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桐華寺一柱門(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)。康熙19年(1680)の再建。
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桐華寺は大韓民国大邱広域市東区道鶴洞に位置する寺院です。山号は八公山。永明11年(493)に普照によって建立されたとされ、9世紀に心地(生没年不明)によって発展。高麗時代には国家の庇護を受け、豊臣秀吉による文禄・慶長の乱によって焼失、戦後再建されました。統一大仏を中心としたエリア、極楽殿を中心とするエリア、大雄宝殿を中心とするエリアに分かれており、さらに多くの子院が林立しています。
桐華寺の建立
桐華寺は永明11年(493)に普照によって建立され、建立当所は瑜伽寺と称したという(『八公山桐華寺事蹟記』八公山桐華寺事蹟記)。この建立縁起はかなり後代になってから登場したもので、寺誌の『八公山桐華寺事蹟記』にあげられている。これは李宜顕(1669〜1745)が雍正5年(1727)に撰述したもので、建立されたとされる時代よりも1234年も後の撰述にかかる。そのため桐華寺が実際に永明11年(493)に建立されたかについて、あくまで伝説の域を出ないと見た方がよい。
桐華寺の建立年代については、桐華寺境内に新羅時代の幢竿支柱が現存していることから、新羅時代には確実に建立されていたことが知られる。寺誌によると大暦11年(776)に大鍾を鋳造し、会昌2年(842)に禁口を鋳造したという(『八公山桐華寺事蹟記』重創年代成功人員刊録)。桐華寺を寺院として発展させる契機となったのが、心地(生没年不明)による簡子の奉安である。
心地は新羅王第41代の憲徳王(位809〜26)の子で、15歳の時に出家し、中岳(後の八公山。桐華寺のある山)に住した(『三国遺事』巻第4、義解第5、心地継祖)。心地は国王の子であるにも関わらず、何らかの理由により王位継承順位から外れている。15歳で出家しているように、かなり早い段階で王位継承権が失われていることから、父王の薨去によって幼年の心地が排除されたか、または新羅における厳格な血縁的身分制度である骨品制における何らかの逸脱、例えば母の身分などが彼をして王位継承から退けさせたとみられる。結局、王位は父王の弟興徳王(位826〜36)が継承するも、後述するが王位継承は大きな混乱が生じた。
寺誌によると、心地は出家後、名山を遍歴し、伽耶山(海印寺)に到って希朗に師事したというが(『八公山桐華寺事蹟記』心地王師行蹟)、希朗は心地の1世紀後の人物であるから、史実とは認めがたい。また当時、俗離山には永深(生没年不明)が真表律師(718/734?〜777頃)が得た仏骨簡子を受け継いで果訂法会を設けていた(『三国遺事』巻第4、義解第5、心地継祖)。
簡子とは、真表が弥勒の感応によって得たという札である。真表の伝記は『宋高僧伝』(998年頃)、「高城鉢渕薮真表律師蔵骨塔碑文」(1199年成立)、同書を抄出した『三国遺事』開東楓岳鉢渕薮石記、そして同じく『三国遺事』に掲載されながらも全く異なっている、『三国遺事』真表伝簡(1275〜80年頃)にみえるが、これらの間で甚だしく異なっており、確定が難しい。
『宋高僧伝』によると、真表が感応した弥勒の膝下より出た牙でもなく玉でもない占い用の札であり、もし人が戒を求める時、まず最初に罪を悔い、罪福を確定するものであり、「九」「八」の文字が書かれていた。さらに108籤を得たが、そこには煩悩の名目が書かれていた。戒を90日、または40日・三七日(27日間)行い、精進し終わって二籤を百八籤と一緒に仏前にて空中に投げ、地に落ちた籤によって罪の滅不滅を知るというものである。もし108籤が嗣法に飛散し、八九の2籤のみ壇心に立っていれば上上品の戒を得たことになったという(『宋高僧伝』巻第14、明律篇第4之1、唐百済国金山寺真表伝)。
「高城鉢渕薮真表律師蔵骨塔碑文」によると、真表は弥勒から得た籤のみならず、地蔵からは戒本を得ており、『三国遺事』真表伝簡では弥勒から占察経両巻と証果簡子189介を得たとしている。
この簡子は占察法会にて用いられるものであり、占察法会『占察善悪業報経(占察経)』(大正蔵839)に説かれる「木輪相」を用いて,過去世の善悪の業や三世中の受報の差別を占う儀礼を中心とする法会である(山中)。もとは円測が中国よりもたらし、これを真表を大成した。簡子は占察法会において用いられた法具であるが、真表が感応した簡子は、その門弟の永深のみが継承し、彼もまた占察法会を行っていた(「高城鉢渕薮真表律師蔵骨塔碑文」)。
心地は永深の法会に参加しようとしたが、期日の遅れによって参加が許されなかった。そこで心地は地に座って庭を叩き、衆とともに懺礼(三宝を礼拝して罪を懺悔すること)し、七日を経て、大雪が降ったにもかかわらず、立っていた10尺四方ばかりが降らなかった。衆はその神異を見たから、許して堂に引き入れたが、心地は辞退し、部屋中に退き、堂に向かって密かに礼拝した。肘と頭からともに流血し、真表が仙渓山で行ったようになった。地蔵菩薩が日々慰問し、退居して山に戻った(『三国遺事』巻第4、義解第5、心地継祖)。
途中、心地は2簡子が衣の褶の間に挟まっているのを見て、持ち帰って永深に報告した。永深は「簡子は箱の中にあるから、どうしてここにあるようなことがあろうか」といい、検査したところ、箱の封題はもとのままであり、開いて視てみると簡子は無くなっていた。永深は非常に怪しんで、覆いを重ねてしまい込んだ。また心地が行くと最初の通りになってしまい、再度永深に報告したところ、永深は「仏の意思がお前にあるのだろう。お前はその意思に従いなさい」といい、簡子を授けた(『三国遺事』巻第4、義解第5、心地継祖)。
心地は頭に簡子を戴いて山に帰ると、山の神が一人の仙人を率いて山頂に到り、心地を巌の上に座らせ、彼は巌の下の伏せ、謹んで正戒を受けた。心地は「今まさに地を選んで聖簡を安置しよう。ただ私がその場所を定めることはしない。願うところは、三君とともに高いところから簡子を投げてその地を定めよう」といい、神々とともに峰の頂きに登り、西に向かって放り投げた。簡子は風に乗って飛んでいった(『三国遺事』巻第4、義解第5、心地継祖)。
神は歌を作って唱えると、簡子は林の泉の中にあった。そこでこの地に堂を構えて安置した。今(『三国遺事』編纂当時の13世紀)の桐華寺籤堂の北に小さな井戸があるが、これである(『三国遺事』巻第4、義解第5、心地継祖)。
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桐華寺幢竿支柱(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)。新羅時代の建立。
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桐華寺三層石塔(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)
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新羅王権と桐華寺
心地は前述の通り憲徳王の子である。新羅王は第38代元聖王(位785〜98)の後、後継者の恵忠太子仁謙(?〜791)が夭折したため、恵忠太子の系統から王位を輩出した。彼らの系統からは、元聖王が奉恩寺を建立したのを最後に、都周辺に大規模な国家寺院が建造されることはなくなり、都のある慶州よりやや離れた場所に造営された山岳寺院により重きが置かれた。第40代哀荘王(位800〜09)の時代には、祖母の聖穆王太后(恵忠太子妃)により海印寺が建立され、伝説上では第42代興徳王(位826〜36)の時代には梵魚寺が建立された。心地は第41代憲徳王の子であるが、王位継承順位から外れており、前述の通り、叔父の興徳王(位826〜36)が王位を継承した。
興徳王の後は、従兄弟の子(恵忠太子の弟礼英の孫)である第43代僖康王(位836〜38)が王位争いの末、継承した。これによって恵忠太子の系統は一旦王位から離れることになるが、興徳王の甥が反乱をおこして僖康王を弑逆し、第44代閔哀王(位838〜39)が王位についた。しかし礼英の系統の一派により反乱をおこされ、彼もまた弑逆された。
1960年代に桐華寺毘盧庵前の三層石塔より盗掘され、その後回収された舍利壺に銘文があり、咸通4年(863)に「敏哀大王」の追福のために石塔が建立されたことが判明した。「敏哀大王」は閔哀王のことであり、『三国史記』には薨去日が記されておらず、『三国遺事』には1月22日とする薨去日であるが、銘文に「太簇之月下旬有三日、奄弁蒼生、春秋二十三」とあるように、1月23日に23歳で薨去したことが知られる(「桐華寺毘盧庵三層石塔舍利壺」〈『韓国金石遺文』『韓国美術資料集成』1〉)。
石塔が建立されたのは閔哀王が弑逆されてから24年も経過してからのことであるが、その間、王位は神武王(位839)、文聖王(位839〜57)、憲安王(位857〜61)へと礼英の子均貞の系統が継承するも、均貞の系統は断絶し、均貞の弟憲貞の曾孫の景文王(位861〜75)の代になっていた。この建立者の中には「専知大徳心智」とあるが、ここにみえる「心智」は心地とみられる。心地は閔哀王同様に恵忠太子の系統の出身であり、おそらくはこの系統の最後の生存者とみられる。均貞の系統は断絶したことを知った心地が、ようやく閔哀王の追福に動いたものとみられる。
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桐華寺三層石塔(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)。咸通4年(863)の建立。
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高麗時代の桐華寺@
高麗時代になると、桐華寺はさらなる発展をみせる。太平18年(1036)(遼では太平年号の使用は終わっていたが、高麗では西暦1032〜38年にわたって継続使用した)には、4子に1子の割合で出家を許したが、この時、「霊通・嵩法・普願・桐華等の寺の戒壇に業するところの経・律を試せよ」と詔しているように(『高麗史』巻第6、世家第6、靖宗2年5月辛卯条)ことから、それまで通度寺に独占的に設けられていた戒壇が、桐華寺にも設けられていたことが知られる。
王権による桐華寺への帰依は、前述した簡子への信仰が一つの要因にあげられる。睿宗(位1105〜22)の時代には簡子を宮中に迎えたが、「九」の簡が忽然として姿を消したため、牙を代用として、桐華寺に送り返したが、その後数百年を経たため古色がつき、どれが新しいものか古いものか判別が難しくなってしまったという(『三国遺事』巻第4、義解第5、心地継祖)。
このような桐華寺の国家による手厚い保護は、同時に桐華寺に土地の大規模所有をもたらしたらしい。後述するが、桐華寺では忠烈王(位1274〜98、重祚位1298〜1308)期に村落を一円化した大規模荘園を有することになったが、その端緒となっていた荘園があったとみて不自然ではない。そのため僧兵勢力も登場したらしい。泰和2年(1202)10月に慶州別抄軍と永州の間で紛争がおき、慶州別抄軍は雲門の賊と符仁寺・桐華寺の僧徒を率いて永州を攻撃したが、永州は防衛に成功して慶州人を撃退した(『高麗史』巻21、世家21、神宗5年10月条)。
その後90年ほど桐華寺の様相についてはわかっていない。ただ高宗23年(1236)のモンゴル軍の攻撃によって桐華寺の付近に位置する符仁寺が焼失していることから(『東国李相国全集』巻第25、雑著、大蔵刻板君臣祈告文)、桐華寺もまた焼失したとみられる。これを再興したのが弘真国師こと恵永(1228〜94)である。
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桐華寺八角円堂形石塔(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)。高麗時代の建立。
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高麗時代の桐華寺A
恵永(1228〜94)は俗姓を康氏といい、聞慶郡の人である。父は内閣丞兼直翰林院を務めた子元である。11歳の時に冲渊首座の堂下に投じて南白月寺にて出家剃髪し、17歳の時に中王輪寺選仏場にて受戒したらしい。中統4年(1263)には首座となり、至元4年(1267)に俗離寺に移住した。至元6年(1269)には僧統に班し、至元11年(1274)に仏国寺に移住した。至元13年(1276)には通度寺に到って舎利数枚を請い、常に左右に置いて更に分割し、欲しい者に与えていたという。また重興寺に移り、9年間都に留まっていた(「桐華寺弘真国尊真応塔碑」〈朝鮮金石総覧附33〉)。
至元22年(1285)瑜伽寺に移住し、至元27年(1290)には僧百人を率いて写経事業を行い、写経した金字法華経は元の大都にて世祖皇帝(フビライ)の謁を受け、恵永は大都慶寿寺に滞在することとなり、敬服しない者はいなかったという。ある日、万安寺の堂頭(住持)が様々な幢蓋によって寺院を荘厳し、恵永を仁王経講師に請じた。座にのぼって講演したが、快きことは河に橋を架けるかのようであり、聴衆は見仰ぐと仏日のようにみえたという。翌年、金泥での大蔵経写経事業が完成すると、世祖は大いに喜び、篤く賜物を施すとともに、使を遣わして本国に送還した(「桐華寺弘真国尊真応塔碑」〈朝鮮金石総覧附33〉)。
至元29年(1292)、高麗は恵永を国尊とした(『高麗史』巻30、世家第30、忠烈王18年条)。これより前、恵永は瑜伽寺にいたが、王使が迎えに来たため愕然としたが、王使が強いたため10月に都に入り、忠烈王は大将軍黄元吉に命じて馬を天寿寺に出して崇教寺別院に迎え入れ、22日に冊命して国尊とし、法号を普慈と称した。26日には寿寧殿にて忠烈王が群臣を率いて納拝の礼を行い、また五教都僧統とし、命じて桐華寺に住させた。至元30年(1293)に忠烈王が元に赴く際には恵永を成道寺に留まらせて法会を行っている(「桐華寺弘真国尊真応塔碑」〈朝鮮金石総覧附33〉)。
至元31年(1294)正月19日、恵永は病となり、会下の僧らは恵永の病状を問うたが、ただ飲食が調わないだけであると答えている。しかし21日になると侍者を呼び、遺書を認めて封印し、行李を別監崔洪旦に預けると端座して華厳経十地品を読経しつつ示寂した。67歳。2月2日に龍首山の南丘にて荼毘にふし、遺骨は桐華寺に塔(埋葬)した。忠烈王は元の上都にて遺書を読み、悼み嘆いて弘真と諡し、塔号を真応と贈った(「桐華寺弘真国尊真応塔碑」〈朝鮮金石総覧附33〉)。
後世の記録には大徳2年(1298)に高麗国師弘真が桐華寺を再興したとしており(『八公山桐華寺事蹟』心地王師行蹟)、恵永が桐華寺を再興したようにみえるが、大徳2年の段階で恵永はすでに示寂しており、桐華寺の恵永による再興は仮託にすぎないことが知られる。しかし桐華寺はその後門人の孝驍ェ住持となっており、孝驍烽ワた「五明大師」と称されているように(「桐華寺弘真国尊真応塔碑」〈朝鮮金石総覧附33〉)、高麗王朝の信認篤く、皇慶2年(1313)10月には上王(忠宣王)の二千燈会において法会を行っていることから(『高麗史』巻34、世家34、忠粛王元年10月丙子条)、恵永の後継者は引き続き高麗王朝の支援を受けていたようであり、そのことから桐華寺も恵永示寂後に再興を行うことができたのかもしれない。
また忠烈王(位1274〜98、重祚位1298〜1308)期には、忠烈王の妃である貞和宮主(?〜1318)の兄は僧となって桐華寺に住し、良人を隷蕃(奴婢)とすること千数百戸に及んだという(『高麗史』巻91、列伝4、宗室第2、江陽公滋伝)。貞和宮主は、神宗の孫の始安公(?〜1275)の娘であり(『高麗史』巻89、列伝2、后妃第2、貞信府主王氏)、桐華寺に住した貞和宮主もまた宗室の出であった。
高麗において、仏教は事実上の国教であり、膨大な田地が寺院に施入された。王が寺院に土地を施入する場合、寺田を耕作する奴婢も伴っており、また貴族の土地には課税されたのに対して、寺院の土地は非課税であった。桐華寺の場合は王族による施入であるが、千数百戸を奴婢としていることから、その寄進対象は一円化された村落そのものであったとみられ、国家権力に依存する性質上、都田帳に経常されて国家の管理下に置かれ、そのため桐華寺の荘園の作民は奴婢として登録されることになったのである。
これ以降の桐華寺の活動は史料上に断片的に散見される。至治元年(1321)には桐華寺に子安(1240〜1327)が住しており、その3年後の泰定元年(1324)に子安は高麗王朝より「悟空真覚妙円無礙国尊」の尊号を受けているように(「法住寺慈浄国尊普明塔碑」〈朝鮮金石総覧173〉)、王朝側より尊崇を受けた高僧が住する寺院となっている。また洪武8年(1375)9月には桐華寺の釈迦仏骨を神孝寺に安置して仏事を行っている(『高麗史』巻133、列伝46、辛グ王元年9月条)。
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桐華寺極楽殿(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)。康煕41年(1702)の再建。「古金堂」と称された。
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桐華寺擁護門(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)。雍正8年(1730)の再建。
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李朝時代の桐華寺
成化元年(1465)に古金堂が建立されている(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。万暦19年(1591)には毘盧殿が建立された(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。
万暦20年(1592)、文禄・慶長の役により桐華寺は戦火を被り、中殿以外すべての建物が焼失した(『八公山桐華寺事蹟』心地王師行蹟、撮略附)。桐華寺の位置する八公山は松雲大師こと惟政(1544〜1610)が義僧兵の総指揮官となって根拠地の一つを置いた場所であり(「慈通弘済尊者四溟大師石蔵碑銘」〈朝鮮金石総覧243〉)、戦後の復興も惟政が海印寺に住しているため、学仁に修造を命じたというが(『八公山桐華寺事蹟』心地王師行蹟、撮略附)、実際の関与の度合はよくわかっていない。
寺誌によると、まず最初に再建されたのが金堂・衆寮であり、万暦28年(1600)に再建された。この時の化主は瑞一である(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。万暦33年(1605)には尋剣堂が再建され、化主は天霊であった(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。
このように再建最初期の段階では惟政と学仁の影はみえないが、万暦34年(1606)に松雲は学仁に命じて法堂を再建している。このときの法堂は康熙16年(1677)・雍正5年(1727)に再建されている(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。続いて学仁は万暦36年(1608)に弥勒殿を再建しており、この弥勒殿は雍正3年(1725)に再々建された(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。
万暦40年(1612)には化主惟賛のもと念仏庵が再建され、康熙38年(1699)に再建された(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。また万暦42年(1614)には化主一玄のもと隆生院が再建され、これは康熙48年(1709)・雍正4年(1726)にも再建された(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。万暦43年(1615)には化主勝善のもと薬師殿が再建され、康熙20年(1681)に移建された(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。
鐘閣は万暦45年(1617)に再建された。また康熙48年(1709)、雍正8年(1730)にも再建されている(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。天啓2年(1622)には大金堂・法堂が再建された(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。崇禎6年(1633)に一柱門が完成し、康熙19年(1680)に再建された(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。
康煕41年(1702)には「古金堂」が再建されている(『八公山桐華寺事蹟』重創年代成功人員刊録)。これは現在の極楽殿をさす。極楽殿を中心とするエリアは、その前に幢竿支柱があること、新羅時代に建立された三層石塔があることから、かつては桐華寺における伽藍の中心であったが、後に「法堂」と称された大雄殿を中心とするエリアがその地位を奪った。
なお桐華寺に住した高僧の中には仁岳(1746〜96)がいる(「桐華寺仁岳大師碑」〈朝鮮金石総覧475〉)。
[参考文献]
・武田幸男「高麗時代における通度寺の寺領支配」(『東洋史研究』25(1)、1966年07月)
・鎌田茂雄『朝鮮仏教史(東洋叢書1)』(東京大学出版会、1987年2月)
・山中行雄「高麗の偽経『現行西方経』について」(『佛教大学総合研究所紀要』16、2009年3月)
・師茂樹「新羅・真表伝の再検討」(「第62回佛教史学会学術大会(レジュメ)」2011年11月)
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桐華寺大雄殿(平成25年(2013)3月16日、管理人撮影)。雍正5年(1727)から雍正10年(1732)にかけて再建された。「大金堂」もしくは「法堂」と称される。
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