社稷壇



社稷壇(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 社稷壇は京城(フエ旧市街)の西南の凝績坊に北向で位置する(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、社稷壇)。社稷壇とは都城における廟壇のことであり、ヴェトナムでは天感聖武5年(1048)3月に昇龍(現ハノイ)長広門の外に社稷壇を築いて四時祈穀の場所としたのが始まりである(『大越史記全書』本紀、巻之2、李紀、太宗皇帝、天感聖武5年3月条)

 社稷壇は嘉隆5年(1806)3月に皇城(阮朝王宮)の西側に建立された。全国の城・営・鎮に命じて各地の土を献上させ、これによって方形の壇を築いた。建立の責任者は范文仁(1745〜1815)があたった(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年3月丁巳条)

 社稷壇は二段からなり、第一成(二段目)は高2尺(80cm)、一辺15丈(60m)あり、中央に太社太稷の神を祀り、右に后土勾龍氏、左は后稷氏がそれぞれ東西に向いて祀られた(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年3月丁巳条)

 第二成(一段目)は高1尺5寸(60cm)、一辺が29丈(116m)あり、北西に斎食を埋める場所があった。周囲は欄杆で囲まれ、外には樹木が植えられており、外側は壁で囲まれた(『大南寔録正編』第1紀、巻之28、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年3月丁巳条)。また壇は五色で塗装され、中央は黄色、東は青、西は白、南は赤、北は黒であった。それぞれ四方に階段があり、北は11段で他は7段である(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、社稷壇)


社稷壇(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)。訪れた日に祭りが行なわれていた。



京師図・『大南一統志』巻1より社稷壇部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

 正面には二層の楼門があり、第一成は黄色、第二成は赤色で塗られていた。外壁の東西南北にそれぞれ門があり、前面には方形の湖がある。この湖は一周57丈(228m)あり、湖畔は石で護岸されて柵が設けられた(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、社稷壇)。この護岸工事は明命12年(1831)6月に実施されている(『大南寔録正編』第2紀、巻之74、聖祖仁皇帝寔録、明命12年6月条)

 祭祀は春秋二仲月(2月・8月)の上戌日が充てられ、皇帝が親祭したが、嘉隆8年(1809)に改定され、子の年・午の年・卯の年・酉の年と三年に一度のみ親祭となり、他は簡略化して武班の大臣が派遣されることとなった。明命3年(1822)に再度改定となり、春(2月)は郊祀に準じて後戌日に、秋(8月)は上戌日に実施することとなり、慶事があった年のみ親祭し、他は簡略化して大臣が派遣されるに留まった(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、社稷壇)。また明命3年(1822)6月には社稷壇のために壇夫として富春(フエ)の民10人が設置され、都城隍廟とあわせて15人が守護にあたった(『大南寔録正編』第2紀、巻之16、聖祖仁皇帝寔録、明命3年6月条)


社稷壇(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



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