鹿王院

 7月28日に鹿王院に行って参りました。

 鹿王院は京都市右京区嵯峨北堀町に位置する臨済宗系の単立寺院です。私の住んでいるアパートからは以外に近いのです。


鹿王院総門(平成18年(2006)07月28日、管理人撮影) 

 総門は四脚門(棟門式)で、山号の「覚雄山」の額が掲げられています。屋根は切妻造、本瓦葺となっています。室町時代初期の建築で、棟門式という、本柱が棟まで立ち上がる禅寺門形式のものとなっています。門の前後に控柱がありますが、前方控柱は後補です。棟門式の禅寺門は京都では慶長年間(1596〜1615)を下限としてつくられなくなることから、中世様式と考えられますが、禅寺総門として京都では建仁寺総門につぐ古い遺構です。これは鹿王院の前進の宝幢寺時代の総門とみられ、宝幢寺建立の康暦2年(1380)まで遡る可能性が指摘されます。


鹿王院総門(平成18年(2006)07月28日管理人撮影)

 上の写真は門からのぞいた参道です。きれいに掃き清められています。
 さて、門を入ってすぐ右側に受付所があるのですが、誰もいません。貼紙があって、「ここより中は拝観料を/頂きます/今、受付は奥の/玄関でしています/敬白」とパソコン字の丸身を帯びたゴシック体で書いてあります。 
 参道を進むと道は二手にわかれます。右側は鎮守二社があり、直進すると中門に入り、玄関に到達します。


鹿王院境内参道(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 庫裏(玄関)の屋根は切妻造、桟瓦葺で、建造は17世紀前半とみられていますが、江戸時代後期に改造されています。

 玄関を入ると誰もいません。玄関を入って右側に吊された小鐘があり、御用向きがある人はこの鐘を撞木(というよりはただの枝)で3回叩くのです。叩くと奥からおばさんが出てきて、拝観料300円を払うと由緒書を渡され、「スリッパを履いて、玄関を上がって、右側をお進み下さい」というと再度奥へ戻っていきました。あとは勝手に見ろ、ということなのでしょう。


鹿王院玄関(平成18年(2006)07月28日管理人撮影)

 庫裏・書院の廊下を進むと左側に庭園と舎利殿がみえてきました。客殿のあたりが有名な庭園が最も美しく見える場所となっています。

 庭園は客殿の南に広がり、舎利殿を中心とした平庭枯山水となっています。建造物と一体となり、かつ嵐山を借景として、樹木・石の配置を含めて見応えのある庭園です。面積は1,895平方メートル。


鹿王院舎利殿と庭園と本堂(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 作庭時期の記録は存在しないものの、舎利殿の建築が宝暦13年(1763)であることから、庭園もこの頃に整えられたものと考えられています。なお天明7年(1787)刊の『拾遺都名所図会』では、ほぼ現在と同様の配石が施されています。 


鹿王院舎利殿と庭園(平成18年(2006)07月28日管理人撮影)。舎利殿は国宝の鎌倉円覚寺舎利殿に代表されるように禅宗建築にあって不思議でないものであるが、京都市内では鹿王院舎利殿が唯一の遺構である。



『拾遺都名所図絵』巻3、鹿王院(『新修京都叢書』12〈光彩社、1968年〉263頁より一部転載) 

 鹿王院庭園は嵐山を借景としています。住宅地が密集する鹿王院の付近を思い起こせば、この借景は信じがたいものがあり、ここに借景の巧妙さと維持の労苦が窺えます。

 とはいえ、借景を邪魔するのは一点だけあり、おそらくは西に隣接する若竹保育園のアンテナではないかと思われます。注意してみない限りは目立たないのですが、やはり若干違和感があります。一応、京都市指定名勝なので多少の配慮は必要かもしれません。


鹿王院舎利殿と庭園と借景の嵐山(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 客殿の廊下を進むと本堂にあたります。この本堂は『拾遺都名所図絵』では「釈迦堂」となっています。ちなみに『拾遺都名所図絵』の絵図と現在の鹿王院は、建造物名は舎利殿以外はすべて異なるものの、主要部分の状態は土蔵がない以外はほぼ変化はないようです。ただし、主要部分の周囲の堀は、現在ではありません。

 本堂は、桁行5間、梁行4間。正面吹放裳階。屋根は寄棟造、桟瓦葺となっています。延宝4年(1676)。客殿の斜め向いに東面して建っている。この建物は釈迦如来を本尊とする仏堂ではありますが、同時に開山普明国師の昭堂でもあります。この方式は、臨川寺三会院開山堂との類似点から、これを原型としてそれを縮小したプランで建てられたものと考えられています。 


鹿王院本堂(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 



臨川寺三会院開山堂(平成18年(2006)07月28日管理人撮影。参考までに…) 

 下の写真は開山堂の若干左手より撮影した客殿です。

 客殿は明治23年(1890)に峨山昌禎(第24世)が再建したものです。「鹿王院」の扁額は足利義満の筆とされています。 


鹿王院客殿(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 本堂の左手に進むと側面に扉から内部に入ります。

 ここに「撮影禁止」の貼紙がなかったので、撮影していいのか〜、と寛恕の精神に勝手に感動して撮影しました。内部には椅子が2つありました。その時は監視用の椅子だと思いましたが、よく考えると法要用でしょう。あくまでここは宗教空間なので、寺側は撮影を控えるのは自明のこととしていたのかもしれません。「禁煙」の貼紙もなかったのですからね〜。


鹿王院本堂の本尊釈迦如来坐像(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 何気なく仏壇の右横をみると「応永鈞命絵図」があるではありませんか。
これの原本は天龍寺所蔵(重要文化財)で、現在京都国立博物館に寄託されています。応永33年(1426)に足利義持の命で臨川寺の月渓禅師が描いたもので、15世紀の嵯峨一帯の絵地図で、当時夢窓派の禅寺が林立していた様相が示されています。この絵図に記された禅寺のうち現存するのは臨川寺・鹿王院等わずかですす。
 「B堂がつくったコピーかな? これを使って鹿王院の位置を示しているのか〜。何て親切なんだ!」

と思って、よ〜くみてみると、最近のコピーではないようなので、横のキャプションをみると、江戸時代中期の元禄年間(1688〜1704)に当寺の住持の虎岑玄竹が書写したものだそうです。

 それにしても何の保護もなくそのままベロ〜ンと垂れ下がってたので仰天しました。


鹿王院本堂内部の応永鈞命絵図写(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 仏壇の裏側には昭堂空間があります。

 鹿王院は、康暦2年(1380)、将軍足利義満が建立した大福田宝幢寺の開山塔として創建されたことに始まります。鹿王院の開山は春屋妙葩(しゅんおくみょうは)です。 


鹿王院本堂内部の知覚普明国師倚像(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

宝幢寺開山春屋妙葩

 春屋妙葩(知覚普明国師、1311〜88)は、甲斐国(山梨県)の人で、春屋は法諱、妙葩は道号。夢窓疎石(1275〜1351)の俗甥にあたり、夢窓疎石に師事した。ほかに竺仙梵僊(1292〜1348)に梵唄等も学んでいる。梵唄(声明)を評価されて諸寺で重責を担い、貞和元年(1346)より天龍寺雲居庵の夢窓疎石の寿塔に常侍した。

 観応2年(1351)に夢窓疎石が天龍寺に再住した際、夢窓疎石の健康が悪化していたため、夢窓疎石は春屋妙葩に寺務を代行させている。間もなく夢窓は示寂したが、翌文和2年(1353)に彼の年譜である『天竜開山夢窓正覚心宗普済国師年譜』1巻、法話・追憶談『西山夜話』を撰述した。

 春屋妙葩は貞和元年(1346)より天龍寺雲居庵塔主の地位にあったと考えられているが、延文2年(1357)に足利尊氏によって等持寺の住持に任じられている(後復帰)。天龍寺・臨川寺焼失後の復旧に尽力し、龍湫周沢(1308〜88)・義堂周信(1325〜88)とともに夢窓門下の中枢として活躍した。貞治元年(1362)には後光厳天皇より国師号を授けられんとしたが、春屋妙葩はむしろ派祖無学祖元・その高弟で夢窓疎石の師の高峰顕日に国師号を授けられるのを望み、それぞれ円満常照国師・応供広済国師の追謚を授けられた。


春屋妙葩と管領細川頼之の対立

 貞治2年(1363)2月に管領細川頼之に招かれ、その領国の阿波国(徳島県)補陀寺にて仏事を行なった。また光厳法皇の大葬の際に遺詔によって禅宗様式の葬礼を行い、歴代天皇のうち禅宗による大葬を初めて実施した。備後天寧寺をはじめとして多くの寺院の開山となり、春屋妙葩の社会的地位はすこぶる高まっていった。

 そのようななかで、応安2年(1369)に延暦寺衆徒による南禅寺山門破却要請に対して、春屋妙葩は管領細川頼之(1329〜92)に破却要請を拒否するよう力説したが、細川頼之は延暦寺衆徒の暴力に屈して南禅寺山門を破却した。その上で応安4年(1371)3月に春屋妙葩を南禅寺住持に招じたが、春屋妙葩は拒否。細川頼之は龍湫周沢を南禅寺住持として、両者は激しく対立した。夢窓門下のうち春屋妙葩・義堂周信・絶海中津(1336〜1405)は純禅的であったの対し、龍湫周沢や碧潭周皎(1291〜1374)のような密教職の強い非純禅的な僧もいた。細川頼之は龍湫周沢・碧潭周皎との結びつきを強め、春屋妙葩と龍湫周沢の関係も悪化した。同年11月、春屋妙葩を天龍寺雲居庵塔主からの追放をはかり、春屋妙葩はこれを察知して嵯峨勝光庵、丹後雲門寺に隠棲した。細川頼之は春屋妙葩の門下230人の名籍を削り、門下は四散した。

 春屋妙葩は丹後雲門寺にて8年間、門弟等とともに悠々自適の生活を送ったが、康暦元年(1379)閏4月、康暦の政変によって細川頼之が失脚後、天龍寺雲居庵に復職した。細川頼之にかわって管領となった斯波義将(1350〜1410)は春屋妙葩の信者であったため世に重んじられ、南禅寺第39世となり、12月には後光厳天皇によって「智覚普明国師」号を特賜された。将軍足利義詮(1330〜67)の信任も得て、彼の奏上によって「天下僧録司」に任じられて全国の禅寺・禅僧を統轄した。


鹿王院本堂内部の足利義満坐像(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

宝幢寺・鹿王院の建立

 春屋妙葩は義堂周信とともに将軍足利義満(1358〜1408)の相伴衆として将軍諸寺御成の際に近侍して信頼が厚く、義満個人の宗教的関心に答えて禅の宗要を指導した。

 宝幢寺・鹿王院の建立が取り沙汰されたのは、春屋が中央に復帰した康暦元年(1379)のこととみられている。宝幢寺は、当初は興聖寺として建立が開始された。康暦元年(1379)11月24日に将軍足利義満は春屋妙葩に対して興聖寺のことを開山として沙汰すべきことを命じている。その後、興聖寺は寺名が宝幢寺に変更されたらしい。

 翌康暦2年(1380)2月21日には宝幢寺立柱が行われ、4月15日に将軍足利義満は春屋妙葩に対して開山として大福田宝幢寺の建立を沙汰すべき旨を命じている。鹿王院は春屋の開山塔(寿塔)として宝幢寺の寺後に建立されている。


春屋妙葩の示寂

 この後、足利義満は春屋妙葩に相国寺の開山となることを要請したが、春屋はこれを固辞。春屋の師夢窓疎石を勧請開山とし、自身は第2世となるという条件でようやく引き受けている。

 春屋は、至徳2年(1385)10月に、宝幢寺を十刹に列する旨、また同寺住持職は開山塔頭鹿王院の推挙の人物をもって補任されるべき旨の将軍義満の安堵を得、寺格を向上させることに成功した。これによって宝幢寺は京都十刹の五位に列せられた。また同年11月20日に「鹿王院遺戒」を制定し、以後の寺院運営の規範とした。

 春屋は、同3年(1386)10月に宝幢寺住持を退き、汝霖妙佐に譲った。嘉慶元年(1387)9月、春屋は中風(脳卒中)により半身不随となり、居を鹿王院に移し、翌同2年(1388)8月13日に同院で示寂した。78歳。全身を鹿王院に塔したほか、春屋の寿塔であった南禅寺龍華院・相国寺大智院・建長寺龍興院に分塔した。このような由緒を受けて、宝幢寺、鹿王院は普明門派の僧侶が歴住し、同門派の中心寺院として現代まで法灯を受け継いできた。春屋門派を鹿王門派と称する所以である。


鹿王院本堂内部の普明国師塔(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

宝幢寺廃寺と塔所鹿王院の宝幢寺継承

 宝幢寺を本寺として、15寺が末寺と位置付けられた。また春屋妙葩に関連する寺領等も春屋生前より組み込まれ、春屋門派は15世紀前半に隆盛の頂点を迎えた。しかしそれ以後は新規の所領増加がみられなくなることに加え、遠国荘園を中心に所領の実質支配が後退し経済基盤が弱体化するなかで、次第に門派運営が困難になっていった。宝幢寺は応仁の乱で荒廃し、享禄4年(1531)に方丈修造のため奉加銭を集めていることを最後に歴史上より姿はみられなくなる。同様に、洪恩院は16世紀前半に衰退し金剛院内へ移転、その金剛院も衰退し、足利義晴(1511〜50)の下知をもって、鹿王院内に移転したという。このように門派諸寺院が退転し、統廃合が進行したなかで、本来は宝幢寺の開山塔所にすぎなかった鹿王院が残存することとなった。そのような中で鹿王院住持職をめぐって享禄4年(1531)から天文10年(1541)までの10年間にわたって相論が続いた。

 鹿王院住寺は春屋妙葩が至徳2年(1385)に定めた「鹿王院遺戒」には遷替の職とされたが、近世には僧侶が長期的に住持職を務めるようになり、この時期に遷替の職から相伝の職へと住持職の位置付けに変化があったことが知られる。


天龍寺の塔頭化

 天正11年(1583)11月18日、鹿王院は同院領及び龍華院領の当知行を豊臣政権に認められている。しかし、天正13年(1585)検地においては、「天龍寺之内鹿王院領」として指出を提出していることから、この間に天龍寺塔頭に組み込まれた。天正17年(1589)の検地において、鹿王院は105石余を指出し、寺領は天龍寺并諸塔頭領舎分1,720石に内包され、慈済院(無極志玄塔頭)に次ぐ97石余となった。天龍寺の一塔頭に組み込まれた端緒については明確ではない。

 近世の鹿王院は、一方では十刹寺院宝幢寺の由緒を標榜し、末寺を多数擁する春屋門派の拠点寺院としての地位を維持しながら、一方では天龍寺を本寺と仰ぐ同寺の一末寺として、法灯を護持したのである。


鹿王院本堂内部須弥壇裏の制札(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

陽春院一件

 陽春院とは、天龍寺の塔頭で、池田輝政(1564〜1613)の祖母養徳院が建立した寺院である。
その陽春院を宝泉庵尤首座が押領したため、慶長15年(1610)2月、閑室元佶(1548〜1612)の裁許により、同じく天龍寺の塔頭であった鹿王院より陽春院に留守職をおくこととなった。しかし尤首座は閑室元佶・板倉勝重(1545〜1624)・以心崇伝(1569〜1633)に、陽春院は池田家一門の位牌を安置し、天龍寺では一・二の寺であることを訴えた。また池田輝政も以心崇伝に対して抗議の書状を送っている。池田輝政は、徳川家康の娘婿であり、「西国将軍」と称されるほどの権勢を誇ったから、池田輝政の抗議に向き合わざるを得なかった。
 これを受けて天龍寺は板倉勝重に、陽春院の開基について天龍寺一山の返答を送ったが、それには開基は「存じ申さず候」とあったことから池田輝政は立腹し、さらに後日天龍寺一山の返答には陽春院は「鹿王院末派の環西堂が開基である」旨とあったため、天龍寺と池田輝政は対立し、徳川家康のいる駿府年寄衆まで乗り出してくる始末であった。駿府年寄衆は池田輝正側につき、閑室元佶・以心崇伝も鹿王院に対して、天龍寺の言い分よりも池田輝政の意向に添うことが肝心であることを伝えている。

 これを調停したのが藤堂高虎(1556〜1630)で、鹿王院に詫びさせ、その山林を没収、住持文泉昌渭(第10世)の離山によって決着をみた。結局、陽春院の宝泉庵尤首座による押領事件は、天龍寺と池田輝正の対立に発展し、鹿王院のみが一方的にとばっちりを受けるはめになってしまった。


虎岑玄竹の再興

 鹿王院は虎岑玄竹(第12世)によって再興された。虎岑は旗本酒井忠知の子で、酒井忠次の孫にあたり、庄内藩酒井家および膳所藩本多家と縁戚にあたる。鹿王・瑞応・正円・金剛・龍済の五寺を復刻したため、「五所中興」と称された。鹿王院は復興に際しては虎岑玄竹が酒井忠次の孫であったことから、庄内藩系の酒井家が全面的に後援した。しかし、その後の支援は必ずしも継続されたものではない。 

歴代住持は以下の通り。

1  春屋妙葩
2  汝霖周佐
3  厳中周&M004377;
4  柏心周操
5  説郷梵伝
6  玉巌周玲
7  潤仲周瓏
8  心叔守厚
9  為霖玄佐
10 文泉昌渭
11 賢渓昌倫
12 虎岑玄佐
13 松嶺昌柏
14 南叟昌瑠
15 霊源慧桃
16 海会古礼
17 龍泉昌&M040173;
18 韶陽慧音
19 天敬宗寔
20 泊船昌因
21 仙峰宗球
22 義堂昌&M024396;
23 惟雲昌怡
24 峨山昌禎
25 謙宗紹温
26 独山玄義
27 実堂玄実
28 容堂玄□
29 独秀玄薩
30 宏海玄芳

昭和43年(1968)3月に単立寺院となる。


鹿王院本堂内部の虎岑玄竹倚像(平成18年(2006)07月28日管理人撮影)

本堂を出てさらに奥手に進むと舎利殿につきます。
 近寄ってみると…、戸の貼紙に「舎利殿/出入りの際は必ず/扉を閉めて下さい」
とあります。

ということは、入ってもいいんですね!入りますよ!


鹿王院舎利殿の扉を開けてみた!(平成18年(2006)07月28日管理人撮影)

 舎利殿は方3間、四周裳階付で、屋根は宝形造、桟瓦葺となっています。前述の通り宝暦13年(1763)の建立です。

 やっぱり無造作に軸物がベロ〜ンと下げられています。悪漢が盗んだり、悪童が突っついたり堂内で鬼ごっこをされたら、と思うと恐ろしいものです。寺側はあくまで宗教空間なのだからそのようなことはない、と性善説で考られているのかもしれません。

 善意の固まりみたいな寺だな。この鹿王院は…。

 内陣は方1間で、内陣中央には方形の須弥壇がおかれ、上に舎利殿が安置され、舎利殿は四方開きの四方同形の軒唐破風を備えています。

 ちなみに鹿王院の指定文化財(すべて重要文化財)は『京都文化財総合目録』(京都府教育委員会、2000年3月)によると以下の通りです。
・絹本著色夢窓国師像1幅
・紙本墨画出山釈迦図1幅
・紙本墨画蘭石図1幅
・紙本著色釈迦三尊及三十祖像7幅
・絹本著色夢窓国師像1幅
・後醍醐天皇宸簡御消息1幅
・紙本墨書鹿王院文書1巻
・紙本墨書金剛院文書1巻
・夢窓疎石筆臨幸私記1巻(附、天竜寺造営記1巻)
・夢窓疎石墨跡2幅


鹿王院舎利殿の舎利容器(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 堂内には軸物は、仏涅槃図1幅と十六羅漢図16幅が掛けられています。あたかも堂内で曝凉を行っているようです。とはいえ、さすがに指定の文化財は一点もなく、ほとんどが近世仏画です。

 仏涅槃図は松嶺昌柏(第13世)が父・外祖父の菩提を弔うため、母延寿院に喜捨させて妙心寺の中天和尚に涅槃図を求めて奉納させたものです。

 十六羅漢図は円山応挙の弟子の山跡鶴嶺の筆になるものです。

 また十六羅漢図の下に「駄都殿」の扁額が置かれているのが確認できます。

 天井は小組入格天井。柱は円柱。内陣円柱は相互に虹梁でつながれています。虹梁の下の木鼻は象です。


鹿王院舎利殿内部の十六羅漢像(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 舎利殿を出て庭園に面すると土蔵がみえます。庭園は禁足なので詳しいことはわかりませんが、おそらく方2間、屋根は宝形造、桟瓦葺のようです。
 土蔵は『拾遺名所図絵』にはこの土蔵はみえないので、それ以降の建立であることがわかります。

 唐門は一間一戸薬医門で、屋根は切妻造の本瓦葺です。その唐門を鎮守側(表)より撮影したのが下の写真です。鎮守の三社大明神の向かって右手に位置しています。  


鹿王院唐門(平成18年(2006)07月28日管理人撮影) 

 鎮守の稲荷社は『拾遺名所図絵』にもみえますが、建築自体は比較的新しいようです。鳥居2基の背面に各陰刻で右に「平成十四年五月吉日建之」、左に「町内一同」とあります。
「鹿王院」の寺名について、『宝幢開山知覚普明国師行業実録』には鹿王院の荘田に白鹿が現われたことによる、という説を示しています。しかし鎮守は春日ではないのです。 


鹿王院の鎮守の三社大明神(左)と稲荷社(右)(平成18年(2006)07月28日管理人撮影)

 鹿王院の西には若竹保育園があり、その西には「曇華院文書」で有名な曇華院があります。かつては門跡寺院でしたが、元治元年(1864)に焼失したため、明治になってから鹿王院塔頭の瑞応院を買得して現在地に移ってきたのです。今ではどこにでもあるただのお寺です。若竹保育園はどうやら曇華院が経営しているようです。 



 [参考文献]
・京都府教育委員会編『鹿王院文書目録』(京都府教育委員会、1997年3月)
・鹿王院文書研究会編『鹿王院文書の研究』(思文閣出版、2000年2月)
・樋口実堂編『普明国師と鹿王院』(鹿王院文庫、1937年10月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・『京都市の文化財 記念物』京都市文化観光局文化部文化財、1992年)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)


曇華院表門(平成18年(2006)07月28日管理人撮影)



「京都十刹」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る