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元慶寺鐘楼門(平成24年(2012)1月2日、管理人撮影)。寛政4年(1792)の再建。
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元慶寺(がんぎょうじ。現在は「がんけいじ」)は京都市山科区北花山河原町13に位置(外部リンク)する天台宗寺院です。山号は華頂山。遍照(816〜90)が陽成天皇降誕に際して貞観10年(868)に建立し、元慶元年(877)に定額寺となりました。かつては街道の北の山に位置していました。応仁の乱で衰退しましたが、天明3年(1783)に再興。現在の建物の多くは寛政元年(1789)の再建になります。西国三十三箇所番外札所としても知られています。
僧正遍照
元慶寺は遍照(816〜90)によって創建された。遍照は歌僧として知られており、とくに六歌仙、ないしは三十六歌仙に数えられる大歌人である。その一方で僧侶としての活動はほとんど知られておらず、遍照のイメージは歌僧としてのみ定着している。そこで元慶寺について述べる前に、ここでは遍照の僧侶としての活動をみてみよう。
遍照は良峰安世の8男であり(通行本『慈覚大師伝』)、すなわち桓武天皇の孫にあたる。官吏として朝廷に出仕し、承和12年(845)正月7日に従五位下(『続日本後紀』巻15、承和12年正月甲寅条)、同年正月11日に左兵衛佐となり(『続日本後紀』巻15、承和12年正月戊午条)、承和13年(846)正月13日には備前介・左近衛少将を兼任した(『続日本後紀』巻16、承和13年正月乙卯条)。嘉祥2年(849)4月28日には渤海使に対する慰労の勅使となって鴻臚館に赴き(『続日本後紀』巻19、嘉祥2年4月辛亥条)。嘉祥3年(850)正月7日には従五位上に叙された(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年正月丙戌条)。
順調に官歴を重ねていったかのようにみえるが、宗貞は仁明天皇の寵臣であったため、仁明天皇の崩御とともに官途は終わる。嘉祥3年(850)3月22日に仁明天皇葬送のための諸司の一人に任じられたが(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年3月庚子条)、わずか6日後の28日、突如として出家して僧となった。仁明天皇が崩御したため悲しみ慕うあまり僧になってしまったのである。時の人々はこれを憐れんだという(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年3月丙午条)。このように一旦良峰宗貞は記録から消えるが、僧遍照として歴史舞台を歩み続ける。
遍照が出家した地は比叡山であったらしい(『古今和歌集』巻第16、哀傷哥、第847番歌、詞書)。藤原良房(804〜72)は彼を天台座主円仁(794〜864)に託した。貞観5年(863)円仁は遍照に始めて真言大法を教え、金剛界壇を授けた。円仁は両部大法をすべて授けるつもりであったが、円仁の病は進行してしまい、貞観6年(864)正月13日に弟子たちを招集し、弟子の安慧(794〜68)より授けるように遺言した(通行本『慈覚大師伝』)。安慧は貞観7年(865)夏、遍照に三部大法を授けた(通行本『慈覚大師伝』)。
貞観11年(869)2月26日に遍照は勅によって法眼和尚位を授けられているが(『日本三代実録』巻16、貞観11年2月26日甲寅条)、これは前年末に貞明親王(陽成天皇)の降誕に際して寺院(後の元慶寺)を建立したこと(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)の賞であったようである。また後に元慶寺の別院となる雲林院を貞観11年(869)2月16日に常康親王(?〜869)より委嘱されている(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)。貞観15年(873)には延暦寺惣持院潅頂堂において三部大潅頂を円珍(814〜91)より授けられており(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)、同年4月23日に阿闍梨位を授けられている(「太政官牒」園城寺文書47-3)。遍照に円珍を紹介したのも藤原良房であった(「授遍照阿闍梨位奏状」園城寺文書47-2)。
遍照は陽成天皇を即位以前より護持していたため、陽成天皇即位後は一躍重用されることになる。元慶3年(879)10月23日に突如として権僧正に任じられた(『日本三代実録』巻36、元慶3年10月23日己卯条)。遍照も閏10月15日に辞表を奏上するものの、慰撫された(『日本三代実録』巻36、元慶3年閏10月15日辛丑条)。こうして突如僧綱の次席(首席の僧正は宗叡)となった遍照であったが、もと官人であった経歴を生かして、僧侶の綱紀粛正に尽力することになる。とくに元慶6年(882)の「遍照起請七条」は国家仏教における問題点と解決点を指摘した点で大いに注目すべきである。
第一条は僧綱に任用される者が諸寺の別当を兼任する場合、4年を期限とすることであり、式の条文では四年の期限を設けながら、例外規定があったため、僧綱の者はあくまで期限を守るべきこととした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第二・三条は逸しており不明である。
第四条は授戒したと詐称して偽造した戒牒を持つ者がいるため、式部省・玄蕃寮が現場にて本籍・姓名を記し、捺印した戒牒を作成し、偽造した戒牒を持つ者は違勅の罪に問うとしたものである(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第五条は諸寺の別当が任期後に交替する際、解由(任交替の事務引継・監査)は僧綱に提出されるが、別当の任命は実際には僧綱が関知することが少ないため、任期がいつ終わったのか僧綱では把握できず、そのため解由の詳細を知ることすらできなくなっていた。そこで別当の任符(任命状)が官から発給される前に、式部省・玄蕃寮・僧綱に提出し、任命日から逆算して任期終了を把握して解由を処理することとした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第六条は放生会について、現行の放生会の前に、放生すべき生き物を国司が検断するために集めており、検断までの数日間に生き物の大半が死ぬことから、無意味な放生会はかえって殺生をしているのと変わらないとし、実効性のある方法をとり、それを年末に記録して言上すべきとした(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。
第七条は川に毒木の毒を流して魚を捕ることを禁止したものである(『日本三代実録』巻42、元慶6年6月3日甲戌条)。ただしこの魚毒漁は近代まで実施されていた。
元慶8年(884)にこれまで護持してきた陽成天皇が事実上の廃位となったが、かわって即位した光孝天皇は遍照とは出家以前より深い親交があったため(『日本三代実録』巻49、仁和2年3月14日癸巳条)、前代にも増して重用されるようになる。光孝天皇が親王であった時、遍照の母の家に宿泊した際に遍照が歌を詠んでいる(『古今和歌集』巻第4、秋哥上、第248番歌)。
さとはあれて人はふりにしやどなれや 庭もまがきも秋ののらなる
仁和元年(885)2月13日、遍照は権僧正職の辞表を提出したが(『日本三代実録』巻47、仁和元年2月13日己亥条)、3月4日に光孝天皇より「朕の懐(おもい)を傷つくことなかれ」と慰撫された(『日本三代実録』巻47、仁和元年3月4日己未条)。同年10月22日には僧正に任じられた(『日本三代実録』巻48、仁和元年10月22日癸酉条)。
仁和元年(885)12月18日に遍照の70歳を賀して光孝天皇より仁寿殿にて宴を賜っており、太政大臣藤原基経(836〜91)、左大臣源融(822〜95)、右大臣源多(831〜88)も同席して徹夜で語り合ったという(『日本三代実録』巻47、仁和元年12月18日戊辰条)。この時光孝天皇は以下の歌を詠んでいる(『古今和歌集』巻第7、賀歌、第347番歌)。
かくしつつとにもかくにもながらへて 君がやちよにあふよしも哉
なお仁和元年(885)に増命(843〜927)が光孝天皇によって内供奉十禅師に補任されたが、太政大臣藤原基経と遍照が共に「天下の僧や耆宿は林のようにいるのに、どうして下臈の僧をみだりに抜擢なさるのですか」と奏上すると、光孝天皇は「これは凡流ではない。朕はその徳行を熟知しているだけだ」と答えている(『日本高僧伝要文抄』第1、静観僧正伝)。仁和2年(886)3月14日には遍照に食邑100戸を賜っており(『日本三代実録』巻49、仁和2年3月14日癸巳条)、遍照は辞退したが、勅によって許されなかった(『日本三代実録』巻49、仁和2年6月14日壬戌条)。仁和3年(887)には延暦寺の僧最円(825〜?)が長年遍照のもとにあり、両部大法を受学していることから、遍照の奏請によって、同年7月27日に真言伝法阿闍梨位を授けられている(『日本三代実録』巻50、仁和3年7月27日戊戌条)。
寛平2年(890)正月19日、遍照は示寂した。75歳(『日本紀略』寛平2年正月19日条)。翌日、勅使派遣が決定されており、円仁が示寂した時に勅使を派遣した故事に倣ったものであった(『扶桑略記』第22、寛平2年正月20日丁未条所引、宇多天皇宸記逸文)。21日には少納言令扶が元慶寺に派遣され、遍照の遺室に綿300屯、調布150端が寄進され、諷誦を修させた(『扶桑略記』第22、寛平2年正月21日戊申条所引、宇多天皇宸記逸文)。
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宮内庁治定僧正遍照墓(平成24年(2012)1月2日、管理人撮影)
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元慶寺の創建
元慶寺の正確な創建年についてはわかっていない。ただし、遍照の上奏文によると、中宮(藤原高子)が懐妊し、陽成天皇が降誕しようとする時に、遍照が発願して創建したといい、その後建物は次第に建造され、仏像も新たに造立したという(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)。陽成天皇の降誕は貞観10年(868)12月16日のことであるから、およそ貞観10年(868)頃に創建されたことが知られる。当初の寺名は「華山寺」といったらしく、貞観18年(876)4月23日には前陸奥守安倍貞行(生没年不明)が法華経一部を書写し、華山寺にて僧を屈請して法華経を講じさせている(『菅家文草』巻第11、願文上、為前陸奥守安大夫於華山寺講法華経願文)。建立地は現在の元慶寺の地とは若干異なり、街道の北の山に位置しており、ここの地名を「寺ノ内」といったという(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。現在の元慶寺の西側200mほどの地点に「寺内町」という地名があり、ここが該当するかとみられる。
遍照は朝廷に対して、元慶寺に大悲胎蔵業1人・金剛頂業1人・摩訶止観業1人のあわせて3人の年分度者を置くことを求め、さらにその試験日は毎年12月上旬とし、天台宗の年分度者に準じて、勅使を請い、通五以上の者を及第とし、陽成天皇の降誕日に剃髪・得度させることとした。さらに延暦寺戒壇院にて大乗戒を授戒し、授戒後は元慶寺に戻り、五大菩薩の前で、止観業の者は仁王般若経を読経させ、真言業の者は大日経・金剛頂経を読ませている。また定額寺とすることを求めている。遍照の要請は元慶元年(877)12月9日に許可された(『類聚三代格』巻第2、元慶元年12月9日官符)。
元慶2年(878)2月7日には勅によって元慶寺の別当・三綱を設置している。三綱は元慶寺側が推薦して、官に申請して任じるものとし、任期は6年であった。任期後の解由(任交替の事務引継・監査)は寺の事により、官に申請して行うこととし、省寮(式部省・玄蕃寮)および僧綱は関知しないものとした(『日本三代実録』巻33、元慶2年2月7日癸酉条)。別当はともかくとして、寺院はそれまで寺務をつかさどる三綱が掌握することが一般的であり、三綱は僧綱によって統轄されていたため、寺院支配は事実上僧綱の手に握られていたが、真雅(801〜79)が貞観寺にて座主・三綱を僧綱の支配より脱することを奏請して以来、僧綱が座主・別当・三綱を支配することができない「僧綱不摂領」が行われるようになる。元慶寺もまた「僧綱不摂領」の寺院となったのである。
元慶3年(879)5月8日には元慶寺の鐘を鋳造している(『菅家文草』巻第7、銘、元慶寺鐘銘一首)。山城国乙訓郡(長岡京市)の公田5町(約5ha)を元慶寺の田とし、残り4段316歩(約5000平方メートル)を石作寺に返していたが、石作寺の残田の代用としてか、元慶3年(879)閏10月5日に勅によって宇治郡の官田4段316歩を元慶寺に施入している(『日本三代実録』巻36、元慶3年閏10月5日辛卯条)。
元慶8年(884)9月10日には雲林院が元慶寺の別院となっており(『日本三代実録』巻46、元慶8年9月10日丁卯条)、同年9月19日には遍照の奏請によって、惟首(826〜93)・安然(841〜915)に伝法阿闍梨位を授けた上で、元慶寺の真言業年分度者の教授としている(『類聚三代格』巻第2、元慶8年9月19日官符)。安然は天台密教における大成者の一人であり、元慶9年(885)正月28日に元慶寺にて『諸阿闍梨真言密教部類総録(八家秘録)』を著述している(『諸阿闍梨真言密教部類総録』識語)。また最円も元慶8年(884)7月1日より9月19日にかけて『蘇悉地羯羅経略疏』を書写している(『蘇悉地羯羅経略疏』巻1・3・4・5・6、奥書)。
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元慶寺本堂(平成24年(2012)1月2日、管理人撮影)。寛政元年(1789)の再建。
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元慶寺の階業
仁和元年(885)3月21日に遍照は奏上して、諸国講読師の欠に対して、元慶寺の僧を任用することを求め、裁可されている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。諸国講読師は国分寺・部内諸寺を検察し、国分寺僧を沙汰し、僧を教導すると定められており、僧綱とともに国家仏教の中枢を担っていた。それまで元慶寺は「僧綱不摂領」の寺院であり、僧綱の支配を拒んでいたが、遍照自身が権僧正に任じられており、僧綱と元慶寺の関係に再考するところがあったらしい。元慶寺では年分度者を獲得していたが、これらの僧は遍照が権僧正の地位にいるのにもかかわらず、国家仏教の中枢とは無関係のところにあり続けた。
そこで遍照が元慶寺の年分度者が僧綱位への道を開くべく考えたのが、諸国講読師への任用であった。諸国講読師に任ぜられることは、僧綱位への近道であったが、その任用には講師五階(試業・複・維摩立義・夏講・供講)と読師三階(試業・複・維摩立義)の「階業」を経なければならなかった。このうち元慶寺では複試と夏講を行うこととし、維摩立義については延暦寺大講堂で行われる法華会を代用とした。これらを修了した者は伝灯満位に叙することとしている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。貞観7年(865)4月15日には伝灯満位以上の僧を諸国講読師に擬補することが定められているから(『類聚三代格』巻第3、貞観7年4月15日官符)、これらの課試をへた者は諸国講読師に任用への道が開けたのである。ただし諸国講読師には定員があり、しかも僧綱任用分は諸寺に割り振られていたから、遍照は講師・読師の任期中(6年)に欠分が出た場合、最初の一人を元慶寺分から任用するよう願い出ており、これによって諸寺との軋轢を避けている(『類聚三代格』巻第3、仁和元年3月21日官符)。
また仁和元年(885)5月23日にも遍照は奏請しており、45歳以上の心行が定まった者を選んで講読師に補任する規定を利用して、元慶寺の三綱や住して久しい僧らに階業をへてから、諸国講読師への任用の道を開いている。ただしこれらの階業を受ける前に延暦寺戒壇院にて菩薩戒を受けさせることが条件であった(『類聚三代格』巻第3、仁和元年5月23日官符)。同年9月4日には遍照の申請により、近江国高島郡(滋賀県高島市)の荒廃田153町3段(152ha)を元慶寺に施入している(『日本三代実録』巻48、仁和元年9月4日乙丑条)。元慶寺は、元慶寺別院雲林院で行われている安居講を、諸寺の例に準じて元慶寺の夏講と同じく階業の一つとするよう奏請しており、仁和2年(886)8月9日に裁可されている(『類聚三代格』巻第3、仁和2年8月9日官符)。
また仁和3年(887)8月5日には元慶寺の僧一人を、毎年、興福寺維摩会の聴衆に請ずることが勅によって恒例となった(『日本三代実録』巻50、仁和3年8月5日丙午条)。興福寺維摩会は三会(宮中御斎会・興福寺維摩会・薬師寺最勝会)の一つであり、聴衆は問者(質疑を発しその義を課試する者)を兼任するが、本来、問者は三会の講師を歴任した已講(いこう)がなるものであり、聴衆は已講と同様の権威を有していたが、已講が貞観元年(859)10月4日より僧綱に任用されることとなったため、貞観3年(861)に安祥寺より維摩・最勝両会の聴衆・立義が出るようになって以来(『類聚三代格』巻第2、貞観3年4月13日官符)、各寺より聴衆・立義の申請が相継いだため、貞観18年( 876)に聴衆から選ばれていた立義者を聴衆から分離させ、新たに聴衆を諸寺の智者・名僧から選ぶこととしており(『類聚三代格』巻第3、貞観18年9月23日官符)、元慶寺の僧が維摩会の聴衆に請じられることになったのはその一環であった。後に平安時代中期には元慶寺僧より3人が内供奉十禅寺に任じられる慣例ができた(『新儀式』第5、臨時下、任僧綱事、付法務僧綱内供奉十禅師延暦寺座主阿闍梨僧位記)。
元慶寺ではこれまで毘盧遮那・金剛頂両業、止観業の年分度者はそれぞれ元慶元年(877)に規定されていた経典を読んでいたが、寛平元年(889)より法華経・金光明経・浄土三部経を読ませている(『類聚三代格』巻第3、寛平4年7月25日官符)。寛平元年(889)7月14日には宇多天皇が亡き光孝天皇のために盂蘭盆80具を元慶寺・御願寺(後の仁和寺)・西塔院に贈っている(『扶桑略記』 第22、寛平元年7月14日甲辰条)。
遍照は寛平2年(890)正月19日に示寂しているが、生前より延暦寺・海印寺・安祥寺・金剛峰寺のような籠山の制を志向しており、仁和2年(886)より法花三昧・阿弥陀三昧を修させている。さらに「花山元慶寺式」を記して元慶寺の制度を規定している。この「花山元慶寺式」は一部のみ伝わっているだけであるが、それによると6人の僧によって十二時(一昼夜)交替して法花三昧・阿弥陀三昧を修し、僧は寺より出ることは許されなかった。その後寛平4年(892)7月25日に年分度者は6年間の籠山を科されることになった(『類聚三代格』巻第3、寛平4年7月25日官符)。
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元慶寺庫裏(平成24年(2012)1月2日、管理人撮影)。寛政元年(1789)の再建。
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元慶寺のその後
延喜2年(902)9月29日に元慶寺の舞童10余人を禁庭に召喚して、醍醐天皇がその舞を御覧しているが(『日本紀略』延喜2年9月29日壬申条)、これは元慶寺会の試楽(祭礼などに行われる舞楽の予行演習を天覧すること)であったらしい(『新儀式』第4、臨時上、行幸神泉苑観競馬事)。
元慶寺座主に就任した人物に玄鑑(861〜926)がいる。玄鑑は高階茂範の長男で、清和天皇の侍臣であったが(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀)、元慶3年(879)5月8日に清和天皇が宗叡を戒師として落飾入道した際、ともに出家した(『扶桑略記』第20、元慶3年5月8日丁酉条)。師主は清和法皇であったが、遍照・良勇(855〜922)の弟子となり(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀)、元慶4年(880)に受戒、延喜2年(902)7月11日に玄昭(844〜915)より潅頂を受け、玄昭の奏請により元慶寺阿闍梨となった(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、前紀、青蓮院本)。
延喜19年(919)11月18日に玄鑑が元慶寺にて修善を行っている(『貞信公記』延喜19年11月18日条)。同年12月18日夜には宮中に玄鑑を屈請して加持を行っており、布100端を賜っている(『貞信公記』延喜19年12月18日条)。延喜20年(920)6月5日には元慶寺にて金剛頂経を千巻の読経が行われている(『貞信公記』延喜20年6月5日条)。延喜20年(920)8月21日、右大臣藤原忠平(880〜949)は元慶寺入寺僧の解文を左中弁に付している(『貞信公記』延喜20年8月21日条)。
玄鑑は延長元年(923)7月22日に天台座主となり(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、延長元年7月22日条)、延長3年(925)4月29日には四七日(28日間)の誦経を元慶寺にて修しており、また法華三昧も行われている際に、別に中宮御修法を玄鑑が行っていることから(『貞信公記』延長3年4月29日条)、この時元慶寺座主職から離任していたらしい。
延長3年(925)7月17日には天台座主玄鑑が慶賀の門徒を元慶寺別当に任ずる官牒を出すよう左大臣藤原忠平に求めている(『貞信公記』延長3年7月17日条)。10月2日には除病のため元慶寺・清水寺・広隆寺にて諷誦が行われるよう申文があり(『貞信公記』延長3年10月2日条)、同年10月20日には元慶寺にて読経が行われている(『貞信公記』延長3年10月20日条)。
玄鑑は延長4年(926)2月11日に66歳で示寂した(『天台座主記』巻1、12世法橋玄鑑和尚、延長4年2月11日条)。
天慶元年(938)7月3日に地震が続いたため、諸寺諸社に仁王経一万部を読経させる宣旨が下されているが、この時元慶寺も10口(人)が招集されている(『本朝世紀』天慶元年7月3日戊申条)。天暦3年(949)9月に元慶寺は焼失しており(『扶桑略記』第25、天暦3年9月同月条)。天暦11年(957)3月8日にも僧房・雑舎あわせて7宇が焼失している(『九暦』天暦11年3月8日条)。かつては惟首・最円・安然が元慶寺阿闍梨に任じられていたが、彼らの後は補されることなく、藤原忠平が法性寺を建立に際して元慶寺の例に倣って阿闍梨を置いたから、安和元年(968)に天台座主良源(912〜85)は奏上して、暹賀(914〜98)が元慶寺阿闍梨に補任された(『慈恵大僧正拾遺伝』)。元慶寺阿闍梨は宣旨によって補任されるものであったらしく、長和5年(1016)5月16日には元慶寺の明暹が阿闍梨に補任されている(『御堂関白記』長和5年5月16日条)。
元慶寺には座主に変わってか、あるいは併設してかは不明であるが、別当職が設置されていた。院源は元慶寺別当に推薦されていたが、辞退したため、元慶寺側は実誓(?〜1027)を推挙した。ところが一条天皇は近くに仕えており、しかも良源の門弟であった源賢(977〜1020)を長和元年(1012)10月16日に元慶寺別当に任じている(『御堂関白記』長和元年10月16日条)。
元慶寺料として山城国の正税1,000束が経常されていたが(『延喜式』巻26、主税上、諸国出挙正税公廨雑稲、山城国正税)、その後比叡山妙香院の影響下にあったらしい。康平6年(1063)5月20日の「妙香院荘園目録」によると、元慶寺領として寺の付近に25石と牛2頭と薮地があり、さらに近江国聖興寺の年貢、四郡保の年貢12石、東坂本小坂田の年貢7石9斗、越前国方上の御封米20余石があったという(『門葉記』巻140、雑決一、妙香院庄園、妙香院庄園目録)。また保元3年(1158)の段階で小野郷船岡里の地13坪8段と14坪300歩が勧修寺との間で論田となっていた(「山城国勧修寺領田畠検注帳案」勧修寺文書19〈平安遺文2922〉)。また元慶寺の観中院の灯油料として4斗5升、観中院の五大尊料として7斗2升が山城国正税より支給されていた(『延喜式』巻26、主税上、華山寺観中院灯油并観中院五大尊料)。
花山法皇は永観2年(984)に位についたが、寛和2年(986)6月22日、在位2年で突如退位・出家して花山寺(元慶寺)に入った。その時若干19歳であった。寵愛した弘徽殿の女御を失い、悲嘆のあまり出家したともいうが(『栄花物語』巻第2、花山たづぬる中納言)、藤原兼家(929〜90)・道兼(965〜99)父子の策謀のため、道兼とともに出家するはずが、花山法皇一人のみ出家するはめに陥ってしまった説話は『大鏡』によって人口に膾炙している(『大鏡』1、六十五代花山院)。
遍照の旧房が元慶寺付近に位置していたが、これは後に慈徳寺となり、元慶寺と隣接することになる。長和2年(1013)12月22日には藤原道長(966〜1027)によって元慶寺と慈徳寺の寺地が定められている(『御堂関白記』長和2年12月22日条)。
後に石作寺に籠った聖金(947〜1012)はもとは元慶寺の僧であった(『拾遺往生伝』巻下、阿闍梨聖金伝)。治暦3年(1067)11月に長宴(1016〜81)が元慶寺別当に任じられている(『阿娑縛抄』第195、明匠等略伝、中、日本上、長宴僧都伝)。また平安時代後期の規定ではあるが、宮中における仏教法会のひとつである季御読経において、元慶寺の僧が一人屈請されることとなっていた(『江家次第』巻第5、2月、季御読経事)。
承暦4年(1080)8月14日に元慶寺は栄爵と実検使についての申請を行っている(『水左記』承暦4年8月14日条)。その後官使が元慶寺の仏像・堂舎の修理・損色の注文(リスト)を報告している(『水左記』承暦4年10月26日条)。さらに元慶寺は山城国司伊通の燈□稲(燈分稲カ)について訴えているが、関白藤原師実(1042〜1101)は「申すところ拠ることなし」として斥けている(『水左記』承暦4年10月30日条)。
寿永2年(1183)11月19日、円恵法親王(1152〜84)は法住寺合戦において、木曽義仲の軍勢に元慶寺付近で殺害されている(『玉葉』寿永2年11月22日条)。元久3年(1206)正月に慈円(1155〜1225)は良快(1185〜1243)に元慶寺座主職を譲っており、これを代々相承することとしている(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。これによって中世の間、元慶寺は青蓮院(妙香院)に領掌されることになる。
建武4年(1337)4月の段階でも妙香院領分として掌握されており(『門葉記』巻140、雑決一、妙香院庄園、妙香院門跡領并別相伝目録)、延文2年(1357)10月に地震のため占卜が行われているが、その際に兵軍の兆しがあるとして、元慶寺律師を阿闍梨として、伴僧8人とともに比叡山にて修法が実施されている(『四天王記』奥書〈『昭和現存天台書籍綜合目録』下〉)。応永19年(1412)7月18日には青蓮院門跡領元慶寺の奉行として越中法橋が義円准后(後の将軍足利義教)によって任じられており、三分の一は奉行得分となっている(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。
これ以降、江戸時代中期に再建されるまでの元慶寺についてはほとんどわかっておらず、応仁の乱で衰亡したらしいという他は不明である。衰退はかなりのものであったらしく、加藤清正(1562〜1611)は本圀寺勧持院でしばしば茶会を行っていたが、遍照の塔の中央を削り取って石灯としてしまい、夜会(夜話の茶会)の時に点灯していたという(『華頂要略』巻第83、附属諸寺社第1、宇治郡、元慶寺)。江戸時代前期には真言宗の寺院となっており(『雍州府志』)、小堂があるだけの寺院であった。これを再興したのが妙厳である。
妙厳は尭恭入道親王(1717〜65)の遺志によって元慶寺を再興を志し、官に申請して安永8年(1779)に新たに堂宇の造立を開始した(『天台霞標』4篇巻之2、華山遍照僧正、勅願所華頂山元慶寺再興碑記)。天明3年(1783)9月21日には再建がなり、入仏供養が行われることとなり(『妙法院日次記』天明3年9月15日条)、同27日まで挑燈寄進が行われた(『妙法院日次記』天明3年9月21日条)。23日には妙法院門跡が元慶寺にて入仏供養が行っている(『妙法院日次記』天明3年9月23日条)。
このように再建された元慶寺はさらなる再興が目指されたが、妙厳は示寂してしまう。その跡を継いだのが門弟の亮雄恵宅である。亮雄は40近い著作を持つ台密・儀軌に精通した学僧であり、天明2年(1782)12月25日には尭忠より伝法潅頂を受けており、師の妙厳の命によって妙法院境内に浄妙庵を建立するほか(『妙法院日次記』天明3年5月8日条)、妙法院門跡にたびたび謁見するなど極めて妙法院門跡に近い人物であった。妙法院門跡真仁入道親王(1768〜1805)は朝廷に奏上して元慶寺を勅願道場とした(『天台霞標』4篇巻之2、華山遍照僧正、勅願所華頂山元慶寺再興碑記)。
元慶寺の建物には鐘楼門・本堂(薬師堂)・五大堂・庫裏などがあり、うち本堂・庫裏は寛政元年(1789)に、鐘楼門・五大堂は寛政4年(1792)に完成したものであ(『京都府寺誌稿70』)。亮雄が学僧であったことから元慶寺は台密の一大地となり、寛政3年(1791)6月12日に覚千が師事した場所は元慶寺薬師堂であった(『自在金剛集』序)。
[参考文献]
・湯本文彦『京都府寺誌稿69 元慶寺・廬山寺』(著作年未詳、京都府立総合資料館蔵)
・湯本文彦『京都府寺誌稿70 元慶寺志稿』(1898、京都府立総合資料館蔵)
・木内尭央『天台密教の形成ー日本天台思想史研究ー』(渓水社、1984年)
・佐伯有清『慈覚大師伝の研究』(吉川弘文館、1986年5月)
・浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』(中央公論美術出版、1990年)
・前田慶一「諸国講読師制度の成立と展開」(『南都仏教』84、2004年11月)
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元慶寺境内の勅願所華頂山元慶寺再興碑記(平成24年(2012)1月2日、管理人撮影)。寛政元年(1789)に亮雄によって建立された。
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