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[底本]
・『続群書類従』第27輯上(続群書類従完成会、1925年11月)
(271頁下段)
壬生寺縁起上
目録
一壬生寺草創并本尊出現の事
二御堂供養の事
三當寺行幸の事
四本尊開帳の事
五宗平當寺再興の事
六政平當寺造營付飢饉を救ふ事
七當寺造營惣供養の事
八本尊の錫杖來由の事
九當専撞鐘を鑄る事付政平瑞夢の事
十當寺鎭守六所大明神の事
(271頁下段)
第一壬生寺草創并本尊出現の事
夫諸佛菩薩の利生方便いづれ健劣なしといへ
ども。機に隨ひ時に隨ふ時は其優劣なきにし
もあらず。たとへば諸の藥草各其功能をそな
へ侍れど。病に應じて用捨あるがごとし。各
其功能をそなふといへども又貴賤なきにしも
あらず。三世十方の諸佛の中彌陀をもて第一
ととき。又觀音の弘誓海のごとくなるも。地藏
重深の慈悲には及ばずと説り。是を思ふに
地藏菩薩の悲願は諸佛諸菩薩に超給へる事仰で
信ずべきをや。爰に洛下宣風坊の邊〔亦ハ號小三井寺ト。亦ハ號地藏院。亦ハ號寳幢三昧寺。〕
の本尊地藏菩薩の像は第六十六
世一條院の御宇正暦二年庚寅。定朝法橋一刀
三禮の懇精をもて彫刻し奉る所なり。坐像御
長三尺。其出現の權輿を尋るに。本願三井寺
の快賢僧都。俗姓は藤氏大織冠十三世之孫。
粟田關白道兼公の族なり。出塵の後三井寺に
(272頁上段)
登り。智證大師の門葉と成て天台の教門其玄
奥を究むといへども。慈母洪恩のむくいがた
き事を思ひて。後に寺を出。京華に母をかへ
り見。唱導を事として緇素を引導す。すなは
ち此所に一宇の坊舍を營造し。定朝に命じて
造らしめ本尊となん仰ぎ奉りける。彫刻の願
を發してより御衣木を加持し。佛匠は一刀三
禮すれば。願主は一香三拜し。共に無二の信
心凝し侍るゆへにや。相好圓備して恰も生身
にむかへるごとし。允に是大權薩&M005190;の示現な
れば。威光高位に燿き。冥顯の二應掲焉とし
てすでに今七百餘歳。上一人より下萬民に至
て。利生を蒙るもの翰墨の記す所言詞の及ぶ
所にあらず。されば住職の僧侶聯綿として常
に丹心を抽で。天長地久四海泰平の祈願をな
す所の道場となん成侍りける。
第二御堂供養の事
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おなじ御宇寛弘二年乙巳御堂の供養す。此時
寺を小三井寺となん名付侍りける。導師はや
がて本願僧都是をつとむ。門弟の上綱供奉
琳巌。〔異名云ハ六郎禪師。〕權少僧都覺増。中將阿闍梨性尊。
三位法眼基尊。宰相禪師定尊。是等を初めと
して職衆數輩なり。大法會の儀式大行道の次
第。伽陀聲明の妙音天にひゞき。舞歌音樂の
雅聲にひゞく。上界の諸天も降臨し。十方の
諸佛もまさに來現し給ふかとぞ見えたりけ
る。見聞隨喜の緇素男女も本願僧都をもて生
身の地藏菩薩のごとく仰ぎたうとみあへりけ
る。
第三當寺行幸の事
第六十六世一條院の御宇寛弘二年御堂供養成
就してよりこのかた。本尊の靈應朝野にあま
ねく日を逐てあらたに。年を累ねていちじる
くをんましヽヽける。白河院叡情を凝して信
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敬せさせ給ひ。たちまち靈夢を感ぜさせおは
しまし。承暦年中后宮群臣をひきゐてまふで
させ給ふ。此時寺を地藏院となん名付させ給
ひける。其後第七十四世鳥羽院御歸依淺から
ず。天承年中御幸ならせ給ふ。宜なる哉。兩
朝の聖主尊崇のあまり輦車を此寺にめぐらさ
せ給ふこと。本尊の威徳寺院の眉目かぎりな
き物ならし。
第四本尊開帳の事
一條院正暦二年の草創より以往。本尊の御厨
子に御帳をたれてたやすく拜し奉ることを制
す。是ひとへに難遭希有の想を生ぜしめんが
爲になん。然るに第七十六世近衞院の御宇
天養元年六月十七日二條院降誕せさせ給ふ。此
日より同二十四日に至て一七日の間開帳せし
む。是は後白河院の勅命に依て二條院御誕生
御願成就の御よろこびの爲なり。此帝は後白
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河の長子。御母は贈皇火后懿子。贈太政大臣
經實公の御女なり。勅使は萬里小路中納言。
當寺執行中觀法印壽八十九歳。さしも久修練
行の功つもりいとたうとき人になん有ける。
仙院も御幸成て御所願成就の御よろこびを申
させ給ふ。本尊安置の後。今此時に至て百五
十餘歳になん成侍れば。花洛洛外はいふに及
ばず。邊土遠境の道俗貴賤袖をつらね踵をつ
いで詣のゝしる有樣。いける佛の世に出給ふ
もかくやとぞおぼえける。
第五宗平當寺再興の事
第八十四世順徳院の御宇建保年中。和州前吏
平朝臣宗平といふ人あり。三重左衞門俊平が
子なり。是も和州の前史なりしが。豊後國
三重庄を領知し侍ればしかなん名づけける。此
俊中本より此本尊を信仰して樣々利uを蒙り
侍りければり此宗平も父の業を繼でおなじく
(274頁上段)
信仰し奉りける。俊平が行迹は別卷に記し侍
ればこゝに略し侍りぬ。然るに宗平建保元年
心を發して。五條坊門壬生より此坊城に移し
て伽藍建立の敷地を定め。佛閤塔娑甍をまじ
へ。堂舍僧房軒をならぶ。今坊城に移すとい
へども元の名を改めず壬生寺とはいへる也。
再興供養の導師は勸修寺別當前大僧正成寳。
讃衆等皆門弟の名徳修行せらる。起立塔婆の
供養。導師は前法務大僧正親嚴。職衆等は
東寺一門の上綱是をつとめらる。此外種々の善
根佛事皆本尊稱揚讃歎の外他事なし。或は
法華般若等の諸大乘經を開講演説し。顯密の行
法ながく退轉せず。阿彌陀堂におゐては不斷
念佛三昧を修せしむ。すなはち結衆供料の爲
又は諸堂の佛餉燈油など。悉その用途をはか
りて田園を寄附す。かくのごとく檀信の深厚
なる事。佛世の須達にもをさヽヽ劣るまじく
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見え侍りける。
第六政平亦當寺造營付飢饉を救ふ事
建保年中宗平再興より四十歳を經て。八十八
世後深草院の御宇正嘉元年二月廿八日。東火
の餘焔西に及で一寺悉く灰燼となる。されど
本尊はつゝがましまさず。だうは礎のみぞ殘
れりける。大檀越和州前吏朝臣宗平の息左金
吾校尉政平。二代の跡を逐て伽藍修造の興行
をなす。頗往古の建立に超過せり。本堂は五
間四面。本尊地藏菩構并に四天の像を安置し
奉る。阿彌陀堂三間四面半。丈六の彌陀の像
を安置し。釋誹堂二間四面。釋迦の像を安置
す。其外藥師如來の像一躯。阿彌陀如來の像
二躯。地藏菩薩の像二躯新たに造立して別殿
に安置し奉る。寳塔には大日如來釋迦文殊普
覺各一體を安置し奉る。大門は八足にして南
にたてり。十輪門と號す。熊野の發心門にむ
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かへりとか。たけ一丈の金剛力士を置り。此
時地藏院の名を改めて寳幢三昧寺と號す。其
額は菅規爲長卿の筆跡なり。其外五部の大乘
經二百四十八卷。法華經十二部九十六卷。わ
きては先考先妣追福の爲に無量義經。觀普賢
經。阿彌陀經。般若心經各六部を書寫す。已
上の善根すべて自他兼濟の願ならずといふ事
なし。是等の大願二筒年を經て悉く成就し。
正嘉二年八月廿八日本尊御遷座あり。種々の
供養允に善美こゝに盡せり。或は梵唄説法八
音四辨をのべ。舞樂歌謠。間者隨喜感歎す。
又萬燈の照輝赫奕として佛日の無窮にてらさ
ん事をなん表し侍りける。抑此所土地濕多く
して。動もすれば泥水涌出して礎石をまふく
るに堅固ならず。是に依て他所より土壤をは
こびて地形をきづく。其比天下大に旱魃して
人民餓死する者おほし。政平是を憐み。かつ
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は伽藍建立結縁の爲。かつは飢をたすけんは
かりごとに。簀にて土を運ばしむるに。其大
小に隨て米錢をあたへて。おほくの飢人を救
ふ。呼是無遮平等の大施。自然廣大の利uな
るべし。
第七當寺造營惣供養の事
第八十八世後深草院の御宇正元元年。〔正嘉三年改元。〕
當寺惣供養あり。其儀式最嚴整にして大曼荼羅供
を修せらる。導師は仁和寺菩提院大僧正
行遍。〔號參河僧正。〕職衆は東寺一門徒三十口當寺僧侶
二十餘輩。誠に希代の勝會無雙の善行なり。
大檀越ならびに結縁の道俗男女。現世には諸
の障難を除きて長生の壽域にあそび。當來に
は薩&M005190;の引導によつて無爲安樂の妙果を極め
ん。しかのみならず十二口の供僧に課せて長
時の勤行怠慢なく。香花燈明の供養をのべて
國家太平公武安全の祈願をなさしむ。
(276頁上段)
第八當寺本尊錫杖來由の事
當寺本尊地藏菩薩出現の來由は既に上に記し
をはりぬ。持物の錫杖の來由を尋るに。本尊
落慶の折から持物の錫杖いまだ成就せず。あ
る時辰の一點より午の時に至りて本尊のあた
り霧ふかくおほひて異香四方に薫ず。あやし
み思へる處に。午の中分に及んで霧はるゝに
隨ひて本尊を拜し奉れば。忽ち御手に錫杖を
携へもち給ふよそほひ。恰も生身のごとし。
本願僧都隨喜感激して三七日の間一心に敬禮
して。錫杖の來所を示し給はん事を祈給ふ。
一夕夢らく。やごとなきざふの枕上に現じて
告て宣く。汝しらずや此錫杖は。むかし釋尊
&M000499;羅陀山にして延命地藏經を説給ひし時。無
數再聲聞菩薩諸天人民悉く集る。其時我此六
輪の錫杖を持して大地より涌出しき。時に
釋尊慇懃六道の衆生濟度の事を付囑し給ふ。其
(276頁下段)
時の錫杖すなはち是なりと示し給ふ。僧都夢
さめていとたうとく有がたく覺えて。まさに
佛の在世にあつて&M000499;羅陀山にいたれる心ちな
んし侍りける。抑此錫杖の功徳諸の經論に詳
に見え侍ればこゝにしるさす。其全體を見る
に。五佛具足の妙塔衆生本有の曼陀なり。
六輪の音を聞ば立地に三毒を滅し。五佛を拜し
奉れば本有の佛性あらはれずといふ事なし。
此錫杖一見一聞の人は。往生淨土の良因を植
て竟に菩提の善果を成熟せしめんことなんぞ
疑はん。
第九當寺撞鐘を鑄る寄付政平瑞夢の事
第八十九世龜山院の御宇弘長二年閏七月十五
日。左衞門尉政平當寺の堂前にして撞鐘を鑄
させ鐘樓にかく鑄工は土師宗貞なり。凡諸の
經論の中に。鐘の功徳を説事往々に見えたり。
中にも當願衆生一聽鐘聲脱三界苦得證菩提と
(277頁上段)
説れば。一たび鐘聲を聞も永く菩提の因と
なん成侍れば。なをざりの功徳にはあらざる
也。又増一阿含には若打鐘時一切惡道諸苦得
停止といへり。是に依て&M028367;膩&M003302;(咤)王の殺書の罪
によつて千頸魚の中に入。劔輪其身をまとひ
身分をくだく苦をうけたりしも鐘の聲を聞て
劔輪すなはち空に有て苦受停息すといへり。
是によつて伽藍造畢の後。第八十八世後深草院
の御宇正元元年己未二月十九日鐘鑄あるべ
きよし催す所に。本尊地藏菩薩政平に託して
夢中に告て宣く。六道能化の靈場精舍有堂有
塔無鐘無樓進檀施力成來際縁とあらたなる示
諭を蒙る。是を思ふに。たとひ一人の力にた
ふとも。衆人をすゝめて未來の縁を結ばしむ
る功徳勝れたる事を示し給ふにこそと。長弘
壬戌七月十五日に至り。四年を經て諸人
を勸化して少施をかろしとせず。菩薩の値遇
(277頁下段)
を専とすればにや。緇素男女貴賤貧富をえら
ばず。分に隨ひ財物を施入して。程なく其功
を成ぜしむ。中にも當寺の檀越官務有家殊に
志を抽で。採銅所に下知して十六斤六兩の赤
銅を贈り。金鐘鑄冶の大願遂に成就し侍りけ
る。こゝにおいて結縁の諸人鐘をならして隨
喜感歎をなす。されば梵鐘一聲を聞ては無明
長夜の眠をさまして諸行無常の理をさとる。
終に常住寂滅の果位に至らんこと。是此鐘の
功徳なるをや。又正嘉元年五月廿九日鑄工宗貞
に課せて鰐口一口を鑄させ。本尊の御前に
掛。左金吾政平みづから三箇の逸音を鳴して
薩&M005190;の尊聽を驚し奉り。一切衆生の悉地をぞ
祈奉りける。
第十當寺鎭守の事
常寺草創の初は。日吉十禪師を勸請し奉りて
鎭守とす。是即本地垂跡内證外用の利uをつ
(278頁上段)
かさどり給ふ故なるべし。山王上七社の中。
第六は十禪師權現。本地すなはち地藏菩薩な
り。今崇るところの六所權現は第八十五世
後堀河院の御宇嘉祿年中に甲斐法橋覺玄といへ
る人別願として往昔より勸請し奉る。
日吉十禪師に加へて神社を勸請し奉るに依て。
六所權現とはいへるなり。第一は八幡。第二は
熊野。第三は稻荷。第四は祇園。第五は天滿宮
なり。神職は中原廣保を以て神事をつかさど
らしむ。其後第八十八世後深草院の御宇
正元元年四月廿三日戊刻ばかり。鎭守權現參詣の
少人に託して種々の御託宣あり。其神詞に云
く。鳥居内瑞籬邊閑寂。而社檀寳前神樂風流
等希有也。何况於法施哉と。是に依て山寺の
衆僧評議をなして。ことさらに當時の禮奠不斷
の法施おこたることなくつとめおこなふ。
むべなるかな天照太神は我託宣をやめて西天
(278頁下段)
の教に讓ると告給ひ。釋迦世尊は
惡世中現大明神廣度衆生と説給ふ。さればにや往古より
已來兩部習合の正道國家に行はれて。神社に
は佛閥を建て本地の妙容を顯はし。佛寺には
神祠を立て乖跡の威徳をあがむる事になん成
侍りける。當神主圖書權助中原朝臣榮定其外
諸堂の預に課せて。毎年五月十三日祭祀執行
ふ事恒例となる。
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