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国子監(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)
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国子監は京城(フエ旧市街)の南東に位置する国立学校である。もとは京城の外の西寧社に位置していた。
嘉隆年間(1802〜19)初頭に督学1名、甲副督学・乙副督学がそれぞれ1名設置された(『大南一統志』巻之1、京師、官署、国子監)。明命2年(1821)2月、国子監が建造された。内部に彜倫堂が、左右に尊生・監生の房室があった(『大南寔録正編』第2紀、巻之7、聖祖仁皇帝寔録、明命2年2月辛丑条)。3月には祭酒司業を設置した(『大南寔録正編』第2紀、巻之8、聖祖仁皇帝寔録、明命2年3月甲寅条)。
国子監の内部は前方に彜倫堂、後方に講堂が配置され、その左右を学生達の房屋とした。祭酒1名、司業が2名、学政(後に助教と改められる)が2名おり、他に監丞・典籍・典簿が国子監に属していた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、国子監)。
国子監は阮朝における国立学校であるが、学生は尊生・イン(まだれ+陰。UNI5ED5。&M009463;)生・貢生・監生に分けられた。尊生は阮朝の皇子・皇族などの子弟である。「イン」とは日本でいう「蔭」と同様の語であり、すなわちイン生は高官や功臣の子孫のことで、ある。貢生は地方官の推薦により国子監で学ぶ者であり、監生は会試を受験する学生をいう。明命2年(1821)に国子監が建造された際に3間の左右尊生房屋、19間の監生・イン生房屋が建てらている(『大南一統志』巻之1、京師、官署、国子監)。
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国子監前の黌亭書声碑(平成23年(2011)3月20日、管理人撮影)
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明命3年(1822)7月、彜倫堂に落雷があり、建物の一部が破壊されたらしく、祭酒司業・監生が簡易修理を行なっており、後に工部が修理にあたった。この落雷を何らかの天啓とみなしたらしく、監生が彜倫堂や監生の房にいるときに婦女が国子監に出入りすることを禁止している(『大南寔録正編』第2紀、巻之16、聖祖仁皇帝寔録、明命3年7月丙子条)。
明命10年(1829)10月に国子監学生の修学規定が定められており(『大南寔録正編』第2紀、巻之62、聖祖仁皇帝寔録、明命10年10月朔条)、明命19年(1838)に文班の大臣2人に国子監を管轄させている。紹治年間(1841〜47)には紹治帝が「神京二十景」を詠んでおり、その一つに国子監を題材とした「黌亭書声」があり、国子監門の前に碑文を立て、その上を碑亭で覆った(『大南一統志』巻之1、京師、官署、国子監)。
嗣徳3年(1850)に国子監の右に15間の学官堂廨を、その左に19間の監生イン房屋を造築している。嗣徳7年(1854)嗣徳帝(位1848〜83)を迎えて講義が行なわれている。嗣徳14年(1861)に碑文とそれを覆う碑亭を国子監門の左に建造した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、国子監)。
成泰17年(1905)に修理を行なったが(『大南一統志』巻之1、京師、官署、国子監)、維新2年(1908)に現在地に移転した(「黌亭書声碑」)。
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京師図・『大南一統志』巻1より国子監部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。「国子」とある部分が国子監。
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