文廟



文廟の大成門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

 文廟は京城(フエ旧市街)外部の西側、西安寧社に南向で位置する。天姥寺から西に600mの地点である。

 ヴェトナムにおいて始めて文廟が建立されたのは李朝の聖宗の神武2年(1070)8月のことで(『大越史記全書』本紀、巻之3、李紀、聖宗皇帝、神武2年8月条)、現在ハノイの文廟がそれにあたる。

 フエの文廟は、広南阮氏政権が成立して間もない頃に朝山社に神像を祀る祠として建立されたのが始まりで、睿宗庚寅5年(1770)に隆湖社に移した(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)

 嘉隆2年(1803)閏正月に文廟に礼生50人、監校1人、典校2人、廟夫30人を置き、それと同時に諸営鎮(全国)の文廟に典校2人、礼生・廟夫それぞれ30人を設置させている(『大南寔録正編』第1紀、巻之20、世祖高皇帝寔録、嘉隆2年閏正月条)。なお明命元年(1820)8月には礼生・校典籍をそれぞれ1人設置している(『大南寔録正編』第2紀、巻之4、聖祖仁皇帝寔録、明命元年8月条)

 嘉隆7年(1808)4月、嘉隆帝は礼部に命じて、諸城・営・鎮に文廟を設置するための規式を定めさせた。この時定められた規式では、正同は桁行3間に4厦(1間の庇が建物の前後左右の4面に付属すること)、前堂は桁行5間に2厦(1間の庇が建物の左右の2面に付属すること)とし、廟の右側に啓聖祠を建立し、これは桁行3間に2厦と定めた(『大南寔録正編』第1紀、巻之35、世祖高皇帝寔録、嘉隆7年7月朔条)

 フエの文廟は嘉隆7年(1808)7月に完成した。まず先師(孔子)の神位(位牌)を安置し、礼部に命じて神像を造立した。祭祀の位次を定めるとともに、祭器を作り、奏でる音楽も定められた。またかつての廟所を啓聖祠とした(『大南寔録正編』第1紀、巻之36、世祖高皇帝寔録、嘉隆7年7月丙戌条)。また神像は埋蔵され、位牌に改められた(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)。明命3年(1822)正月に修理が行なわれている(『大南寔録正編』第2紀、巻之13、聖祖仁皇帝寔録、明命3年正月壬戌条)

 毎年、春秋二仲(2月・8月)の上丁日に皇帝が親祭することになっていたが、嘉隆8年(1809)に丑年・辰年・未年・戌年と3年ごとに一度皇帝が親祭することとし、他は文班の大臣に命じて摂祭となった。明命16年(1835)に春祭は郊祀の後の丁日、秋祭は8月の中丁日に改定された(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)

 明命・紹治・嗣徳年間(1820〜83)に「奉列聖辰」釈奠は皇帝の親祭であるか、あるいは行幸して祭祀を視るかであった。成泰7年(1895)に修理が行なわれている(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)


文廟門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)

文廟の配置

 文廟は南向で、南北方向に長い配置であった。正面を文廟門とし、南は3段、北は1段の階段を設け、上部は層楼となっていた。この左を振徳門といい、右を観徳門といった。振徳門はかつて達誠門といったが、紹治元年(1841)に改名された(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)

 文廟門の前に櫺星門(坊門)があり、内側に「卓越干古」、外側に「道在両間」の扁額が掲げられており、また文廟前に下馬碑があったが(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)、いずれも現存しない。

 文廟門より進むと13段の階段があり、その上には楼層形の大成門がある。大成門は正確には中央の入口のみをさし、左を金声門、右を玉振門といった。大成門からは塀に囲まれた空間となっており(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)、ここが文廟の中心である。

 大成門から文廟正堂にかけて、四半敷の石畳の道が伸びている。この左右には石碑が林立する。これらの石碑には進士に及第した者の名が石碑に刻まれている。左(東側)を右文堂といい、右(西側)を肄礼堂という。左はかつて崇文堂といったが、紹治元年(1841)に改称された(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)。右文堂の東には方形の堂があり、土公を祀る場所とする。金声門の外の北に神庫があり、玉振門外の外の北に神厨がある(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)

 正堂は現存しないが、基壇が残っている。正堂は桁行5間で両側に1間庇付、前堂は桁行7間、東西にそれぞれ7間の廡(建物)が付属する。内部中央に至聖先師孔子の神位(位牌)を安置し、左右に4龕を設け顔子・曾子・子思・孟子といった儒教の聖人の神位(位牌)を安置する(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)

 東西に案(つくえ)を設置し、閔損・冉耕・冉雍・宰予・端木賜・冉求・仲由・言偃・卜商・セン(瑞−王へん+頁。UNI9853。&M043600;)孫師・有若・朱熹の12哲の神位(位牌)を安置する。ここはもとは十哲のみであったが、明命18年(1837)に有若・朱熹を安置することになった(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)

 東西の廡(建物)には先賢・先儒の従祀がある。庭前に2箇所の碑亭があり、左碑には明命帝(位1820〜41)が宮監(宦官)が縉紳に列しない理由を述べており、右碑には紹治帝(位1841〜48)が外戚が政治に関与しない理由を述べている(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)

 なお文廟の付近の安寧社にかつて武廟があった。明命16年(1835)に建立されたが(『大南一統志』巻之1、京師、群廟、武廟)、ヴェトナムがフランスの保護領となると武科試験自体が廃止されたため、武廟も廃廟となった。


文廟跡(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



在りし日の文廟(『KIEN TRUC CO DO HOE』〈Nha Xuat Ban Da Nang、2009〉150頁より部分転載)

阮朝の科挙

 ヴェトナム歴代王朝では科挙が実施されており、文廟には進士に及第した者の名が並列して石碑に刻まれている。左(東側)を右文堂といい、右(西側)を肄礼堂という。左はかつて崇文堂といったが、紹治元年(1841)に改称された(『大南一統志』巻之1、京師、壇廟、文廟)。石碑には「皇朝△△(年号)★(年)年会試科進士題名碑」と題して、会試によって進士となった者の名が刻まれている。これら石碑は顕彰碑の台座にもちいる亀趺石の上に置かれた。

 科挙は試験による官吏任用のことであり、ヴェトナムでは李朝の太寧4年(1075)2月に始められ(『大越史記全書』本紀、巻之3、李紀、仁宗皇帝、太寧4年2月条)、歴代王朝が科挙によって官吏を任用した。阮朝も科挙を実施しており、啓定4年(1919)に廃止されるまで継続された(「応陵聖徳神功碑」)

 科挙は、原則としては最も貧しい農民であったとしても、合格すれば高級官僚としての道が開けており、そのため猛勉強をした。これらの試験は儒教の聖典である四書五経をもとに出題された。試験の準備には最低10〜15年必要であり、しかもヴェトナムにおいて漢字を習得する困難さがあった。

 さらに科挙がなかった近世日本とは逆に、書籍が極端に不足しており、図書館があったのも旧都ハノイと首都フエだけであったというから、書籍を保有している家に生まれたものは科挙合格に有利となり、当然出身によって科挙合格への環境というのは自ずから決まることになる。ただし労働者の息子であった阮文祥のような苦学した優秀な者もいた。

 阮朝では国子監をはじめとした国立の学校のほか、地方の各地に学校が設置されていた。科挙の前段階において、これら学校で学ぶことができた。半年に一度「課試」が実施され、合格者は試験の点数に応じて半年ないし一年人頭税・兵役・夫役を免除された。

 科挙は3年ごとに実施された。まず予備試験である「覈」を受け、その後地方試験である「郷試」、都フエでの「会試」、皇帝の面前での「殿試」と三段階の試験を受けた。会試は三段階実施され、2度目まで10分の4を得ていない者は落第となり、3度目に10分の4を得た者は進士となり、得ていない者は副榜となった。会試は200名ほどが受験したが、このうち進士となった者は6・7名にすぎなかった。

 殿試によって進士の順位が決定したが、10点満点なら「状元」、9点なら「榜眼」、8点なら「探花」と呼ばれ、彼らは第一甲進士を形成する。それ以下の点数は6・7点なら第二甲進士、それ以下は第三甲進士となった。実際には第一甲進士になる者は稀であり、明命3年(1822)の殿試では、第一甲進士は該当者なし、第二甲進士は1名、のこり7名が第三甲進士であった(「皇朝明命参年壬午会試科進士題名碑」)


[参考文献]
・坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史』(東京大学出版会、1991年2月)


文廟右文堂の会試科進士題名碑(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



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