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278メダイヨン・マンション(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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ウィーン六日目。ついに最終日です。
オットー・ヴァーグナー Otto Wagner(1841〜1918)のメダイヨン・マンション(1899)とマジョリカ・ハウス(1899)に行ってみました。Uバーン(地下鉄)のケッテンブリュッケンガッセ駅の近くにあります。
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279メダイヨン・マンション(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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メダイヨン・マンションは金を主体とした壁面装飾と、女性の顔と蔦装飾が描かれています。
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280メダイヨン・マンション(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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マジョリカ・ハウスは、メダイヨン・マンションに隣接して建っています。マジョリカ焼のタイルを使用して鮮やかな花びらと葉が壁面を覆っており、ユーゲントシュティールを体現したものとなっています。
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281マジョリカ・ハウス(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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282マジョリカ・ハウス(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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283マジョリカ・ハウス(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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284マジョリカ・ハウス(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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ケッテンブリュッケンガッセはオットー・ヴァーグナーによる駅舎で、現在Uバーン(地下鉄)の駅舎として使われています。
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285ケッテンブリュッケンガッセ(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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次にすぐ近くにある青空市場ナッシュマルクトに行きました。
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286ナッシュマルクト(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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ナッシュマルクトは1.5kmにわたって続く青空市場で、16世紀の時にはすでに存在していたようです。
各国のみたこともないような多種多様な食材が売られています。
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287ナッシュマルクト(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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288ナッシュマルクトのワイン売り場(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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289十九世紀後半のナッシュマルクト(案内パネルより)(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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290ナッシュマルクト(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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291ナッシュマルクト端のノルトゼー(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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次にザッハーに行きました。ここを通りかかるといつも観光客の行列のため混んでいるので、10時頃に行ってみました。すでに小さな行列ができていましたが、あっさり入れました。ここでは手荷物は預けなければなりません。
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292ザッハー(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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もちろん、ザッハートルテを注文しました。ザッハートルテはウィーン会議(1814〜1815)においてメッテルヒニの夜会で、急病の料理長にかわって、まだ少年だったフランツ・ザッハーが考案したトルテが原型だという、有名な伝説があります。
他にもデメルとの「トルテ戦争」で有名ですが、私は個人的にはザッハーの方が文句なしにおいしかったです。
ちなみにこの日はウィーンでは軍人がここでリフレッシュする日らしく、街の中で多くの軍人さんを見かけました。ザッハーの隣の席も軍人さんたちの集まりでした。
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293ザッハー内部(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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294ザッハートルテ(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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最後のウィーン散策になるので、名残惜しみとばかり、シュテファン大聖堂まで足をのばしました。
ハイドンの住居跡がノイアーマルクトにあり、1793年から1797年まで住んでいました。ここで弦楽四重奏曲第77番ハ長調「皇帝」が作曲されています。この曲の第二楽章は、オーストリア帝国、ドイツワイマール共和国、ドイツ第三帝国、西ドイツの国家となり、そして現在のドイツ連邦共和国の国歌となっています。
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295ノイアーマルクトのハイドンの住居跡(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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ウィーンともなれば、マクドナルドが入居している建物も華麗です。すぐそばにシュテファン大聖堂があります。
壁には彩色が施されています。
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296マクドナルド(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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297マクドナルド(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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298シュテファン大聖堂(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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ヴィエトナ−・ハウプト通りにはドヴォルザークがたびたび滞在したホテルがあります。
ドヴォルザークはまだ無名の頃、1875年にオーストリア帝国政府の国家奨学金の審査に提出していますが、その審査員だったのがブラームスでした。シューベルトに匹敵するメロディーメーカーだったドヴォルザークを評して「私なら彼がゴミ箱に捨てた旋律のクズをかき集めて、交響曲を一曲作れる!」と才能を激賞し、ドヴォルザークが世に出る後押しをしました。以来、二人の親交はブラームスが亡くなるまで続きました。
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299ドヴォルザークが滞在したホテル(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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チェックアウトのためホテルに戻り、荷物を引き取ると飛行機の搭乗手続きまではかなり時間があいてしまいました。ウィーン市内には手荷物を預けるところがないらしく、キャリーバックを持ったままウロウロすることになってしまいました。
時間が空いたのはしかたがないので、ハイリゲンシュタットにあるカール・マルクス・ホーフに行ってみることにしました。
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300ウィーン・ミッテ駅(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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301Uバーン内部(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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302Uバーンからみたドナウ運河(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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ハイリゲンシュタットはウィーン旧市街から北に6kmほどのところにあり、ウィーン・ミッテ駅からUバーン6号線に乗って30分ほどかかります。
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303ハイリゲンシュタット駅(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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カール・マルクス・ホーフはハイリゲンシュタット駅を降りてすぐのところにあります。
カール・マルクス・ホーフは、1920年代の「赤いウィーン」を象徴する建物です。
オーストリア=ハンガリー帝国が解体してハプスブルク家が去り、新生オーストリア共和国が誕生しましたが、共和国の与党となっていたキリスト教社会党に対して、ウィーン市はカール・ザイツ率いる社会民主党が衛生・福祉・教育など様々な公共事業を行っていた時期にあたります。
カール・マルクス・ホーフは全長1km以上ある労働者用の集合住宅で、1382戸5000人が入居でき、また浴場、選択状、保育所、内庭、公園を有する、これ自体が一つの都市ともいえる巨大集合住宅です。オットー。ヴァーグナーの弟子カール・エーン Karl Ehn(1884〜1957)の設計で、1927年から4年がかりで完成しました。
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304カール・マルクス・ホーフ(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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この建設は雇用促進のための公共事業としての側面をも持っており、後にカール・レンナーは社会民主党市政の象徴として「我々が沈黙させられても、巨大建築が代わりに語ってくれる」と述べたそうです。
ちなみに「カール・マルクス・ホーフ」という名ですが、単独では気づきませんでしたが、他の集合住宅の名前が「フリードリヒ・エンゲルス・ホーフ」「エンゲルス・プラッツ」などがあり、要するに社会主義・共産主義に関連した人物をつけたのです。旧ソ連などの共産主義国家みたいですね。
ちなみにハイリゲンシュタットといえば、ベートーヴェンが難聴のあまり自殺を決意するも、その後一念発起して名作を生み出す「傑作の森」への転機となった「ハイリゲンシュタットの遺書」で有名な地でもあるのです。ベートヴェンが滞在した地に行きたかったのですが、すでにホテルをチェックアウトしていたため荷物を持たなければならず、その疲労のため葛藤もあり、断念しました。
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305カール・マルクス・ホーフ(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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すべての日程を終了し、あとはウィーン国際空港から飛行機でフランクフルト国際空港を経由して日本に戻るだけです。
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306ウィーン・ミッテ駅のSバーン(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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日本に戻ってから地図をみて驚いたのですが、ウィーンとウィーン国際空港までの距離と、ウィーン国際空港から、隣国スロヴァキアの首都ブラチスラヴァまでの距離はほとんど変わらないのです。
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307Sバーンからみたウィーン郊外(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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308Sバーンからみたウィーン郊外(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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309ウィーン国際空港(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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310ウィーン国際空港(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)。帰りももちろんニキ航空。
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[参考文献]
・『ウィーン世紀末ークリムト、シーレとその時代』(セゾン美術館、1989年)
・宝木範義『ウィーン物語』(新潮社、1991年11月)
・塚本哲也『エリザベート ハプスブルク家最後の皇女』(文芸春秋、1992年4月)
・門馬直美『作曲家別名曲解説ライブラリー ブラームス』(音楽之友社、1993年6月)
・根岸一美・渡辺裕監修『ブルックナー/マーラー事典』(東京書籍、1993年10月)
・西田雅嗣編『ヨーロッパ建築史』(昭和堂、1998年)
・『新版世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、1999年3月)
・カール・シュッツ監修『ウィーン美術史美術館所蔵 栄光のオランダ・フランドル絵画展』(読売新聞大阪本社、2004年)
・天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集1 ヨハネス・ブラームスの思い出』(音楽之友社、2004年2月)
・天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集2 ブラームスは語る』(音楽之友社、2004年6月)
・天崎浩二編・訳、関根裕子共訳『ブラームス回想録集3 ブラームスと私』(音楽之友社、2004年10月)
・ワインバーグ、ビーラー著/別宮貞徳監訳『カフェイン大全』(八坂書房、2006年2月)
・ベック『ウィーン美術史美術館(絵画)』(スカラブックス、2006年)
・田口晃『ウィーン 都市の近代』(岩波新書、2008年10月)
・田中純『建築のエロティシズム 世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』(平凡社、2011年10月)
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311飛行機からみたウィーンの夜景(平成25年(2013)12月30日、管理人撮影)
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