文殊楼



文殊楼(平成23年(2011)12月29日、管理人撮影)

 文殊楼(もんじゅろう)は比叡山延暦寺東塔惣堂分の根本中堂の正面東側の虚空蔵尾に位置する堂です。一行三昧院とも称されています。円仁によって建立され、貞観6年(864)に完成。その後何度も焼失しましたが、現在の建物は寛文8年(1668)のもので、大津市の指定文化財となっています。


文殊楼の建立

 文殊楼はもとは常坐三昧一行院として最澄によって弘仁9年(818)に建立が企画された(『弘仁九年比叡山寺僧院等之記』)。この企画はさらに弘仁10年(819)3月15日の「四条式」において、天台宗の年分度者の楽章が十二年籠山する際に山の四種三昧院にて修行することを標榜している(『山家学生式』)

 四種三昧は常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧のことで、うち常坐三昧とは、『文殊師利所説般若波羅蜜経』・『文殊師利問経』を所拠経典としたもので、智ギ(りっしんべん+豈。UNI6137。&M011015;)(538〜97)の著作『摩訶止観』によると、常坐三昧は一行三昧ともいい、まず起居動作において許されることと許されないことを論じ、口業の上の言説と沈黙を論じて止観し、身は常に坐って歩いたり伏せたりしなかった。この常坐三昧を実施のは集団より一人の方がよく、一静室や空閑地にて諸々の喧騒を離れ、一つの縄床に座って他に移動することなく、90日間を一期として結跏正坐して、頭や背中は直立し、動かず揺れず、坐をもって自誓した。食事は排便を除いてただ専らに仏に向かって端坐正向したという(『摩訶止観』巻第2、二勧進四種三昧入菩薩位)、大変な苦行であった。

 しかし常坐三昧院の建立は遅れ、最澄示寂後のことになる。円仁は入唐中の開成5年(840)7月2日夜に東に一谷を距てた峰の上に光を見ており(『入唐求法巡礼行記』巻第3、開成5年7月2日条)、これによって心に文殊閣の建立を誓ったという(通行本『慈覚大師伝』)。この同じ日に円仁は五台山の南台頂近くの金閣寺を訪れている。ここで9間三層の文殊堂を見物しており、第一層には文殊菩薩像、第二層に金剛頂瑜伽の五仏像、第三層に頂輪王瑜伽会の五仏金像が安置されていた。また第一層には大蔵経六千巻が納められていた(『入唐求法巡礼行記』巻第3、開成5年7月2日条)。この五台山での見聞が、実際の文殊楼建立に際して大いに参考となったのである。

 帰朝後の貞観2年(860)、円仁は文殊楼建立の奏上を行っており、詔によって造料を給付された(通行本『慈覚大師伝』)。貞観3年(861)には五台山の霊石を建立地の五方に埋めており、文殊楼の建立を開始した(通行本『慈覚大師伝』)。この霊石は円仁の請来目録である『入唐新求聖教目録』に「五台山土石二十丸(立石各十丸)」とあるものであり、円仁はこれを「しかるに立石等は、これ大聖文殊師利菩薩の住処の物にして、円仁ら五頂に巡礼するによりて取得す。これ聖地の物によりて、これを経教の後に列す。願わくは見聞随喜する者をして同じく結縁せしめ、みな大聖文殊師利の眷属となさんなり」とある(『入唐新求聖教目録』)

 ところが文殊楼は円仁在世中に完成せず、円仁の遺誡においても文殊楼の完成を気がかりなこととしている(通行本『慈覚大師伝』)。円仁示寂後の貞観6年(864)10月に文殊楼会が実施され、僧都道昌(798〜875)を導師とし、僧都恵達(796〜878)を呪願とした(通行本『慈覚大師伝』)

 その後、文殊楼の検校となって文殊楼の経営を支えたのが承雲である。承雲は年未詳2月15日に宣旨によって文殊楼検校となっているが(通行本『慈覚大師伝』)、貞観6年(864)2月15日に内供奉十禅寺に補任されていることから(『日本三代実録』巻8、貞観6年2月15日壬申条)、検校となったのは貞観6年(864)のことであったらしい。

 承雲はさらに文殊像を造立して文殊楼に安置した。この文殊像の胎内には五台山の香木が中心に入れられていた(通行本『慈覚大師伝』)。貞観18年(876)6月15日には承雲の申請によって文殊楼が朝廷を誓護の道場となっているが、文殊楼は二層で、高さは5丈3尺(16m)、広さは5丈3寸(15m)、縦は3丈8尺(11.5m)であり、正面に安置される文殊坐像1体は高さが4尺8寸(145cm)、化現文殊乗師子立像1体が8尺(240cm)、脇侍の文殊立像4体は高さがそれぞれ5尺3寸(160cm)、侍者化現文殊童子立像1体が5尺3寸(160cm)、師子御者化現文殊大士立像1体が高5尺3寸(160cm)であった(『日本三代実録』巻29、貞観18年6月15日庚申条)

 元慶3年(879)10月16日に近江国大浦荘を文殊楼の灯分・修理料として寄進されたが(『類聚三代格』巻第2、元慶5年3月11日官符)、承雲の申状によって元慶5年(881)3月11日に料分の余によって僧4口(人)を文殊楼に置くこととした(『類聚三代格』巻第2、元慶5年3月11日官符)


文殊楼(平成23年(2011)12月29日、管理人撮影)

あいつぐ焼失

 文殊楼は康保3年(966)10月28日に大講堂・鐘楼・常行堂・法花堂・四王院延命などとともに焼失している(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。これまで文殊楼は大講堂付近に位置していたが、天台座主良源(912〜85)は安和2年(969)の再建に際して、虚空蔵峰の頂上に移した。さらに文殊楼が焼失した後、文殊の師子の足元にあった五台山の土を探したものの、灰が多く積もっていて分別不能であったため、良源は円仁が五台山から持ち帰った土を文殊師子の足下に踏ませた(『慈慧大僧正伝』)。天元3年(980)10月1日に文殊楼の供養が行われた(『日本紀略』天元3年10月1日条)

 長久5年(1044)10月9日に延暦寺文殊楼に阿闍梨が4人設置された(『扶桑略記』第28、長久5年10月9日条)。永保3年(1083)に文殊楼供養が行われており(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、永保3年条)、また寛治2年(1088)8月29日にも大講堂王院・文殊楼の供養が行われているから(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、寛治2年8月29日条)、この頃修造されたらしい。

 元久2年(1205)10月2日に文殊楼は大講堂四王院延命院・法華堂・常行堂・鐘楼・五仏院・実相院・御経蔵・虚空蔵惣社・南谷彼岸所・円融房・極楽房・桜本房とともに焼失しているが(『天台座主記』巻3、67世僧正真性、元久2年10月2日条)、ただちに再建に着手され、元久3年(1206)7月24日には文殊楼は法華堂・常行堂・四王院・実相院とともに棟上されている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、元久3年7月24日条)

 建保3年(1215)11月25日には北谷大妙坊からの失火により焼失しているが(『天台座主記』巻3、72世権僧正承円、建保3年11月25日条)、貞応3年(1224)に再建された(『叡岳要記』巻上、文殊楼院)

 再建僅か5年後の安貞3年(1229)3月25日にも北谷喜見坊からの失火により焼失したが(『天台座主記』巻3、74世二品尊性親王、安貞3年3月25日条)、寛喜3年(1231)3月29日に再建の立柱をし、4月28日に棟上、7月7日に本尊を安置し、寛喜4年(1231)3月25日に再建供養を行った。観厳律師が法華経1,200部、金光明経1,200部、仁王経1,200部を勧進し、比叡山上で転読させ、このうち3,000部を文殊楼に納め、残り600部は畿内・畿外の神祠に頒布した(『天台座主記』巻3、75世大僧正良快、寛喜4年3月25日条)

 文永3年(1266)8月18日には大風により文殊楼が経蔵・法華堂・戒壇院政所・惣持院とともに破損している(『天台座主記』巻4、84世前大僧正澄覚、文永3年8月18日条)。文永7年(1270)10月8日に棟上された(『天台座主記』巻4、86世前大僧正慈禅、文永7年10月8日条)

 永仁5年(1297)9月19日には比叡山上の武力抗争によって焼失しているが、この時の焼失は大講堂・五仏院・鐘楼・政所・定法房・浄眼房・実相院・定心院・同鎮守・彼岸所・円融房・極楽房・香集坊・法性坊・四王院戒壇院・法華堂・常行堂が焼失する大惨事となった(『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁5年9月19日条)

 元亀2年(1571)信長の比叡山焼討ちに際しても焼失したとみられるが、江戸時代になってから再建工事が実施されたらしい。しかし寛永8年(1631)9月18日に大風のため文殊楼は根本中堂大講堂・法華堂・常行堂・横川四季講堂とともに倒壊してしまう(『天台座主記』巻6、169世最胤法親王、寛永8年9月18日条)

 寛永11年(1634)、徳川家光(1604〜51)は根本中堂大講堂・文殊楼の造営を分部光信(1591〜1643)・朽木稙綱(1605〜61)らを奉行として造営にあたらせた。これは南光坊天海(1536〜1643)の口添えによるもので、家光は天海に深い信頼をよせていたため実現することができたのである(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)。寛永19年(1642)に完成した(『天台座主記』巻6、169世二品最胤法親王、寛永11年此年条)

 寛文8年(1668)2月27日に東塔北谷僧房の善学院より出火して、前唐院とともに焼失するが(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文8年2月27日条)、同年中に再建工事を行った(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文8年条)。この時再建されたものが現在の文殊楼であり、桁行3間(9m45cm)、梁間2間(6m8cm)の入母屋造の三間一戸二階二重門である。二階は床を張って文殊菩薩を安置する。初重には扉を設けず、両脇を板壁で区切って室としている。和様を基調としながらも、柱の粽・台輪や花頭窓などに禅宗様を加味する。

 安永10年(1781)3月19日に文殊楼は修理を行っており、本尊を外に遷座した(『天台座主記』巻6、212世入道二品尊真親王、安永10年3月19日条)。天明元年(1781)10月17日、陰陽師により文殊楼の正遷座の日を24日と決定された(『天台座主記』巻6、212世入道二品尊真親王、天明元年10月17日条)

 昭和48年(1973)に大津市の指定文化財に指定された。


[参考文献]
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年8月)
・『滋賀県の近世社寺建築』(滋賀県教育委員会文化部文化財保護課、1986年3月)
・佐伯有清『慈覚大師伝の研究』吉川弘文館、1986年5月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)
・清水擴『延暦寺の建築史的研究』(中央公論美術出版、2009年7月)


文殊楼(平成23年(2011)12月29日、管理人撮影)



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