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五仏院(ごぶついん)は比叡山延暦寺東塔南谷に位置した子院です。どこに位置したかなど、詳細なことはわかっていません。
五仏院の建立
五仏院はもとは承雲(?〜881以降)が建立した建物である(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。承雲は円仁(794〜864)の弟子である。円仁示寂後、とくに文殊楼の建立に尽力した人物である。
五仏院は南谷に位置していたということ以外、どこにあったのか不明である。南谷は東塔の南側おより南西に広がる地帯であり、その範囲は広大であって、五仏院がそこのどこに位置していたのか知るすべはない。ただし、回峰記録によると、回峰者は無動寺の後に五仏院・実相院・食堂(文殊楼)を廻ったといい(『北峰大廻次第』)、また文殊楼・定心院・五仏院・実相院・覚意三昧院をへて政所を廻ったというから(『北嶺回峰次第』)、概ね現在の文殊楼が位置する虚空蔵尾の麓にある書院の西側に点在していたであろうことが推測でき、しかも五仏院は文殊楼と無動寺を結ぶ線上に位置していたらしい。文殊楼の建立に尽力した承雲が住するに相応しい子坊である。
永承2年(1047)に上東門院(988〜1074)の奏上によって御願所となった(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。建物は桧皮葺の方五間堂である(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。「方五間堂」とは、比叡山をはじめとした天台建築の一大特徴であり、桁行梁間ともに5間四方で、宝形造となった建物をいう。現在比叡山上には西塔の常行堂・法華堂がそれに該当する。
金色の丈六阿弥陀如来と、高さ1尺(30cm)金色の金剛界五仏像が5体安置された(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、五仏院)。もともと仏像は愛宕寺に安置されていたものであるが、明達が五仏院に迎えたもので、定朝の作であったという(『叡岳要記』巻上、五仏院)。
永暦元年(1160)4月12日に五仏院に阿闍梨3口を加えられており(『天台座主記』巻2、49世権僧正最雲、永暦元年4月12日条)、仁安元年(1166)12月21日に放火によって定心院・実相院・五仏院・丈六堂・円融房が焼失している(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)。仁安2年(1167)に赤袴騒動が激化し、西塔・横川の僧が座主罷免を要求したため、東塔は五仏院政所と小谷岡を城郭化している(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安2年条)。また明雲の得分の一つに寺務があり、その一つに実相院分が含まれ、これらは安元3年(1175)5月11日に停止されている(『玉葉』安元3年5月11日条)。明雲の時代、比叡山上の内乱が激化し、明雲が座主であった時、五仏院から西塔まで48人を殺害させたという(『愚管抄』)。
元久2年(1205)10月2日にも法華堂の放火が類焼して講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂などが焼失している(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建長5年(1253)9月22日にも五仏院・実相院・法華堂が焼失したが(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長5年9月22日条)、文永7年(1270)3月2日に五仏院が上棟され(『天台座主記』巻4、86世前大僧正慈禅、文永7年(1270)3月2日条)、文永9年(1272)7月10日に五仏院に本尊を安置した(『天台座主記』巻4、87世前大僧正無品澄覚親王、文永9年7月10日条)。
永仁5年(1297)9月19日にも延暦寺の内紛から大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火され、五仏院も焼失した(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)。
これ以降、五仏院がどうなったかわかっていない。
[参考文献]
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)
・清水擴『延暦寺の建築史的研究』(中央公論美術出版、2009年8月)
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比叡山延暦寺の「慈眼大師天海大僧正住坊趾」石碑(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)
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