南郊壇



南郊壇(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 南郊壇は京城(フエ旧市街)の外の香江(フーン河)を跨いだ南側の安旧社(楊春社)という地に位置する(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)。現在はナム・ザオと称されるが、これは「南壇」の現地語読みである。郊祀を行なう壇である。


郊祀前史

 郊祀とは都城郊外の南北に天地を祀る壇を設けて祭祀を行なうことであり、中国前漢代より始まった。建始元年(前32)に丞相匡衡(生没年不明)の建言によるもので、翌年の建始2年(前31)正月にはじめて南郊祭が実施された。その理論的根拠となったのが、『書経』にみえる周の文王・武王・成王が行なった郊の祭りであり、また『礼記』祭法篇にみえる円丘で柴を燃やして埋めて天を祀り、方丘で絹と犠牲を埋める祭祀であった(『漢書』巻25下、郊祀志第5下)

 郊祀は元始5年(5)の王莽(前45〜後23)によって整備され、夏至・冬至・正月上旬の辛日ないし丁日が祭祀の日と定められた。このうち南郊の正月上旬の天地合祭は皇帝親祭とし、冬至の南郊の祭祀、夏至の北郊の祭祀は関係官が行なう有司摂祭となった(『漢書』巻25下、郊祀志第5下)。後漢の建武2年(26)には郊壇を洛陽城の南7里の地に設けられている。この壇は2段からなり、天地を上壇にて祀っていた(『後漢書』志第7、祭祀上)。さらに建武中元2年(57)には北郊を造営して天地を分祀しており(『後漢書』志第8、祭祀中)、これにより天地の郊祀が分割された。

 天を祀る円丘は南郊壇、地を祀る方丘は北郊壇といったが、後漢の学者鄭玄(127〜200)は南郊壇と円丘、北郊壇と方丘を別のものと解釈した。それに対して南郊壇と円丘、北郊壇と方丘は同一のものと見なしたのが王粛(195〜256)であった。魏晋南北朝時代になると、南朝は王粛の、北朝は鄭玄の説によったが、北朝の系統を受け継ぐ隋や唐によって、郊祀は北朝の制度が踏襲された。唐の制では昊天上帝を円丘に祀って景帝を配し、壇は京城明徳門の外の道より東に2里のところにあった。壇は4段からなり、それぞれ高さ8尺1寸(243cm)、下段は広さ20丈(69m)、二段目は15丈(45m)、三段目は10丈(30m)、四段目は5丈(15m)であったという(『旧唐書』巻21、志第1、礼儀1、郊祀)

 南郊において壇を築いて天を祀ることは、天子たる皇帝のみが実施できる祭祀であると観念づけられており、当然のことながら、皇帝以外は実施することは原則としてはできなかった。中華思想においては皇帝は天に一人のみ、すなわち中国にしかいないことになっていたが、中国以外の東アジア各国で南郊の祀りを行なう場合が多かった。

 朝鮮半島西南部の百済では南壇にて天地を祀っていることから、明らかに郊祀を行なっていた。その始まりは伝説的な始祖王温祚王の時代から行なわれていたとされ(『三国史記』巻第21、百済本紀第1、温祚王20年2月条)、以後たびたび行なわれていたようであるが、東城王11年(489)を最後として記録からみえなくなる(『三国史記』巻第25、百済本紀第3、東城王11年10月条)

 また高麗では圜丘壇が設けて上帝を祭っているが(『高麗史』巻59、志巻第13、礼1、吉礼大祀、圜丘)、成宗(位981〜97)が太平興国7年(982)正月に圜丘に祖父の初代太祖(位918〜43)を配して祀ったことにはじまる(『高麗史』巻3、世家巻第3、成宗2年正月辛未条)。高麗初期の国王は外(中国)に対しては国王を称したが、内に対しては皇帝・天子号を用いており、以後の国王も郊祀を実施していた。

 日本においても桓武天皇の延暦4年(785)11月10日に交野の柏原にて天神を祀っており(『続日本紀』巻38、延暦4年11月壬寅条)、延暦6年(787)11月5日にもやはり交野にて天神を祀っている。ただしこの時は天皇親祭ではなく、大納言藤原継縄(727〜96)を遣わしての祭祀であった(『続日本紀』巻39、延暦6年11月甲寅条)。また文徳天皇の斉衡3年(856)11月25日にも権大納言安倍安仁(793〜859)・侍従輔世王(?〜879)らを河内国交野に遣わして昊天祭を行なっている(『日本文徳天皇実録』巻8、斉衡3年11月辛酉条)

 日本における郊祀は、唐制を模した冬至に昊天上帝を円丘に祀るものであり、いずれも天皇親祭ではないことに特徴があった。しかも唐では定期的に実施される「正祭」であったのに対して、日本では臨時に行なう「告祭」となっていた。日本における郊祀の例は以上にみる3例しか記録が残されていないが、もともと日本は唐制を模しており、郊祀の実態如何はともかくとして、天平3年(731)5月に出された対策文には「郊祀進退」があり、その中で郊祀は孟春(正月)上辛日に「有司行事」、すなわち天皇親祭ではなく有司摂事で祭祀を行なうことが示されている(『経国集』巻20、策下、船連沙弥麻呂対策文二首、郊祀進退)。すなわち、郊祀自体が行なわれなかったのは、それまで日本の国情に適う適わない如何ということではなく、郊祀の実施自体が唐制を受け入れている以上想定内にあったこと、そして正祭ではなく告祭となったのは結果論的な偶然であり、有司摂事として天皇親祭ではなかったのは、唐制を受けた比較的早い段階で結論となった原則であったようである。


南郊壇(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 ヴェトナムで南郊壇が築かれたのは、李朝の大定15年(1154)9月に英宗(位1137〜75)が大羅城(ハノイ)南門に行幸し、円丘壇を建造するのを見ているのが最初であり(『大越史記全書』本紀、巻之4、李紀、英宗皇帝、大定15年9月条)、以後歴代王朝によってハノイの地で南郊が実施された。他にも胡朝の紹成2年(1402)には清化(タインホア)の頓山に南郊壇が建造されている(『大越史記全書』本紀、巻之8、陳紀、付、胡漢蒼、紹成2年8月条)

 ヴェトナム最後の王朝である阮朝もまた、南郊壇をフエ郊外の南に築き、郊祀を行なっている。ところで阮朝は中国・清に冊封しており、国号として「南越」の使用を希望したところ、現在のヴェトナムの国号のもととなった「越南」を授けられ、嘉隆帝(位1802〜20)は「越南国王」として冊封を受けた。清より冊封を受けたということは、地上における皇帝・天子は清朝の皇帝ただ一人であることを承認することである。阮朝の君主が皇帝を称して南郊で郊祀を行なうことは矛盾しているといえるが、阮朝は歴代ヴェトナム王朝の例に漏れず、中国に対して面従腹背な部分があった。例えば嘉隆帝の子である明命帝は、国号として授けられた「越南」を国内で用いることなく、「大南」と北方の清に対して向こうを張った国号を採用しており、国内では「大南皇帝」として振る舞っていたが、清に対しては如清使を派遣し、自身を「越南国王」として臣従していた。

 フエの南郊壇が嘉隆帝(位1802〜20)によって建立されたのは辛酉年(1801)11月のことで、当初安寧社に壇を設けて合祀する程度であったが(『大南寔録正編』第1紀、巻之15、世祖高皇帝寔録、辛酉22年11月丙戌条)、嘉隆元年(1802)5月1日に壇を安寧社の平野に設け、嘉隆帝自身が天地を合祀して「嘉隆」の年号を定めた(『大南寔録正編』第1紀、巻之17、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年5月庚午朔条)。この時のものはまだ戦乱が続いて統一がなされていなかったため、仮の壇として設けられたものであった。

 現在の南郊壇は嘉隆5年(1806)2月に范文仁(1745〜1815)を責任者として建立された。壇は三重からなり、一段目は円形につくられ、高さ6尺8寸(2m32cm)、周囲は30丈3尺5寸(134m)ある。二段目は方形で高2尺5寸(1m)、一辺19丈5尺7寸(80m)ある。三段目は高1尺9寸(76cm)、一辺37丈5尺(153m)ある。それぞれ柵で囲まれている(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年2月甲申条)


南郊壇(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 第一成(第一段目)は昊天上天と皇地祇を祀る(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年2月甲申条)。またヴェトナム阮朝の地誌『大南一統志』には、「左一」「右二」といった昭穆の制が採用され、それぞれ左一は太祖嘉裕皇帝(広南阮氏の仏祖)、右一は世祖高皇帝(嘉隆帝)、左二は聖祖仁皇帝(明命帝)、右二は憲祖章皇帝(紹治帝)、左二には翼宗英皇帝(嗣徳帝)が祀られたという(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)。第一成の側面は青色で塗装され、柱礎は28本あり、張り出しが設けられて青幄と呼ばれていたが、紹治6年(1846)に皇穹宇と改称された。東西南北の四方に階段が設けられ、午階(南階段)は15段、東西北の階段はそれぞれ9段であった(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)

 第二成(第二段目)は位次を八にわけ、それぞれ左右に配置している。左一は大明、左二は周天星宿、左三は雲雨風雷、左四は太歳月将、右一は夜明、右二は山海江沢・肇祥・啓運・興業・天授孝山、順道謙山、山神、右三は丘陵墳衍、右四は天下神祇を祀った(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年2月甲申条)。柱礎は16本あり、正面には午階(南階段)が設けられ、他の三面にもそれぞれ5段の階段がある。第二成の側面は黄色で塗装され、やはり張り出しを設けて黄幄という祭壇を設けた(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)

 第三成(第三段目)は東南に芝を燃やす場所が、北西には斎食を埋める場所があった(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年2月甲申条)。四方にそれぞれ5段の階段があり、側面は赤色で塗装されていた(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)


南郊壇(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 また基壇の外側は方形に区画され、松が植えられており(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年2月甲申条)、松の一株ごとに銅の碑文があった(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)。さらにその外側は石壁で囲まれ、四面にそれぞれ門が設けられた。基壇の右(西側)に設斎宮が建てられ(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年2月甲申条)、基壇の東北に神庫・神厨が建てられ、門外には左右の粛と尚茶房・尚膳所が設置された(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)

 南郊壇が嘉隆5年(1806)2月に整備された段階では、楊春社の民25人を充て、代償として彼らの徭役を免除した。また礼部の管轄とし、礼部の指示のもと祭器を製造させている。祭祀において犠牲とする牛を確保するため、幼牛1頭と成牛8頭を別に養わせているが、祭祀で用いる穀物については全国の城・営・鎮から供出させていた(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年2月甲申条)。祭祀は皇帝親祭が原則であったものの、実施日はたびたび改定され、当初は2月の三吉日に実施されていたのが、明命20年(1839)に3月15日以前の三吉日に改定され、嗣徳元年(1848)には仲春に、同慶3年(1887)には子の年・卯の年・午の年・酉の年といったように、三年に一度の2月の三辛日に実施されることとなった(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、南郊壇)


南郊壇(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



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