実相院跡



比叡山延暦寺東塔南谷(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)

 実相院は比叡山延暦寺東塔南谷に位置した子院です。後冷泉天皇の御願として建立されました。どこに位置していたか詳細なことはわかっていません。


実相院の建立

 実相院はもとは浄善院と号した明快(985〜1070)の住房であったが、康平5年(1062)4月2日に破却して、後冷泉天皇の御願のための子院を建立した。同年10月7日に勅を奉って建立を開始し、康平6年(1063)10月に完成した。同年10月29日に大納言藤原信長(1022〜94)以下公卿や殿上人が列席する中、明快が導師となって、僧都以下30口が讃衆となり、法花堂を供養した(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、実相院)

 実相院の建物は桧皮葺の五間堂1宇の内部に高4尺(120cm)の金色の薬師如来像と如意輪観音像、文殊菩薩像をそれぞれ1体安置し、また同じく五間堂が1宇あり、多宝塔を内部に安置し、さらにその中に紺紙金泥の法華経を納めている。他に7間3面の僧房が1宇ある(『阿娑縛抄』第201、諸寺略記下、延暦寺三塔諸堂、東塔、実相院)。このうち五間堂のもう一つは法華堂であり、四種三昧のうち半行半坐三昧を行う堂であった(『扶桑略記』第29、康平6年10月29日丁酉条)

 なお実相院の本尊は根本中堂の薬師如来像を写したものであるが、根本中堂の薬師如来は施願・無畏、つまり右手をあげて左手を垂らすという古様であったため、当時の人が違和感を覚えて非難し、現在の薬師如来のように手に宝珠を持つ印相に造り替えている(『阿婆縛抄』巻46、薬師本)

 康平6年(1063)12月27日に阿闍梨5口を給され、康平7年(1064)9月11日に供僧十口三昧を行うことと、僧12口の院司の官符を受けた(『扶桑略記』第29、康平6年10月29日丁酉条)

 実相院は南谷に位置していたということ以外、どこにあったのか不明である。南谷は東塔の南側おより南西に広がる地帯であり、その範囲は広大であって、実相院がそこのどこに位置していたのか知るすべはない。ただし、回峰記録によると、回峰者は無動寺の後に五仏院・実相院・食堂(文殊楼)を廻ったといい(『北峰大廻次第』)、また文殊楼定心院五仏院・実相院・覚意三昧院をへて政所を廻ったというから(『北嶺回峰次第』)、概ね現在の文殊楼が位置する虚空蔵尾の麓にある書院の西側に点在していたであろうことが推測でき、しかも五仏院は文殊楼と無動寺を結ぶ線上に位置していたのに対して、実相院は五仏院を経由した、若干離れたところに位置していたらしい。

 実相院には正税が規定されたらしいが、詳細は不明であり、しかも実相院が律令体制が崩壊しつつあった時期に建立されているから、実態はわかっていない。応徳3年(1086)12月29日に備前国は加挙を申請しているが、そのうち実相院仏聖供米料42斛、白米21斛6斗、黒米20斛4斗を加挙されている(『朝野群載』巻第27、諸国公文下、惣返抄四通、主計寮雑米惣返抄)。正税は貸し付けを基本とする税である出挙によりなっていたが、出挙の回収が出来なくなると、規定される正税の減額が国司より申請される事態に陥った。これを減省というが、減省は一年間のみ特例として認められたものであり、その国は用残(正税の利稲の残余)を増額出挙(加挙)して貸し付けした本稲を補填することとしていた。すなわち実相院分が減省となったことを指しており、加挙によって不足分の補填を試みたということになる。

 久寿3年(1156)4月19日に最雲が実相院廊下にて座主宣命を受けており(『天台座主記』巻2、49世権僧正最雲、久寿3年4月19日条)、仁安元年(1166)12月21日に放火によって定心院・実相院・五仏院・丈六堂・円融房が焼失している(『天台座主記』巻2、54世僧正快修、仁安元年12月21日条)。元久2年(1205)10月2日にも法華堂の放火が類焼して講堂・四王院延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂などが焼失している(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建永元年(1206)7月24日には法華堂・常行堂・四王院文殊楼・実相院などは再建のため棟上が行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建永元年7月24日条)

 建長5年(1253)9月22日にも五仏院・実相院・法華堂が焼失し(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長5年9月22日条)、建長8年(1256)4月27日に実相院は再建のため上棟された(『天台座主記』巻4、81世無品尊覚親王、建長8年4月27日条)。永仁5年(1297)9月19日にも延暦寺の内紛から大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火され、大講堂文殊楼五仏院・鐘楼・政所・定法房・浄眼房・実相院・定心院・同鎮守・彼岸所・円融房・極楽房・香集坊・法性坊・四王院戒壇院・法華堂・常行堂が焼失した(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)

 これ以降、実相院がどうなったかわかっていない。


[参考文献]
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)
・清水擴『延暦寺の建築史的研究』(中央公論美術出版、2009年8月)


比叡山延暦寺東塔南谷付近からみた琵琶湖(平成24年(2012)12月31日、管理人撮影)



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