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先農壇はかつて京城(フエ旧市街)内の西北の厚生坊・安宅坊に位置した壇で、現存しない。先農壇とは皇帝が自ら鋤をもって行なう農耕儀礼を行なう祭祀施設である(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、先農壇)。現存しない。
明命9年(1828)に建立された。南向きの方形の壇一段からなり、高さは4尺5寸(180cm)、周囲が17丈3尺6寸(69m)で石を積んで造られた。周囲は欄杆で囲まれ、四方それぞれに9段の階段がある(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、先農壇)。
先農壇の東南に炉が設けられ、北西に神庫・神厨、東西に神倉が建てられた。神倉の前は穀物を収める収穀亭があった。東を観耕台とし、高さは6尺(240cm)で四方に13段階段が取り付けられた。さらに観耕台の上方に観耕殿があり、観耕台の前方中央に躬耕田壇があった(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、先農壇)。先農壇の周囲は壁で囲まれ、門は三箇所ある。中央の門に額が二つ懸けられ、内側のものは「帝命率育」、外側は「為天下先」とあった(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、先農壇)。
明命8年(1827)に明命帝が籍田を復古して自ら耕作の儀式を行なうことを表明し、4月下旬に実施されることになった。前述した通り、明命9年(1828)に具服殿を籍田に建立し、また永沢園に建務本堂を建設して演耕(皇帝自ら耕作することで豊饒を願う儀式)儀礼の場として整備したが、明命11年(1830)に具服殿は撤去された(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、先農壇)。永沢園は慶寧宮に隣接した園地であり、先農壇同様に演耕という農耕儀礼を行なう場所であった。
紹治5年(1845)に建務本堂は豊沢園(後の保定宮)に改められ、嗣徳3年(1850)に具服殿に準じて仮殿が建立された。成泰15年(1903)に観耕台と収穀亭・左右従耕家が修理されたが、成泰17年(1905)には神倉・従耕家の二棟の規模が縮小された(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、先農壇)。
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先農壇跡付近(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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