焼失し、その後領事館は移転を繰り返していました。

 現在の建物は大正2年(1913)に英国工務省上海工事局の設計、大村合名会社建築部の施行によって建てられました。白壁に瓦葺で青色の軒天井、同じく青色の窓額縁が印象的で、函館市の有形文化財に指定されています。領事館は昭和9年(1934)に廃止されましたが、建物の海側のベランダ部分はティーレストランに転用されており、亡くなった外祖母がここで紅茶を飲むのをこよなく愛したそうです。


旧イギリス領事館(開港記念館)(平成24年(2012)11月30日、管理人配偶者撮影)

 旧イギリス領事館の正面に元町公園があります。ここはかつての宇須岸河野館跡です。宇須岸河野館跡は亨徳3年(1454)に津軽の豪族安東政季に従って蝦夷地に渡来した河野政通によって建てられた中世城館です。函館は当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれており、宇須岸河野館が箱のような形をした館であったことから、「箱館」の地名が生まれました。いうまでもなく「函館」の前称です。近年まで病院がありましたが、現在は公園となっています。


宇須岸河野館跡(平成24年(2012)11月30日、管理人撮影)



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